自転車

川門巽

第1話

 市川ネオンは自転車をパンクさせた。

 ネオンはただのアンラッキーだとおもっているが、タイヤの空気が少ない自転車はかんたんにパンクする。タイヤとその中のチューブが擦れたり、段差を乗り上げたときにチューブを挟んだり、タイヤがへこむせいで尖ったものが刺さりやすくなってしまう。だから空気はいつも、ほどほどに入れておかなければならない。

 ネオンにはそういった知識がなければ、自転車にたいする興味もまったくない。ただ高校に通学するためのありふれた手段として、二年前にホームセンターで買った10980円の安いママチャリをつかっている。

 空気がない自転車に乗るとペダルを踏む足がとても重くなり、一般的にはそう感じたタイミングで空気入れがなされるものだが、「毎日なんとなく!」を心がけながら暮らすネオンはその不便さにも無頓着だった。

 ネオンは全教科分の教科書をスクールバッグに突っ込んで、丸ごと背負って登校する習慣が(なぜか)あったから、つねに背中から尻にかけて重い。だから後輪に圧力がかかり、パンクしやすくなっている状態で、段差を勢いよく超えてしまい、地面とリムにチューブが挟まれ穴が二つ開いた。

 ようするに、「なんとなく!」のツケが回ってきたのだった。


 パンクしたのは昨日の帰宅途中のことで、家まであと数メートルという所だった。ゆえに休日の朝をたいてい寝てすごすネオンでも、自転車店の開店時間に合わせて修理に持っていく気力が残っていた。日曜日は友達とおでかけの予定が入っているから、どのみち今日、直すしかないのだ。

 しかし外に出てみると、今日に限って死ぬほど暑い。ネオンの頭は「アンラッキー」でいっぱいだ。なんて理不尽なんだろう。なにもわるいことしてないのに、よりにもよって、今日という日があつすぎる!おでかけとかもう全部キャンセルしてやろうかな、とも思ったが、結局月曜日には学校がある。ネオンが友達に「夏と自転車はマジでクソ」とLINEで愚痴を送ると、「乙一みたいやね」と返信がきたが、ネオンには全く意味がわからなかったので無視をした。

 

 もともとネオンが自転車を買ったホームセンターではパンク修理をやっていない(ママ情報)から、家から一番近い自転車店を調べた。ネオンの家には車がある。しかし家族で唯一運転免許を持つ父は、さいきんになって急に認知症がはじまったおばあちゃんの介護にいそがしい。朝にネオンが目が覚めたときにはもう、父は車でおばあちゃんの家へと向かっていた。

 ここ最近、家族旅行とか、車で遠出するイベントが市川家にない。それはネオンが高校に入学し、父親が「もう高校生だもんな……」と、ものわかりのいい父として、立派にわきまえた振る舞いをしているつもりなのだが、じっさいのところネオンに拒否されるのがめちゃくちゃ怖いのだった。いっぽうのネオンは今も家族旅行に行きたいのだが、それを口で伝えたりするのはどこか恥ずかしい気がしている。おばあちゃんの介護が必要になったのは、家族関係がそういったある種のややこしさに包まれはじめたときだった。

 父はおばあちゃんの介護について関与されるなどのことを、とにかく嫌っているようすだった。介護がはじまってから父はテレワークに切り替え、それでもひっきりなしに仕事関係の対応をしつつ、呼び出されたら介護をしにいくという毎日を続けていて、とにかくしんどい。ネオンはそれを察しているから、「わたし、なんか手伝おうかー……?」とか、ちょっと言ってみたりもしなかった。

 ネオンがある種の気遣いをみせるなか、そんなのお構いなしに父をイラッ!とさせるのは主に母だった。悪気はないのだが、母はあれやこれやとして追い打ちをかけている。父は「指図すな~!」とか「だまっとけ~い!」とか、今のところ笑いながら母をあしらえているが、いつ爆発するかわからないものだから、ネオンはいつも夕食の場でヒヤヒヤしている。

「ママに悪気はないんだよ」とか「パパは神経質で、口に出されるのは嫌なんだよ」とか、そういったことをはっきり口にだせれば両親を宥められるぐらいには可愛がられている、ということをネオンはしっかり自覚しているが、いざ「演じる」となるとむずかしい。ネオンは父に似た性向をみずからに感じていて、ネオンの言葉でいうところの「ルーティーンが途切れると一気にだるくなる」ところで通じている。そういったもろもろをぜんぜんわかっていなさそうな母に伝わるよう、ストレートな言葉にしてしまうと、ある種の告白、自己表出、カミングアウト……的なおおげささが付与されてしまうことを、ネオンはおそれている。とにかく毎日を、なんとなく暮らしたいのだ。


 

 目的の自転車店は、家から徒歩で10分離れた環状線沿いにある、最近オープンした店だった。眼鏡屋を居抜きした二階建てで、ガラス張りの建物の中は綺麗に整っているが、建物の上にある塔屋看板は塗装が十分に施されておらず、大きくて赤いメガネのイラストが、まだうっすらと残っている。

 開店して、まだ一時間足らずの午前十一時。入り口にはすでの修理待ち自転車と客が六人もいる。ネオンは自転車店にたいして「繁盛している」というイメージが無かったため、おもわず「マジかい」ともらした。パンク修理にかかる時間は約10分、ということをあらかじめ調べていたから、このどうでもよく面倒くさいイベントをさっさとおわらせ、マックでも食べて帰ろうという計画を立てていたネオンは一気にだるくなった。しかしとうぜん帰るための足がないので、仕方なく入り口まで行き、接客担当の女の子から七番とかかれたプラカードをうけとって、うちわ代わりに扇ぎながら店に入った。

 店内はとてもあつい。修理にきた自転車をスムーズに店内に入れるため、という建前で、実際は自動ドアの導入がケチられていたせいで、入り口は手動の両引き戸だった。入り口の目の前には修理や整備するための狭いピットがあり、そこにはせっせと手を動かす自転車整備士が三人いるが、休日の自転車店はあまりにも忙しい、客の出入りが激しく、覆面調査員に「素早い接客対応・2/5点」をつけられたばかりのこの店では、暗黙下で「ドアは開けっ放しにしておく」というルールが出来上がっていた。とうぜん店員はみんな汗だくで、客もそうだった。仮にここが自転車店ではなく飲食店ならばすぐにクレームが入っているが、「自転車屋ってこういう場所なのか」「整備ってなんかかっこいいな~」「マウンテンバイクかっけー……」など、それぞれの客はすこしばかり気分を高揚させつつ、長い待ち時間を「ちょっとおもしろいな」と感じることにつとめていた。いっぽう店員は、客がこの空間にそういった前向きさを持っていることなど、想像もできないほどには日常だから、常に客が怖く、待たせて申し訳ないという気持ちを持ちつつも、ゆるやかにキレながら自転車の世話をしている。

 

 店員はあわせて八人いて、整備士三人(うち一人は店長)と、レジ担当一人、そして遊撃手のごとく立ち回る接客担当が四人いる。接客担当は全員アルバイトで、彼、彼女らの仕事ははげしく、整備士ほどの集中と緊張は持たなくていいものの、持久力と臨機応変さが求められる。常に立ちっぱなしの歩きっぱなしで、とくに値引き交渉などはマニュアルが用意されておらず対応がむずかしい。複雑化する電動自転車の説明や、さらには子どもの相手などもする。

 他の客がまじまじと整備士の様子を眺めている中、ネオンは接客担当のほうに興味を惹かれていた。「お子さまはおいくつですか?」「お子さまをお連れしてお買い物にいかれますか?」「でしたら、後ろのお子さま乗せつきの電動自転車がおすすめですね~」

 おそらくは年上だが、自分とさほど年齢が変わらない女の子が、社会的な発話をスムーズにこなしているのをみききして、ネオンは「すごー」と感心していた。遠くも近くもない程度の場所、こうした言語がスタンダード、ごくごく当たり前に交わされていることをネオンはとうぜん知っているが、いまだ未来の自分事として考えることはできない。夕食中に交わされるパパとママの小競り合いからなる居心地のわるい雰囲気を、すっきり収めるたった一言、知っているのに発せないわたしが一体どうすれば、あの女の子のようにコミュニケーションできるのか。ウーン、ぜったいにありえないみらいだなー。

 二階にある子ども用自転車コーナーからジャリジャリジャリジャリジャリジャリィー!! とベルの音が鳴り、ネオンが眺めていた接客担当の女の子は「また何かございましたらお声かけ下さい~」と、いったん切り上げ、走って階段を駆け上がった。


 

 泉ミカはあらかじめ、二階の老夫婦とその孫のそんざいを把握していたから、呼ばれるだろうなというタイミングにあわせ、一階での接客をややスピーディーにおこなっていた。つよく自認しているわけではないが、ミカには高い接客力と正確な時間感覚がそなわっていて、めまぐるしく動くこの店で、存分な活躍をみせていた。

 ベルを鳴らしていたのは五才ぐらいの子どもで、その子を連れている老夫婦の足では、もはや止められないほどに駆けずり回っている。ミカには見慣れた光景だったが、子どもが好きだから飽きない。かれに何が見えているんだろうとか、そんなに走って疲れないのかなとか、ちらちら美しい子どものことをかんがえる。二階は一階にくらべてだいぶ空調が効いていて、涼めるし、ずっとこどもを観察できるから、なるべくこの時間を引き延ばしたいとおもう、しかし「おい、ゆいと」と、ゆいとのおじいが呼びかけたので、ポロシャツをぱたぱたさせ、手の甲で額の汗をふいてきもちを切り替えた。

 ゆいとにおじいの声は聞こえているようで聞こえていない。「なあ、これやろ、これ!」ゆいとのおじいは、ちいさい自転車のベルを鳴らす。さきに反応したのはミカで、「よろしければご試乗されますか?」と、おじいとゆいとのはざまに声をかける。おばあはニコニコしたまま、三人をみまもる。ゆいとはついさっき自分で選んだ自転車に、もうさほど興味がもてていない、しかし「はよまたがりぃや!」と、おじいにつよく言われたので、とりあえずまたがってみる。そこでふたたび興味をとりもどす。ちいさい子どもを計算し、大人が必死で手掛けたデザインに、ゆいとは「いいね」とおもった。おばあが「これでいいな?」と念をおすと、ミカはゆいとに「これください」と言われた。

 

 ミカはゆいとの自転車を体の横に担ぎながら、一階に降りる。マジであついから、ネオンはさっさと帰りたいとおもっている。修理番号四番、つまりネオンの自転車が修理されるまであと三台待ちというところで、「自転車お買い上げでーす」というミカの声がきこえてきて、「ありがとうございまーす!」と店員みんながこたえた。ネオンは「うるせー」とおもいつつ、めちゃくちゃ店があついしあつい!! ミカはピットでスパナをぐるぐる回す整備士の横に、ゆいとの自転車を置き、番号札を渡す。そして「今からですと自転車のお渡しに一時間ぐらいかかりますが、一旦、お外に出られますか?」に、「整備が終わり次第、こちらからお電話をさせていただきます」を付け加え、ゆいとのおばあに伝える。それを聞いていたネオンは「そういうシステムあるのかよ!」と、叫びかけた。叫びかけたが、けっきょく暑い中、駅まで歩いてマックは遠いことに気がついて、修理番号札七番をはげしく扇ぐにとどまった。

 

 店にびっしり自転車が展示されているせいで待合スペースなど十分に確保されていないのだが、電動自転車を買った家族連れが退店したため、数少ない客用のイスが空き、ネオンはようやく座ることができた。待合スペースは二階につながる階段のすぐ下にあり、空調がちょうど直撃するからけっこう涼しい、入店してもう四十分も経つ。その間にもミカはひたすら動き続けていて、ネオンはずっとそれを眺めていた。ただ待っているだけでこんなにクタクタなのに、あの人はすごいなー。

 ネオンはミカのすばやくながれるような運動をまじまじと目で追っているうちに、心拍数があがってき、これが恋かなと思ったが、それは思い違いで、じぶんが脱水気味になっているということをネオンは気づかないまま「あの、なんかすごいですねぇ」と、声をかけた。ミカはそのときちょうど、店長から休憩タイムの指示をもらったばかりだったから、スイッチがオフだった。それゆえに平時なら「あはは。お店ですか? 最近、めっちゃ忙しいんですよ~」と言ってさっと去るところ、「わたし、すごい頑張ってるよね!?」と言いながらポロシャツを腹からまくり上げ、首もとの汗を拭いた。


「おね、おねえさん……めっちゃがんばってるっす」

「だよね、わたしやばくない?」

「マジやばいっす。疲れたりしないんすか」

「疲れるよぉ。こどもじゃないんだから」

「こどもって、意味わかんないっすよね~」

「そう、私、子どもの接客めっちゃ好きなんだけど、どれだけみてても意味わかんないのが、めっちゃ好きって感じ!」

「わたし、自分のこと、こどもだと思っててぇぇ……」

 ネオンはなぜか泣いた。いろんな客を相手にしてきたミカでもネオンの感情を読みとれず、「え、なんなの……」とすこし引きながらも、話しかけられたときに店員らしい対応をしなかった自分に甘さを感じていたから、もう少し付き合うことにした。

「なんか、今日おねえさん見てて……っていうか……なんか見させられて……」

「ウン……」

「ぜんぜん、おねえさんみたいになれる、成長……? が、わたしになくて……」

「ウン……」

「じじ……祖父が、もう死にそうだからパパがピリピリしてるのに、わたしがなんも言ってやれんくて……」

「ウーン……?」

 しかしミカはさっきからネオンの言っていることが全く分からない。自分の話をしたがる客の相手をするとキリがない、というのは接客業において常識だったが、ネオンからはそういう面倒くささを感じなかったので油断した。正味かなりタイプの女だけど、それより今は休憩の時間だ。わずかな時間で、はやくとなりのコンビニまでいってごはんを買って食べなきゃいけないのに、なぜわたしはながなが会話を……

 すこしばかりハイになっていたテンションがスっと冷め、目の前のネオンがただのお客様になる。おなかがめっちゃ空いているし、あついんだよね、この店はさ。

「長々とお待たせしてしまい申し訳ありませんお客様。修理はもう少しで終わりますので、もう少々お待ちください!」

 と、完璧なマニュアル対応を言い放ち、バックヤードに歩いていく。ネオンはちいさく「おねえさんいかないでぇ……」と呟いたが、もはやミカはスイッチを完全に切っていたので、身体はもう店員ではない。きこえるでもきこえないでもない情態を保ち、涼しい空気につつまれながら一息ついた。あー、しんど……

 

 ピットの修理場では、水が張られたオレンジ色の容器に後輪チューブが沈められ、ぷくぷくと泡立てている。ようするにパンクだった。ネオンはミカがいなくなってから徐々に冷静さを取り戻していって、今はまじまじとパンク修理を眺めている。なぜ泣いていたのかなどはまったくおぼえておらず、「水につけるなんて意外と原始的だなー」などと考えている。

 電動ヤスリで、チューブの凹凸が平たくされていく。それが終わったあと、補修用の液体糊が塗られたゴムパッチが貼られる。きっちり穴が塞がれたチューブは後輪へと、ていねいに収められた。

「修理番号札七番のお客様ー! 大変お待たせしましたー!」

 大変だったよほんとうに、そう思いながらレジに歩いた。

「今回はリム打ちパンクといってぇ、空気がない状態で段差を乗り上げると発生するパンクでしたぁ、穴は二か所になりますのでぇ、合計で660円になりますぅ!」と、レジ担当の店員に早口で説明される。店員がほんとうに伝えたいことは定期的な空気入れの大切さだったが、ネオンはあまりにも安すぎる修理代におもわず「まじかい」ともらし、パンクの原因などすべて忘れた。

「ありがとうございます、またのご来店をお待ちしております!!」

 店員に見送られたネオンは、自転車を押しながら店を出た。すると、コンビニで冷製めんたいパスタと春巻きを買ってきた私服のミカが、それらを片手で掴みながらネオンに声をかけた。

「あ、おわった? ごめんね、マジあつかったよねー」

 ネオンはいろいろ言うべきことがあるように思ったが、「ウ、ウッス……」としか言えなかった。店でこの人となんかいろいろあった気がするけど……ウーン……。

 ネオンは逃げるようにペダルをつよく踏む。ミカはぼそっと「カワイイなあ~」とつぶやいて、ふたたび自転車屋の熱に身をつつむ。ネオンは自転車をせっせと漕ぎながら、つかのまのすずしさを身体にあびた。

 そういえば今日はあつかった。ネオンは自転車の軽さにびっくりしつつ、コンビニにいく。炭酸水をカブカブ飲んだあと、ポケットからスマホをとりだして、数ヶ月前の履歴をタップした。

「あ、パパ? まだ、おばあちゃん家……? あ、そうなんだ。わたしは自転車パンクしたから修理してて、それがなんか、いつのまにか終わってて……いや、あのさ、今からママといっしょにごはんとか……食べにいかない?」

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自転車 川門巽 @akihiro312

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