第4話 教団内での殺人事件

 予知夢はやはり当たっていた。いや、普通に考えれば、夫のある人に対して、さほど仲がいいというわけでもない、しかも宗教団体に所属している自分と交際をしてくれるなど、ありえるわけもない。ただ、氷室は告白をすることで、自分の中の気持ちにけじめをつけようと考えたのだ。

 だが、それはいいわけでしかない。玉砕が何のけじめだというのか、相手を困惑させ、それを見て悦ぶくらいであれば、告白した意味もあるだろうが、悦ぶようなこともあるわけがなく。結局。奥さんに対して何もできないまま終わってしまった自分を自虐するだけだった。

 もちろん、だからと言って、デスぺレートな行動に出るわけではない。奥さんと手に手を取り合って再出発をするために、教団を辞めるという気持ちもどうなってしまったのだろう。奥さんに対しては、

「お付き合いできるのであれば、私は教団を抜けます」

 とまで言ったのだが、冷静に考えてみれば、それも怖い話だった。

 奥さんは、教団のことを何も知らない。秘密にしているわけではないが、聞きたくない相手にわざわざ話すようなことはしない。一緒にいる時はなるべく教団の話をしなかった。相手が絶対に楽しいと思うわけはないというのと、まるで押し付けのようになってしまうということに違和感を感じたからだ。

 しかし、普通の人が宗教団体に対して抱いている感情は分からなくもない。実際に自分が以前入信する前に抱いていた感情なのだから。不思議なことに、教団にいる間。自分が宗教団体にどんなことを感じていたのかを思い出そうとすると、どうもおぼろげで思い出せなかった。記憶喪失にでも陥ったかのような感覚になり、教団で皆一緒に勉強をしている間はそんなことを想い出す必要もなかったので。、別に気にはしていなかったが。いざ巨団を抜けようかどうしようか悩み始めると、その時の不自然さがこみあげてきたのだった。

「やっぱり、マインドコントロ―ルのようなものなのだろうか?」

 と思った。

 違和感がないのは、そもそもが考える必要のないことだと思い込むことから始まるのだと今では思う。ただ、記憶がおぼろげな状態になるというのは、どこかおかしい。普通に教団に向き合っていれば、別に意識することもないはずなのに、まるで念押しでもあるかのように意識をおぼろげにさせる。却って不信感を抱くのではないだろうか?」

 とそこまで考えると、

「待てよ。それが狙いなのかも? それぞれの人間に念押しの感情を植え付けて、表に滲み出る反応を見て、相手はマインドコントロールが効いているのかを確認していたのかも知れない」

 自分が教団を抜けることで、教団は何も困ることはないだろう。

 他の教団だと、中の秘密をバラされるのを恐れて、秘密を守るために、信者は抱え込むようにするのだろうが、ここでは抜けるのもありなのだ。

 抜けてもいいというのは、それだけの問題ではないはずだ。教団内の士気に関わるという意味もあるのではないか。

 一人や二人であれば、抜けたとしても、別に教団側は覆い隠すことなくオープンにしているのだから、別に問題はないはずだ。

 しかしそれが数人から数十人と増えてくると、人数の減った班は先ゆかなくなる。合併なども出てくると、信者の間で混乱が起き、収拾がつかなくなったらどうするというのだろう?

 逆に、教団は何かを隠そうとして、わざとオープンにしているのかも知れない。

「一つのウソは、九十九の真実の中に隠せ」

 と言われるではないか。

「木を隠すなら、森の中」

 と同じような意味であるが。オープンにしていることを公表することで、いかにも何も隠していないということを、まわりに思い知らせているのだろうが、肝心なところは秘密にしている。

 それは別に宗教団体だからというわけでもなく、どんなにオープンな組織であっても、最後の砦は絶対に明かさない。死活問題になるであろうところで、まるで秘密基地の場所を書いた地図を、公開しているようなものである。

 疑えばいくらでも疑うことができる。今までどうして疑わなかったのかと思うほどなのだが、

「それだけ自分は、この団体に身も心も捧げていたのだ」

 と言えるほどだった。

 結局、中途半端になってしまった氷室は、どうすることもできず、しょうがないので教団に残った。気持ちは一度離れてしまったので、もう一度中に戻すのは、きっと至難の業であろう。

 そんなことは分かっている。奥さんへの思いを断ち切るだけでも難しいのに、一度離れてしまった自分がかつては、人生のすべてだとまで感じていた組織に対して。本当に気持ちを戻すことができるのか、実際に不安だった。

 そして。まわりからの目も恐ろしい。

 奥さんを好きになったことも、奥さんに告白したことも、ましてや、教団を抜けようと思っていたなど、誰も知らないと思っている。だが、この教団にいれば、人の心を覗くという訓練にもなっていたし、自分でも気づかぬうちに、人の心の中に入り込んでいることがあるくらいだ。

 しかも、相手は気付かない。それだけに、今度は逆のパターンになっているので怖いのだ。

「お前、教団を裏切って、一人だけ抜け駆けしようとしたな?」

 と言われてしまったら、どう言い訳してもかなわない。

 正直、その通りなので、どうしようもないのだ。

 ただ、もっと怖いのは、皆が何も言わないことだ。きっと、皆は何もなかったかのように接してくるだろう。それだけに、相手が何を考えているのか、分からない。

 今までのように相手の心に入り込むことはできないだろう。一度は抜けようとした教団で会得した力である。もう、背を背けてしまったことで、その効力が自分にあるとは思えない。そう思った瞬間から、もう先はないのだ。

「抜けても地獄、とどまっても地獄。本当に俺はここにいた方がいいのだろうか?」

 という思いがまたしてもこみあげてきて。教団を抜けるという意思が次第に高まってきたその時だった。

「もう教団からは抜けられなくなった」

 と思うような事件が発生した。

 まさか、教団内で事件が起ころうなど、誰が想像しただろうか。しかもそれが殺人事件である。

 被害者は、誰もいない道場で、胸を刺されて殺されていた。しかもその人は教団の人間ではないのだ。

 教団の門は開いているので、敷地内に入ってくることは無理ではないが、一体どこにいて、普段は信者が勉強したり、信教に耽る場所として開放されているので、誰もいない時間というと、それこそ深夜化早朝しかない。

 いつ忍び込んで、いつ殺されたのかは分からないが、最初に発見したのは、教団の中でも新参である少年たちだった。

 彼らは朝の掃除から仕事が始まる。他の人も起床は早いが、彼らはさらに早かった。

 午前四時にはすでに掃除を始めるというくらいなので、他の人のように、五時過ぎでいいというわけにもいかない。

「これも修行だ」

 ということで、彼らは率先してやっている。

 そもそもここに入信したのは、俗世間に耐えられずにやってきたのだ。俗世間での苦しみに比べれば、早朝早起きして掃除をするくらい、何でもないことであった。

 掃除といっても、拭き掃除が基本で、道場の畳の上を拭くだけであった。夏は涼しくていいが、冬はしばれてたまらないだろう。いくら修行と言っても、さすがに冬の寒さによって、しもやけになってしまうのは、辛かった。

 掃除をしている小僧たちは、いつも三人だった。普段から余計なことを喋らずに黙々と掃除をしていた。

「これくらいの年齢だったら、いろいろな話題があって、笑い声が聞こえるくらいであろうに」

 と思ったが、まだこの教団にも慣れていない彼らにとって、会話をするということ自体が苦痛であった。

 何をどう話していいのか分からないし、何よりも相手が喋ってくれたことに対して、どんな反応をしていいのか分からない。

 そもそも彼らは俗世間で、人の話を聞かされた後、リアクションの取り方が悪いと言って、折檻されてきた連中である。いくら仲間だとしても、どういう表情をしていいのか分からないのを見せたくはない。要するに、

「自分が嫌なことは相手も嫌に決まっている」

 ということなのである。

 そんな小僧たちはその日も普段と同じ朝を迎えていたのだ。

 ただ、最初こそ、三人は新鮮な気持ちで掃除をしていたはずだったが、そのうちに、三人の考えが素小鈴津ブレ始めた。つかり、最初こそ、真面目に何も考えず、奉仕の心だけしかなかったはずが、少しずつ、何かを思い出してきたのか、楽をしようと考えるよyになる輩もいた。

 だからと言ってサボるわけではなく、

「いかに、苦労をせずにやり遂げるか」

 ということを想うようになってきた。

 そもそも、掃除をするということ自体、修行のはずだった。最初は分かっていたはずなのに、楽をしようと思った瞬間、それが修行であるということを忘れてしまったのであろう。役割分担を決めていたわけでもないのに、それぞれのポジションを理解しながらできていた掃除に少しぎこちなさが出てくると、ぎこちなさを感じた小僧は、次第に自分だけでも、楽ができるのではないかと思うようになっていた。

 楽をすることはいくらでもできるであろうが、この掃除というもの自体が修行なのだ。楽をしようと考えること自体、主旨に反している。楽をすることで主旨が変わってしまうわけではない。楽をしようと思ったその時点で主旨が変わってしまうのだった。

 修行というものが、どれほど厳しいものなのか、小僧たちは知らない。そもそも、今までに努力などしたことがなかった三人だった。今まで確かに理不尽な目に遭って、ここに逃げ込んできたのは、気の毒だとは思うが、元々学校でも家でも、彼らに何か大切なことを教えるという風潮にはなかった。親は子供を迫害することで、自らのストレスを解消していたようなものだっただけに、何かを教えるようなことはない。教えるだけの資格もなく、教える資格があったとしても、一体何を教えるというのか。それだけの技量を持っているわけではないのだ。

 ただ、親から迫害や苛めを受けているうちに、

「いかに苦しみを少しでも解消することができるか」

 ということばかりを考えるようになった。

 すでに受ける苛めから逃れるという選択肢はなくなっていた。あとは、いかに自分が苦しまずに済むかということしか考えてはいけなかったのだ。下手に逆らって相手の気持ちを逆なでするよりも、まったく逆らわず、台風が過ぎ去っていくのをじっと我慢して時間経過だけを感じるしかないのだった。

 そういう意味で、

「楽をしよう」

 という考えは無意識に出てきたものに違いない。

 そう考えることが彼らにとっての正義であり、一番の味方になる考えだったわけだからである。

 三人のうちの一人だけが、楽をすることに目覚めていた。後の二人は、ただロボットのように毎日同じことを無表情で繰り返すだけだった。

 それを見て、楽をしようと思った小僧は、

「まるで洗脳されているようだ」

 と早くも気付いた。

 自分たちは、何も考えずに、修行をしていると思っていたが、何も考えていないわけではない。知らず知らずのうちに、

「この教団で生き残っていくためには」

 と考えるようになっていた、

 もう、そんな考えは俗世間ではすでにマヒしていた感覚だった。苛めという迫害は、人の心から考えることを奪ってしまう。その人を苛めること自体が罪ではあるが、本当の罪というのは、その人が考えることを停止させて、感覚をマヒさせるという間接的な方法による迫害なのではないだろうか。

 教団にはいろいろな階級がある。ただ、それは責任を中心にした階級ではなく、あくまでも役割分担を決めるための階級とされてきた。小僧たちも実際にそう思っていたが、楽をしようと考えた人間は、それを見ると、少しおかしな考えが頭に浮かんでくるのであった。

「競争がそこになければ、上の階級を目指そうなんて誰も思わないんじゃないかな?」

 と考えた。

 俗世間でいう、いわゆる、

「出世」

 というものは、いい面と悪い面の二つを持っている。

 しかも、いい面の中にも悪い面の中には、それぞれに、良し悪しの部分を持っているのだ。

 出世することで、給料が上がったりするのは嬉しいが、その分、家族ができると、自分で給料を稼いでくるわけではない家族には、本当のお金の価値観が分かるわけもなく、結局は、給料が上がっても、給料を稼いでくる自分には、何ら得になることはないという考えである。

 また出世すると、その分、仕事での責任が重くなってくる。それは、自分だけの問題ではなく、長という言葉のつく仕事についたことで、部下であったり、後輩が行ったことに対して、監督責任というのが生まれてくるのだ。

 ここでも、同じような責任が存在し、それを回避することはできない。団体行動をするうえで、責任は不可欠であり、その責任を誰か一人に押し付けることはできないのだ。

 その思いは、自分が俗世間でしてきたことであった。苛めというのは、一種の責任転嫁であり、たとえ相手を無視する場合であっても、不安な気持ちを和らげようとする気持ちを他人の存在で解消することができないからであった。不安な気持ちになるというのは、基本的に、自分に対しての何かの責任に対して感じる不安だからではないだろうか。教団は勉強会などで、いつもそのような話をしている。

 教団の勉強会といっても、たぶん、それは俗世間でのいわゆる、

「教育」

 というものと変わりはないだろう。

 団体でも、俗世間においても、事実が微妙に異なっていたとしても、真実は一つである。そのことを教祖が信者に直接教えるわけではなく、勉強会によって自分たちで気付くというのが、この団体の特徴であり、あくまでも勉強会というのは、教団運営としては大切な時間ではあるが、それが教団としての存在意義なのかというとそうではないようだった。

 三人の小僧たちは、掃除をしながら、普段は何も考えていなかった。何も考えないことが一番楽な道であり、楽をしようと考えれば考えるほど、楽ではなくなっていくことに気付かないのだ。

 それは、、彼らがまだ新参者だからであろう。何も考えないということは、将棋でいうところの、最初に並べた形である。

「将棋で、一番隙のない形というのは、どういうものなのか分かりますか?」

 と訊かれて、知らない人は、すぐに、

「分かりません」

 と答えるだろう。

 それは本当に分からないのではなく、実際には最初に思いつくことであり、逆にそれ以外を思いつかないことで、本当にそうなのかという疑心暗鬼に捉われてしまうことで、回答に窮するのであった。

 その手というのは、

「最初に並べた形」

 である。

「そこから、手を重ねていくと、お互いに駒を取ったり取られたりで、次第に相手に攻め込んでいく。こちらが攻めていると、当然相手も攻め込んできているのであって、お互いに手はまったく違った形で進んで行く。

 その頃になると、攻撃だけではなく、防御に対してもしっかり考えなければいけない。これが団体競技であれば、

「監督がいて、攻守にそれぞれコーチがいて」

 という形になるのだろうが、そういうわけにもいかない。

 すべてを一人で担わなければいけないので、一か所にしか目が行ってしまえば、勝ちにはおぼつかない。

 攻めてばかりいると、あと一歩というところまで行っていて、負けてしまうことになる。それこそ相手から、

「二、三手自分の方が遅かったら、負けていた」

 と言わせることができるかも知れないが、逆に、

「お前がこっちばかりしか見ていなかったので、助かったよ」

 と、まるで敵に塩を送ったような形になってしまう。

 逆に守りだけを中心に見ていると、せっかくの勝てる場面を逃してしまい、そのうちに相手は鉄壁のガードを固め、唯一勝てるはずの馬援を逃してしまうことになるだろう。

 将棋に限らず勝負事には、必ず、二、三度は勝てるはずの場面が存在する。相手に守りの時間を与えてしまうと、その回数がたった一度にしかならないのだ。気が付いた時には、勝つことは絶対にできないという本末転倒な状態を作り出してしまうであろう。

 そんな状態になった将棋盤では、自分だけではなく、相手も困惑することだろう。そういう意味で、すでに勝負としての本来の形は失われてしまっている。それだけは本当は回避するべきなのではないだろうか。教団における勉強会では、そういう話を題材に、意見を戦わせるのも、一つの勉強だとされている。

「楽をしようというのもいいが、それはまわりを見ていないことに繋がるということをしっかり理解していないと、損をするのは自分だ」

 ということなのであろう。

 そんなことを考えながら掃除をしていると、奥の方から、鈍い声が聞こえてきた。本当は大きな声を挙げたいのだが、それを必死で押し殺している声。そんな来rが聞こえてきたのだ。

 考えてみれば、

「押し殺す」

 という言葉もおかしなものだ。

 いかにも押し殺している状況と似ているからだ。

 人を絞め殺したりした時、呼吸が止まり、苦しさから目をぐっと開いて、相手を睨みつけるような表情になるが、それと同時に首を絞められる寸前に大きく息を吸うようだ。

「どうして首を絞められるということが分かるのだろう?」

 というのが疑問であった。

 首を絞められるのが分かっているなら、息を吸い込む暇があったら、逃げる暇もあったのではないかと思うのは、おかしいのだろうか。いや。実際に首を絞められる前に息を吸い込んだという事実から、首を絞められることを最初から分かっていたのだと勘違いすることであった。

 すべては首を絞められて死んでしまってから感じることである。そういう意味では、この世では永遠に感じることではないだろう。あくまでも矛盾した考えとして残るだけではないだろうか。

 そういう意味で、この世に起こる不思議な出来事も、そのすぐ後に誰かの死が絡んでいるのではないかと思うと説明ができてくることも結構あるのではないだろうか。その発想は、実はこの教団では幹部が持っていた。一般の信者には刺激の強すぎる考えで、理解できないだけではなく、死後の世界というものに対して恐怖心を抱かせてしまうのではないかというのが、彼らの考えだった。

 この教団は信者を縛ることに掛けては、他の教団よりも厳しいのかも知れないが。中途半端な状態にして、どっちつかずの状態になってしまうことが、一番精神的に不安定な状態を作り出し、せっかく俗世間から逃れてきた感情を元に戻してしまうことになってしまっては、これまでの時間がまさにまったくの無駄であると言わしめるだけになってしまうであろう。

 そう思うと、この教団は、世間で言われている他の教団との十把一絡げではいかないところがあると言えるのではないだろうか。

 その時に、奥から聞こえてきた、一見、

「この世のものとは思えない」

 というような首を絞められる前に一気に息を吸い込んだ状態で挙げた悲鳴のような押し殺した声は、一瞬どこから聞こえてくるのか分からなかった。

「電子音は、音が特殊なので、どこから聞こえてくるのか分からない」

 と言われているが、まさにそうなのだろう。

 しかも、この声に気付いたのは、ここにいる二人のうちの一人だった。彼の感覚としても、

「もし、ここに今はもう一人だけだけれども、百人いたとしても、今の声が聞こえたのは、自分だけだったのかも知れない」

 と思うほど、その声は異常なものだった。

 世の中には。

「ある一定の年齢を超えると聞こえない音というものがある」

 と言われる音がある。

 それがいわゆる、

「モスキート音」

 というものであるが、この時この小僧は、たまたま知っていたモスキート音という言葉を思い出していた。

 しかも、ここにいるのは、皆同い年くらいなので、モスキート音のように、

「ある一定の年齢」

 という理屈には当てはまらない。

 彼はその声とも音とも区別のつかない、異音を聞いて、それが奥の部屋から聞こえてきたことに気付くまで少し時間が掛かった。

 奥の部屋には何もなく、声が響くものだが、今の音は完全に籠ってしまっていた。

「あんな部屋に、こんなに籠った音が聞こえるなど、反射機能を有しながら、一緒に相手のすべてを吸収するかのような機能も兼ね備えた不思議な空間を想像させた。

 こんなことを考えるようになったのも、きっとこの教団における不思議な雰囲気がそうさせたのだろう。

「今までの俗世間では感じたことのない感覚」

 を感じたのだった。

 悲鳴に反応した一人に、もう一人が気付いて声を掛けた。

「どうしたんだ? 何かあったのか?」

 というと、

「あ、いや、何か鈍い声のようなものが聞こえたので」

 と言って、二人はあたりを見渡した。

 その時初めて自分たちが三人であったという基本的なことを想い出したわけだが、それと同時に彼は、自分が金縛りに遭っていたことに気付いたようだ。

 金縛りに遭ったりすると、まるで夢を見ている時のように、どんなに長い時間であっても、実際には数秒しか経っていないことを思い知らされる。金縛りには今までに何度か会っているが、彼の場合は、必ずいつもそばに誰かがいる。普通金縛りに遭う人というのは、一人でいる時というのが、相場が決まっているかのように感じていたが、どうもそうではないようで、特に彼の場合は、さらに違うようだった。

 だから、実際にあの声が聞こえてからもう一人に声を掛けられて我に返るまでがどれほどの長さだったのか意識としては薄い感覚であるが、確証としては、かなりの短さだったということは想像がつく。

 ほんの数秒などとは想像もつかないほどであるのは、きっと時系列が思ったよりもしっかりしているからであろう。だから、夢で見たことも、夢だという感覚がないため、さらに長さを感じているに違いない。それを思うと、金縛りの時と夢を見ている時で何が違うのか、考えさせられるのであった。

 急いで隣の部屋に行ってみようとするのだが、相当身体が固くなってしまっているのか、想像以上に動けない。まるで水の中を歩いて進んでいるかのような感覚で、泳いだ方が早いのではないかと思うと、

「空を飛ぶことはできなくても、宙に浮くことくらいはできるかも知れない」

 という、夢の世界での可能性について考えてしまうのだった。

 夢の世界では、

「夢なんだから、何でもできるはずだ」

 と、考えている人もいるだろうが、実は反対だと思っている。

 夢だからこそ、人間としてできること以外はできないという感覚なのだ。

「夢というのは潜在意識が見せるもの」

 とよく言われるが。潜在意識というのは、意識ではなく、無意識に感じるものであり、つまりは、

「普段から意識せずに持っている意識が、夢というものを通して、自分に見せるものである」

 と言えるのではないだろうか。

 つまり、夢というのは、自分の意識という世界の中にいて、その中で無意識に見るものだと考えると、辻褄が合うのではないかと考えられる。

 夢を見るということは、潜在意識とかかわりがあるということを知っている人でも、その潜在意識というのが、

「意識の中の世界」

 であるということに気付く人は少ないかも知れない。

 ただ、潜在意識というのが無意識の中の意識であるとすれば、意識の中の世界という理屈は容易に分かるというものであろう。

 しかし、その発想を自分の中で組み立てるというのは、少々無理があるのではないだろうか?

 そもそも、意識というものが、自分の中に何かの世界を形成するなどという発想に至ることは難しいからだろう。むしろ、意識というのは自分の中にあるものではなく、どこか共通の意識を司る世界があって、そこで考えたことが脳に伝わって、まるでその場で自分が考えたことのように思うのではないかと思っていた。だから、その人が何を考えているのかということが、他人から見て、なかなか分かるものではないのだろうと思う。その理屈を考えた時、意識というのが、その人の中に存在していないからではないかと思ったのは、無理もないことではないだろうか。

 ただ、この発想の方がむしろ難しい発想である。自分の中に意識という者がある方がスムーズに考えられる。しかし、そこには矛盾があり、言葉では説明できないものが潜んでいる。そう思うと、人間の感覚や発想、そして想像する意識というものは、自分の中にすべてあると考えず、どれかが別の場所にあって、他人と共有するスペースにあるのではないかと考える方が、理屈に合っているように思うのだった。

 そんなことを考えながら、隣の部屋に赴いた二人が見たものは、こちらに背中を向けて立ち竦んでいるもう一人が、わなわなと震えている姿だった。彼の今持っている意識を声を聞いた彼は想像できる気がした。やはり、想像できる意識の場所は、どこか共通した場所にあるのかも知れないと感じたのだ。

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