第四次川中島の戦いは武田、上杉両軍が大きな犠牲を払った。後世に啄木鳥戦法と呼ばれる戦略を読まれた武田側は信玄の弟、信繁など多くの宿老が討ち死した。結局、大きな戦はこの一つだけで、武田が川中島を領有したまま両軍は撤退した。

 そして、望月家では信頼が死去した。合戦が行われる前日。千代が女将と邂逅した日だった。戦を終え、無事に帰還した千代に家臣達は涙ながらに報告した。ほぼ唯一と言って良い程、男で千代の人となりを知っていたが、泣けなかった。泣いたふりをして誤魔化し、葬儀でも下を俯き、蓮に頼んで目を腫れ気味にする化粧をした。

 川中島の戦いから一ヶ月が経ち、千代は川中島の戦いの前の誘いに対する答えを伝える為、躑躅ヶ崎を訪れていた。

「我が誘いを断ると申すか」

 空気が重くなる。従えていた信玄の配下が腰を上げかけたが、信玄自身に止められた。千代は黙ってただ頭を垂れ、申し訳ないという気持ちを見せている。

「真に申し訳なく思うておりまする」

「何故ぞ?」と聞いてこないところを見ると千代の決意が固いと信玄も言動から汲み取ったのだろう。信玄は何も言わなかったが、了承したのだと判断した。確信に変わったのは一拍間を置くと「これよりどうするのじゃ?」と聞いてきたからだ。

「武田様御一門の方からお世継ぎが参られるのであれば私が望月に留まる理由は御座いますまい。私は草としての道を捨てる故、後身の者を育てつつ余生を楽しもうかと」

「四十を超えた者が言うようなことを」

 信玄は口元だけを笑わせる。頭を垂れている千代に表情は伺えないが、口調に込められた刺々しさで悟れる。思い通りにならないことに不機嫌さを押し殺しいるのだと簡単に分かる。養子を出したのは信頼が亡くなり、千代が居場所を無くし、救いの手を伸べてやればすぐにその手を取ってくれるとでも思っていたのだろう。

「女である身として、更なる務めは辛いので御座います」

 千代が楽しげな口調で言うと信玄は脇息に肘を置いた。興味が無くなったのだろう。先程まで入っていた肩の力が抜けるのが分かる。

「……左様か」

 感情の入っていない声を聞き、千代は内心でほくそ笑んだ。今まで信玄の言いなりになっていたが、この瞬間に立場が逆転したのだ。才を重んじる信玄だからこそその程度の人であったと思わせたことで千代は武田の枷から解放された。父と対立していた信玄だからこそ有能な家臣には温厚に接しつつも警戒する。そうでなければただのお人好しとなり、恐れるものは無い。だから千代はもう一度頭を下げた。

「なれば、御館様に今一つお願いしたきことが御座います」

「む?」

「信州は小県郡、祢津が地にて私めが代わりとなる者を育てたく」

 信玄は目を見開いたが、すぐに承諾した。武田より援助をする故、遠慮なく申すが良いというお墨付きも付けて。千代は感謝の弁を述べると上機嫌で部屋を出た。外はすっかり茜色に染まり、秋の涼しい風が心地良い。視界に入ってきた武田の家臣達がいなければなおのことだ。

「分からぬな……」

 すれ違う際に先頭にいた最も格上の家臣が聞こえよがしに言ってきた。続けて共にいた者達も千代を蔑んだ目で見てくる。

「真に……」

「女子は左様なものであろう……」

「素直に御館様のお側に付けば良いものを……」 

 以前なら腹立たしく思っていた聞こえる声の陰口も今は所詮そよぐ風に過ぎない。一度決めたことを変えなければならないのはよくある。しかし、千代はこの決断が如何なることがあっても揺らがないだろうと分かっていた。

「私にも分からない」

「……何故、ここに?」

「お付き人がいて何か問題が?」

 僅かに抱いていた疑問が解消された。誰もいなかったはずの謁見の間での出来事がどうして武田家臣に知られているのか。部屋に忍び込まなくても聞こえる場所に蓮は隠れていたのだろう。

「余計なお世話だ」

 毅然として答えると千代は蓮を置いて歩を進める。だが、蓮の前を通り過ぎようとした所で足を止められた。

「隠し事は無し」

 音もなく蓮は近付き、千代の肩に手を置く。

「違う?」

 ここではぐらかしても蓮はおそらく事あるごとに問い詰めてくるだろう。徐々に手段を選ばなくなり、心身共に疲弊させてくる。共に間者として生きている為、蓮のやり方はよく知っている。千代は辺りを見回してから蓮に近付く。

「武田で働くのが嫌になった」

「……は?」

 蓮の表情が無になり、徐々に怒りで満たされる。申し訳ないと思いつつも千代は口元を少し緩ませてしまう。

「部屋に戻ろう」

 蓮を促すと後ろから付いて来る。背後から分かるくらいにいつもと雰囲気が違う。刺さるような視線が背中に矢の雨ように刺さる。そして、部屋に入るや否や、溜まりに溜まっていたものが爆発した。 

「あなたが武田直属の草になれば望月の地位はより安泰。それだけでなく、周りの国衆達も少しは目をかけてもらえるかもしれない。分かるでしょう?」

「無論」

「別に私は御館様の妾になってほしいとは言ってない。けれども……」

「あなたが私のことを気遣ってくれていると分かっただけでも十分」

「そんなことは言っていない! あなたは望月の主でしょう?」

 千代は肯定すると一度大きく頷く。

「今まではな」

 沈黙が落ちた。新たな当主が信頼の養子としてやってくることを知らない蓮ではない。仮にも義母と義子の関係になる千代も立場が今まで通りになるとは限らない。だからといって千代を簡単に引き下げる訳にはいかない。

「殿がいなくなった後、あなたまでいなくなれば望月の人達がどうなるの?」

「案ずるな。既に件の者とは邂逅している。配下の者を使って人となりも調べた。ま、悪くないと思った」

 呆れたと蓮は溜め息を吐く。今までの千代ならば散々に罵倒していただろう。

「あなたがそこまで安心出来る程の人だったの?」

「いや」

 千代の頬から音が響く。来ると思っていたが、思ったよりも痛い。徐々に熱くなる箇所を押さえながらゆっくりと蓮を見る。怒りを押さえきれないと体が震えている。仮に逆の立場なら蓮を殺していただろう。どれほど罵倒されても良い。それぐらいの覚悟はあった。長らく共に過ごしてきた蓮だからこそ、一度の平手打ちで全てを伝えたかったのだ。

 ふざけるなと。

 しばらくの沈黙の後、比較的落ち着いたのか蓮は一つ息を吐くと口を開いた。

「どうして……」

 問い詰めているはずが、悲しげに聞こえる。上擦る声が千代の心に訴えようとしてくる。心から思ってくれているのが手に取るようだ。

「あなたがいなくなれば望月はどうなる……? 私はどうなる?」

 震えている。叫びたいのを必死に堪えているのだろう。千代が望月の中枢から退けば蓮を含めた配下の者達はどうなるのか分からない。今まで以上に駒のように扱われるか、下手をすれば路頭に迷うことだってある。現に千代は次に望月の主となる者が草のことを何とも思っていないと知っている。 

「お前も含め、共に来れば良い。嫌と言うならば無理強いはしない」

「当然ね。当分、人手が足りなくなるだろうけど」

「良い。それでお前らのような存在が如何なるものか解らせることが出来る」

 それでも蓮の目つきは険しい。武田直属となったということはさらに草としての任務が増えるのを意味する。望月の者として恩給が無くなり、草としての任務のみが頼りとなる。暮らしが不安定なものになるのは明白だ。

「新たな草を育てることで私達の役目も減る」

「上手くいけば、ね」

 新たな役目の成功と失敗の差は大きい。分かっているのかという目で蓮は千代を見てくる。少し口元を緩ませることで応えると夕暮れの差し込む障子窓に目をやる。

「きちっと考えてのことなの?」

 癪に障ったのか蓮の口調がまたきつくなる。蓮の方から目を逸らしたのが逃げたように見えたのだろう。もちろんだと頷いてみせても真意を見定めるように目を細くしている。

 袮津に新たな女の草を育てる為の修練場を作るように頼んだのはそちらの方が何かとやりやすいからだ。確かに草としての仕事も増え、蓮の言う通り望月としての恩給は減る。それでも食べていける自信があった。

「育てた者を武田へと送る。これに代わるものをこちらは得る。使える者は大切にする御館様なら十分に恩賞を渡してくださるに違いない」

「随分と信頼していることで……」

「信頼などしていない。こちらへの信頼を利用出来ると思うてるだけだ」

 信玄は表向き誰にでも優しくしているが、使えない家臣に対しての扱いが冷たいところもある。こちらが誘いを断っても武田の役に立とうとしているのだからそれなりの援助はあるだろう。草の重要性を知り、先見の明がある信玄ならばなおさらだ。きちっとした功績を上げれば余りある程の恩賞を与えてくれる。

「随分と酷いことを……」

「我等に情などない故な」

 表の世界以上に間者には情などない。捨てられればそれで終わりだ。表の世界と違って助かる余地など全くない。鼻で笑う蓮を見て、上手くいったと思った。しかし、背を向けた千代に蓮は素早く近付き、組み敷いてきた。

「何を……」

 それ以上の言葉は痛みで出てこない。無理に解放されようとすれば痛みはますます強くなる。無抵抗のままどうしてこのようなことをするのかと蓮を睨む。もし誰かが入ってくれば咎められるのは蓮だ。承知の上でやっているのはどうしてだ。

「いつまでそうやってはぐらかすのかと思っていたら……とうとう最後まで貫くの。そう……」

 徐々に儚げになっていく口調と共にきつくなる腕の締め付けが千代の表情を険しくさせる。しばらくそのまま互いに口を開かず、睨み合う。何故このようなことをするのか。何故分からないのか。互いの言い分が無言の中でぶつかり合う。外から風と舞う葉の音が聞こえては消えていく。声に出したのは痛みに慣れてきた千代だった。

「お前は、私のことをそこまで知りたがるのは何故に? ……っつ」

 さらに締め付けが強くなる。油断しきっていた為、千代に逃れる術はない。

「何故……?」

 蓮の顔が引きつる。嘲笑うのを必死にこらえている。どうしてこのような顔をされなければならない。確かに嘘は付いた。しかし、ここまでされる意味が分からない。蓮の目を見たまま黙っていると向こうから溜め息の後、罵倒が聞こえてきた。

「長く共にいたのに分からない? 知りたいと思って何が悪い!?」

「……知らないわ」

 一瞬の隙を千代は見逃さず、組み敷かれた状態から解放される。召物を整えるが、蓮は再び襲いかかってきた。今度は簡単に避けると逆に組み敷いてやる。これほどまでに感情的な表情は初めて見たと思った。

 同時に千代は違和感を覚えた。今までなら湧いてくるはずの罪悪感が微塵にもない。心の中を探っても見つからない。内心でおかしいと首を傾げながらも何となく察した。おそらくあの時以来、心が支配されてしまったのだろう。隠さなければ蓮は怒り狂うだろう。だから冷徹な目と口調で千代は言い放った。 

「知られたくない。それだけだ」

 抱いた想いと欲は叶うことが不可能に近くとも得たくなる。目を見開き、立ち尽くしたままの蓮を置いて部屋を出る。全てをありのまま知ろうとした者と完全に決別した。今後も行動を共にすることがあるだろう。しかし、その間に出来てしまった厚い壁は岩のように砕けることなどない。

 想い、本性を本当にさらけ出しても良いと思った相手に会ってしまったのだ。蓮には申し訳ないが、それ以上にかけがいのない人物が現れ、去って行ったのだ。再び相見えることはないだろう。しかし、それだけで良い。

 千代は微笑み、歩き出した。

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未練を咲かせて 北極星 @hokkyokusei1600

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