第2話 箱の中の花

 5時30分。スマホのアラームが鳴る。

 ――止める。


 5時35分。スマホのアラームが鳴る。

 ――止める。



 5分おきにセットされたアラームと格闘をすること25分。ようやく諦めがついたわたしは、ベッドからのそりと起き上がり眼鏡をかけた。時計を見れば、今から30分後には電車に乗っていなければいけない時間になっている。


『それじゃ、みんな。おやすみなさい。またね』


 配信の余韻が耳に残っている。

 アスマの声はいつもと同じように優しくて、暖かかった。

 ライブツアーは11月から12月にかけて全国を回り、最終日はクリスマスのころに首都圏で行うという発表があった。それ以上の詳細は、また後日。

 忙しい時期だけど、どうにかして休みとチケットを取って、それまで生き延びないと。


 顔を洗い、歯を磨き、推し色である赤のストライプが入ったルームウェアを脱ぎ捨て、落ち着いた色味のオフィスカジュアルに着替える。最低限のメイクをして、染めたこともない癖のある黒髪をひっつめ、どうにか外に出られる格好になると、鞄を掴んで家を出た。

 結局、アーカイブを聞いた後もおすすめに上がってきた切り抜き動画と楽曲を聞いてしまい、すっかり寝不足だ。朝ごはんを食べる時間も無くなった。だけど後悔はしていない。電車の乗り換えの時に携帯食を飲み込めばいい。割とよくあることだ。

「……あふ」

 半分寝ながら徒歩5分の道を行き、改札を抜ける。その間、頭は働いていない。体に刻まれたルーチン・ワークを惰性でこなすだけ。

 時計を見ると、いつもと同じ時間。

 ホームに降りて2分ほど待てば、上りの電車がやってくる。



 ――そう。何事もなければ。



 下りの階段。一段目。踵を下した途端、足元で何か嫌な音がした。

 それが、パンプスのヒールが折れた音だと理解した時には、わたしの視界は滅茶苦茶にかき回されていた。

 頭に、肩に、足に、腕に、腰に、体中に衝撃と激痛が走る。

 聞こえてくる悲鳴は、わたしのものだろうか。

 それとも、傍で見ている人のものだろうか。

 どこかにつかまることも、踏ん張ることもできず――

 ただ、コンクリートの階段を転がり落ちていく。


 …………。


 落下が止まった時には、痛みは麻痺していた。

 何も感じない。

 何も聞こえない。

 ただ、体中が重くて動かない。

(仕事どうしよう。無断で休んだら主任に怒られる)

 薄れゆく意識の中、頭の中にあったのは、悲しすぎる社畜の性だった。


      *     *     *


 痛い。

 体中が痛い。

 かちかちに強張って、動かない。

 いくらあと半年で三十路だからといって、動かなすぎだ。


 それより、今何時だろう。

 仕事……そうだ、仕事行かなきゃ。

 ライブのために稼がないと……。


      *     *     *


 階段から落ちた後の事は覚えていない。

 ただ、窮屈な箱の中にいた。蓋は閉まっていないが、辺りは薄暗い。

 視線を動かすと花に囲まれていて、むせるほどの香りがする。

「ごほっ……ごほ、ごほっ」

 息が詰まる。胸が苦しい。

 肺が、脳が、酸素を求めているのにうまく呼吸ができない。

 身体を丸めてうずくまりたいのに、体中が痛いし、なにより箱の中が狭すぎて寝返りも打てない。

 咳と喘鳴で生理的な涙がこぼれたころ、ようやく呼吸が落ち着いた。


 ……ここはどこだろう。

 こぼれた涙をぬぐおうと腕を動かすが、やたらと重い。硬直していたのか、肩や肘がバキバキと鳴る。

 それでもどうにかして目元をぬぐうと、眼鏡をしていないことに気付く。それにしては視界がやけにクリアだ。目尻の肌はいつもよりすべすべしていて、ずっと触っていたいくらいだった。それに、視界に入ったわたしの手は小さくて、ほっそりとしている。


 これは誰だ?

 少なくとも、わたしの身体じゃない。


「痛っつー……」

 起き上がろうとすると身体のあちこちが痛み、音を立てる。それでも少しづつ手足を動かして可動域を増やしていく。

 箱の縁に手をかけてゆっくりと身体を起こすと、いくつもの花がこぼれて落ちた。

 ――ぱさ、と乾いた音を立てて真っ白な花弁が散った。


「……ここ、どこ」

 引き攣った声が、薄暗い部屋に響く。

 わたしの声じゃない。こんな、か細く可憐な、それでいて芯の通った声じゃない。

「わたしは……誰?」

 まさか、現実にこんなセリフを言うことになるとは思わなかった。

 目が慣れてくると、天井付近に明り取りの小窓のある石壁の部屋だということが分かる。窓の位置から推測するに、どうやら地下室のようだけれど、じめじめした感じも黴臭さもない。ひんやりとしていて、空気が乾いている。

「これは……棺?」

 わたしが寝かされていた箱は身体にぴったりの寸法で、見たこともない色や形の花が敷き詰められている。もしこれが本当に棺だとすると、ここはいわゆる安置室だろうか。


 ゆっくりと立ち上がり、棺の外に足を踏み出す。裸足だ。ひんやりとした石の床が、ひたひたと鳴る。

 身体が軽い。

 なのに緩慢な動きしかできないのは、見るからに筋肉も体力もない体つきのせいだろう――と、わたしの身体を見下ろす。

 緻密な刺繍の施された白い綿の寝間着はゆったりとしていて肌当たりも柔らかく、すとんと下まで落ちていた。ふくらみのようなものは見当たらず、あまり肉付きの良くないことが分かる。


「だ、誰かいませんかー」

 これで本当に誰かが来たとして、何をどう話せばいいのだろう。

 これは夢……だろうか。

 それとも、あの事故の後、眠り続けているうちにすっかり体つきまで変わってしまったのだろうか。

 いやまさか。だとしても、声まで変わるはずがない。

 じゃあなんだ?

 いわゆる流行りの「異世界転生」とか?

 まさかまさか。

 なにがなんだか、全くわからない。

「あの、誰か……」

 石壁の地下室にはわたしの声が響くばかりで、誰かが来る様子はない。


 ――よし、と意を決して、上階に繋がっているであろう石段に向かった。

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