第22話 暗闇に火が灯るみたいに
なんだか心が落ち着かない。騙し絵みたいに長く続く廊下を抜け、シルクは庭園へ出た。
夕暮れ空の下、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。それでも気分が晴れないのはこの庭園の風景のせいかもしれない。手入れはされているが、広いばかりで花はない。楽しむ心を無駄と削ぎ落とした誰かの心象風景のようで、見ていると物悲しくなった。
屋敷から遠ざかるうちに遠くにぽつんと佇む巨木を見つけて、シルクはその根元に腰を下ろした。その場所は屋敷の死角にあってやけに静かだった。
風が梢を鳴らす。その音を聞いていると、世界で一人きりになったような錯覚を起こす。
「収穫なし、か……」
この先起こるはずのレイヴンの死因は、病死でも他殺でもないならば、あと思いつくのは事故くらいか。
……事故。
うっかりアンナの話を思い出してしまい、気が沈む。
「はあ、もう……」
「どうして屋敷の人間に私のことを聞いたのですか」
「ぎゃッ!」
物陰から音もなくレイヴンが現れてシルクは飛び上がった。その勢いで木の幹に頭を打ち、痛みのあまり足がもつれ、受身も取れずに派手に転んだ。
「…………」
沈黙がいつもに増してつらい。シルクはよろよろと立ち上がった。
(私が聞きに来たってアンナさんが報告したのかしら)
バレたなら仕方ない。開き直るまでだ。シルクは深呼吸をしてから笑顔を繕った。
「それは……知りたいからです」
「知りたい?」
「婚約者なんですもの。相手のことを知っておきたいと思うのは当然でしょう?」
オホホと上品に笑って雰囲気で誤魔化す。
レイヴンは何も言わないが納得していないようだった。近頃はこの無表情からも感情が読めるようになってきた気がする。レイヴン検定一級を取得する日も近い。
レイヴンはぼそりと呟く。
「……どうして急に」
「はい?」
「婚約式のときまではこの結婚に何の興味も期待も抱いていないように見えました。貴女が態度を変えたのは何故ですか」
「それは……」
それは私じゃないから――などと言えるはずもなく、閉口する。
レイヴンはそれが気に障ったようだった。じり、と一歩詰め寄る。
「貴女は何故、いつも楽しげに話すのですか」
「え?」
シルクは思わず一歩、後ずさる。
「貴女は何故、いつも私に笑いかけるのですか」
そうすればまた一歩近づいてくる。
再び後ずさると
「えっ、と……?」
「どうして……」
答えを求めるように金の瞳が揺らめいている。
「どうして、俺なんかに」
そう吐き捨てる、その表情が酷く苦しそうに見えてシルクは
「何でそんなこと言うんですか」
「……だって、俺は」
「もしかして、ご家族の死に責任を感じているんですか」
レイヴンは唇を引き結ぶ。図星のようだ。
「自分を責めてらっしゃるんですね」
何も答えなくなったレイヴンを見て溜め息を吐く。
アンナは、家族の死をきっかけにレイヴンが変わってしまったと言っていた。そのときかかった呪いは今も彼を蝕み続けているらしい。
レイヴンの表情が
「だって、あの日熱を出さなければ。早く帰ってきてなんて言わなければ……。みんな、死なずに済んだ。それは真実でしょう」
「真実……ですか。自分のせいでご家族が死んだとでも思っているのですか」
「……」
否定はしない。それが答えだった。
シルクはすう、と真顔になった。
「それは傲慢ですよ」
「傲慢?」
「ええ。普段あれだけ冷静な方が、どうして自分のことになるとそんなふうにお考えになるのか、理解できませんね」
「……」
「罪悪感を覚えるのはわかります。だけど、貴方が手を下した訳でもないのに自分のせいだと思うなんて、神様にでもなったつもりですか。それは傲慢ってものですよ」
「でも……」
頑ななレイヴンに腹が立って、シルクは捲し立てるように言った。
「じゃあ私がさっきそこで転んだのも貴方のせいですね! 貴方の屋敷に来なければ転ぶこともなかったんですから!」
「いや、それは……」
「違いますよね?」
シルクはレイヴンを
「私が転んだのは普段まともに運動もしないひきこもりだから。違いますか!?」
「そうですね」
(『そうですね』!?)
やっと認めたのは良いがそれはそれで癪だ。シルクは一瞬むっとした表情を浮かべたが、慌てて掻き消す。本題はそこではない。
「えっと。だからつまり……」
シルクはこめかみを押さえると、真っ直ぐにレイヴンの顔を見据えた。
「自分を責める必要はないんです。それは自傷行為と同じ。貴方が傷つくだけで得られるものは何もありません。そんなもの……無意味です」
敢えて突き放すように言った。冷たすぎるだろうか。だけどこれは紛れもない本心だ。
「貴方は生きているんです。見えないものに囚われないで。つまらないものに気を取られて立ち止まれるほど、人生は長くないんだから」
脳裏に前世での最期がちらつく。
呆気なく死んだ私。
もうすぐ死ぬかもしれない貴方。
いつ終わるかもわからない人生、苦しみの中で終わるなんてあまりに辛すぎる。
……木々の擦れる音だけが聞こえていた。
夜の
「……悪夢を見るんです」
夜闇の中で呟きが落ちる。
「みんなが居なくなってからずっと、毎晩」
毎晩。その言葉にシルクは息を呑む。たった十歳の頃から、十数年も……?
シルクの動揺は闇の中でも伝わったようだった。レイヴンは自嘲的な笑みを浮かべた。
「……だけど、心のどこかではそのことに安堵していたんです。家族の無念を、己の罪を忘れていない証のようで」
「公爵様……」
「でも……もう、やめてもいいのでしょうか」
疲れきった顔で乞うように問われ、胸がずきりと痛んだ。
あの無表情の裏には傷だらけの素顔が潜んでいた。彼は今、その傷跡を見せてくれたのだ。シルクは本能的に悟った。ここが分岐点だと。
(これ以上踏み込んだら、戻れないわ)
今まで心のどこかで線を引いてきた。小説のキャラクターだから。もうすぐ死ぬはずだから。別に好きとかじゃないから。そうやって何かと理由をつけて、彼自身を本当の意味で見ようとはしなかった。
だけど、今目の前にいるのはほんの数行しか出番のない脇役なんかじゃない。多くを経験し、多くを考え、もがき苦しみ、それでも今日まで生きてきた一人の人間だ。これ以上彼の心に踏み込むには重い責任が伴う。
――だとしても。
その責任を負ってでも彼を暗闇から掬い上げたい。……そう、思ってしまったのだ。だからもう、引き返すには手遅れだ。
(それなら、この線を踏み越えるしかないじゃない)
シルクは一歩踏み出して、囁き声すら届く距離まで近づいた。
「公爵様」
視線が重なる。シルクは出来る限りの優しい声色で応えた。
「夢に見ないからといって、ご家族のことを
「そうなの……でしょうか」
「そうですよ。私なんて夢に見るどころか父の顔も思い浮かべられないですよ。生きてるのに顔を合わせることがないので。でも、自分のことを薄情者だなんてちっとも思わないです」
わざと明るい調子で答える。笑ってくれるかな、なんて期待したのに返答はなかった。
「……」
レイヴンはまだ迷っているようだった。金の瞳がゆら、ゆらと揺れている。その腕に触れるとはっとしたように焦点が合う。シルクはあやすように囁いた。
「自分を大切にしてください。公爵様の周りには、公爵様を大切に思う方がたくさんいるんですから」
「例えば?」
「え?えっと……、テディさんとかアンナさんとか、使用人のみなさんですかね。……あ。あと、ベネット侯爵も?」
「貴女も?」
唐突な言葉にシルクは目をぱちくりさせる。しかし、こちらを見つめる瞳があまりに不安げで、シルクは安心させるように微笑んだ。
「もちろん」
答えると同時に――――抱きしめられた。
「え、」
シルクの小さな頭は腕の中にすっぽり収まってしまう。ややあって、ようやく理解が追いついて顔がかっと熱くなる。
「公爵様!?」
身を
「あ、あの」
「……このままで」
声が微かに震えているような気がして、シルクは抗うのをやめた。身体はしっかりとした大人なのに不安に震える姿は小さな子供みたいだ。あの写真の中の幼い男の子が初めて、目の前の彼に重なって見えた。
この人は何年も、一人で抱えるには重すぎる荷物を背負って耐え続けてきたのだろう。シルクはそっと腕を回して抱き締め返す。触れ合うと、夜の冷たさが少しましになった。
伝わる熱は心地良い。だけど、シルクの小さな身体では失った三人分のぬくもりは与えられない。それが切なくもどかしい。
――――この人を支えたい。
暗闇に火が灯るみたいに、心の奥にそんな願いが芽生えた。
……どのくらい経っただろうか。
不意に二人の身体が離れる。顔を上げれば、レイヴンが少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……冷えてきましたね。そろそろお帰りになった方がいいでしょう。送ります」
「はい……」
馬車に乗り込み、向かい合う。しかしお互い一言も発そうとはしなかった。
沈黙には慣れている。だけど今は話しかけられたらどうしようと妙に緊張してしまう。
ガタゴトと馬車の揺れる音だけが響く。
シルクは窓の外を見やった。暗闇を眺めていると窓越しにレイヴンと目が合い、慌てて俯いた。
「……」
ちらりと顔を上げればまた目が合って、今度こそ顔を上げられなくなる。そのうちに馬車は止まり、伯爵邸に到着した。
「着いたみたいですね」
「ええ、……」
安堵とともに名残惜しさを感じていることに気付き、それを断ち切るようにシルクは立ち上がった。
「今日はありがとうございました。それでは……」
「待って」
手を掴まれ、振り返る。引き止めたのはレイヴンなのに、彼自身が自分の行動に驚いているように見えた。
「公爵様?」
「……また」
咄嗟に口をついて出たような言葉だった。後からその続きを探すような。
「また、お会いしましょう」
たった一言。拍子抜けするくらいに何でもない言葉。それなのに注がれる視線が優しく、甘く、熱い。言葉以上に心の内を語るような眼差しだった。
その熱に当てられたように頬が紅潮するのを感じながら、シルクは精一杯の勇気を出して掴まれた手をきゅ、と小さく握り返した。
「はい。また」
そう言い残し、馬車を降りる。背後に視線を感じながら門をくぐり、屋敷へと歩いていった。
夜風を浴びてもまだ火照りが収まらない。
(もう隠せない)
シルクは頬にそっと触れた。その熱が何よりの証拠だった。
(私、レイヴンのことが好きなんだ……)
***
「おかえりなさいませ、お嬢様」
侍従長に迎えられ、シルクは自邸のエントランスに足を踏み入れた。
「ただいま」
そのまま通り過ぎようとしたが、侍従長はもの言いたげな顔をしている。
「どうしたの?」
「お嬢様。先程……」
そこに誰かの靴音が近づいてくる。
「遅かったな、シルク」
「!」
耳にするだけで緊張が走るような低い声色。自分を『シルク』と呼ぶ男など一人しかいない。シルクはゆっくりと振り返った。
「顔を合わせるのは久しぶりだな」
いつかは顔を合わせることになると思っていた。むしろ今日まで会わずにいたのが不思議なくらいだ。
「……お父様」
シルクは先程とは別な緊張感で鼓動が早まるのを感じていた。
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