第15話 月光

 

 月光を反射させたナイフを見つめる狼少女は、微動だにしていない。何か——考えている?


 狼少女は、完全に沈黙し荒廃した感情を剥き出しにしていた先ほどまでとは打って変わり、冷静さを通り戻している。これが吉とでるか凶と出るかは、神のみぞ知るところである、ただそんな神がいるとすれば、幼気な少女が狼少女になどなるはずがない。なるわけがない――なっていいわけがない。


 夕日は、狼少女に薙ぎ払われたが、持ち前の運動能力で体操選手を想起させる錐揉み回転で、見事に着地まできめていた。


 「邪魔するな」


 一言、薙ぎ払われたことなどおくびにも出さず、夕日はこちらへと闊歩してくる。言には棘はなく、ただただ静かな殺意を纏ったままだ。


 「——聞いてくれ、この子はまだ六歳の女の子なんだ。……確かに、この子がやった事は取り返しがつくことじゃないかもしれないけど……このまま殺すなんて容認できない、だから」 


 頼む、と僕は一縷いちるの望みとばかりに、夕日に頭を下げた。


 一瞬――夕日は悩んだ気がする、けどそんなのは、刹那的なもので夕日の返答は、決まっていた。


 「無理だ」


 瞬く間、返答が遅れたのは、悩んでいたからではない。それは憐憫れんびんの情からでた一瞬の戸惑い、寄る辺ない気の毒な身の上に、そしてどうしようもない僕の軽薄さに。


 ……わかっていた、夕日の答えが変わらないことなんて、夕日はこの仕事に、意義を持ち、意味を理解している。この殺しに大義名分があると振りかざす偽善者でないことも知っている。殺人を殺人として、殺しを殺しとして、命は尊ぶべきものだと分かった上で殺す。それが夕日という人格者。


 そして僕がしようとしていることは、死んでいった二人への冒涜――覆らない事実にして、絶対の死。夕日は言った、その死を蔑ろにしようとしていると。


 ……そうさ、これは一種の自暴自棄とでも言ってくれ、人によっては合理的判断ではないと、さげすむだろう。きっとこの急場を凌いだとしても、この子が元に戻る保証なんてどこにもないし、生活もままならないことは明白だ、ましてやのだから。同情心だけで首を突っ込んでいいくだんではないのだ。生半な同情でできた傷も決して浅くはない、けれど……この子が受けた傷は、僕の比ではない、そこに同情の余地はあるはずだ、せめて執行猶予があってもいいはずなんだ。

 

 そんな想いを、私情を、眼差しに乗せ訴える。強く強く。


 しかし――想いとは願いとは裏腹に、夕日は――いや、狼少女は僕の願いを聞き受けてはくれなかった。「もういいよおにいちゃん」狼少女はそう呟く、声に惹かれてみれば。


 「な――んで」


 そこには夕日のナイフを自ら首元にあてる少女の姿があった。それはまるで自ら命を絶とうとしているようだった。


 「りりかちゃん、どうしたの? 危ないからナイフを下したほうがいいよ」


 そんな小学一年生でもわかることをなぜ? 狼少女は、口を開く、その口調は先ほどまでの歯切れの悪い喋り方ではなかった。変わらずの悪声ではあったが。


 「おにいちゃん、もう、もういいの」


 その表情は狼のままだけど、どこか愁いの晴れたものだった。


 「わたしね、ほんとうはわかってた、もうじぶんが、にげんじゃなくて、こわいこわいおばけになちゃったの」


 あ。


 何故、ナイフを眺めていたのか理由がわかった。夕日のナイフは刃渡り三十センチある大型ブレードだ、表面仕上げが鏡面のようになるミラーフィニッシュになっているため映り方次第では自分の顔を確認するくらい容易にできる——。


 「…………」


 「それに、おとなのひとにひどいこと――しちゃった。だからね、おもいだしたの、ままがいってた、わるいことしたらをうけなきゃいけないんだって」

 

 「――(まさか)!! りりかちゃんダメだ!!」


 僕は、その行為を止めようと足を前に踏み出そうとした。しかし体は一歩も前に進まない。足を前にどころではない、体の自由が一切きかなくなっている――これは。


 自身の体に目を落とす。四肢と胴体に黒い帯のようなものが巻き付き僕の身動きを封じていた、さらに足元を見るとその黒い帯は月明かりに照らされてできた、。僕は、この現象を知っていた。憤りを露わにし、後ろにいる夕日を睨む。


 「夕日! なぜ僕を拘束するんだ!? を使うならりりかちゃんを止めてくれ!!」


 「……」


 夕日は右腕を上げ僕のほうに向けたままで、何も答えはしなかった。夕日の異能――それは影を媒介とし、あらゆる形状に変化できる異能、そして記憶した影、他者の影すら操ることができる、さらに影渡りという技で影から影へと移動することもできる優秀な能力――だからこそ止めるべきは僕ではないのだ。


 愕然とする僕を尻目に夕日は、拘束力を強め身動き一つとることもできなくなった。狼少女は何が起きたか分かっていない様子だったが、その状態を起こしたのは夕日であることに気づいたのか、ナイフをあてたまま夕日を見遣る。


 「おねぇちゃん、ありがとう、いたいいたいしてごめんね」


 「あぁ——気にすんな、お互い様だ」


  夕日の表情はどこか儚げで、やるせ無い気持ちが滲み出ていた。僕はそんな短いやり取りを呆然と、ただ眺めることしかできない、だからこそ憤懣ふんまんし力が入る、しかし人間の力ではこの拘束から抜け出すことなど不可能。声が漏れる「やめてくれ……」


 こちらに気づいた狼少女は微笑む、きっと微笑んでいる。そんな気がするだけかもしれないけど、少女は満足に笑って見せた。そのまま少女は————逝った。最後に「いたいのはもう、へいきだよ……おにいちゃん、大好き」と、残し、自ら斬首した。自身の力があれば首くらい簡単に切り落とせたのだろう、それくらいあっけなく首は落ちた。どさりと地面に転がる狼の頭、斬られた首からは壊れたスプリンクラーのように血液が吹き出していた。

 

 次第に狼少女の肢体は崩れ落ち、グシャリと血の池に沈んだ。


 影の拘束は狼少女の絶命と共に消え、影はただの影となり、何事も無かったかのように存在している、そして少女りりかは存在を失い、そこには化け物の死体が転がっているだけだった。こんな、こんな惨劇を見て誰がこの子が少女だとわかるのか? 分かるはずがない、見たままの事実しか残らない。狼人間が、二人の人間をむごたらしく殺し、それを僕ら「賢者の堂」が処理した。それだけ。


 どうして、こんな事になった。


 どうして、少女は死ななくてはならなかった。


 どうして、少女が狼少女に成った——。


 

 僕は転がり落ちた狼少女の頭部を拾い上げる。これだけでは狼そのもの……でも僕は知っている、ここには幼気な少女がいたことを、兄を慕い兄を敬愛する紛う事のない尊い命がここにあったことを僕は知っている。


 最後に少女は「いたいのはもうへいき——」と言った。何が平気なんだ、何をどうしたら——六歳の女の子が痛みに平気になれるのだ? ぶざけるな、ふざけるなよ、夕日に刺されて「いたいいたい」と泣き叫んで蹲っていた少女が最後は僕に気を遣って死んでいった、救えなかった……救うのが、遅すぎた。ちくしょう、ちくしょう。


 涙が——狼の頭部にポツリポツリと落ちていく。「ごめんね、りりかちゃん、本当のお兄ちゃんじゃなくてごめんね……救えなくてごめんね」会ってまもない人ならざる妹ができ——そして一瞬で消えた。


 僕の背後には夕日が立っていた。夕日が手を貸してくれていれば狼少女は死ぬことはなかったかもしれない。結果として、夕日は手を貸しては、くれなかった。手を貸すべくではないと判断した上での見殺し。捉え方によれば夕日を非難することはできるけど、それは憚られる、夕日は仕事を全うしたのだ、己がするべき事を理解し実行した結果の没後なのだ。非難されるのは僕の方である、死人が出ている状況にもかかわらず、加害者を擁護していたのだから。これではまるで、ストックホルム症候群と言われても仕方がない、それほどに少女に信頼と結束ができはじていた。


 「あたしを、恨むか?」


 夕日は背後から僕に問いかける。その顔は一体どんなものだったかはわからない、けど言葉には先程までの覇気はなくどこか剣呑としたものを感じた。


 「……お前は、正しいことをしたよ。恨むのは、お門違いだ、それに僕はこの子の何者でもなければ何者であってもならない人間だから——でも、でも、今、この子のために涙を流せるのは、僕しかいないから、だから——せめて……」


 これ以上言葉が出なかった、溢れる涙に視界が消え、狼少女の頭部抱きしめ膝をつき泣き崩れる——。


 九月七日に起きたこの事件は、端的に言えば、今回の事件「県犬養姫璐の迷子犬」とは、全くの無関係だったことを先に伝えておこう。当初は関係性究明に躍起になったが、狼少女りりかとの関係性はでてこなかった。そして狼少女の身体を司法解剖した結果——やはりと言うべきか、その身体には少なくとも五人と一匹の身体が結合していたらしい。分かっているだけで二人は推定四十代の男女、一人は十代前後の男の子、一人は六歳前後の女の子。それぞれ遺体の部位を使い創られた、人為的産物、それが狼少女だった。僕はここまで聞いて、身元の判別まで聞く勇気はでなかった。


 後に、この事件は「異質同体事件」として我々「賢者の堂」が捜査にあたるのだが、それはまた近い将来の話だ。今この場に置いて、少女りりかの物語は終わったのだ。若い身空の最後は最低最悪の場所で、少女達は散っていった、仄暗い廃工場で——。





 

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