第10話 真田の庄にて(繁信15才)

空想時代小説 


 宮城県蔵王町に矢附という地区がある。そこに西山という小高い丘があり、その麓に仙台真田氏の屋敷があったといわれている。ただ、真田信繁(幸村)の末裔とは名乗れず、白石城主の片倉の姓を名乗っていた。その真田の名を再興するべく、信繁の孫である繁信が活躍する話である。


 ひと月ほど真田屋敷に繁信はいた。主な役目は、講武所の清掃と師範である村上の付き添いであった。時折、真田源斎から声をかけられることもあった。

 秋になり、繁信は真田源斎から呼び出された。

「先日、江戸の殿より書状がきて、お主の仕官のこと、了解をいただいた。明日からは真田藩士じゃ。そこでだ。わしの子にならんか? と言っても娘の加代を嫁御にもらって、婿になってほしいのだが・・・」

「加代殿の婿に!」

繁信は顔を赤らめた。

「まあ、今すぐというわけではない。来春かな? 殿が松代にもどってきてからじゃな」

「ありがたいことです。ですが、一度白石にもどり、小十郎殿にこのことを報告させていただきたく、お暇をいただければとお願い申しあげます」

「うむ、もっともじゃ。母ごにも会いたいだろうし、よければ母ごを連れてまいれ」

「ありがたき幸せ。年内にはもどります」

「途中、真田の庄に寄っていけ。そなたの父祖の地じゃ。何かを得るじゃろう」


 松代から紅葉が始まりかけた菅平を抜け、真田の庄へ入った。山すそに広がる段々畑が見事だ。繁信は、まずは真田家の菩提寺である長谷(ちょうこく)寺を詣でた。そこに、真田幸隆・昌幸の墓がある。今の真田家を作った二人だ。幸隆は、それまで反目していた武田氏に与し、岩櫃(いわびつ)城や砥石(といし)城攻めに貢献した。昌幸は、兄二人の戦死で信玄・勝頼の側近という立場から真田家の家督となったのだ。上田城にて徳川勢を二度も撃退したことは、あまりにも有名であるが、関ヶ原で西軍が負けた後は、信繁と共に高野山九度山に幽閉され、そこで亡くなった。信繁の兄、信之が分骨して真田の庄の長谷寺に埋葬したのだ。

 墓前で祈って、立ち去ろうとした時に、人の気配を感じた。刀に手をかけ、身構えると、

「真田ゆかりの者か?」

と、渋い声で声をかけてきた者がいた。よく見ると、僧兵の姿をしている。

「わしは円寿坊。お主の刀をもらおうか」

「ハハッ、まるで弁慶の口癖じゃな」

と、言ったところに円寿坊の薙刀が撃ちおろされてきた。繁信は、とっさに避け、近くの切り株の上にあがった。そこに横払いがやってきた。繁信は、さらに高い大木の二又のところに飛び移った。

「体が軽いの。ここの墓地に埋めてやるから、名を教えろ」

「わしの名か、真田源四郎繁信。昌幸公のひ孫じゃ」

「昌幸公のひ孫? 祖父は信之公か?」

「いや、信繁だ」

「なんと、あの日の本一の兵の孫か! わしの父親も大坂の陣で赤備えを着て戦ったということじゃ。その方の孫か。失礼いたした。今までの無礼、許してくだされ」

円寿坊は、ひざまずいて繁信の臣下になりたいと申し出てきたが、臣下を取る身分ではないと繁信は断った。だが、

「年が開けたら松代に来てみよ」

と伝えておいた。

 その夜は、我妻家に泊まった。我妻出羽から文が届いており、歓待を受けた。そこで、幻次郎という若者に会った。繁信より2歳年下だが、身の軽さは人一倍。木と木の間を飛び移ることもできる。この若者も繁信についていきたいと言った。これに対しても

「年が開けたら松代に来い」

と言ったが、そんなことは関係なしに付いてくる気がありありだった。

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