Day10 ぽたぽた

 目の前に水風船のようにぶよぶよとした球体が浮かんでいた。

 照度を落とした照明から放たれる淡い光がその不思議な物体と二人の人間の姿を暗がりに浮かび上がらせている。

 ここはホテルトコヨの最上階……三階の一番奥に当たる部屋である。

 かつては客室の一つとして使われていたようだが、今ではベッドも調度品も取り払われ、がらんとした空間にただ「それ」だけが浮遊している。

 そして、その球体からは透明な液体の雫がぽたぽたと滴り落ち続けていた。

 しかし、雫は床に落ちる前に、シュウッ……と空中で溶けるように消えてしまう。

 球体の中にはやはり液体が溜まっているようだが、水漏れしているためか、水位は僅か五分の一以下になっている。

「これは旅人様のいのちです」

 球体を眺めながらイガタは言った。

 旅人は目を見開いて、自分よりも頭ひとつ分高い支配人の顔を見上げる。

「実はあるお方からのご依頼で旅人様のいのちをお預かりしていました」

「私の命? 一体……どういうことです?」

「つまり、このボール状のモノに入った液体が旅人様のいのちです。この世界では、生身の体が通常生活している世界とは異なる時間が流れています。すなわち、時間が止まっている……だから、いのちの量が減るはずはないのですが……」

 イガタは「いのち」に向かって刺すように鋭い視線を向けている。

「なぜかお客様のいのちはこのように減り続けています」

 

 ぽた……ぽた……ぽた……。

 

 一定のペースで規則正しく継続される雫の落下。

 旅人は思わずいのちに駆け寄り、両手を前に出して雫を受け止めようとした。

 しかし、雫は掌に着地する前にすぅっと虚空に消えていく。

「何者かが旅人様のいのちを盗んでいるらしいのです」

 狼狽する旅人の背中に向かって、イガタは淡々と語る。

「旅人様のいのちをお預けくださった方がいらっしゃるまで、旅人様には当ホテルにご滞在いただく予定でした。しかし、ご覧の通り、いのちの量はもうかなり少なくなっています。このまま待っていては旅人様のいのちは尽きてしまうかもしれません」

「そんな……そんな馬鹿な……」

 旅人は泣き出しそうな顔でイガタを振り返った。

「どうぞ落ち着いてください」

 イガタは旅人の肩に優しく手を乗せた。

「ここでただ待っているのはもうやめにしましょう。盗まれたいのちを取り戻すために私どもがご協力致します」

 イガタは細い目をさらに細めて微笑む。不思議なことに旅人の心は徐々に平静さを取り戻してきていた。今までは、イガタに対して得体の知れない恐怖心さえ抱いていたというのに。

「旅人様ー! イガタさーん! 出発の準備ができましたよー」

 部屋の外からカイエダの明るい声が聞こえてきた。

「さあ、参りましょう。せっかくですから、旅は目一杯楽しみませんと」

 イガタに手を取られる。その手は温かかった。

 旅人は促されるままに、自分のいのちに背を向けて歩き出した。

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