池にいるもの

望月遥

とある池と博物館


 「夏休み中の月曜日、丸一日手伝えば単位を保証する」という甘い言葉に乗せられて、教授と共にやってきたのはとある地方の博物館だった。土木工学の中でも治水とその歴史を専門としている教授は、今日は普段の授業で着ているスーツではなく綿のスラックスにポロシャツというカジュアルな服装をしていた。年は六十の手前くらいで中肉中背。ぱっと見はどこにでもいるおじさんにしか見えないが、実はその道では名の知れた研究者である。授業を取っている生徒の数は多かったが、前期最後の授業中に齎された突然の提案に乗ったのは俺だけだったようだ。大学の隣の県にある博物館までは教授が運転する車に乗せてもらい、高速と一般道を走ること数時間、昼前にようやく到着した。

「いやあ、今日も暑い暑い」

 平日ということもあってかかなり空いている駐車場の一角に車を止め、降りた途端に夏の日差しに襲われた。冷房の効いた快適な車内との温度差が激しく、あっというまに腕がじりじりと焼けそうだ。教授がばたんと音を立てて車の扉を閉める。

「駐車場から結構離れてるんですね」

 池を挟んだ反対側に白っぽい建物が見える。あれが目的の博物館のようだ。

「それにしてもでかいなあ。これが人口池だなんて…」

 来る途中に車窓から見えた大きな大きな池。博物館はこの池のほとりにあった。俺の出身県ではため池をほとんど見なかったため、あまりの大きさに湖かと思ったと伝えると、教授はそうか、そうだろうと嬉しそうに笑った。地元出身の彼にとってこの池は自慢らしい。幼い頃からこの池を見て育ち、土木に興味を持ってこの道に進んだのだと道中で聞かされていた。もっと大きなため池は他に幾つも存在するが、ここは風土記やらなんやらの古い文献にもその名前の記述があり、一説によると日本最古だと言われているということも。

 周辺ぐるりが公園として整備されていて、春には桜目当ての花見客で満員になるそうだが、この時間帯は暑さのせいかほとんど人影を見かけなかった。朝はジョギングやウォーキング、夕方になると犬の散歩をする人がたくさん来るんだよとの説明を聞きながら整備された土手の遊歩道を歩き、階段を降りると博物館の正面に出た。入り口に向かう石畳の両側には刈り込まれた生垣が涼しげな葉を茂らせていて、真四角にくり抜かれたエントランスをくぐると水庭が視界にとびこんできた。

 有名な建築家の手による設計のこの建物は、見渡す限り打ちっ放しのコンクリートで作られている。ややもすると単調になりがちな素材をベースにしていながら、なだらかな曲線やクロスする階段、壁面を流れ落ちる水などが見事に調和して全体に動きと彩りを与え、無骨さを感じさせない洗練された空間を生み出していた。

 

 今日は月曜で休館日のため、正面入り口は閉まっている。裏にまわり通用口横のインターフォンを教授が鳴らして名前を告げると、年配の男性が重そうな扉を開けてくれた。

「ああ先生、今日はどうもご苦労様です」

「いえいえこちらこそ。休館日にすみません、お邪魔します」

 男性は、元々はここの学芸員だったという。定年退職したあと、警備や細々とした雑務、手伝いをするのに再雇用してもらい、週に何度か勤務しているのだと自己紹介してくれた。

「ここができた時からずっと勤務されてる、貴重な職員さんだよ」

 博物館だけでなく美術館、図書館でもそうであるように、なんであれ公立施設の館長という職は他所からやってくる人がなることが多く、数年で入れ替わってしまうことも多々ある。一箇所でずっと勤務を続けていて、昔からのことを一番よく知っているのは現場の人間、なんてことは珍しくない。

「私も作業がありますし、夜になっても大丈夫ですよ。他に誰もいませんので、ゆっくり片付けしていってください」

「ありがとうございます」

 元学芸員さんだった男性職員から鍵束を受け取り、俺と教授は人気のない館内を歩く。物音一つしない空間に、俺たちの足音だけが響く。

 今日の手伝いというのは会期が終わった展示物の撤収作業である。昨日まで行われていた期間限定の企画展示は、全国あちこちの研究者の協力の元、教授が中心となって発表されたものだった。期間内には講演会も催されていたらしい。そういう経緯だから、もともとは教授のゼミに所属している学生たちで片付けをする予定だった。しかし会期終わりの撤収日はあいにく誰一人として都合がつかないことが早くに判明し、急遽授業を取っている一・二年生から募集と相成ったらしい。

「結局どういう展示だったんですか?」

「んー、大小の差はあれ、全国にはここと同じような歴史の古い池がいくつもあってね。それらを一堂に並べて比較してみようってコンセプトだったんだ。もちろん池そのものを持ってくるわけにはいかないから、関係する文献や遺構、遺物なんかの運べるサイズのものからめぼしいものを選んで展示したんだよ」

 教授の説明を聞きながら館内を歩いているとふいに目の前が開けた。

 外観と同じく内部まで総コンクリート造りの、高い吹き抜けになったメイン展示室。その壁の一面を大きな土壁のようなものが占めている。

「すごいっすね。実物大ですか」

「実物大、じゃなくて実物だよ。改修の際に取り壊されることになった堤をここに移築したんだ」

 この博物館は昔から地域に残る池の歴史を伝え、改修に伴って発掘された貴重な遺構を保存、展示することを目的として建てられたのだという。目の前にある巨大な土の塊は、実際に長年この池を守ってきた堤防をそのまま切り取って持ってきたという教授の言葉、十メートルを超える高さで手の届く距離に聳えるそのスケールの大きさに、思わずあんぐりと口を開けてしまう。俺の様子がおかしかったのか教授は嬉しそうに笑うと、せっかくだからと館内をぐるりと案内してくれた。

 お坊さんの像や昔の道具が並んでいる。樋に使われていたという大きな石は、なんと古墳から出てきたものをくり抜いて使ったらしい。建物の二階くらいの高さのコンクリート製の取水塔がこれもまた移設展示されている一角もあった。建物の外からは全く予想もつかない巨大な展示物の数々に、池の大きさを改めて思い知る。

「さて、今日の目的はここだ」

 それらに比べるとあまりにあっけなくさりげない片隅に、教授が協力した企画展のコーナーはあった。

「なんか…あっさりとしてるというか、こじんまりとしてるというか…」

「ははは、他の展示が迫力満点だからね。それに比べたらちっぽけかな。それでも展示物の数は結構多いよ。早速始めていこうか」

 教授は俺の失礼な物言いにも怒ることなく、てきぱきと作業を開始する。俺は手始めにコーナー入り口に置かれている余ったチラシを集めて揃え、袋に放り込む前にそれを一読してみた。さっき教授から聞いた説明と同じようなことが書いてある。

「今回の展示のためにあちこちから資料を借りてるから、これをまた送り返すのが大変でねえ」

 これとこれはここ、あっちは別のところ…教授の指示のもと、目録と照らし合わせながら資料をチェックして、後で整理がしやすいように片付けていく。一旦全部大学へ持って帰ってから、それぞれ元の場所へ送ることになっている。俺たちはしばし作業に没頭した。


 長時間腰を屈めて作業していたので、さすがに肩も腰も疲れてきた。うん、と立ち上がって伸びをして、教授に声をかける。

「すみません、ちょっと飲み物飲んできていいですか」

 空調の効いた部屋で資料とにらめっこを続けて喉も乾いていた。さすがに展示室内で飲食してはいけないというくらいの常識は俺にだってあるのである。

「ああごめんごめん、もうこんな時間か、ちょっと休憩しよう」

 一心不乱に作業していた教授は時間の経過に気づいていなかったらしい。同じように立ち上がって腰を伸ばして、首をぐるりと回している。

「ここ、奥に綺麗な庭があるんだよ。もう涼しくなってるだろうし、外の空気でも吸おう。冷房にずっと当たってたしね」

 展示室から出て建物奥の庭園に続く扉に向かう。慣れた手つきで鍵束から該当する鍵を選んで開けたところを見ると、教授はいつもここで休憩しているのだろう。

 花壇に囲まれたこじんまりとした庭園の真ん中には、エントランスの先でみたのと同じような水庭があった。庭にあわせこちらの方が規模は小さいが、周囲の緑が映り込んでいて、より風情がある。

 ベンチの脇にある自販機にお金を入れると教授はコーヒーのボタンを押し、俺の方を見た。遠慮して首と手を振ると手伝ってくれたから遠慮しないでと言ってくれる。早く飲みたいこともあり、お言葉に甘えて炭酸飲料のボタンを押した。

「こんな時間なのに、思ったより涼しくないなあ」

「ほんとですね」

 ベンチに二人並んで腰掛けて、とりとめのない会話をしながら日が傾いていく光景をぼんやりと眺める。真夏の日は長く、もう夕方だというのにまだまだ明るい。そして暑い。

「ちょっとトイレに行ってくるよ。戻ってくるまでここで休憩しといて」

「あっ、はい」

 教授が行って、俺もベンチから立ち上がった。空き缶を二つまとめてゴミ箱に入れ、何気なく周囲を見回した時。

「お兄さん」

 声がした。

 職員のおじさんが、今日は俺たちの他に誰もいないと言っていた。きっと気のせいだろう。俺は都合よく聞こえなかったことにしようとした。

「お兄さん」

 しかし残念ながら聞き間違いではないようだ。確かに聞こえる。おそるおそる声の方に振り向くと、敷地と外とを隔てるフェンスの向こう側に小学生くらいの女の子が立っていた。ああなんだ、外か、とほっとする。女の子は長い黒髪をおろし、花柄の着物を着ていた。着物?と一瞬浮かんだ疑問を、夏のこの時期だ、どこかで夏祭りでもあるのかもしれないという考えが打ち消した。

「取って…もらえませんか」

 耳を澄まさないと聞こえないような小さな声。指差す方を見れば、水庭の真ん中あたりに丸いものが浮いている。

「ボール? 入っちゃったの?」

 こくりと少女は頷いた。フェンス越しにこちらへ飛び込んでしまったのだろうか。着物でフェンスは乗り越えられないだろうが、あの真ん中あたりまで入っているのを見られると、俺だって怒られそうな気がとてもする。見た感じは浅そうな水庭だが、ここは公園ではないのでこれだって展示物の一つに違いない。

「俺も勝手に入れないんだけど…」

 答えると、悲しそうに俯いてしまった。

 今日の俺の服装は、上はいつもどおりTシャツだが下は普段通学に着ているジーンズではなく、作業しやすいようにカーゴパンツだ。幸か不幸か膝くらいまで裾をあげるのはなんてことない。

「あー、もう。わかった、わかりましたよ!」

 裾をまくり靴と靴下を脱いで、水庭へ足を踏み入れる。昼の日差しで温もったぬるい水、底には藻が生えぬるっとしていて、涼やかな見た目とは打って変わって気持ち悪い。しかも油断していると滑りそうだ。一歩一歩確実に足を運び白い物に手が届きそうなところまできたその途端。

「うわっ!」

 ずぼりと右足が床をぬいた。というか底が、なかった。バランスを崩し全身ががくんと水中に沈む。

 急に深くなった水深に、まさかそんなことがあると思っていなかった俺の体は反応が遅れた。頭の理解も追いついていない。反射的に手足を必死に動かしてなんとか顔を出すと、目の前に白い丸いものがあった。拾おうとしていたボール? 無我夢中で手を伸ばした。が、指先に触れた感触はプラスチックの滑らかなそれではなかった。嫌な予感に一瞬で背筋が寒くなるが、俺の指に当たったことでそれは無慈悲にくるりと回った。

「ぎっ…!!」

 丸いものの正体がわかった途端、自分のものとも思えない変な声が出た。仕方がないだろう。だって、ぽっかりと開いたそれの目と、俺の目があってしまったのだから。

 驚いた衝撃で俺の体は再びがぼんと水中に沈んだ。鼻に水が入ってつんとするおなじみのあの感覚と一緒に、髑髏、しゃれこうべ、ガイコツ、そんな単語が頭の中を埋め尽くす。

「ふふっ、うふふふふ、あははははははははっっっ!!!!」

 水音と共に笑い声が聞こえてきた。必死に顔を上にむけると、先ほどの少女が水面に顔をつけて水中を覗き込み、俺の顔を嬉しそうに眺めている。可愛らしい顔の周りを揺蕩う長い黒髪が海藻のように揺らめいて水中を泳ぎ、こちらに向かって伸びてくる。そして俺の首に巻きついた。

(ぐ、がっ…)

 なんとか外そうと抵抗するが、足場もない水中では思うように体が動かない。

「シズンジャエ」

 きん!と高い音がして、俺の意識は飛んだ。


 大きな屋敷の奥、誰の目にもつかないような座敷。畳の上に女の子が足を投げ出すようにして座っている。

 女の子の部屋に年配の男性がどかどかとやってきてわめき散らし、出て行く。

 小さな男の子をつれた若い女性が、女の子を嘲笑している。

 男の子がこっそり部屋にきて、女の子と楽しそうに過ごしている。

 年配の男性と寝室で密談する若い女性。

 成長した女の子は何事かを告げられ畳に突っ伏して泣いている。

 逆巻く濁流の前で激昂し、周囲に止められているのは男の子の成長した姿に見える。


 走馬灯のように色々な光景がよぎった…ような気がする。気がする、と思った時には意識が覚醒した。

「…っ! げっ、ご、がはっ!!」

 口からも鼻からも水を吐き出して、痛みと気持ち悪さで一気に現実に引き戻される。

「大丈夫か!」

「よかった、気がついた」

 げほげほと涙ぐみながら咳き込んで、なんとか体を起こした俺の視界に教授と職員のおじさんの顔が映る。

「あ、あの、俺…」

「ああ、いいよいいよ喋らないで」

 教授が背中をさすってタオルを渡してくれる。

「僕がトイレから戻ってきたら、君が水庭の真ん中で突っ伏してたんだ。これはおかしいと思って急いで水から引き上げて」

「連絡をもらったんで来てみたらえらいことになってて驚きましたよ」

 職員さんと二人で休憩室まで運んでくれたらしい。

「とりあえず服も着替えたほうがいい。あんなに浅い水なのに、全身ずぶ濡れになってるのが不思議だけど」

「あのっ、先生」

「まあまあまずは着替えてから。服は持ってるかな」

「…はい」

 汗をかくだろうと予想して、着替えとタオルは一応準備してきていた。二人が部屋を出てくれている間にリュックサックから服を取り出し着替えてさっぱりする。ドアをあけて声をかけると、職員さんは暖かいお茶を淹れてきてくれた。

 体に暖かいものを入れ、人心地ついたところで俺は早速先ほどの状況と最後にみた光景のことを二人に伝える。

「………着物姿の女の子、か。それに、いろいろな場面」

 腕を組み、俺の話を黙って聞いていた教授はしばし考えて、ようやく口を開いた。

「僕が戻った時、その子はまだいたんだよ。水庭の真ん中で、君を見下ろしていた。声をかけようとした僕に気づいて目があったよ。そうしたら」

「そうしたら?」

「僕の顔を見て、ものすごくびっくりしてね。慌てて消えてしまった。そう、消えてしまったんだ」

「消えて…」

 俺はどう返していいかわからなかった。正直まだ半分くらいは信じられない。しかし実際ずぶ濡れになった体がリアルの出来事だったと証明しているし、教授までもがあの女の子を見たというのなら、現実に起こったことだと疑う余地はないだろう。

「あの女の子に心当たりがある、と言ったら驚くかい?」

「えっ」

 今度こそ俺は絶句するしかなかった。職員さんも驚いているようだ。

「今の話を聞いて思い出したことがある」

 それから語られた教授の話は、本当に驚くべきものだった。


 昔、いくつもの元号を遡った時代。この地域に代々続く裕福な商家があった。

 その家に生まれた一人の娘。彼女は生まれつき足に不具合があった。身障者に偏見のひどい時代のことである、使用人や親類などからかたわものなどと陰口を叩かれつつも、屋敷の奥で目立たぬように暮らし、娘は美しく成長していった。しかし大切にしてくれていた両親が流行病で亡くなると、老主人の後妻の陰謀で当時難航していた池の改修工事の人柱に選ばれてしまう。「こんな娘はどこかへ嫁にもやることもできない。それならばせめて神の嫁として水神の元へ嫁げ。それがこの家のためにお前にできる唯一のことだ」と言われて。

 ただ一人、後妻の連れてきた息子だけがそれに反対したが、仕事と称して東京へ遣られている間にことは進められ、娘は犠牲になってしまった。工事は無事完成し、後世に残る盤石の堤を持つ立派な池ができたのだが、不運な娘の事実は伝えられることなく、負の歴史は闇に葬られてしまった。


「ちょ、ちょっと待ってください」

 話を聞いた俺は教授にあわてて問いかける。

「その娘があの女の子だっていうんですか? 闇に葬られたっていうんなら、なんで先生はその話についてそんなに詳しいんですか? だいたい人柱なんて、そんな、そういうのってよくあるオカルト的な言い伝えなんじゃあ」

「この話には続きがあるんだ。娘の祟りかその後家系は没落、関係した者は皆早死にしたそうだけど、唯一生き残ったのが連れ子の男の子でね。絶対に忘れてはいけないとの戒めと共に、子孫にこの話を残してくれた」

「えっ、まさか、先生」

 教授は一つ頷いた。

「その男の子が、僕の曾祖父にあたる」

「ええええええええ」

「僕も子どもの頃に聞いたきりだったし、自分に子どもがいないもんだから思い出すこともなかったけど、君の話を総合すると、そういうことなんだと思う。僕の顔を見て驚いたのは、子孫だってわかったんだろうね」

 あまりの展開にちょっと頭が追いつかない。驚くばかりの俺と違い、職員さんは冷静に見えた。じっと教授の話に耳を傾け、なにやら思案しているようだ。全員が言葉を無くし、沈黙が部屋をうめる。

 と、突然部屋に電子音が鳴り響き、俺は湯のみを落としそうになった。教授が慌ててズボンのポケットからスマホを取り出した。アラームをかけていたらしい。

「あっもうこんな時間だ。作業はもうほとんど終わってるから、残りを片付けてくるよ。君はここでゆっくりしていて」

「私も手伝います」

「すみません、助かります」

 ばたばたと慌てて、教授と職員さんは部屋を出ていった。



 裏口に回した車に大量の荷物を積み込んで、いよいよ戻る時間だという段になって、職員さんが俺たちに声をかけた。

「あの、帰る前に、ちょっとお二人に見て頂きたいものがあるんです」

 教授と俺は顔を見合わせ、教授は職員さんに向かって頷いた。

「こちらに来てください」

 案内されるままについていくと、建物の裏手にある小さな扉を開けて外に出た。すでに日は落ちており、日中の暑さと眩しさはどこへやら、水面を渡る風が心地よい涼やかさを運んでくれている。

 敷地の東端、ちょうど池を望む位置に小さな塚と石碑があった。

「これは、大改修の際に見つかった骨をお祀りしてあるんです」

「骨…」

「人骨、ですね」

 さっきのことを思い出し、ただ言葉をそのまま繰り返した俺に現実を突きつけるかのように、教授が言葉を足した。

 職員さんはこくりと頷き、よく手入れされたそれの前にしゃがんで手を合わせる。

「これだけ古いため池ですからね、伝説や噂は幾つも残っていて、地元では言い伝えられてたんですよ。それが大改修の時に見つかって、事実だと確認されました。ただ…」

「学術的な論文や正式な書類、歴史の記録には残らない。書かれることがない」

「ええ」

 教授の言葉に職員さんは頷き、立ち上がって場所を譲った。石碑の前に今度は教授がしゃがむ。

「どこでもそうです。私は日本のあちこちで古い土木遺産、灌漑設備を見てきましたが、やはりそのほとんどにそういった言い伝えは残されていました。でも、正式な記録とされているところは一つもありません。治水や土木工事の発展は、古来からたくさんの人命の犠牲なくしてはありえなかった。たとえ言い伝えだとしても、あると言われる場所には何かしら元になる事実があるものです」

「それでも改修からこっち、そんな話は噂すら出たことはなかったんですがねえ…」

 職員さんの不思議そうな言葉に、教授が申し訳なさそうにうなだれる。

「安らかに眠っていた彼女を起こしてしまったのは、たぶん私のせいです。色んなところから持って来た遺構をここ一箇所に集めてしまったせいで、それぞれに残っていた怨念や恨みのかけらのようなものが、彼女を中心に集まってしまったのでしょう。展示物は元の場所に戻すので、もうこういうことは起こらないと思うんですが、彼女にも、そして君にも、本当に申し訳ないことをした」

 俺に向かって謝ってから、石碑に向かって頭を下げ、黙祷を捧げる教授に俺たちも倣った。


 職員さんに見送られ、博物館を後にした。後部座席とトランクは大量のダンボール箱や紙袋で埋まっているため、行きと違って今度は助手席に座らせてもらっている。

「来年、うちのゼミに来ないかい」

「えっ」

 国道に出て走りが安定すると、教授がそんなことを言った。

「今日だけの手伝いのつもりだったけど、君とは不思議な縁ができたようだ。こんな迷惑をかけてしまった僕が言うのもなんなんだけど…。まあ、君がもしよかったら、だけどね」

「………」

 まさかのお誘いにどう答えたらいいものか考えあぐねて、助手席の窓から外を見た。遠ざかる池は登ってきた月を映し、水面がきらきらと光っている。

「来年の春の企画展に、また協力を頼まれたよ。今日のことがあったから、次は今までとちょっと違う展示を考えようかと思ってる」

『来年の春』という言葉に先ほど聞いた言葉を思い出す。

「よかったら、春にぜひ来てください」

 職員のおじさんは俺に向かってそう言うと、エントランスを指した。

「入り口までの石畳の両脇に、たくさんの植え込みがあるでしょう。あれ全部躑躅なんです。満開になると、それはそれは綺麗ですよ」

(つつじ、ってどんな花だったっけ)

 スマホに文字を入力し、画像を検索する。

(躑躅と髑髏って、ちょっと字が似て…)

「あっ」

「どうしたの? もしかして忘れ物? まだ戻れるよ」

「い、いえ、大丈夫です、大丈夫」

 視線は前を向いたまま心配してくれた教授に、俺は慌てて誤魔化した。

 俺の手の中のスマホでは、検索結果がディスプレイを埋め尽くしていた。画面いっぱいに咲き乱れる色とりどりの花は、あの女の子の着物に描かれていた五弁の花と同じものだった。

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