第24話

 深夜0時の海岸線は普段と景色が異なる。国道には一台も車が通っていないし、日没直後の海よりもずっと深い黒だった。


「遅いなあ」


 僕は自宅近くの舗装された山道の入り口で傍に自転車を置いて待ちぼうけていた。


『今夜時間ある?』


 あの言葉の後、小金井はこう続けた。


『夜の教会に入ろうと思って。あの教会に手掛かりがあるのかもしれないから』


 僕はその時、唖然として声も出なかった。すぐにそれはまずいと言ったのだが、小金井の一言で黙らされた。


『このまま何もしなかったらただ終わるだけよ』


 ただ終わる。その言葉が妙に生々しかった。その終わりは僕ではなく泉に訪れるものだ。そう考えると多少の悪事も軽いもののように思えた。


 僕は午後十一時にこの山道前に集合という小金井の言葉に従い、約一時間前からこの場所で小金井を待っていた。しかし、一向に小金井が現れる気配はない。


 僕は大きくあくびをして、山道を眺めた。山道はコンクリートで舗装されてはいたが狭い。木が両端に生い茂っているため、天然のトンネルのようになっていて中は真っ暗だ。ちょうどこの道を登っていくと山内病院があるはずだった。有名な精神病棟だと言われているけど、行ったことはないのでどんなところかは知らない。


 山道を見つめていると何やら闇の中で動くものを見つけた。黒いそれは徐々にこちらに近づいてくる。わずかに黄色い光が煌めいた。猫か猪かと後退りした時、タッタッタと人の足音が聞こえた。


「ごめん!」


 黒い影は徐々に明瞭になる。それは真っ黒なジャージ姿の小金井だった。黄色く光っていたのは腕につけていた反射板だ。


「抜け出すのに手間取って」


 息を切らしながら小金井はハンカチで汗を拭う。


 今は母親と二人暮らしということを聞いていたけど、女子がこんな深夜に家から抜け出してくるとなるとそれなりに大変なのだろうと想像はできた。


 うちの父親なんて完全に寝ていたから簡単に抜け出して来られたが、それと比べてはいけないと思う。


「それじゃあ、行こうか」


 僕はふと疑問に思う。


「小金井さん、自転車は?」


 小金井は息を整えて乱れた髪を直しながら答える。


「そんなの持ってないわ。だから、君に持ってきてもらったんじゃない」


 この町の学生で自転車を持っていない人がいたなんて驚きだった。そういえば、小金井はケータイも持っていないと言っていた。


 家庭環境なんて人によるからそれ以上言及はしなかった。


「それでどうするの?」


 小金井は首を傾げる。


「そんなの決まってるじゃない」


 そう言うと小金井は自転車の荷台に跨った。


「ほら、行きましょう」


 小金井は意外とルールに厳しくないようだった。まあ、よくよく考えるとそうだ。最初に会った時も遊泳禁止の場所で泳いでいたくらいだし。


 僕は仕方なく自転車に跨り、ペダルに力を込めた。二人乗りなんてしたこともなかったから、ハンドルがぐらぐらと定まらず、蛇行運転になってしまう。


「ちょっと、危ない!」


 後ろで小金井が叫んだ。


 僕はどうにか体勢を立て直すことができた。


 僕と小金井は海岸線沿いの国道をまっすぐ走った。車は一台も通っていなかったから車道を自由に走ることができた。


 水平線の上を見ると星がいくつも見えた。蓮見町は田舎町だったから、深夜になると明かりがほとんどない。大都会の空は星が見えないという話だったが、僕にはそんな世界は想像もできなかった。


 小金井は僕の肩に手を置いて言う。


「昔、お父さんが海の上で見る星空は最高だって言っていたわ」


 僕は空を見上げた。きっと小金井も見上げていたと思う。


「私も見たことがあるはずなのに、もう忘れて思い出せない」


 彼女がどんな顔をしているのかはわからない。


「それなら、また見にいけばいいんじゃない? 僕も一回見てみたいし」


 彼女は一呼吸置いてから「うん」と答えた。


 夏の夜だというのに少しだけ風が冷たく感じられた。彼女の指から体温が伝わってくる。


「私、小さい頃は宇宙飛行士になるのが夢だった。空とか星が好きだったから、あの綺麗なところに行ってみたいって思ってた」


 彼女の言葉は全て過去形だった。


「今は、違うの?」


 僕が言うと風の音とお共に彼女の息遣いまで聞こえてくる。


「今は、どうだろう……見せかけだって思ってしまったから」


「見せかけか……」


 確かにそうかもしれない。空のあの美しい青も光の屈折に過ぎないし、輝く星もただのガスや炎の塊なのだ。知れば知るほど世界は色褪せていく。成長していくことは色を見失うことなのかもしれない。そう思うこともある。


「でも、自分の見たものが全てじゃない? 綺麗だって思ったなら、それがどんなものでもいいんじゃない? 僕もいろんなことを知っていく中でつまらないなって思うこともあるけど、逆に面白いって発見することもある。だから今でもいろんなことを調べる」


 小金井は後ろでクスッと笑った。


「勉強、好きなのね」


「勉強が好きってわけでもないけどね。ただ興味があるから調べてるだけだし」


「君の夢は?」


 近くでスズムシが鳴く声が聞こえた。


「笑わないでよ」


「しないよ。そんなの」


「まあ、僕は言った通りだよ。この海のシーラカンスを見つけたい。だから、海のこととかその他のことももっと知る必要がある」


 小金井はまたクスッと笑った。


「笑った」


「ごめんごめん。でも、君はやっぱりそうだよなと思って……それ叶うといいね」


「小金井さんは?」


 僕が訊くと小金井はうーんと唸った。


「夢は今はないかな。だってやりたいって思うこともないから」


 小金井はそれ以上何も言わなかった。


 宇宙飛行士を夢見ていた人が今は夢がないというのが少し寂しい気がした。


 だから、僕は言った。


「それなら、僕の研究の手伝いとかどう? 生き物の神秘は宇宙に通じてるって話もあるし」


 それを聞いてか、小金井は笑った。


「ふふっ、何それ、知りたい」


「じゃあ、一つだけ。宇宙網って知ってる?」


 小金井は「知らない」と言う。


「宇宙網って銀河と銀河を帯状の水素が繋いでるのを言うんだけど、その宇宙網と脳の神経細胞ってすごく似ているって話があるんだ。だから、その二つには共通する何かがあるんじゃないかっていうこと」


「それじゃあ、私たちの頭の中は宇宙に通じてるってことなの?」


 僕は「そうかもしれない」と力強く頷いた。そうすると再び小金井が笑う。今度は声を上げて笑っていた。


「そうだなあ。今回のことが終わったら、シーラカンスの研究でも手伝おうかしら」


 僕は振り返って小金井を見た。瞳がこちらを捉える。街灯の光が映っていた。白く淡い真珠のような輝きだった。思わず見入ってしまう。


 僕が口を開こうとした時、小金井が目を見開いて正面を指さす。


「危ない!」


 僕はすぐに前を向く。ハンドルがぶれてガードレールに当たりそうになっていた。僕は思い切りハンドルを切った。ぎりぎりのところでぶつからずに済んだが、小金井を振り落としかけた。


 小金井は片手で僕の頭を軽くチョップする。


「ちゃんと前を向きなさい」


「ごめん」


 その後、僕は細心の注意を払って運転した。

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