運指、運命、さながら死

技分工藤

運指、運命、さながら死

 落雷のような三連符の後に、フェルマータの付いた衝撃が彼女を襲った。

 生きていれば必ず訪れる、さながら死のような『運命』。

 人の身では避け得ないその『運命』を聴いた時、彼女は立ち竦んだだけだった。



「そうだね」と、答えた「」だが、本当にそう思っていたわけではない。放課後のチャイムが鳴った後の、他愛もない会話だった。続く言葉に彼女は軽薄な同意を返す。彼女は友人の手に目を向ける。


 彼女は共感と繋がりを求めるクラスメイトを見て、この本音が伝わっていないことをささやかに喜んだ。


 誰の顔がキレイだとか、そんな会話を友人たちとしていると、彼女は無音の世界に取り残されたような気分になった。空気の無い世界で音が伝わらないような、呼吸の出来ないような、諦めに近い息苦しさに喉が詰まる。生徒の喧騒あふれる教室も、彼女にとっては無音の空間だった。


 彼女は教室を出る。こつ、こつ、と静かな廊下に彼女の足音が響いた。廊下を冷たい風が通り過ぎていく。手を口元に当てて息を吐く。手を繋いでくれる誰かが恋しくなる冬の空気だった。


 廊下に人の気配はなく、彼女はひとり歩いている。この部屋はなんの教室だっけ、とぼんやりと考えていると、



 落雷のような三連符の後に、フェルマータの付いた衝撃が彼女を襲った。同じシークエンスが再び繰り返される。特徴的な三連のモチーフの後に悲し気に進行していくメロディーは再び三打鍵で一瞬の静寂を迎える。


 音楽室の中で、女生徒がピアノを弾いていた。彼女の目は引き寄せられるように女生徒に向けられる。


 再び衝撃。音楽は強いアクセントのついた盛り上がりを見せ、滝のように流れ落ちていく。穏やかな曲調に切り替わり、流れる調べから裏の三連符が期待をうながす。

「あら」

 彼女に気づいて、女生徒は鍵盤に広げた指を止める。指を止めれば当然、ピアノの音もそれっきり止まってしまう。無音の音楽室が奇妙な罪悪感を燻ぶらせる。その沈黙に急かされるように彼女は弁解じみた言葉がこぼれ出る。


「すいません。邪魔するつもりじゃなくて…」


 不安げに呟きながら、彼女はその場を離れようとする。対して女生徒が手を差し伸べる。少し考えるような間をおいて、期待の滲んだ声が通る。


「もしかしてピアノに興味がある?」


 音楽室の中で、ピアノは黒い光沢を持って存在感を放っていた。


「弾いてみない?」


 ふと、その女生徒が伸ばした手に彼女の目は奪われる。

 しなやかで長い指。手の中心から真っすぐ伸びた指。きめ細やかな白い肌で覆われた滑らかな指。しかし決して弱さを感じさせず、力の込められる打鍵を想像させる。それでいて、自由に広がる柔らかさを持ち合わせている。この十本が十全に白と黒の鍵盤を踊るさまを幻視させる美しい手だった。


 その手がくるりと表裏を入れ替えて、うながすように上下する。触れることすら躊躇うそれが彼女を手招いている。彼女は考えることなく女生徒に近づいていく。


「そのリボンの色は、一年生?」


 彼女は頷く。


「じゃあ、私は「」ね」


 彼女を招く手がゆらりと下がって、ピアノ椅子の片隅をぽんぽんと示す。先輩がスカートを寄せて場所を開ける。誘われるままに隣に座る。先輩が膝の上に上品に手を重ねている。この細い手が先の衝撃的な音を奏でている事実が信じられなかった。


「一人で弾くのは寂しいから、一緒にどう?」


「ドレミも知らないんです」


 何かを思いついた風に、先輩の両手が胸の前で指の腹を合わせて組まれる。


「手引きしてあげる」


 先輩の手はひらひらと蝶のように飛び立ち、その蝶は彼女の手の上に止まる。


「指を置いてみて」


 爪の切りそろえられた手が彼女の平凡な手を導く。手を取って運ばれるがままに彼女の五本の指は白黒の鍵盤の上に並べられる。


「黒鍵が二つ並んでいるところの左。そこに親指をおいて」


 彼女は機械のボタンを押す気持ちで、ゆっくりと親指を押す。


 ポーン、と一つの音が鳴る。


 彼女はその音に驚いたように先輩の顔を見る。


「音を鳴らすって心地よいでしょう?」


 先輩は微笑んで見せる。彼女を導いた手がふわりと浮いて、一オクターブ離れた場所に音もなく着地する。彼女に見せるようにゆっくりと親指から順番に鍵盤に指を沈めてゆく。その音に合わせて透明な声で同じ音階を歌う。


「ド、レ、ミ、」


 親指が素早く二本の指の下をくぐって打鍵する。


「ファ、ソ、ラ、シ、ド」


 波打つように指は八つの鍵を打つ。そのつかの間の運指うんしが翻る白いドレスを思わせて、先輩のひたむきな熟練と才能が美しさとして現れたようだった。


「弾いてみて」


 先輩は彼女の手を取って白鍵の上に五本の指を並べる。手首の下側が脈打つのを感じる。


「親指、人差し指、中指、薬指、小指。五本の指で五つの音を弾くの」


 彼女は自分の指を見る。ありふれて平凡だ、と思った。毎日鏡で見る顔のように、見慣れた普通の指だと思った。


 自分の指が音を鳴らしている。親指がドの音を鳴らす。親指、人差し指。彼女は順番に指に力を加えて、一音づつ鳴らしていく。先輩の打鍵の澄んだ音と違って、震えた音が不格好に響いている。


「緊張してる?」


 見抜かれたのを不思議に思って彼女が横目で先輩を見る。鍵盤に置かれていない左手が、慰めるようにはためいて、その後に黒いピアノの内部を指さす。


「ピアノはね、鍵盤を押す力でハンマーが上がるの。そのハンマーが弦を叩くことで音を出すの。だから鍵盤を押す指の力で音も変わる。指には気持ちが籠るから、思っていることが音に表れるの」


 先輩がゆっくりと親指を沈める。静かな音楽室に馴染むようなかすかな音。

 先輩が人差し指で鍵盤をはじいて、手首が浮く。おどけたような音が続く。


「力の加減は言葉で伝えるのは難しいかしら」


 先輩が彼女の手の上に自分の手を近づける。

 氷が溶けるような熱が彼女の手に伝わる。爪先を合わせるように先輩が彼女と手を重ねる。彼女の手を挟んで鍵盤に力を伝える。

 先輩の澄んだ音と、彼女の少しの熱が混じったような音が奏でられる。きれいな音だ、と彼女は素直に思った。

 先輩が手を放す。その熱を恋しく思いながら、再び鍵盤を押す。感じた温かさを思い出しながら、気持ちを込めて打鍵する。


 明るい音が鳴った。

 心地よい、と思った。


 五本の指で順番に奏でる。先輩の波打つような鮮やかさには及ばないながら、音階を追う。鍵盤を順番にのぼって、りるだけの単純な音の並び。ドレミファソファミレドが不思議で本能的な喜びを想起させる。

 それが終わったのを見て、隣の先輩が彼女と離れたドの音を弾く。蠱惑的な視線の意味を本能的に理解する。もう一度。同じ音階で二人は同じ音程を上っていく。二人の一オクターブ離れた距離が調和する。単純だった一音が、二音のハーモニーに変化する。彼女の歩調に合わせて、先輩が手を引いてくれるような簡単な音の連なり。二人が同じ音楽を演奏しているという共鳴と繋がり。名残惜しく最後のドの鍵盤を押す。


「音を鳴らすって心地よいでしょう?」


 先輩が嬉しそうに尋ねる。彼女は不思議と恥ずかしくなって、こくりと頷いたきり顔をうつむけてしまう。


「曲を弾いてみない?」


 ぽん、と胸の前で手を合わせて先輩が提案する。


 指先に甘い打鍵の感覚が残っている。音を鳴らす本能的な喜びを忘れられない。

 彼女は頷いた。

 先輩の手は流れる水のように鍵盤の上に広がる。


「『歓喜の歌』なんてどうかしら」


 先輩は彼女の目の前で指の動きを伝える。白黒の音符で書かれた楽譜と違い、不思議と彼女はその指の動きを忘れることはなかった。色の付いたように鮮やかな指の運びを彼女は未経験の感応と結び付けて記憶する。会ったこともない歴史の人物の名前や、見えもしない化学の分子式、想像も出来ない数学の公式、どれでもない先輩の運指は忘れることの方が難しかった。


 彼女が覚えたと伝えると、先輩は彼女と同じ構えで鍵盤に指を置く。先輩の背筋の伸びた姿勢がアーチを描く指先と同じ機能美を感じさせた。彼女は真似して座りなおす。軽く息を吸う。


 彼女は中指で二回鍵盤を押して、曲を始める。


 ミミファソ ソファミレ…、


 拙い彼女の指運びに、先輩は丁寧に付き従う。同じ音を奏でながら、寄り添うように同じ音を同じ呼吸で奏でる。


 ドドレミレドド…。


 もう一度。まだ弾きたい。そう思った彼女は再び中指で二回鍵盤を押す。先輩はそれを言葉もなく知り、左手を広げる。左の三本の指で和音を弾く。同じ音が重なるだけだった演奏に重厚な下地が作られる。


 もう一度。先輩の右手が表の旋律を彼女に任せ、裏の旋律を奏でる。同じではないが共鳴するメロディーが彼女の演奏を補う。


 もう一度。

 もう一度。

 もう一度。


 繰り返し繰り返し同じ旋律を繰り返す彼女に対して、先輩は音を、それを奏でる指を加えていく。彼女の演奏を支えるように、ともすれば軸にするように、手を取って彼女の周りを踊るように、演奏を続ける。


 彼女たちが演奏しているのは『歓喜の歌』だった。

「貴女の魔法で私たちは再び一つになる」

 そんな歌詞を賛歌する曲は続く。


 指先で弾いた音に機微を込める。先に進みたいとピアノの音で伝える。

 答えが音で返ってくる。先の期待を煽るように音はひそやかに、続くクライマックスに最大の快楽が得られるように。

 期待通りに彼女は力いっぱいに歓喜を表現した。指にめいいっぱいの感情を込める。自分の指が音を奏でている単純で本能的な喜びに脈が速くなる。

 その彼女の音に共鳴するように、和を成すように、融合するように。先輩の手が鮮やかにひらめくようにその白い指が鍵盤の上で舞踏する。八十八の鍵盤の中で十本の指がその腱の力の限りに協和音を探し続ける。両の手が蝶の羽のように優雅に、鳥の羽のように迅速に上下する。白い花の花弁のような手に見えた。その美しさを十全に機能させている。


 きれいだ、と思った。


 曲はクライマックスを奏でている。人間が自然と和音を美しいと思うように、その心地よさは否応なく彼女を本能的な喜びで打ち壊す。二人が同じ音楽で繋がっているという歓びが情動に不可避の痺れを与える。彼女が震える指で調子を外す。先輩がいたずらっぽく音を合わせる。お返しに先輩がテンポをずらす。彼女は喰らい付いて歩みを合わせる。お互いの息遣いを感じるような失敗、揺らぎ、未成熟性。それらをすべて音楽という大きな快楽のうねりに収束させる。


 私たちは共に感じている。繋がっている。


 目頭がじんと熱くなるのは音楽に感動しているのか、それ以外が理由なのか、彼女には分からなかった。


 楽譜には必ず終止符が付く。さながら死のような終止符を目指して運指は急き立てる。楽譜を見たことのない彼女にも終わりを予感させる幸福だった。今がクライマックスで、絶頂だと感じていた。指は止まらない。最後の一音を打つとき、それがどれだけ心地よいかが簡単に想像できた。無意識に打鍵は強くなっていく。指には気持ちが籠る。

 終わる、と彼女は感じていた。先輩もきっと感じているはずだと思った。これほどまでに華やかで、絢爛で、煌びやかに盛り上がってゆく旋律がここで終曲にならないはずはないと本能的に感じた。

 先輩の両手が躍動する。彼女は全力で音を弾く。最高の終わりに供するために、心を込めて打ち込む。先輩が手の平を鍵盤に押し当てて滑るようグリッサンドを見せる。先輩の連続した音が虹のように上って行く。低い音から高い音へ、色とりどりのグラデーションを伴って、空に飛んでいくような輝かしい光を覚える。

 最高潮へ。フィナーレヘ。

 一瞬の静寂。

 二人の手が鍵盤に沈み込み、最後の一音が炸裂する。



 その音は長く、長く残ったままだった。だんだんと小さくなって、小さくなって。簡単に消えて欲しくないというように指は鍵盤を押したままだった。ハンマーに打たれた振動が空気を震わせ、今だ残っている。振動は段々と弱くなり、ついには二人に聞こえる音の形は無くなり、沈んだままの鍵盤と離せないでいる二人の指が残っていた。

 音楽室が夕暮れに染まる中で、無音の余韻を感じていた。曲が終わったのだという実感に震えていた。

 鍵盤から先に手を離したのは先輩だった。


「素敵でしょ」


 夕日の逆光で先輩の顔が見えない。彼女は顔が熱くなるのを感じて目を下ろす。先輩の両手は先の躍動が夢まぼろしだったかのようにしとやかに膝に置かれている。

 先輩が時間のことを口にする。ちくりと心が痛む。

 音楽室の鍵を返さなければならないこと。ピアノ部の設立を目指していること。彼女が初心者なのに上手に弾けたこと。あなたには才能がある、と先輩が言ったこと。

 すべて関係ない、と彼女は思った。

 ただ、貴女と同じ音楽で繋がれたということ以外の一切全てが些細なことだった。

 先輩の手がピアノの蓋に掛かる。彼女は諦めるように押したままの指を鍵盤から引く。

 先輩が彼女に顔を向けて無邪気に言った。

「また一緒に弾こうよ」

 とくん、と手首の脈が鳴る。微笑んでくれている顔はまだ直視することが出来ない。

 別れの時にひらひらと振られた手が、沈む夕日よりも眩しかった。



 人気の無い廊下に彼女の鼻歌が微かに聞こえる。当然のように次の日も彼女は音楽室に向かった。歌っているのは『歓喜の歌』だった。昨日弾いた忘れられないメロディを無意識に口ずさむ。無音だった彼女の世界に音楽が訪れていた。


 音楽があれば、誰とでも繋がれる。


 歓びだった。彼女は軽くスキップして廊下を進む。

 先輩が音楽室の前にいるのを見つけて駆け出そうとして、他の女生徒と話しているのを見つけてしまう。


「もしかしてピアノに興味がある?」と先輩が知らない誰かと話している。


 咄嗟に隠れる。

 知らない女生徒は申し訳なさそうに音楽室の前を通り過ぎていく。脈が速くなりながらも、身体が冷えていくのを感じる。

 彼女が冷静に考えれば、先輩はただピアノに興味がある生徒を誘っていただけだということに辿り着いただろう。昨日、彼女を誘ったのもただの偶然だったということに思い至っただろう。その事実が爪の間に針を刺されるような痛みを感じさせる。

 先輩は廊下の陰の彼女に気づくことなく、音楽室の中に戻ってゆく。昨日と同じようにあの曲を弾くだろう。


 音楽があれば、誰とでも繋がれる。


 誰とでも?


 落雷のような三連符の後に、フェルマータの付いた衝撃が彼女を襲った。そして、悲しげに、焦燥的にメロディは続く。音階を変えて、落雷と衝撃の四音が再来する。

 有名な曲だった。彼女が歌っていた『歓喜の歌』と同じ作曲家のものだ。

 ベートーヴェン作曲、交響曲第五番、『運命』。


 衝撃の後の、死の前の悟りのような穏やかなメロディを背に彼女は膝を折る。重低音のような暗い情動が湧いてくる。彼女にとって世界が打ち壊されるような歓喜の体験は、先輩にとっては放課後の練習曲でしかなかったのだろうか。


 廊下のリノリウムの冷たさが忍び寄る。音を鳴らせば心地よい、それは人間の本能がそうあるだけだと彼女は悟った。暗い感情が手の形になって引き摺りこもうとする。固めた十指が殻のように閉ざされる。


 私が貴女に感じた繋がりを、貴女は感じてくれていたのかな?


 四楽章で構成された交響曲はまだ始まったばかりで、希望や未来や輝かしい成就を表すような明るいメロディがいつか流れるかもしれない。しかし、彼女の思い知ったささやかな絶望は、生きていれば必ず訪れるものだった。

『運命』の心地よい調べを耳に、彼女は一粒だけ涙をこぼした。

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