ここにある幸せ


 瞼を持ち上げてみても私は暗い中にいた。……何も見えない。


 メイドが声をかけてくる。近くに控えていてくれたのか、声が横から聞こえた。


「ディーナ様、どこか痛いところはございませんか?」


「大丈夫よ、ありがとう――今何時?」


「午後一時すぎです」


「ということは私……十二時間くらい寝ていたのかしら」


「さようでございます」


 なるほど……アドルファス王太子殿下にキスをしたところで記憶が途切れている。あの直後に体が重くなり、意識を保っていられなくなった。


 メイドが続ける。


「皆様は客間のリビングにいらっしゃいます。ルードヴィヒ王弟殿下が『寝室に皆で押しかけては、本人が目覚めた時に気まずい思いをするだろう』とおっしゃったので」


「……すごく助かるわ」


 私は心からルードヴィヒ王弟殿下に感謝した。


 まだアドルファス王太子殿下と結婚していないので、私は王宮の客間を自室として使わせてもらっていた。洗面浴室もついているし、寝室とリビングが分かれていて、かなり広い。皆はこちらの寝室には入らずに、扉向こうのリビングで待ってくれているらしい。


 寝ているあいだ大勢がずっとそばにいて、じっと顔を見られていたら、目覚めた時とても気まずかっただろう。


 メイドに手伝ってもらって、普段着のドレスに着替える。こうして誰かに助けてもらえるのはありがたい。素直にそう思えた。


「ディーナ様がお気に入りだった、水色のドレスです」


 そう教えてもらい、指で撫でてみたけれど、違いが分からない。


「触ってみても分からないものね」


 ふふ、と笑みが零れる。するとメイドが少し黙り込み、鼻をすするような音が聞こえてきた。


 あら……泣かせてしまったかしら。ごめんなさいね。


 肩をさすってあげようと手を持ち上げたけれど、距離感がまるで分からない。右手がしばらく中空を彷徨ったあとで、そっと手を握られた。


「ディーナ様? 何かお探しですか? お取りしましょうか?」


 尋ねる声が悲しげに少し震えているわ。


 私は小首を傾げる。


「いえ、あなたの肩に触れようとしたの」


「まぁ……」


「何事もお勉強ね。少しずつ頑張る」


 ぐす……とまた鼻をすする音。


 着替えを済ませて、メイドに介助されてリビングに出て行く。


「姉さん!」


「ディーナ!」


「ディーナさん!」


 そこここから声をかけられる。私は笑みを浮かべた。


 すごい……私、声だけで誰だか分かるわ!


 ソファに腰かけさせてもらうと、代わる代わる話しかけられる。


「姉さん、不便はない?」


 ああ、マイルズ! 声を聞くだけでも嬉しい。私はにっこり笑った。


「特にないわ!」


 誰かがくすりと笑う声……それを聞き、私は幸せを感じた。それで満ち足りた気持ちで皆に告げた。


「夜になったらまた見えるのよ。楽しみ」


 私は微笑んでみせた。


 本当に夜になったら見えるのか、まだ体験していないけれど、昨夜ルール説明の際にアレックスがそう言っていた――昼間はものが見えなくなるが、夜は見えるのだと。


 ユリアが、


「じゃあディーナさんはこれから夜型人間になるのでしょうか?」


 と尋ねてきた。マイペースというか、ユニークというか、なんだかいつもどおりすぎて笑ってしまう。


「考えたこともなかった……でもそうね、これからはそうしようかな。夜は起きていて、昼間寝るのもいいかも」


「じゃあ僕もそうする」


 アドルファス王太子殿下の優しい声。彼は隣にいて、手を握ってくれているの。


 昼間なのに何も見えないという経験は初めてだから、彼がそうしてくれて嬉しかった。言動はいつものアドルファス王太子殿下だけれど、繋いだ手から彼の心配が伝わってくる。


「ディーナ、その……なんていうか……」


 右斜め前からモゴモゴ呟きを漏らしているのは父らしい。そうか――父母がもう王宮に着いたのね。


 私が眠っているうちに、事情の説明は受けているのだろう。


 来てくれて嬉しいけれど、心配かけちゃった。ごめんなさい。


「あなた……会話が下手すぎない? 典型的な駄目人間ね」


 母の呆れたような声が続く。


 しんみりしかけたところで、母の容赦ない突っ込みに、私は吹き出してしまった。確かにそのとおりだなと思ったからだ。


 母は度胸があるから、いつもどおりに振舞っている。


 けれど父はオタオタしていて、変なことばかり言う。「ぬいぐるみでも買って来ようか?」とか、「リンゴを剥いてやろうか?」とか……リンゴなんて剥けないでしょうに。


 父のこういう『さりげなくできない』ところが、可愛いと思ってしまった。――四十をすぎているのに、一番できていないんだもの!


 ルードヴィヒ王弟殿下は比較的冷静だった。


「今、歴史書や魔術書を片っ端から調べている。なんとかするから、それまで頑張って」


 それだけ言うと、書斎に行くと言って部屋を出て行った。


 ルードヴィヒ王弟殿下のことは、勝手に兄のように思っている。付かず離れずの距離感が心地良い。


「姉さん、ティーカップ――持てる?」


 マイルズは相変わらず繊細で優しい。


「お茶がちょうどいい温度になっていると思う」


「ありがとう」


「僕が飲ませてあげる」


 と横からアドルファス王太子殿下が割って入る。


「結構です」


「ディーナが冷たい~」


「自分でカップを持つので、手を離していいですか? アドルファス王太子殿下」


「冷たい~」


 そんなことを言いつつも、そっと手が離れたと思ったら、腰を抱かれた。


 父が「うっ」と呻き声を漏らしたので、アドルファス王太子殿下に小言を言おうとして、自制したらしいのが分かった。


「お父様」ディーナは笑ってしまう。「今、アドルファス王太子殿下に注意するチャンスでしたよ。いつもなら『結婚前なんだから、娘に触るな』って言うのに」


「いやでも、娘を気遣ってくれているわけだから、頭ごなしに注意をするのもなぁ……と思ってね」


「やっと分かってくれたんですね、パピー」


「おい、パピーって言うな」


「え、じゃあ名前を呼び捨てのほうがいいですか?」


「なんでだよ、君は私の妻か」


 父の調子がやっと戻る。


 私は吹き出しながら、『視覚が奪われていても、やはり父とアドルファス王太子殿下の会話は笑ってしまう』と思った。


 ヘルベルト国王陛下、ジニー王妃殿下、フレデリカ王女殿下もお見舞いに来てくださって、日中ずっと楽しく過ごせた。


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