第29話

 翌日、僕は自宅のベッドに寝転がっていた。それは本当に不思議なことで夢を見ていたのだと気づくまでに幾分時間がかかった。


 もう目の前にあの女の人の姿はなかった。本当に生々しい夢だった。あの人の体温も声もそして足の裏の痛さも全てが現実のもののように感じられたのに今はそれがどこか空々しいものに変わっていた。夢の中の僕と今の僕ではまるで別人のようだ。


 僕はすぐに身支度を済ませ学校に向かった。


 学校に行くといつも通りの光景が広がっていた。生徒はみんな代わり映えもしない日常のくだんないことを話し合っている。


 僕が席に着くと近江が駆け寄ってきた。


「まっちゃん、もう大丈夫かよ?」


「うん、痛みはもうないんだ。嘘みたいだけど」


「でも、本当によかったよな。坂道で転けて二日も休んでたからさ。結構な怪我じゃねぇかって思ったけど、大したことなさそうでよかったぜ」


 あれ? 僕は違和感を覚える。今、近江は二日も休んでいたと言っただろうか。


「ちょっと待って、僕一日しか休んでないよ」


 近江は首を傾げる。


「何言ってんだ? 昨日もその前も休んでたじゃねぇか?」


 悪い冗談かと思ったが近江はいたって真剣だった。


 なら、どうして僕は覚えていないのだろうか。丸二日寝ていたとでも言うのか? 僕はケータイを確認した。確か西海に殴られたのは七月四日の朝だった。しかし、ケータイの日付は七月六日になっていた。僕には一日分の記憶がすっぽりなかった。


 最後に会ったのは小金井だった。小金井に聞けば何か思い出せるかもしれないと思った。


「ちょっ、どこいくんだよまっちゃん!」


「ちょっと訊きたいことがあって」


「待てよ! この前のこと、泉に聞いた」


 近江の言葉に僕は足を止める。


「まっちゃんがそんなことするなんて思ってないんだ。だから、泉には理由、説明してやってほしい」


 僕は振り返り近江に返答する。


「わかった」


 近江が頷いたのを見て僕は小金井の教室に急いだ。


 幸運なことに廊下を走っているとちょうど小金井が歩いているのを見つける。


「小金井さん!」


 彼女は目を丸くしてこちらを見た。


「どうしたの?」


「いや、その、僕」


 うまく言葉にならない。どう言えば彼女に伝わるのかわからなかった。


「えっと、二日前僕と別れてから、何かなかった?」


 彼女は首を傾げた。


「どういうこと? 昨日も休んでいたでしょ?」


 やっぱり、僕は二日間休んでいたらしい。


 ならどうして僕はそれを覚えていないのだろう。


「ハルくん? 本当に大丈夫?」


 小金井はこちらの顔を覗き込んでくる。僕は頭の中がぐちゃぐちゃで何を答えればいいのかわからなくなる。


「ハルくん?」


 小金井に肩を摑まれて、ようやく我に返った。


「やっぱり、まだ体悪いんじゃない? 病院行った?」


「ごめん。なんか混乱してて」


 僕はすぐにここから離れなければいけない気持ちになった。これ以上小金井に心配を掛けるのも気が引けた。けど、小金井は僕の腕を摑んで離さなかった。そして、そのまま僕は小金井に引っ張られ、誰もいない特別棟の階段の踊り場まで連れてこられる。その時ちょうど予鈴が鳴った。


「何があったの?」


 真剣な面持ちで小金井は言った。


「別に、何も……」


 僕は言い淀む。


「嘘はやめて」


 僕は徐に口を開いた。


「わからないんだ。昨日変な夢を見て……」


「変な夢?」


 それから小金井にことの経緯を話した。昨日の記憶がないことと奇妙な夢を見たことを細かく説明した。


 小金井は口に手を当てて何かを考えているようだった。


 僕は混乱しながらもここ数日のことを彼女に訊いた。


「昨日、魚齢章のこと神父さんに聞きに行ったの。それで内容については把握できた」


「そうなの?」


「本当に簡単な内容だけだったから、あまり期待しないで」


 僕は頷いた。


「元々、あの文献はこの海のシーラカンスについて書かれているものらしいの。やっぱり、シーラカンスとシラズ蛙は関わりがあるみたいだった。でも、アレをどうにかする方法はやっぱり書かれてないみたい」


「そう、なんだ」


 僕はそれ以上の言葉が出なかった。


 これでまた振り出しに戻ってしまった。


「でも、シーラカンスとの関わりも見えたんだから、少しは調べようもあると思えた。それに……」


 小金井は言い淀んだ。


「それに? 何かあった?」


「いえ、なんでもない」


 小金井はそれ以上答えなかった。


 僕は仕方なく話題を変えた。


「それで、泉は学校に来てる?」


「ええ」


 僕は少しだけ安堵することができた。


「あれはどうなってる?」


「少しずつ広がっている。でも、まだすぐってわけじゃないと思う」


「そうか」


 授業開始の鐘が鳴った。僕らは話を切り上げて、急いで教室に戻った。


 教室に戻る途中、僕は泉にメールを打った。


『昼休み、学食行こう』


 送信を確認してから僕は教室に戻った。

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