第31話

 それから放課後、近江は用事があると言って先に帰った。


 昇降口で僕が靴を履き替えていると小金井が後ろから駆けてきた。


「ちょっと、待って」


 小金井は息を切らして言った。


「どうしたの?」


「あの、今日も教会に行かない?」


「えっと、どうして?」


「ちょっと確かめたいことができたから」


 僕は何が何やらわからなかったけど、とりあえず頷いた。小金井には何か考えがあるのだろうとは思えた。


 二人で昇降口を出ると校門の方に泉の姿が見えた。僕は声を掛けようと思ったが、小金井に止められた。しっかりと見えたわけではないけど、泉は泣いているように見えた。


 僕は追うべきなんじゃないかと思ったのだけど、小金井は何かを察していたのかもしれない。「今はやめておきましょう」と静かに言った。


 それから僕らは電車に乗って蓮見岬の教会へ足を運んだ。


 教会前には向日葵が咲いていた。いつも変わらない姿のそれらを見て僕はなんだか違和感を覚えた。


 小金井ははさっさと教会に入っていく。僕もその後を追った。


 教会に入ると中は薄暗かった。まるで誰もいないようにさえ思えた。アブラゼミの鳴き声が外から聞こえてくる。


 僕らは礼拝堂に入った。すると一番奥、ステンドグラスの前に神父が立っていた。神父は僕らに気づいて振り返った。


「また君たちですか……」


 神父は呆れているようでため息を吐く。


「これ以上、話せることはありませんよ」


 小金井は神父の言葉など聞いていないみたいだった。


「あなたは知っていますよね?」


 小金井は鞄から魚齢章の一つのページを差し出した。そこにはボールペンか何かで文字が書き加えられていた。


『私をどうかお救いください』


 僕には誰が書いたものかどれくらい前に書かれたものかもわからない。


「これあなたが書いたんですよね?」


 小金井はこの言葉を書いたのが神父であると思っているようだった。


「どうしてこんな言葉を書いたんですか?」


 神父は笑みを浮かべていた。


「ただの落書きですよ。君たちにはわからないかもしれませんが、大人になって、生きているといろいろと苦労することがありますから。ですからそれは酔った勢いで書いてしまったただのつまらない落書きです」


 神父は言い募る。


「君たちも、いずれ辛いことを経験するでしょう。しかし、それに抗うことほど無意義なことはありません。それらはただ訪れるもので過ぎ去るものです。それを自身でどうにかしようなどとはゆめゆめ思いませんように」


 神父はそう言うと僕らの間を通り抜けて、礼拝堂を出ようとする。


「教えてください! あなたは知っていますよね⁉︎ あれが何なのか、どうすればいいのか?」


 神父は立ち止まって言う。


「知りません! 私は何も知らない! だから、聞かないでください!」


 そう言うと神父は礼拝堂を出ていった。


 小金井はグッと歯を食いしばっていた。


「何がどういうことなの?」


 僕が言うと小金井は悔しげに言う。


「あの人はきっと知っているのよ。シラズ蛙をね」


「どういうこと?」


「あの人にも見えているのかもしれない」


 僕は思わず息を呑んだ。


「どうしてそう思ったの?」


「初めてここに来た日に泉さんも来たじゃない? その時、少し違和感を覚えたの。あの人の視線の動きとか泉さんを見る目が少し変だった。それに昨日も。ここに来ていた人の中にシラズ蛙が憑いていて。その時の視線の動きを見て、あの人にも見えているんじゃないかって」


 小金井は神父を追おうとしたが、僕はそれを止めた。


「でも、それってさ、神父は全部知ってるってことだよね。魚齢章も何もかも全部知った上で何もしていない」


 いや違う。全てを知ってなお何もできないでいるということじゃないのか。僕の中で不安が渦巻いた。


「全部知っているのに、何もできなかった。だから……」


 これ以上、聞いてもどうにもならないのではないかと思えた。あの神父と泉は親交がある。にもかかわらず神父は泉を助けようとしていないのだ。


「あの人に聞いても仕方ないのかもしれない」


「どうして⁉︎ 一番の手がかりじゃない⁉︎」


「これ以上、あの人に迷惑はかけられないよ。あの人ももし君と一緒なら」


 僕がそう言うと小金井は顔を歪め、歯を食いしばっていた。そして、「わかった」と小さく呟いた。


 それから僕と小金井は教会を出た。


 小金井はずっと俯いたままだったが、不意に岬の方へ歩き出した。僕はその後ろを歩いた。


「結局無意味だったのかな?」


 僕らは水平線に沈む夕日を見た。


「まだ、終わってないよ。探せばまだ──」


「どうやって? これ以上の手がかりがある?」


 彼女はそれ以上何も言わなかった。


 僕が小金井に協力を求めた。それなのに僕は何もできないままで、小金井を頼り過ぎていた。


「帰り際、泉さんいたでしょ?」


 僕は頷いた。


「もう一週間もないかもしれない」


 僕はその言葉に頭の中が真っ白になった。


 小金井は静かに言った。


「ごめんなさい」


 小金井は何も悪くなかった。


「謝るのは僕のほうだ。小金井さんを巻き込んでおいてどうにもできない。何もできない」


 僕はずっと遠くの水平線を見た。


 夕暮れ時は空と海の境界線がぼやける。


 僕はどうすればいいのかわからなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る