第12話 月光の使者 2

 覚醒した意識が初めに捉えた感覚は痛み。視界はまだぼやけているし辺りは薄暗い。


 僕は左耳を下にうつ伏せの状態で倒れているみたいだ……夢の中で朝日に噛まれたのは左の耳、そこがジンジンと痛む。多分だけどうつ伏せの状態で引きずられて耳が擦れて傷んでいるのだろう。


 何とかうつ伏せの状態から仰向けになろうと力を込める、しかし全身が打撲した様な痛みが襲う——「ぐっあ」呻きながら何とか仰向けになり傷んだ左耳に触れてみると刺す様な痛みが走る、手は真っ赤に染まっている。きっと頭にも切り傷があるのだろう、ここに引き摺り込まれた際に頭を強打したのをうっすらと覚えている。


 痛みを堪え、辺りを確認する。やはりここは廃業した工業跡地。天井は穴だらけで大きいもので直径5メートル程ある大穴、そこから月明かりが照らしているおかげで、何とか視えている状態だ。


 きっと車関係の工場だったのだろう、工場内にはリフト・ジャッキ、コンプレッサー、車体整備機器、床にはスパナやレンチ、ドライバーなどが乱雑に転がっている、そのどれもが錆びれて使い物にならない物ばかり。


 そんな無機質で廃退した場所に——異臭、この工場内にただよう饐えたすえた臭い。臭いの正体はすぐに分かることになる、それは工場の最奥、そこには月明かりも届かず、長方形作りの建物のせいかまるで、上映を終えた映画館のスクリーンのように真っ暗だ。そこから異臭と共に不気味で不快な音が聞こえる……。


 ぐちゃ、ぐちゃぐちゃりくちゃくちゃパキッゴリゴリぐちゃぐちゃゴクン。


 僕は息を呑む、まるで水気の多い生肉を貪る様に生々しく品性のかけらも無い咀嚼音が工場内に響き渡る。この場合、直感なんて必要ない僕の心臓は正直だ、鼓動が早鐘を打ち警鐘を鳴らす、必死に僕に伝えようとしている——逃げろ——。


 もぐもぐガツガツ。 


 ガツガツモグモグ。


 鳴り止まない咀嚼音、音の主は食事に夢中——ならば逃げるなら今しかない。


 しかし全身を打撲しているうえに頭部からは出血が酷く意識も朦朧とする。眠い……ずっと横になっていたい、朝日との淡い夢を見続けられたならどれだけ幸せだったか……でも違うんだ夢は夢、夢の朝日に思いを馳せても何も満たされない——次、朝日に会う時、僕は正式に伝えるんだ……死ぬまで妹になってくれって!! だからこんな所で横になっている暇なんて無い!! 僕の気概にみんな困惑するだろうけど人なんて何処で闘志を燃やすかなんて人それぞれ、それがたまたま妹への渇望であっただけだ!

 


 僕は自分を鼓舞する事で身体に力を入れる。ぶっちゃけ、理由なんて何でもよかった。それ程までに身体は悲鳴を上げていたからだ、元より右手は使い物にならないし全身打撲、満身創痍は隠し切れない。仰向けの状態からもう一度うつ伏せの状態に戻る。それだけの動作で全身が酷く痛む——声を上げるな、気づかれる、唇を噛み締め膝を立て、立ち上がろうと試みる、慎重にかつスピーディーに立ち上がるんだ僕——? 


 左足に全く力が入らない……え? 僕は左足に視線を落とす。頭の怪我や全身の痛みで気づかなかったのだろうか? 僕の左足、太腿から出血がみられる、ジーンズは裂け、まるで鋭利な四本の鉤爪で切り裂かれたような有様だ……思い出せ、道路脇の壁を破壊して引き摺り込まれた時、一瞬視認できた、謎の破壊者、そいつは僕の太腿を鷲掴みにして闇に引き摺り込んだ——成人間近の男の太腿を鷲掴みにできる程の巨大な手、さらにジーンズごと脚を切り裂く鉤爪——……そいつは間違いなく、バケモノ——。



 傷口を見て、身震いから止まらない。呼吸が荒く喘ぐように途切れ途切れになっていく——ハァハァハァは、は、は、んぐ——生唾を飲む。くそくそくそっ! なんで僕はいつもこうなるんだ! わかっていたじゃないか引き寄せ体質で凶星の元に生まれた僕が呑気に立ち往生してる場合ではなかったのだ。でもこんな事予測できるか? くそっ泣いても嘆いても変わりはしない、動け、動く脚で這ってでも逃げるんだ!


 文字通り左手、右脚を使い這って移動する。芋虫の様に無様に滑稽に逃げるしかない。渾身の力を込めて這いずる、左手を前に出し爪を立て右脚で前へと押し出す。繰り返す、繰り返す、幸いにも直線距離にして5〜6メートル程にトタン外壁に人が通れそうなくらいの、穴が空いている、そこから何とか外に出るしかない。


 ずりずりと這いずる音は隠密とはほど遠いが咀嚼音に掻き消されているおかげで、残り3メートルのところまで来た——しかしここで問題が生じた……あと数メートルと言う所で目の前には工具が無造作に散らばっていた。


 まずいこんな金属の塊、下手に動かせば金属音が鳴り響いてしまう金属の音は通りがいい、間違いなく聞こえてしまうだろう……だけど活路はある散らばっているといっても避けながら進めるくらいの間隙はある、迷ってる時間が惜しい行こう——。


 残り1メートル。行ける、外に出られる、外の境界に手をかけ右脚を力ませる——ズルリ、廃工場なだけあって地面は砂利が多い、足を滑らせるのは必然——キーーーンッ! ——滑らせた先が最悪だった、乱雑に転がっていたスパナの一つを蹴り飛ばし、別の工具に当たり耳を刺すような金属音が響く。



 ——静寂——



 嵐の前の静けさ、水面が凪いでいるかのような静穏とした空間。


 聞こえてくるのは爆音で鼓動する僕の心臓だけ……。


 先程まで僕の這いずる音を掻き消していたが消えた。


 今——後ろを見たら……一瞬でその考えを捨てる、一心不乱、僕は前だけを見据え這いずる速度を上げる——。


 トタン外壁の穴から顔が出た所で、体が動かなくなった——。


 外の景色は一瞬にして遠ざかる——まるで大津波の引き潮に体を飲み込まれたように、何の抵抗も出来ず工場内に引き戻され、その有り余る力で反対側の壁まで無造作に何の配慮もなく放り投げられた。


 ガゴン!!!! 反対側のトタン外壁ならまだしも、鉄骨部分に背中を打ちつけ、鉄骨が歪む。

 

 まだ見ぬバケモノ、そいつは人形に八つ当たりする子供の様に僕を壁に放り投げたのだ。


 どさっと僕は地面に落ちる、呼吸ができない背中を強打したせいで横隔膜が麻痺し肺の収縮拡張が出来ず空気の循環が滞っているため「ヒューヒュー」と連続した異常な呼吸しかできない——息を息をしないと、血と混じった大量の脂汗がじっとりと額から流れ落ちる、「はっは、は、はぁはぁはぁはぁ」次第に呼吸が落ち着き多少の冷静さを取り戻す。この間数十秒はあった筈、僕は俯き死を覚悟していたけど、次の追撃があるわけではなかった……だが拭いきれない死の気配、次の一挙手一投足が命取りになる張り詰めた空気の中——僕は顔を前へと向ける。


 戦慄。


 畏怖が形をなして顕現した。


 それは紛う事なき怪物。


 月明かりに照らされた怪物——2メートル強はある体躯、足を屈伸した状態にも関わらずだ。


 腕は異常に長く常人の2倍ほどあり、四足歩行の生物の様に両の手を地面に付けている。予想通り手は常人の3倍近くあり爪は細長く小振りのナイフが指の先から伸びているようだ。


 しかしここまでは——ここまではいい、人に例えられる程の名残がある、どの部位も肌色をした人間のパーツが異常発達したと言えばまだわかるんだ……顔、頭部だけが——



 ——狼——


 最初は某アーティストの様に狼の被り物をしていると思った。だけどそんな切望のような予測は打ち砕かれる。狼の瞳はギョロリと動き、頬まで裂けた口を血肉で染め上げぽたりぽたりと血がしたたり、表情は狼や犬特有のムキ顔、それは眉間に無数の皺をよせた威嚇。


 身体は人の特徴を有し頭部は狼……これではまるで——狼人間——。

 

 狼人間は東ヨーロッパを中心に狼人間伝説が伝承していると聞いた事があるけど、なぜ日本に……?


 その狼人間は衣類など着ているわけもなく裸体であり肋骨が浮き出るほど痩せぎすであるが胸の膨らみがある、多分女性なのだろう……。


 しかし妙な点がある、身体の至る所に縫い目があるのだ関節部、胴体、太腿、上腕見えるところだけでもこれくらいは縫い目がある……まるで人為的に腕や体躯を伸ばされた様な……そう造り物のような——。

 

 ズシャリと一歩を踏み出す狼人間、僕の視線に痺れを切らしたのか、ゆっくりと鋭利な歯を剥き出しにしたまま近づいてくる。


 終わった、そう予感させる。


 満身創痍の身体、そこにとどめを刺す背中の強打、もはや四つん這いでいる事さえ苦しい状態——死、僕は瞑目する数秒後の死を受け入れて。


 しかし、——ベロリ——????


 ベロリ? 確認するため瞑目をとく……眼前には狼人間の顔が鼻先にあった——ベロリ、ベロリと僕の顔を2度舐めた。


 味見か? 一瞬そんな悠長な事を考える。


 「オ、オオ兄チャンダダいい丈夫????」


  は? お兄ちゃん??


 その声は高くもなく低くもない女性のダミ声のような悪声——狼人間を見据える……奇しくも僕に初めての妹ができたようだ……。


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