湊の場合③
陸斗と解散した後、湊は詩が待つマンションへと帰る。詩が大学生の時から住んでいる多摩川沿いの築20年の5階建てのマンションだ。
まだ住み始めて数か月の湊にとって、まだまだ慣れない最寄り駅と街並みと景色。
303号室の扉をタッチキーで開けて、そのまま黙って侵入すると「うわ、びっくりした!」と部屋着のベージュのスウェット姿でコーヒーカップを持った詩が身を捩り、オーバーリアクション気味に驚いた。
「あ、ごめん。ただいま、って言うんだよね」
「そうよ。何か言わないとびっくりするし、不審者だと思うじゃない」
「園でも「ただいま」はあんまり言わなかったからな」
「そうよねえ、希望の園は広すぎて、どこからが自分の家とか、分かんないもんね」
とソファーに座り、コーヒーを啜る詩。
「あっ、詩ちゃん。妊娠中ってあんまりコーヒーは飲んじゃダメなんじゃないの?」
「え?」
きょとんとする詩。
「僕ね、妊娠初期の事をネットで調べたんだよ。コーヒーとかカフェインが多く入ったものはたくさん飲むのは良くないらしいよ」
「そうなの?」
「あとはアルコール、生もの、妊娠初期は動物性のビタミンAが多いもの……うなぎとかレバーも良くないらしい。後で僕がまとめたデータを詩ちゃんのタブレットと共有しておくね」
「はー……色々と制限があるんだね。なんだか最近、毎日が二日酔いみたいに気持ち悪いし、体が異常にだるいし、妊婦って大変だね」
「詩ちゃん。今日は飲み会に行かせてくれてありがとう。明日はカフェインレスのコーヒーも買ってくるね。他にも妊婦に良い食材も買ってきてご飯も作るよ。詩ちゃんは、自分の事だけしてくれれば良いから」
「湊君……優しいなあ、ありがとう!!」
素直に諸手を挙げて喜ぶ詩。笑顔が可愛い。
詩がアンドロイドの、自分が作った理想の女の子じゃなくても可愛いと思う。
むしろ、アンドロイドじゃなくても、こんなに異性に愛情を持てるという事に安心する湊。
――2060年以降の恋愛・結婚離れの一因として、もう一つ大きいのはアンドロイド技術の進歩だろう。
最初は保育ロボットや介護ロボットなど、生活支援用介助ロボットの製作から始まったが、次第に私用目的でロボットを生産するニーズが増えた。
どんなに好きで付き合ったり結婚しても、年を取り、環境が変わり、状況が変われば、愛情が薄れる事はある。
そうなれば共に暮らすのが苦痛になる。
最悪、別居や離婚に繋がる。
そんなときに現れたのが「恋人アンドロイド」。
自分の理想の姿と性格をした、自分だけを半永久的に愛する存在。
2123年の現在。
恋人アンドロイド市場は飛躍的に進歩し、恋人アンドロイドに出来ないのは出産くらいだった。
他は人間と変わらない。
金を積めば何でも出来た。
実際に、湊の部下のエミリは社長の恋人アンドロイドなのだ。
社長の性癖――社内に若くて誰もが羨む様な可愛い恋人がいて、職務中にお忍びで恋人の関係を楽しむためだけ――に働いているのだ。
実際に、一軒家が五軒くらい建つ費用で作られたエミリは並の人間より優秀である。
陸斗もまた、稼いだ金はほぼアンドロイドの彼女に費やし、その時の自分好みの女性にカスタマイズしているのだ。
理想の――本来だったら手も届かない思慕の人。立場も次元も超越した存在が、現実に彼女や彼氏になって自分の目の前にいて無償の愛で、愛し続けてくれる。
これほど魅力的で己の欲求に合った存在がいるだろうか。
若者たちは現実の異性よりも、自分の欲求に合ったアンドロイドのカスタマイズに夢中になった。
子供が欲しくなったら、赤ん坊アンドロイドを買って疑似家族ごっこ。
本物の子供を育ててみたければ、要求通りの子供を、審査に通れば養育する事が出来た。
詩も生まれは希望の園らしいが、8歳の時に小説家の女性に貰われたらしい。
湊がこれまで出会った人間……希望の園で生まれた子供達は、どんなに仲が良い人間同士でも、お互いの距離感に一定の線引きをしている。
目の前の人間を見ているようで、見ていないのだ。
理想のアンドロイドを唯一無二のものとして、それまでに出会う人間達はアンドロイドに出会うまでの人生のエキストラ。
雑踏の中の、通りすがりの人間なのだ。
湊はみんなが恋人アンドロイドに夢中になる中、その存在に違和感を抱いていた。
アンドロイドに惹かれる部分はもちろん大いにある。
しかし湊の中の倫理が、はっきりとはしないが、本能でアンドロイドに依存する事を拒否していた。
だからこそアンドロイドを嫌煙し、まっすぐ自分の信念を貫く詩に憧れた。
そんな憧憬のまなざしで詩を見つめていた湊。
詩はその不可視光線にすぐに気が付いて、微笑んでくれた。
それから二人が恋人同士になるのは早かった。
詩もまた、湊のようなパートナーを求めていて、そんな人間がこんなにも近くに居たのだから。
交際は順調。職場には内緒で愛を育み、ついに詩が26歳になった日に言われたのだ。
「湊くん、結婚、しよ」
「あ……」
湊もまた今日プロポーズをしようと思っていた。
それが、まさか彼女の方から言われるとは。
湊は慌てながらも速攻でOKをする。すると詩は湊に小箱を差しだした。
開けるとそこには銀の指輪が入っていた。サイズは大きく湊にぴったりだった。
「上司の豊川さんがいつも付けている指輪があってね。何となく、おじさんが貴金属を付けているのが気になって尋ねたら、昔は伴侶同士がペアの指輪を付けていたんですって。誓いの指輪だって」
「誓いの指輪……」
「そう、誓いよ」
詩は銀の指輪を湊の薬指に嵌めた。そして嵌めながら言った。
「私たち、こうして二人で協力して、悩める時も健やかな時も暮らしましょうね。……アンドロイドなんかなくても、私たちは幸せになれる。絶対に」
……ぐっと、湊の薬指に深く嵌った言葉。
まるで誓いではなく、呪いの様だと湊は感じたが、それは言わないでおいた。
湊と詩のアンドロイドに対する執着の差や嫌悪感の差。初めて感じた、詩への違和感。
――この価値観のズレが、将来の二人の生活に亀裂を生んでいく――。
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