パスカリス塩湖の伝説


 しばらくのあいだ私とアドルファス王太子殿下は、気持ちを確かめ合うように互いを見つめていた。


 やがて周囲がいやに静かなことに気づいた私は、ハッとして視線を巡らせ――ニヤニヤしてこちらを凝視している人たちと目が合って、気まずい思いをすることになった。(ただしゲオルクだけはニヤニヤしておらず、眉尻を下げてしょんぼりしていたのだけれど)


 私は赤面して皆に詫びた。


「……すみません、なんだか衝動的になってしまって」


 最近、自分の新しい一面を知ることが多い。これまでの私はずっと理性的に生きてきた。


 けれどアドルファス王太子殿下と一緒にいると、感情が揺れ動いて周りが見えなくなることがある。そしてそんな自分自身に驚いてしまうのだ。


 エルゼ嫗が楽しげに笑う。


「いいじゃない、目の保養だよ。仲良くしな」


「エルゼさん……」


「それにしてもさ」エルゼ嫗はふと斜め上を見上げ、眉根を寄せた。「アロイスのやつは何がしたいんだかね?」


 え――アロイス?


 皆がぎょっとして前のめりになる。


 ルードヴィヒ王弟殿下が慌てて尋ねた。


「エルゼ嫗、アロイスのことを知っているのですか?」


「昔、一度会ったことがあるよ」


「いつ?」


「あたしがうんと若い頃。ものすごく昔さ。ああ……懐かしいね……アロイスは寂しそうなやつだった」


「アロイスの正体はなんですか? パスカリス塩湖の悪魔?」


「悪魔? いや、そうじゃないよ」


「しかしフレデリカ王女が生まれる前に、アドルファスの前に現れて、『妹は死産になる』と脅し、『助けてやるから賭けに乗れ』と強要したらしいのですが」


「おや……じゃあ本当にフレデリカ王女は死産の危険があったんだよ」


「え?」


「あるいはそれはハッタリで、なんとかしてアドルファス王太子殿下の気を引きたかったか、だね。本当に王女を殺す気はなかったと思うよ」


「あなたはアロイスを好意的に解釈しすぎでは?」


「だってアロイスは悪人じゃないよ。悪戯くらいはするかもしれないけれど、さすがに人の命を奪ったりしない」


 本当か? ルードヴィヒ王弟殿下は懐疑的な目つきである。


 そしてそれはアドルファス王太子殿下もだ。


「年月を経て変わったということは? あなたと会った時は無害な存在だったけれど、今は違うのかも」


「は――馬鹿言っちゃいけないよ。人からしたら五十年は長いけれどね、アロイスからしたら一瞬さ」


 ルードヴィヒ王弟殿下がアドルファス王太子殿下のほうに視線を移した。


 ……どう思う? 目線で尋ねられ、アドルファス王太子殿下が口を開く。


「けれど僕はあの時直感しました――アロイスは妹を黄泉の国に連れて行くつもりだと。言うことを聞かなければ、彼はそうするに違いないと思った。僕はこういう勘を外さない」


「ふぅん? あんたがそう言うんじゃ、そうなのかぁ……でもなんでだろう? あのアロイスに何があったのか……」


 エルゼ嫗が考え込む。そしてハッとしたように前のめりになった。


「原因はあんただね!」


「どういうことです?」


「アドルファス王太子殿下に出会って、アロイスは欲が出たんだ――悲願を達成できるかもしれないと」


「悲願?」


「何かは知らない。でも昔会った時、アロイスがこう言っていた――『強い解呪者が現れるのを、長いあいだ待っている。でも永遠にそれは叶わないかもしれない』と」


 聞いていた私は思わず眉根を寄せた。


 ……アロイスはアドルファス王太子殿下に一体何をさせたいの?


 アドルファス王太子殿下が尋ねる。


「エルゼ嫗――あなたは先ほど、アロイスはパスカリス塩湖の『悪魔』ではないと言いましたね。その根拠は? なんとなく善良そうだったとか、そういう主観は抜きで説明をお願いします」


「パスカリス塩湖には伝説が残っているんだよ」


「どんな伝説ですか?」


「ある乙女が湖に身投げして、その涙がブルーソルトに変わったというものだ。その乙女がパスカリス塩湖の起源であり、神のはずだから、悪魔がすみつけるわけがない」


 私には超常的なことはよく分からないけれど、それでもエルゼ嫗の理論には穴があるような気がしてならなかった。


 乙女が神だとしても、なんらかの理由で力が弱まり、その隙をついて悪魔アロイスがすみついたということもありそうだけれど……?


「エルゼ嫗はその乙女に会ったことは?」


 アドルファス王太子殿下がさらに尋ねる。


「いや、ないね。あたしが会ったのはアロイスだけ」


 結局何も分からない……全員が難しい顔で考え込むことになった。


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