見合い

 左右に揺れる漆黒の長髪。花のように甘い香りが前方から漂ってくる。


「あの……祖母は……?」

「出掛けていんす……」

「おかしいな……ちゃんと連絡したのに……」

「わっちが言ったんでありんす……主さまとわっちで話しとうござりんす……と……」

「話したいこと……?」

「秘密でありんす……」


 椿のお姉ちゃんはあの時のような優しい笑みを溢して、俺を導いてくれる。


「どうぞぉ……」

「ありがとうございます……」


 お姉ちゃんの案内に身を任せて、居間に置かれている紫色の座布団に腰を掛ける。生花や水墨画で彩られた美しい空間だ。


「あの……また会えて嬉しいです……椿さん……」

「わっちもでありんす……」

「今は何をしてるんですか……?」

「毎日を自由気ままに暮らしてやす……散歩とか……お買い物とか……」

「変わってないですね……」


 お姉ちゃんはあの頃から何も変わっていない。気紛れで自由で、底が見つからないほどに心優しい。


「主さんはどうでありんすか……?」

「俺は……」


 椿のお姉ちゃんと比べて、俺は随分と変わってしまった。


 昔のように外を走り回る活力は仕事で全て削り取られ、後先考えずに突っ走る愚直さは社会人になって、その一切が消滅した。


 それらを犠牲にして得た物が愛想笑いと、怒鳴り散らす上司に辞表を手渡す権利だけだ。


「昔みたいに外で遊ぶなんて出来なくなったんですよね……あはは……」


 俺は少し冗談気味に自虐を繰り出した。無駄に上手くなった愛想笑いを浮かべながら。


「辛うござりんしたねぇ……」


 俯いていた俺の頭を優しく撫でてくる白い手。とても懐かしい感触だ。本当に懐かしい。


 あぁ、そうだ。あの時もこんな撫で方をしてくれていた気がする。


「泣かねぇでおくんなんし……」

「えっ……」


 お姉ちゃんはいつの間にか溢れていた涙を袖で優しく拭き取ってくれる。


「あっ……す、すいません……」


 人前で泣くのなんていつぶりだろう。

 俺は慌てて流れ出る水滴を手の甲で拭い取った。


「ふふっ……朝食は食べんしたか……?」

「い、いえ……まだです……」

「こんな季節でありんすから……そうめんにしんしょう……」

「いいんですか……?」

「もちろんでありんす……」


 優しい笑みを浮かべながら居間から立ち去るお姉ちゃん。

 それを見送った俺はバッグからスマホを取り出して、祖母に電話を掛け始める。


 3回目の呼び出し音が鳴った後、祖母との通話が繋がった。


「もしもーし?」

「あ、ばぁちゃん……? 綾人だけど……」

「もう着いたんか?」

「うん……着いたけど……椿お姉ちゃん居たよ……?」

「そりゃおるわ〜……話で呼んだんやから……」

「みっ……見合い……!? だ、誰と……!?」

「アンタに決まっとるやろぉ……」

「はぁ……!? きっ……聞いてないよ……!?」


 俺と椿お姉ちゃんが結婚なんて想像出来ない。そもそも俺なんかが、あの人と釣り合うはずがない。


「忘れとったわぁ……まぁ、ええやん……椿ちゃんが貰ってくれるって言うとるんやから……」

「えっ……う、嘘……!?」

「本人に聞いたらええがなぁ……もう電車来るから切るでぇ……」

「あ、ちょっ……!」


 ブツリと祖母の声が聞こえなくなった。俺は動揺しながら、震える手でスマホをバッグに突っ込む。


「椿お姉ちゃんが……俺を……」


 俺は目眩にも似た感覚に蝕まれながら台所へと向かう。

 そこにはエプロン姿で朝食を作っているお姉ちゃんが居た。


「もう出来んすえ〜……」

「あ、はい……」

「叫んでやしたけど……何かあったんでありんすか……?」

「い、いえ……大丈夫ですよ……」


 椅子に座ってエプロン姿のお姉ちゃんを眺めていると、どうしても違う姿が思い浮かんでしまう。


「あの……椿さん……」

「昔みたいに呼んでおくんなんしえ……」

「つっ……椿お姉ちゃん……」

「ふふっ……はーい……?」

「その……ばぁちゃんから聞いたんだけど……」


 とてつもない抵抗感が喉に引っ掛かる。これを言ってしまうと、もう後戻りは出来ない気がするからだ。


「い、いや……ごめん……何でもない……」

「また今度聞かせておくんなんし……」

「うん……ごめん……」

「さ、どうぞ……」


 どうしようもない俺の目の前にそうめんとめん汁が並べられる。

 一仕事終えた椿のお姉ちゃんは換気扇の下で煙管を吸い始めた。


「美味いな……やっぱり……」

「ふふっ……嬉しゅうござりんす……」


 喉を通る清涼感が火照った体を優しく冷やしてくれる。

 俺はそうめんを啜りながら、何気なくお姉ちゃんへ視線を移した。


「そんな熱心に見ても、何もありんせんよ……?」

「あ、ごめん……」


 俺と目が合った椿のお姉ちゃんは揶揄うように微笑む。

 その笑みに俺の心臓はあの頃のように高鳴るのだった。


 

 

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