Day26 すやすや

「空の色が……」

「戻ってきたわねぇ」

 ポッタラ氏とポッタラ氏に抱えられたトラコの生首は窓の外を見上げた。彼らの視線の先には輝くような青い空がある。毒々しい赤紫色はもはや跡形もなく消えていた。

 微かに波の音が聴こえる。

 ホテルは死者の国の浜辺に戻ってきたのだ。

「獏が死んで妖術が解けたか」

 テツゲンは忌々しげに舌打ちをした。

 獏の死骸は、炎天下に晒された氷のようにどろりと崩れ、忽ちのうちに小さくなっていく。あと十分もすれば完全に消えてしまうかもしれない。

「これではどうにもならんな……ふん、出直すとするか」

 テツゲンは足元で倒れている狐姿のイガタをチラリと見下ろし、片頬を上げて嘲りの笑みを浮かべると、黄金色の尻尾を足で思い切り踏みつけた。ギャッと上がる悲鳴を聴きながらくるりと背を向ける。

「……っ!? 待て!」

 イガタはよろめきながら追いかけようとするが、既にテツゲンはベランダを飛び越えてひらりと身を翻していた。その姿はあっという間に霧のように消えてしまう。

「大丈夫ですか、イガタさん!」

 狸のカイエダがイガタに駆け寄る。

「あのっ……クソ坊主め! 次に会った時には食い殺してくれる……!」

 イガタは唸りながら体を屈めて尻尾を舐めた。

「イガタさん! どうしましょう?!」

 イガタが振り向くと、ユメが今にも泣き出しそうな顔で佇んでいた。

「旅人様が……消えてしまいました……!」

 ユメの眦から一筋の涙がぽろりと零れ落ちる。

「……落ち着きなさい、ユメ君。心配はいりません。あのお方を呼んでありますから」

 イガタは諭すようにユメに声をかける。

「あのお方……?」

 ユメが指先で涙を拭って鼻を啜り上げたちょうどその時、カランカラン……と澄んだ音が階下から響いてきた。

 エントランスのドアに吊り下げてあるベルの音だ。

「ちょうどいらっしゃったようですね。ユメ君、お迎えに行って、こちらの部屋にご案内してください。……あまり急がなくてもいいですよ。私とカイエダ君はその間に人間の姿に戻っておきますから」


 ユメが二〇一号室に案内してきたのは十歳くらいの年頃の浴衣姿の少女だった。

 イガタとともにカイエダ、ユメ、ミヤマが横一列に並ぶ。

「ようこそいらっしゃいました。お待ち申し上げておりました」

 ホテルスタッフ一同は少女に向かって深く一礼した。

「うん、久しぶりだね。イガタさん」

 少女はにっこりと破顔した。灰色の瞳が輝く。

「ぼくの待ち合わせ相手はどこかな?」

「……こちらにいらっしゃいます」

 イガタはふわりふわりと宙に浮かぶ大きな球体……旅人のいのちを指し示した。

「そうか、ここにいたのか」

 少女は納得したように頷いた。

「こんなになってしまって……随分と待たせたね、――」

 少女の唇が微かな声で何かを囁いた。

 それは旅人の名前だった。応えるようにいのちがトクン……と脈動を開始する。


 トクン、トクン、トクン、トクン、トクン……。


 規則正しく響くいのちの音。

 いのちはゆっくりと回転しつつ形を変えていく。人間の形へ……。

 やがて、いのちは旅人の姿となった。

「旅人様……!」

「ご無事だったんですね!」

 カイエダとユメは思わず声を上げ、互いに顔を見合わせて笑った。

 旅人はその場に浮遊しながら、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。

「ねぇ、起きて」

 少女は旅人の頬にそっと手を添えた。

「ぼくを見てよ」

 旅人の瞼はゆっくりと開いていく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る