第35話 別れ
一八八十年、一月初旬の寒い朝。
帰国当日――俺は今、再び横濱埠頭に立っている。俺が初めて此の地に降り立った時に出迎えてくれた、川路利良が既に亡くなっていると云うのが不思議な感じである。
二年前の今頃は、サンフランシスコから一人侘しく旅立ったのだが、今回の出航時には、こんなにも大勢の見送りが来てくれた。皆忙しい中、俺なんぞの為に足を運んでくれた事に感謝の意を述べる。
「うおお~ん! 旦那ぁ‼ 何時か、あっしの店を訊ねに来てくださぁいぃぃ……」
吉平は船内で食べてくれと、餞別に自作の焼き菓子を沢山くれた。御前の腕なら料理屋でも菓子屋でも、必ず繁盛するだろう。
「旦那ぁ~! おいら、何時か『がんすりんが』な板前になりますよぉ~~」
仁平は――一寸、何云っているか解らない。
「ベラミー殿、必ず手紙を書きます!」
笹川巡査――一年以内なら返事を出すよ。
「自分、『わいるどがんまん』を目指します‼」
伊東巡査――多分、訳し方が間違っているぞ。
皆が本当に別れを惜しんでくれている――何とも云えぬ気持ちになるな。抱えきれない程の餞別を頂いたが、迷惑なんて感じない。
園芸好きの牧野五等巡査が、何故か椿の花束をくれた。其れも白椿の花の……。
一瞬、ギョッとしたが訳を聴いて納得だ。
「ベラミー殿は良く、白椿の花が咲いていると足を止めて眺められていましたので――御好きなのかと思って、持って参りました」
如何やら俺は無意識に、道に白椿が咲いているとジロジロと眺めていたらしい。好き嫌いは別として、俺にとっては感慨深い花なので有難く頂戴しておいた。
そろそろ出航時刻が迫る。俺は再度、皆に感謝の言葉を述べるが、見送りの中に藤田警部補の姿は無かった。最期に御礼を云いたかったが、馴れ合いを嫌う奴なので見送りなぞには来ないのだろう――と思っていたら、出航間際になってフラリと現れた。俺への餞別だと云って、一升徳利を肩に下げて。
「良カッタ、最期二逢エテ御礼ガ云エテ……今迄、有難ウ御座イマシタ」
「御礼を云われる程の事はしていませんよ。其れよりも暫く、焼酎は呑めなくなるでしょうから――チビチビとやって下さい」
外国人の御土産用の派手な絵付けの物では無く、何方かと云えば其の辺のおっさんが、友人への手土産に持って行く様な飾り気の無い武骨な感じの徳利である。しかし、此方の方が俺好みだな。
藤田はまるで行商人の様な大荷物を背負う、俺の姿を見て薄笑いを浮かべていたが、左手に持つ白椿の花束に気が付くと当然の如くに、ギョッとしていた。
「餞別二頂イタ物デスヨ、偶然二……」
「偶然ですか……」
「一寸、驚キマシタケドネ。デモ、此ノ『白椿』ノ花モ、私二トッテハ日本ノ思イ出デスカラネ………」
「……酷い思い出だったでしょうがね」
乗務員達の大声が響き渡る、如何やら乗船を促している様だ。俺は最期に日本式の礼で深々と頭を下げた、皆も同じく整然と頭を下げてくれている。そして俺を気持ち良く送り出そうとして、散々泣いていた仁平や若い巡査達も、今は貌をクシャクシャにしながらも無理に笑ってくれている。
此の国の人々は幾ら感情が溢れ出していても、ここぞという時には毅然とした態度で振舞える。民族性なのだろう、此の礼儀正しさは観ていて心地好い。だから俺も、其の気持ちに応える為に笑いながら去るとしよう。
そして、俺は名残惜しさを捨てて――船のタラップを登り始めた。
大きな汽笛の音が鳴る。出航の時が来た。
岸壁では未だ、皆が俺の為に手を振り続けてくれている。俺も同様に姿が見えなくなる迄、手を振り続けた。
さようなら皆!
さらば日本国よ!!
本当に楽しかったぜ!!!
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