第41話


「ちょっと!」


 僕は制止を押し切り走り出した。


 小金井のあんな姿を見て、そのまま帰ることはできなかった。特に考えがあるわけでもない。でも、小金井とちゃんと話さなければいけないと思った。だから、僕は急いであの白い部屋に向かった。


 部屋の前には誰もいなかった。


 僕はすぐに扉を開いて中に入った。全てが白い部屋、その中で未だに蹲り続ける小金井。


 黙って僕は彼女に近づく。


 小金井はこちらを見上げて叫んだ。


「イヤだ! 来ないで! イヤだ!」


 目の前まで来た時、小金井は手を振り回し僕の脚を何度も叩いた。けれど、そんな痛みはナイフや西海にやられた時とは比べ物にならないほど弱い。


 僕は小金井の前に膝立ちになった。


 彼女は僕の胸を何度も殴りつける。


 そして、僕は彼女の顔にかかった髪の毛を後ろにやって持ってきたヘアゴムで束ねる。全然うまくはできなかった。


 僕は彼女の目を見た。


「大事なものなんでしょ?」


 小金井は自分の髪に触れ、ガラス玉に触れる。それから顔を上げた。小金井は大きく目を見開いた。彼女の充血した目から涙が溢れた。つらそうな顔だったけど、今の小金井はいつもの小金井だと思えた。


「どうして、こうなるのよ……」


 小金井は涙を拭うが、涙はとめどなく溢れた。


 そして、小金井は僕にもたれかかり静かに声を上げて泣いた。


 しばらくして小金井は落ち着きを取り戻した。


 僕らは壁を背に床に座り込んだ。


「何があったの?」


 小金井は袖で目を拭っていた。


「なんでもない」


 小金井の目を見る。すると彼女は視線を逸らした。


「本当は?」


 僕はもう一度訊いた。小金井が取り乱すのは何かあった時だと僕は知っている。


 小金井は諦めたのかため息を吐いた。


「また、シラズ蛙を見たの。それで私、時々自分でも自分が何しているかわからなくなって、自分がどこにいるのかわからなくなる。変、だよね?」


 小金井は笑顔を浮かべて言ったけど、それが作り笑いであることはよくわかる。


 僕は多くを知らなかった、。小金井は僕が思っていた以上に何かを抱えているのだろう。


 小金井は徐に口を開いた。


「来てくれてありがとう」


 小金井はこちらを見ていた。


「いや、そんなこと……ただ、プリント届けに来ただけだから」


「そっか」


 少しの沈黙の後、小金井は続ける。


「それにしても、ハルくんにはいつも助けられてる」


「いや、そんなことないよ。助けられてるのは僕の方で」


 小金井は頭を振った。


「ううん、そんなことない」


 初めて小金井と会ったのは蓮見岬でのことだった。あの海に浮かぶ小金井の姿は今でも鮮明に思い出すことができる。僕はあの時助けようとして逆に彼女に助けられた。


 彼女は「違うの」と続ける。


「私、あの日、死んでたかもしれないから」


「え?」


 僕は驚いて小金井の顔を見た。小金井は目を伏せていた。


「あの日、何をしてたの?」


 小金井の目はまだ充血している。


「私は、あの日、お父さんに会いに行こうと思った」


 小金井の視線は宙を漂う。


「それって……」


「生きることにうんざりしていたの。周りからは凄く疎まれてたし、もうどうでもいいって思ってた。だから、海に飛び込んだ。あそこは自殺の名所だって聞いていたから。でも、海はとても穏やかで、途方に暮れてた。そしたら……」


 小金井はこちらを指さし、


「君が来た」


 と言う。


「急に溺れたからびっくりした。でも、私が死んだらこの人も死んでしまうかもって思ったら、急に死ぬのが怖くなって。だから、やっぱり君は私の命の恩人だ」


「僕は、何もしてないよ」


「そんなことないよ」


小金井は笑っていた。


 結局、小金井があんなに取り乱していた理由は分からなかったけど、小金井はもう大丈夫なように思えた。


「ハルくんって、人のこと名前で呼ばないよね?」


 小金井が唐突に言った。


「どうして?」


「いや、泉さんも近江くんもお互い名前で呼んでるのにどうしてなのかなって思って」


「それは……」


 特に理由なんてなかった。ただ何となく名前を呼ぶというのが気恥ずかしかっただけだ。


「私はハルくんって呼んでるのにね」


 小金井がニヤリと笑みを浮かべる。


「私のことも下の名前で呼んでいいんだよ。ほら」


 小金井は無茶な要求をしてくる。明らかにからかっているようだった。


「こ、小金井……」


「全然言えてない」


「これ以上は、勘弁して」


 小金井はクスクス笑っていた。僕もつられて笑ってしまう。


 それから僕たちは他愛のない話を続けた。最近の近江の惚気がうざいとか泉が元気になってよかったとかそんな本当に他愛のない話だ。


 僕はいつ職員の人に摘み出されるかと気が気でなかったけど、結局職員が部屋に入ってくることはなかった。


 僕は小金井と明日も学校で会う約束をして、部屋を出た。


 職員の人に怒られる覚悟をしていたけどそんなこともなく、僕はそのまま帰路についた。外はすっかり暗くなっていて、僕はふ暗い木々のトンネルを下っていった。

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