第33話

 携帯のナビを頼りに歩くこと十分とちょっと、汐里の家へは特に迷わず来ることが出来た。


 日野と表札が掛けられたその家はごく普通の一軒家だったが、そもそも友人の家を尋ねるということになれていない結也からすれば、それがまるでRPGゲームのダンジョンの入り口か何かのように見える。


 敷地に入った瞬間にストーカーだ何だと言われて警察呼ばれたりしないだろうな。と、埒のないことを考えてしまうが、自分は別にやましい目的でここまで来たわけじゃない、と自分に言い聞かせながら呼び鈴をならすと中から誰かの足音が徐々に近づいてくる。


 その音を結也が落ち着かない気分で聞いていると、やがて扉の中から「はい?」と一言言いながら汐里に雰囲気がよく似た女性が姿を見せた。


「こんにちは、あの、今日、日野さん学校休まれたので、今日の授業のノートとプリント持ってきました」

「あら? あの子のお友達? わざわざごめんね」


 いいながら微笑むその表情も汐里によく似ている。まるで汐里をそのまま少し老けさせたようなその人はきっと彼女の母親なのだろう。


 唯一違うのは髪の色だ。染めているのか地毛なのかは結也に判断できないが、汐里が濡れ鴉色の黒髪なのに対し母親は明るい茶髪だった。


 見る限り歳は三十程度としたもので、高校生の娘を持つ母親としてはかなり若々しく見えるが、そのせいで目元に浮かんだ隈がよけい痛々しく見えた。


「あの、この度は、なんて言えばいいのか……その、ご主人のご容態は?」


 恐る恐る結也が尋ねてみると、汐里の母親は小さく微笑んだ。


「いいのよ、そんなに畏まらなくたって。心配してくれてありがとう」

「いいえ、そんな」

「手術はね、昨日の内に終わってて、一応成功もしてるそうなのだけど。頭を強く打ったらしくてまだ様子を見ないと、はっきりどうなるのかはお医者様にも分からないらしくて」


 概ね明美から聞いた通りだ。要するにまだ予断を許さない状態ということらしい。


「そうですか。ひのっ……汐里さんどうしてますか?」


 初めて呼ぶ下の名前に少し緊張しながら結也が実は一番聞きたかったことを尋ねると、汐里の母親は困ったような顔をした。


「ごめんなさいね、実はあの子、今出かけていて」

「え? そうなんですか」

「そうなのよ。学校まで休んだって言うのに気が付いたら何処かに出かけてしまって。でも、あんまり心配しなくても大丈夫よ、以外とあの子ケロッとしてるんですから」

「ケロッとですか?」

「そうケロッと。朝もいつもと変わらない様子でご飯もペロッと平らげてね。こんなことなら学校も休ませなければよかったかしら」


「まったくもう」と憤然として様子で汐里の母親はそう言っているが、その様子が何処かムリをしているように見えるのは、考え過ぎなのだろうか?


 汐里の母親は軽い調子で話してこそいるが、その心労がただならぬものであることは、目元に浮いた隈の深さを見れば窺える。本当は汐里の事も心配でたまらないのかもしれない。


「お邪魔しました」と挨拶をして結也が踵を返す途中で、汐里の母から「ちょっと待って」の声を掛けられる。


「よかったら名前教えてくれない? 汐里に誰がノート誰が持ってきたのか話したいから」


 そう言われて初めて自分がまだ名前を名乗っていなかったことに気が付いた。


「すいません。出雲結也です、汐里さんと同じ二年です、クラスは違いますが」

「そう、ありがとう出雲君これからも汐里をお願いね」

「……はい、よろしく伝えておいて下さい」


 無難にそう返事を返して、結也は汐里の家を後にした。


 汐里のことをお願いね、と頼まれてしまったが。

 果たして自分は汐里のことをお願いをされるような立場にいるのだろうか?


 彼女の中で自分と言う人間はどこに立っているのだろう?

 そんな疑問が不意に頭を過ぎるが、そんなこと今考えたところでしょうがないと、その場で頭を軽く振って結也は一人、家路を歩いて行った。




 汐里の家から自宅へ帰宅してからずっと、結也は自分の携帯とにらめっこしていた。


 画面に標示されているのは登録してある、汐里の連絡先である。


 汐里の母親曰く存外ケロッとした様子で心配ないと言う話だったが。その話を聞いたとき、なぜか結也が思い出したのは過去の自分のことだった。


 母が死んだとき結也は泣かなかった。

 学校で母が事故に遭ったと聞いたときにも、母の亡骸を目の前にしたときも、お葬式の時だって涙一つ零れなかった。


 その事は自分でも意外で、俺って薄情な人間だったんだなと思ったことを憶えている。


 母の葬式やその後のあれこれを粛々と済ませた後、結也は一人暮らしになった。


 家事は母に任せきりだったので初めの頃は思うようには出来ず、苦労の連続だったが何日も経ってそれもようやく慣れ始めた頃の夕食。


 献立はご飯と味噌汁とサバの塩焼きそして納豆という質素な物だったが、それでも当時の結也が作って来た物の中では一番まともに出来た、会心の出来と言っていい。


 一人しかいない食卓で手を合わせ、手を合わせ自分で作った夕食を食べてみる。

 不味くはない、不味くはないが美味しくもなかった。


 今まで作ってきた料理もどき達と比べれば遙かにマシなのは確かなのだが、どれもこれも今ひとつ何かが足りないような気がする。


 その時ふと、母さんの料理って旨かったんだなと思った。

 初めて涙が零れた。


 突然のことに結也は戸惑い、どうして今更と思うが涙は次から次へと流れて止まらない。


 泣いて泣いて、散々に泣いて。そこでようやく悟った。


 母が死んで泣かなかったのは別に自分が薄情だったからとかそういうことじゃなく、単純に母が死んだことを理解しようとしていなかったからなのだ。


 心の奥の奥で母がいつか帰ってくると、信じて疑っていなかった自分がいた事をその時初めて自覚した。


 しかし自覚してしまったらもうダメで、その日、結也は一晩中一人で静かに泣き続けていた。


 あの時の、底知れない喪失感と孤独感ときたらもう。

 今の汐里が、あの時の結也と同じ状態なのかは分からない。もしかしたらとんでもない見当違いで結也の方が身勝手に同情しているだけなのかもしれない。


 ただもし汐里があの時の結也と同じように、ただ現実から眼を逸らしているだけだとしたら。もし何かの拍子でそうして眼を逸らしていた事を自覚してしまったら。


 そうなってしまった時のことを思うと、なぜだかどうしても落ち着かない気分になる。


 そうなると電話にせよメールにせよ、何か一言くらい励ましの言葉を掛けるべきかと携帯を手に取りはするのだが、今度はなんと言うべきかがわからない。


 それっぽい台詞ならいくらでも浮かぶが、そのどれもが薄っぺらな物にしか思えなくて。


 そもそも彼女はそんなことを望んでいるのだろうか? 自分がなにを言ったところで余計なお世話以外の何でもないんじゃないだろうか。


 そんなことを延々と考えてかれこれ一時間以上、結也は携帯とにらめっこを続けている訳である。

 手前勝手にその場で足掻くだけで前にも後ろにも進めない、まるで陸に上げられた魚のようだ。


「だーわからん!」


 やけくそに叫んでベットの上に仰向けに倒れ込む。


 しばらくそのままぼんやりと見飽きた自室の天井を眺めていると、ふとあることを思い出し、結也は体を起こして携帯を操作し汐里ではないある人物へ電話を掛けた。


 携帯が呼び出しのコールを鳴らす。一回、二回、三回、四回、五回、六回……。


 コールの音を聞きながら、こりゃでないかな? と思い始める。


 電話は携帯にかけているのだが、その人物は携帯を不携帯することがままあるのである。


 もう諦めて家電の方に掛け直そうかと思ったその時、ようやく目的の人物が電話に出た。


「はい、もしもし? 出雲ですが」


 受話器から聞こえるのは、結也が聴き馴染んだしゃがれ声。

 それは祖父、栄介の声だった。

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