第1話 はじまりのうた

 あの日は、いや、あの日も残業だった。吊革にぶら下がるようにして、弱冷房のかかった終電に揺られているわたしの頭の中にあるのは、今日行われた推しの配信の事だけ。ずれ落ちそうになる眼鏡を直す。

(今日もリアタイできなかったか……)

 『サニーサイド・アップ』。通称サニア。男性二人組の人気動画配信者で、主に音楽配信やゲーム配信、雑談配信をやっている。基本的に顔出しをしない方針で、配信時には2Dアバターを使うのが常だ。それでもここ1、2年は露出が増え、スタンプ加工の自撮りをSNSに上げたり、マスク姿での生配信を行うこともある。

 ユニット結成当初から追っていた身からすると、嬉しいような、寂しいような、複雑な心境だ。

(……アーカイブ、残っているかな)

 リスナーの年齢層が低いこともあって、彼らの配信時間は早い。毎日のように終電で帰宅するわたしのような社畜がリアルタイムで聴けるはずもなく、アーカイブや切り抜きを追うのが精一杯だ。それでも、推せているだけで充分だった。

 取り出したスマホでSNSを開いて、閉じる。パブサしたくなるのを堪える。何も知らない、新鮮な状態で彼らの発信を聞きたい。


 たたんたたん、たたんたたん。

 規則的な電車の音と揺れが眠気を誘う。

 うと、と瞼が落ちる。

 6時台に家を出て終電で帰る生活を、週5日。加えて、不定期にある土日出勤。広告代理店の孫請けなんてそんなものなのかもしれないけれど、三十路が見えてきた年齢的に、この生活もそろそろ辛い。

 かといって転職活動をする時間も余力もなく、気晴らしに付き合ってくれるような友達もいない。結婚をするような相手はいないし、いたとして、推し活との両立を許してくれるとも限らない。実家には――帰りたくない。

 可愛くて明るくて誰からも愛されてきた妹の存在が、わたしという存在を責めているようで卑屈になるのがわかるから。

 妹は既に結婚をして、二人目を妊娠中。その夫は――かつてわたしが憧れていた元同級生。夫と子供を連れ、頻繁に実家に顔を出しては今も両親に可愛がられているらしい。悪意のない、妹からの「お姉ちゃんもたまには帰っておいでよ」のメッセージや、母親から送られてくる孫――わたしから見れば姪にあたる――の写真が添付された「そろそろ結婚しないの?」のメッセージが、わたしを実家から遠ざけていることに、彼女たちはきっと気づいていない。

 仕事はきついけれど、実家に帰るよりは気が楽だ。


 どのくらいうとうとしていただろう。

 プシュ、と音がして、電車のドアが開く。

 はっとして顔を上げると、ドアの外に見慣れた景色が見える。下車する駅だ。

「降ります! すみません、降ります!」

 まばらに残っている乗客の間をすり抜け、慌てて電車から飛び出す。直後、ドアが閉まって発車していった。

 終電乗り過ごしとか、笑えない。

 駅を出てロータリーを抜け、街頭に照らされた通りを早足に歩いていく。時間は遅いが、家族向けの住宅地ということもあって治安はさほど悪くない。

 駅から徒歩5分。築十五年のアパートの二階の一室がわたしの家だ。

「ただいま」

 誰もいない部屋に、わたしの声が響く。日中の熱さに晒された部屋は、夜になっても蒸し暑い。チルドのカフェオレをほとんど空っぽの冷蔵庫から出し、夕食代わりのブロックタイプの栄養補助食品をカゴから取り、キッチンスペースからリビングスペースへ移動し、エアコンを付ける。

 もっと職場に近い、都内のマンションに住みたい気持ちはあるけれど、埼玉の2DKより都内のワンルームの方が家賃が高いのだからとても住めない。……と、推しの祭壇を見て思う。

 CD、DVD、アクリルスタンド、缶バッジ。そこに描かれているのは、かわいらしくデフォルメされたアバターの姿だ。多くを占めている赤い髪の男性と、いくつか添えられている青い髪の男性。うまく本人の特徴をとらえていて、雰囲気も似ている。アバターの姿だけれど、彼らであることに変わりはない。

 時計を見ると、既に0時を回っていた。明日……いや、今日も早朝の電車に乗って新宿まで行かなければいけない。配信のアーカイブと睡眠時間。どちらを取るかなんて、言わずもがなだ。


 サニアに決まっている。

 睡眠は通勤時間中に確保できるけど、アーカイブは家でしか見られない。

 しかも、いつまでも残されているとも限らない。

 はやる気持ちを抑えて、ローテーブルのスタンドに立てかけてあるタブレットのスリープを解除し、夕食を齧りながら動画配信サイトに繋ぐ。

 アーカイブは――

 残されていた。


 画面上に、マスク姿の男性二人が映っていた。実写生配信だ、珍しい。

 何か重要なお知らせがあるのかもしれない。


『えっと……こんばんは。『サニーサイド・アップ』のアスマです。聞こえますかー?』

 髪を赤く染めた男性――アスマがたどたどしく発言をすると

『こんばんは。ソアレです。見えてるかな』

 ブルーブラックに髪を染めた男性――ソアレが落ち着いた声で次を継ぐ。

 画面の向こうで小さく手を振っているアスマに合わせて、わたしも手を振り返す。

 赤く染めたサラサラの短髪。真っ白な肌。少し釣った、アーモンド形の瞳は猫のように感情を映してよく動く。マスク越しでもわかる、シャープに整った顎……。ああ、アスマは今日もかっこいいしかわいい。

 対するソアレは、ブルーブラックの髪をウルフにしている。ワイルドな髪形の割に切れ長の目元は涼やかで、クールでミステリアスな雰囲気を醸し出している。

 どこか気品のある仕草。無邪気ながらも穏やかな物腰。時々見せる天然っぷりに、リスナーの間では「王子」と言われているアスマに対し、常に冷静に、落ち着いた声で語り掛け、アスマのフォローという名の突っ込みをしているソアレは「騎士」と言われている。

 対極でありながらも、その掛け合いは息が合っている。それもそのはずで、二人が幼馴染みだというのはリスナーの間では有名だった。


『カメラ枠とか久しぶりで、なんか落ち着かないね』

『アスマ緊張しすぎ。いつもと同じでいいじゃん』

『だって今日は重大な告知があるんだよ。うわああ、緊張する』

『まあそうなんだけどさ』


 重大な告知ってなんだろう。

 いいお知らせだと良いんだけど。

『えっと……ですね』

 アスマが一呼吸置いて、言葉を続ける。

『実はこの冬、ライブツアーを行います!』

『結構広く回るよね。北海道から……九州まで行くっけ』

『そうそう。行っちゃいます』


 ライブツアー?

 今、ライブツアーって言った?

 え、どうしよう。美容院いかなきゃ。

 サニアに会うのにみっともない格好してたら、サニアリスナーの品位が問われてしまう。

 おしゃれはライブの戦闘服だ。


『リスナーのみんなに会う機会、あまりないからね』

『うん。……ああ、ほら、街で声を掛けられることもあるじゃない』

『あるね』

『写真撮ったりしちゃうと、不公平になっちゃうから全部お断りしてるんですよね』

『アスマはほんと、リスナーを公平に扱うよな』

『え、ソアレは違うの?』

『いや俺もそうだけどさ。会話くらいはするでしょ。アスマは逃げるじゃん』


 アスマくらい知名度が高くて見目も良ければ、寄ってくる女の子なんて沢山いるだろう。けれど、こうやってストイックに線を引くところも好きだった。

「チケット取れるかな……いや、それ以前に休み取れるかな……」

 取ったところで、一緒に参戦する同志もいない。いわゆる「ぼっち参戦」だ。しかも周りはきっと中高生の女の子ばかりで、アラサーの自分が行ったら浮くだろう。

 おひとりさまには慣れているし、今更どうという事もない。けど、キラキラした若くて可愛い女の子たちのエネルギーに囲まれたら、日陰者のわたしは溶けてしまう。

 それでも、同じ空間で同じ空気を吸って同じ時間を共有したい。



 彼らを知ったのは本当に偶然で、おすすめ動画に上がってきた、まだ無名だった頃の彼らのオリジナル楽曲を聞いたのがきっかけだった。その頃は仕事が辛くて辛くて、人間関係もうまくいかず、仕事も失敗続きで、かといって辞める勇気も準備もなく、死を選ぶほど追い詰められているわけでもなく、ただ、日々を消費していた。

 その時に流れてきたのが、彼らの歌だった。


 辛さを受け止めて、認めて、愛して、包み込んでくれるような歌。

 背中を押してあげるとか、引っ張ってあげるとか、そういうポジティブの押し付けがない、自分で立ち上がるまで見守ってくれるような歌。

 寂しさと、やるせなさと、葛藤と、優しさと、力強さを感じる歌。


 気づいたら聞きながら泣いていた。それ以来、彼らの歌を聞き、配信を聞いている。

 といっても、いつもアーカイブ視聴だから、コメントを送ったことも投げ銭をしたこともない。わたしの存在なんて知らないだろうけど、それでも、ここにいる「名もない誰かを」救ってくれた。

 画面では、軽快な掛け合いが繰り広げられている。

 明日の仕事の事なんて忘れて、聞き入っていた。

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