第16話

 翌日、僕は早朝に目が覚めた。


 朝食を済ませると僕は早々に家を出た。


 昨日の天気予報では今日は雨のはずだったけど、空は見事な快晴だった。

通学の電車内には僕の他に数人のスーツ姿の大人が乗っているだけだった。車窓からは白んだ空が見える。まだ教室が開くにはかなり時間があった。


 蓮見岬の教会が見えた。今日は風があるせいで波打ち際は白い飛沫が立っていた。


 まだ時間があったから僕は何気なく蓮見岬の近くの駅で一度降りることにした。


 教会近くの駅で降りた僕は昔よく遊んでいた公園の前を通る。草が伸びていて入り口がどこかもわからなかった。ずいぶん前から手入れされていないことがわかった。


 教会の様子は相変わらずで、周辺には向日葵が咲いている。


 教会の脇に黒い服の男の人が立っているのが見えた。顔までははっきりと見えなかったが、猫背気味の痩身の人でじっと草むらを見つめている。この前、ずぶ濡れの時に声をかけてきた人だった。


 僕はその人を尻目に教会の脇道を走って通り過ぎた。


 蓮見岬の波は荒れていた。


 波が岩礁にぶつかり白い泡となって辺りに散った。


 蓮見岬は普段から波が荒い。だから、小金井があの日この場所に浮かんでいたことに恐怖を感じる。実際、今日のような波の荒さなら無事ではすまなかったはずだ。


「こんな早くに何か御用ですか?」


 振り返るとそこには先ほど教会の前で見かけた男の人が立っていた。彼は痩せぎすで背が高く、頬はこけていて蝙蝠こうもりのような印象を受ける。


 男は慎ましい笑みを浮かべていた。


「あなたはこの間の……」


 神父らしい男は眉をひそめる。


「ここの海は大変危険ですから近づいてはいけませんよ。入るなどもってのほかです」


 この前のことがあったからか、その人は僕が飛び降りるとでも思っているようだった。


「入るだなんて、そんなこと考えていません」


 男は胸を撫で下ろして「そうですか」と言う。


「この前は、その、誤って落ちてしまって……」


「そうでしたか。運が良かったですね。この辺りの海は流れが急で一度流されると戻ることは難しいですから」


 その人はこちらに歩み寄り海を指して言った。


「昔、この辺りでは身投げがよくありました。波の荒い日に飛び込めば岸に戻ることはできないですから。十年ほど前にもこの辺りで船が難破して一人亡くなっています」


 小金井の父親のことだろうと思った。


 その人は目を細めて海を眺めていた。


「そんなに人が亡くなっているんですか?」


「はい、今でも時々あります。まあ、昔はもっと多かったと聞きます。百年ほど前の話ですが。ここの岩礁にはよく死体が打ち上げられていたみたいですね。今は潮流が少し変わったのかそんなことは滅多にありませんが。溺死体は時間が経つと白くなってぷっくりと膨らむらしいのです。それを見てこの辺りの人は『蛙があがった』と言ったそうですよ」


 また『蛙』という言葉が出た。


「蛙っていうのはシラズ蛙のことでしょうか?」


 その人は目を見開いた。


「よく分かりましたね。最近の子はそんな話、興味ないと思っていましたが……ああ、君は蓮見中学の生徒さんですか?」


「はい」


「もしかして泉由紀さんとも知り合いでは?」


「はい、泉は友だちです」


 その人は頷いて続ける。


「そうでしたか。通りで」


 僕もそこでようやく合点がいった。


「あなたはここの?」


「ああ、申し遅れました。私、ここの教会で神父をしております。辻村と申します。君はハルくんですか?」


「あ、そうです。松波晴です」


 神父は頷く。


「君たちの話は由紀さんからよく聞いています。あの子の話にはいつも君たちが出てきますからね」


 神父は優しげに笑みを浮かべる。もう、最初に抱いた不気味な印象は一切なくなっていた。


「他にも蓮見中学の生徒さんがくることもあるんですよ。もう外観は古くなっていますが、中は綺麗ですのでよければ見学されますか?」


 僕は教会を見た。外は確かに随分年季が入っているように見える。昔、泉の言った「中はもっと綺麗だよ」という言葉を思い出す。


「今日はこれから学校なのでまた今度見学させてもらいます」


「そうですか。ぜひいらして下さい」


 僕は軽く会釈をしてその場を後にした。

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