第4話 願望と切望

 九月七日 午後十七時十五分



 音楽が聴こえる、なんだったかな? 聞き覚えがあるような、僕はこの曲を日常的に耳にしているはずだ……確かモーツァルトの【魔笛 】第一幕一曲目あたりかな?

 

 イリスさんがよく聴くオペラ、第一幕、第二幕と構成されていて、第一幕での善人と悪人が、第二幕では逆転して善人が悪人になると言う、一見ミイラ取りがミイラになるような物語、第一幕で善人である【夜の女王】の娘を神の定めに従い保護という名目で誘拐する一幕での悪人【大祭司】、これがまた胡散臭いそれに【大司祭】側は神の名の下で善悪を定めているあたり中々のお笑いだ、だって現実によくわからん宗教団体が『神々の定めにより貴女の娘を保護しにきました』とか言われたら間違いなく業腹だろ? しかも後半には【大祭司】が善人なるらしいけど、どんな説法を説けば疑いが晴れるのか、気になるところではある、人伝いに聞いた内容だから半可通なことを言うとこんな感じかな。


 ま、このオペラを作ったモーツァルト大先生は友愛結社って言うのは感慨深いよね。


 イリスさん本人は「取るに足らない内容が思考の邪魔にならなくていい」そうだ、辛辣な評価だが聴く必要あるのかそれ?


 魔笛に乗って何やら聞き覚えのある声も聞こえるな、僕を呼んでる? 「おーいみことーいつまで寝てんだよー」


 あぁ何だかとても懐かしく感じる声だ、望郷に浸れるような……微睡まどろみを払い体の感覚が蘇ってくる、右腕が猛烈に痛いっていうかピクリとも動かない……? あれ? 何でこんな猛烈に腕が痛いんだ?


 覚醒してきた頭で思い出す、確か夕日と【ルイン★】で解散した後、文字通りあてもなく犬探し……そうだよ! あの馬鹿みたいに凶暴な異形の犬に右腕が!!


 ゴンッ!!


 目を開けたと同時に上体を起こした瞬間——目前に黒い影が一瞬見えたが、勢いは止められず豪快に黒い影の持ち主に頭突きをしてしまった。骨と骨とがぶつかり合った鈍い音と共に「ピギャッ!!」何やらひよこを踏み潰してしまったような悲鳴が聞こえた気がする、それより僕の方も大ダメージだ、痛さに目を瞑ってしまい自分が寝ていたであろうソファーから転落してしまった。


 「あ゛ぁ゛いでぇ腕も頭も折れてるぞクッソーお前夕日だろ! 何でそんなとこいんだよ! しかもれんら……く……は?」


 僕は言葉を失った、あの異形の犬を見たくらいの衝撃が目の前にある(笑)


 「夕日……お前なんで亀甲縛りで宙ぶらりんになってんだ?? アッハッハッひっでぇかっこー! どうした俺の事マゾヒスト呼ばわりしてた割にはそっちに目覚めたのか夕日!?」


 おまけに僕が頭突きをおみまいしたおかげで夕日は鼻血を垂らしながら頭突きの衝撃で振り子のように揺れている。夕日の完成された顔面に傷をつけてしまった事には強烈な罪悪感はあるが、鼻を強打した痛みと僕に滑稽な姿を見られた夕日は瞳にみるみる涙を溜めて力なく喋り出す。


 「……ちがうもん……こんな、事好きじゃないもん……」


 力なく項垂うなだれる夕日は、普段の姿から全く想像できないほど萎れている、唇を強く噛み締め、目一杯我慢している涙はポロポロと溢れ頬を伝い鼻血と混じりソファーの上に水滴のように滴り落ちていく。その姿は名状し難い感情を僕に植え付ける。


 「……悪い悪い、そんな泣くなよ、ところで一体どうして緊縛されちゃったのか僕に教えてくれるかい?」


 夕日は涙を啜りながら、顛末を語り出す。


 「ぐすん……イリス、に仕事サボってるのがバレて……命のこと探しに行って、そしたら血塗れで倒れてるの見つけて、イリスのとこ連れてったら、アタシが始めから一緒にれば、こうはならなかったって、いっぱい怒られてそれで、それで……命が起きて許してくれまでそうしてろってい、いわれ、てだから、命……仕事サボって……ぐひ、ひ、ごめ、ごめん、な、ひゃい、もうこんらの、見られたくないぃよぉ、これからお仕事サボらないから、許してぇうぁーーん」


 もう子供のようにうぇんうぇんギャンギャン泣く、一体どんな折檻をすればここまで、しおらしくなるのか……イリスさん恐るべし——けど、夕日は本当に綺麗な顔をしてるなぁ、血と涙で濡れているのに妖艶さを感じる、まるで禁断の果実が甘い蜜を出して誘惑しているようだ。僕は生唾飲み込む。


 「わかったわかった許すからもう泣かないでくれ! これじゃ僕が主犯でやってるみたいだろ、あーあ美人が台無しじゃないか、何か拭くものはと……」


 ふと、ソファーの下を見遣ると意味深にティッシュと鞭が置いてあった。しかも、バラ鞭と言う数本の革紐を束ねて作られた特殊な、鞭……そっちの人間界隈では入門者向けの物らしいけど……。


 一体僕に何やらせようとしてるんだあの人は、でも知ってる僕も恥ずかしいな、もう!! と内心ドキドキしながら鞭……ではなくティッシュを数枚取り夕日の顔を拭く。


 「悪かったな頭突きして、ほれ1回チーンってしとけ」


 「うん……チーーーーン!!」


 「おぉ、えらいえらい、いっぱいでたねぇって、家族かっ!!」


 「パパ……」


 「だぁれがパパだよ! 僕はどちらかと言えばお兄ちゃんて呼ばれた方が、こうふっ……幸福だ!」


 僕の痛々しい言い訳にジト目で見てくる。


 「うっ、何だよその目は! ……そ、そうだよ僕はお兄ちゃんって、言われるとどうしようもなく興奮するど畜生の変態妄想妹大好きっ子野郎だよ!! あーあっ! 毎朝可愛いフリフリのエプロンつけて「朝ごはんできたよ、お兄ちゃん」って言われて目玉焼きとウィンナーとカフェとかにででくる食パンみたいに切れ目とか入ってるやつ用意してくれて「もう早く食べてよ遅刻しちゃうよ」とかツンな事言って急かすくせにいつも自転車の荷台にちょこんと乗って慎ましく僕に掴まって一緒に登下校とかしちゃうブラコンのくせに「べ、別にお兄ちゃんの事好きじゃないし」とか言うけど実は内心女友達とかの同行とか気にしちゃうデレも兼ね備えた至高の高みに登り詰めたような妹がほしい人生だったよ!! そうさ! 僕なんてどうせ一人っ子拗らせた悲しきモンスターさ!! って何言わせんだよ!! 何か切るものはないのか!?」


 世界の一人っ子の皆様申し訳ございません。


 このままだと色んな意味で僕も夕日も何か大事なものを失ってしまう、いやもう既に僕の性癖は完全に看破された! 看破したのか僕が! もはや失うものなんてなにもないやい!! すると鞭とティッシュが置いてあった反対側に夕日のナイフが転がっていた、何だよイリスさんはこうなる事わかってやがったな、人が悪いなぁ。しかし右腕は大怪我で、いつの間にか包帯がぐるぐる巻きで、左腕しか使えない状態。


 「夕日、ナイフで切って下のソファーに一回落とすからな」


 こくりと頷く夕日、普段からこれくらい素直だと可愛げも出るんだけどなぁ、と思いつつ縄をナイフで切りソファーに落とす「グェッ!」変な声が聞こえたが気ぎしたけど、気のせい気のせい。


 「ほらこれで動けるようになっただろ」


 体全体を縛っていた縄も切ってようやく自由の身になった夕日は黙ったまま縛られていた腕をさすっている。


 「いやはや中々滑稽な姿だったけどやっぱり勿体無かったかなぁ……ん? 夕日さん?」


 黙ったまま夕日はソファーから立ち上がりフラフラ歩き出し僕の横を通り過ぎる、何やらブツブツと独り言を言っているようだ「‥わ‥な‥‥こ‥ば‥こ‥‥い‥こ‥」あれ? 何か怒ってる?


 「おいおい怒るなよ、元はと言えばっ!?」


 ——!! 横切った夕日の方に向き直った瞬間、突然左足の外くるぶしに鈍痛が走った! 痛みに悶える暇もなく体が一気に左に傾く、まるで氷の上で脚を滑らしたように、滑らかにもんどりを打つ、夕日は僕に強烈な足払いをしてきたのだ。すると回転する視界の中で、一瞬で夕日は宙に浮いている僕の胸ぐらを掴み空中で華麗にマウントポジションをとりそのままソファーの上に叩きつけられる。そしていつの間にか奪われていたナイフが、僕の頸動脈にあてがわれる。


「おえっ! おい! 急に何すんだよこっちは怪我人だぞ!!」


 「……れろ」


 「は?」


 「忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろぉぉぉぉぉ!! さっき見た事全部全部忘ろぉ!! 無理って言うなら首と胴体泣き別れる事になるからな! どっちだ!? 」


 「ちょちょちょちょっと、夕日さん? そ、そんな捲し立てんなよ、一旦落ちつこう、な? ほ、ほほら家族ごっこした中だろ?」


「うっさい! うっさい! お前にあんな醜態さらして、アタシもう生きてけない……どどどどうせ! アタシの緊縛思い出してオカズにするんでしょ!? このシスコン淫獣野郎!!」


 「いやいやしない! しないって!! 忘れる絶対忘れるから、本当勘弁してくだい!!」

まだ本物のシスコン淫獣野郎になってないのに死にたくない!!


 「本当?」


 「本当! 本当に忘れるように努める、だからナイフどけてくれ、な?」


 何とか思いとどまったようだ、ほっと胸を撫で下ろす。


 「良かったぁ! じゃあねじゃあね3秒以内に忘れてくれるよね! カウントするよ! 3! 2!! 1!!! はい終了!!! 忘れた?」


 「……いや3秒とか無理っす、せめて3年はほしいなぁ、なんつってアハハ」


 「死ね」


 あ、今ジョークいらないところだった。

 

 大きく振りかぶったナイフが僕の首目掛けて振り下ろされる。


 「ギャーーーーーーーーーーっ!!」


 ダメだ一生分の羞恥を味わった夕日は完全にイッチャッテル目をしてる、景色がまるでスローモーションに見える。うわぁ死ぬ前ってやっぱりゆっくり見えるのかぁ、あれ? 走馬灯がみえないなぁ、まぁいいか最後は美女の緊縛見れてボカァ幸せ者だぁーー。


 「【落陽やくよう】それくらいにしといてやれ」

 

 中性的で澄んだ声に抑揚の少ない喋り、

そして僕に馬乗りになっている野良猫が戦慄している、ナイフは首筋にピタリと止まって見えるが、血が滴っている、本気で泣き別れるところだったありがとう【イリス】さん——。

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