雨の中【解決編】

 僕たちはずっと歩道橋の階段の下にいた。時刻は六時を過ぎている。雨は未だに止む気配がなく、それどころか先ほどと比べても大降りになっていた。心なしか、雲の色も灰色から黒へと濃くなっている気がする。

 事件について、ずっと考え込んでいるわけではない。その話はもう終わった。今はそれが正しいかどうかの、答え合わせをする段階なのだ。

 僕たちが会いたい人物がまだ学校にいるのかどうかは定かではない。可能性はなくはないという程度だ。それでも、僕たちは待たずにいられないのだ。学校から全ての生徒が消える時間までここに留まるつもりだ。

 そわそわきょろきょろしていると、水飛沫を上げて通っていく車の走行音に紛れて、道路の向こう側から笑い声が聞こえてきた。その中には聞き覚えのある声が混じっているような気がした。僕と斬鴉さんは顔を見合わせる。

 目当ての人物がやっと現れたのだ。姿も見えた。何人かの友人たちと一緒に歩いている。

 その一団は車が通っていない隙を見計らって車道を駆け足で抜けると、こちら側までやってきた。立ち尽くしていた僕らを見て、その内の一人が立ち止まった。

「少し、図書委員のことで話があります」

 斬鴉さんがそう告げると、その人物は一団を先に帰した。僕たちの放つ雰囲気に異様なものを感じ取ったのか、はたまた斬鴉さんの威圧感故か、友人たちもそそくさと離れていってくれる。

 残った一人が何事か口を開きかけたところで、素早く斬鴉さんが切り込んだ。

「実はあたし、去年の十一月九日……天海連介が亡くなった日、この階段から転落して記憶喪失になったんです」

 目の前の人物の目が大きく見開かれた。斬鴉さんは失笑し、

「あたしの周りにも、図書委員の周りにも、警察の気配が一切ないことをずっと不思議に思っていたな? ……でも、ついさっき思い出したよ。自分が突き落とされたこと。そして、その犯人がお前だってことも。階段から転げ落ちながら、お前の姿を確かに見た」

 嘘である。さっきの今で記憶が戻ったりはしない。けど、犯人を追い詰めるにはこのはったりしかない。何しろ、証拠などないのだから。一番の証拠は斬鴉さんの記憶である。


「斬鴉さん、犯人が誰かわかってるんですか?」

 意味深に呟く斬鴉さんに、僕は意を決して尋ねた。

 斬鴉さんはアスファルトにできた水溜まりを見つめた。降りしきる雨が絶え間なく波紋を生んでいる。

 彼女はぽつりと呟く。

「本当はな……随分前から、犯人には察しがついていた」

 寝耳に水である。

「え、じゃあ、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか?」

「重要なことだからな。もっと詳しく詰めたかったんだ。けど、古町のおかげで、他の可能性が大分潰れた」

 斬鴉さんは小さく息を吐いた。

「夏凛はどうして人影の話をしたんだろうな」

「……と、いいますと?」

「最初から人影なんて見てなくて、ただ下校途中に倒れているあたしを発見した。これだけで十分じゃないか?」

「言われてみれば、そうですね」

 その方がいらない詮索は避けられそうだ。

「たぶんこれは、事実に則したことだったんだろう。だからシチュエーションを丸々偽るという発想が瞬時に出なかった。それと、もう一つ理由がある」

 斬鴉さんの言いたいことがわからない。話の続きを大人しく聞こう。

「夏凛は二つの人影はどちらも女子だと言っていたな。けど、何度も言っているが、当時は暗いんだ。正体が確定しているあたしの人影はともかく、犯人の人影についても言及している。犯人の人影は見たがよくわからなかった、と言われても納得できるのに」

 彼女の話の行方が、ますますわからなくなってきた。僕は首傾げる。

「はあ……でも、必ずしも見えないわけではないんですよね? だって見えなかったら、夏凛さんも犯人が誰かわからないはずですし。ここまでの流れ的に」

 斬鴉さんは深く頷く。

「そう、。そして、人影は女子だったと言った。……どうしてだろうな?」

 顔をしかめてしまう。

「ですから、人影をちゃんと見たからでしょう?」

「犯人の人影をごまかさなかった理由についての話だ。あのままだとあたしたちは、手がかりがなさすぎて怪しい人間に片っ端から食らいつくしかなくなる。夏凛はそうさせないために、あたしたちに推理の指針を示したんだ」

「そりゃあ、負い目もあったでしょうからね」

 斬鴉さんが大きな、大きなため息を吐いた。僕は一体、この人に何度ため息を吐かせたら気が済むのだろうか。わざとではないのだが。

「あたしたちが今、何を推理しているか思い出せ。

 ……そうだった。だとしたら、おかしい。

「夏凛は犯人の人影をちゃんと見た。見たからこそ、それが誰かわかったし、女子だと断言できたんだ。容疑者を今の図書委員の三年生に限定すれば、一人だけ人影でも一目して正体がわかり得る奴がいる」

 夏凛さんは……役者がすぎる。僕の思い込みもあったのだろうが、あの雰囲気で堂々とそれを成し遂げるとは。

「斬鴉さんは、夏凛さんが話していたあの時点で犯人がわかっていたんですね」

 感嘆すると、彼女は小さくかぶりを振った。

「もっと早い。昨日、古町から天海連介の話を聞いた段階で、だ」

「え⁉ そんな前からですか?」

 そんな素振り、毛ほども見せていなかったような。もしかして、急に態度を変えたのはそれが理由だったのかな。

「天海連介は、あたしと本を貸し借りするのにも、女子たちの目を警戒していたんだろ? だったら、ブックカバーや栞、タイトル当ての本なんかをあたしに贈る際にも、周りに悟られないよう気を遣ったはずだ。しかし、それらは盗まれた。犯人はそれらが天海からの贈り物であることを知っていそうな人物に限られる。……思い浮かぶのは、一人だけだった」

 その人物の名は――


 図書委員長の青野大輝さんは頭を抱えてため息を吐いた。

「記憶喪失、だったのか……。それを一切面に出さないって、やっぱ夜坂すげえな」

 ……認めた、ということだろう。まあ、記憶が戻ったと言われて告発されたのだから、どうすることもできないか。

 ってか、どうして自分で切欠を作っておいて、ぬけぬけと斬鴉さんの適応能力の高さに呆れているのだ、この人は。

 青野さんは当時、三年生も女子だったらしい図書委員の中で唯一の男子だった。秋富士さんは、今年から委員になったからそもそも除外される。青野さんたちが一年生のときは男子が天海さん一人で、だから彼は青野さんを図書委員に誘った。去年は斬鴉さんしか図書委員にならなかったらしい。青野さんがここに嘘を吐く理由もないし、去年の十一月に男子が彼一人だったのは間違いないだろう。

 おまけに青野さんは、右手でストラップを取り出して、右手で頭を搔いていた。犯人の条件である右利きなのは確かだ。

 夏凛さんは斬鴉さんの後ろを歩く人影が、スカートを穿いていないことに気づいたのだ。つまりは男子の制服。一応、ジャージという可能性もあるが、鷹野さんと纐纈さんは帰宅部だし、丹羽さんは園芸部で、志津さんは科学部だ。ジャージで下校するような事情はないだろう。当時の三年生二人も、大人しい文学少女だったようだから放課後のジャージとは縁遠いはずである。しかし、青野さんは男子かつ卓球部だ。制服でもジャージでもパンツスタイルとなるので、当時の図書委員の中では一目瞭然のシルエットを持つのだ。

 天海さんに執着しているのは女子だけだと錯覚していたが、青野さんは彼から頼まれて図書委員に所属するくらいには仲良しの友人だったのだ。事情によっては動機を得るに値する。

 夏凛さんは、僕たちがなりふり構わず三年生全員に探りを入れるのを嫌ったのだろう。斬鴉さんなら、僅かな情報やリアクションからでも真実に辿り着きかねない。何なら、今と同じはったりを繰り返してもいい。そのため夏凛さんは容疑者を女子に絞らせることで、青野さんと僕たちを接触させないようにしたのだ。……その結果、逆に犯人と気づかせてしまう形となったのはご愛嬌である。元々、あの段階で斬鴉さんには犯人がわかっていたらしいので、そんなに意味もなかったが。

 夏凛さんはどうしてそこまで青野さんを庇おうとしたのか……それについての深い考察は、特に必要ないだろう。

 一つだけ僕たちの推理に間違い――真実からの逆算だが――があるとすれば、たぶん夏凛さんは、斬鴉さんの人間関係の希薄さから図書委員に目を付け、そこからスカートを穿いていない人影を青野さんだと認識したわけじゃない。そんな回りくどいロジックではなくて、単純に好意を寄せる相手だったから人影の正体に気づいたのだと思う。

 斬鴉さんは強気な表情を崩し、アスファルトに視線を落とした。やや震える唇を開く。

「どうして、あたしを、突き落としたんだ? 記憶は全て戻ったわけじゃない。だから、それを、教えてくれ。やっぱり、天海連介が、関係しているのか?」

 核心に触れた。斬鴉さんが逃げ、そして知りたかった事実に。彼女はそれに今、向き合っている。

 しかし、こんなに弱気な斬鴉さんは初めて見た。僕は僅かな不安を抱く。おそらく、彼女はまだ過去の自分を信じていないのではないか。こんな状況で真実に向き合えるのだろうか?

 対する青野さんは、諦めていたような表情から一転、どこか投げやりで酷薄めいた笑みを浮かべる。

「お前を突き落とした理由、か……。それはな、夜坂。お前が、

 瞬間、斬鴉さんの瞳が小さく揺れ、僅かに足が後ろに下がった。俯き、硬直したその表情から、ショックを受けているのは明らかである。

 かくいう僕は、馬鹿なことを言うなと、激しい憤りを抱いていた。

 青野さんは怒気を帯びた目で雨雲を見上げた。

「あの日、連介の訃報を聞いた俺は、お前が心配になってな。図書室まで様子を見に一旦だよ。そしたら夜坂は、暢気に文庫本なんか読んでいた」

 そのことを思い出してか、青野さんの顔が不快げに歪んだ。

「恐る恐る訊いてみたんだ。『連介のことだが……』って。そしたら、夜坂はなんて答えたと思う?」

 斬鴉さんは今にも耳を塞ぎたそうに、空虚な目を水溜まりに向けている。

「『面白いですよ』……それが答えだった。夜坂、お前は笑いながらそう言ったんだ」

 斬鴉さんが過呼吸気味に、ゆっくりと片手で頭を押さえた。……何も、思い出せないようだ。

「激怒しそうになったが、他に利用者もいたからな。その場はどうにか抑えられた。けど、帰るタイミングがブッキングしてな。怒りが再燃してきて、あの瞬間のお前の笑みを思い出したら、自分を抑えられなくなった。ちょうど周りに誰もいなかったからな。……だから、突き落としたんだ。そしてブックカバーと栞を盗んだ。お前に、あいつからのプレゼントを持つ資格はない」

 プレゼントということは……。何となく、文庫Xのついでに一緒になっていたブックカバーと栞も持ち去ったのだと思っていた。実際は逆で、ブックカバーと栞が目的であり、文庫本がついでだったのか。そもそも、それが天海さんからの本だとも知らなかったのかも。

「記憶を失う前のお前は、そんな奴だ。記憶喪失になってよかったな」

 青野さんが苛立たしげに吐き捨てた。……斬鴉さんは何も言い返さず、呼吸を荒げて立ち尽くしている。いや、怯えているのかもしれない。

 ……青野さんは、おそらくとんでもない誤解をしている。僕ですら気づいたのだ。当事者の斬鴉さんが気づいていないわけがない。

 ……それなのに、どうして、何も言わないんだ。

 尊敬している人を好き放題言われるのは当然悔しい。けれど何より、当事者である斬鴉さんが何一つ反論しないことが一番歯がゆかった。

 どうして……? 決まっている。やはり危惧した通り、過去の自分を信じきれていないのだ。反論はあるはず。しかし、青野さんが今語った理由も考えられると、そう思っているのだろう。

 ならばこそ、この誤解を解くのは僕の役目と言える。何たって、僕も天海さんと同様、過去の斬鴉さんを好きになった男なのだから。


 僕はできる限り落ち着いて口を開いた。

「斬鴉さんは、そんなことしませんよ。友人の死を、面白いと笑う人じゃ断じてない」

「俺は見たし、聞いた。それが事実だ」

 青野さんが鋭く睨みつけてくる。中学のときの僕だったら、多少は気圧されていたかもしれない。けどそんな目、斬鴉さんの美しく鋭利な目と比べたら、何の価値もありはしない。

「確かにそういうことはあったんでしょう。けど、それは誤解です。青野さんは勘違いをしている」

「勘違い?」

 その言葉に彼は眉をひそめた。

「たぶん、斬鴉さんは青野さんの言葉を、『連介の本か?』と聞き間違えたんです。だからこそ、『面白いですよ』と答えた。だってそうでしょう? これって、現在のことに言及する言葉じゃないですか。天海さんの死に対する問いへの返答なら『面白いですよね』になると思います」

 僅か一文字増えるだけで、随分と意味合いが変わる。日本語って、不思議。

 青野さんは混乱したように右手を前に突き出してきた。

「それでも! 天海が死んだってのに、暢気に読書をしていた事実は揺るがないだろ」

「それも違います」

 自信を持って断言する。青野さんが呆気に取られたようにあんぐりと口を開けた。

「斬鴉さんは、天海さんの死を知らなかったんですよ」

「ど、どうしてそうなる⁉」

 斬鴉さんから、今度は彼が驚く番だ。

「天海さんの死は、一つ下の妹さんを通じて、達川高校の生徒たちに連絡が渡ったんですよね? 大方、天海さんと関わりがあった人から人へ、スマホや伝聞で情報を伝え合ったんでしょう。けど、妬まれ怖がられていた斬鴉さんには、その話をしてくれる人が現れなかったんです。ありそうなことじゃありませんか?」

 志津さんは斬鴉さんとは図書室以外では話せる気がしないと言っていた。他の図書委員も、極力斬鴉さんとは話そうとはしないとも。そんな彼女たちが斬鴉さんに訃報を伝えにいくだろうか? いかないだろうと思う。だからこそ斬鴉さんは図書室で暢気に文庫本を読んでいたのだ。知っていたら、青野さんから連介という名前が出た段階で話題の察しがついたはずだ。

 青野さんにもそれはイメージできたらしい。彼はどこか焦りながら口を開くが、

「だが、連絡くらいは――」

「当時、。スマホは記憶喪失になってから買ったんです。……ですよね?」

 確認を取ると、呆けていた斬鴉さんが力なく頷いた。

「あ、ああ。どうして知っているんだ? 話したことないのに」

「事件当時の持ち物を集めた写真に、スマホが写っていなかったので。スマホで撮ってるんだからそりゃ当然ですけど、そこはお母さんのスマホで撮影すればいいですから。それに、スマホを持っていれば、夏凛さんが嘘の友達ってこともすぐにわかりますからね」

 自身の間違いを突き付けられたからか、青野さんは頬を痙攣させて口をガタガタと震わせ始めた。

「け、けど、そんな、こと、あるわけが――」

「青野さん」

 彼の反論をぴしゃりとシャットアウトする。

「天海さんは、親しい人の死を嘲笑うような女性を好きになる人なんですか?」

 僕は天海連介さんの人となりを何一つ知らない。せいぜい女子にモテモテだったというくらいだ。彼目当てに何人も女子が図書委員になったことを考えると、悪い人ではないんだろう。それくらいしかわからない。

 僕が信じているのは斬鴉さんだ。天海さんは斬鴉さんと何度か本の貸し借りをしていたと青野さんが言っていた。斬鴉さんは信用している人間としか本を貸し借りしないらしい。だからきっと、天海さんだって斬鴉さんを信頼していたに違いない

 青野さんは泣きそうな顔になり、何も答えられなかった。片手で顔を覆い隠し、ブルブルと肩を震わせる。今にも膝を着いてしまいそうだ。

 僕は真っ直ぐ彼を見据えた。

「当時は、あなただって冷静じゃなかったんだ。今だってそうです。この雨にでも打たれて、頭冷やしてください」

 青野さんは悔恨に満ちた表情でゆっくりと斬鴉さんに向き直り、深々と頭を下げた。そして声を震わせながら、

「……本当に、すまない。俺は、お前から、あまりにも多くのものを、奪ってしまったんだな。俺は、どうすればいい……?」

 ……やっと、自分のしたことの大きさを悟ったらしい。彼は勘違いで、斬鴉さんの十六年もの時間を粉々にしたのだ。断じて、許されることではない。

 斬鴉さんは僕の方を僅かに見ると、すぐに青野さんへ首を向ける。

「謝罪はいつでもいい。だから今は、返せるものだけ、返してほしい」

 その言葉は、あまりにも切実だった。

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