第15話

 太陽はほとんど隠れてしまって、海の向こうの遠くの空は藍色に染まっていく。


 散々な一日だった。僕は腫れた頬をさする。


 最寄り駅に着いてホームに降りる。無人駅のため人の気配は全くない。白い壁はボロボロでどれくらい人の手が入っていないのかわからない。


 駅を出ると紫の誘蛾灯ゆうがとうに蛾が群がっていて、道路の街灯もポツリポツリと点灯し始めている。田舎の街灯は間隔が広く道路を照らすには十分とは言えない。


 少し離れた街灯の下に人影があった。遠いせいで顔も姿もよく見えなかった。


 しかし、それは次第にこちらに近づいてくる。僕はびくりと身体を震わせて後退りしたが、近づく人影は少しずつ輪郭を現す。一つ結びにした髪が揺れて、顔が見えて僕は安堵した。


 小金井は片手を上げて「やあ」と言う。


「待ってたの?」


 小金井は頷く。


 そして、深々と頭を下げた。


「さっきはごめんなさい。私のせいで怪我させて」


「小金井さんのせいではないよ。だから、謝らないで」


 僕は顔を上げるように促した。


「私のせい。私が司に君のことを話したから。私の注意が足りなかった」


「何で? 何か変なこと言ったの?」


「言ってない。でも、言わなければ司に殴られることもなかったはずだから」


 小金井は何を話したのだろうか。


「西海は僕が君にシーラカンスの話をしたからって怒っていたよ」


 小金井は顔を上げてこちらを見た。


「そう」


「どうして西海はそんなことで怒っていたの?」


「それは……わからない」


 不自然な間があった。小金井は何か知っているのかもしれない。


 僕は西海と小金井の関係さえよくわかっていない。男女の仲でないならどうして彼らはいつも一緒にいるのか。


「司も昔はあんなじゃなかった」


 風が吹いて道路脇のイヌビエが揺れる。


「でも、今が全てじゃないかな」


 小金井はこちらを見て顔を歪めた。そんな皮肉を言うつもりはなかったのにいつの間にか口に出ていた。僕は慌てて「ごめん」と言った。


 気まずい沈黙が流れて、僕はすぐに話を続ける。


「それで、用があったんじゃないの?」


 こんなところに一人でわざわざ待っていたのだから、何かあるのではないかと思った。


 小金井は少し躊躇っているようだったが、すぐにこちらをまっすぐと見つめて言う。


「この前の話の続き、聞かせてくれない?」


 祖母のことだろうと思った。


 小金井の瞳には街灯の薄明かりが映っている。


「どうして、そんなにこだわるの?」


 彼女がこだわる理由が僕にはわからなかった。彼女が僕のように海に対する興味を持っているとも思えない。それなのにシーラカンスというものにだけやたらと執着している。


「少し歩かない?」


 彼女はそう言って線路沿いを歩き始める。


 ぽつりぽつりと長い間隔で設けられた街灯、僕らの一番近くの街灯だけ切れかけなのか点いてはまた消える。


 彼女の歩く先には先日あの女の人と話した砂浜がある。


「私、昔ね。事故にあったの」


 前を行く小金井の背中は思いの外小さかった。


「蓮見岬で漁船が沈没した事故。知らない?」


「十年前の?」


 僕はかつてあった海難事故のことを思い出す。確か乗っていた男性一人が亡くなった事故だ。


「そう。私あの船に乗ってたの」


 少しおどけるような調子で小金井は言う。そのまま小金井は砂浜に続くコンクリートの段差を飛び跳ねるように降りていった。


「見て! 月があんなに低い」


 水平線のすぐ上には巨大な月があった。小金井はそれを指差している。僕はその光景をじっと眺めていた。


「夜の海って見てると不安にならない?」


 小金井は笑みを浮かべていた。


「まあ、それはわかる」


「ずっと見ていると何かが海の中から出てきそうな気がする」


 真っ暗な海はオニキスのように月明かりを反射してギラギラと輝いていた。確かに夜の海は中を見通すことができず水中に何かが潜んでいたとしても見つけることはできない。それが不安を駆り立てる。


「あの日も早朝で、海はこんなふうに暗かった。珍しくお父さんが船に乗せてくれて、はしゃいでたの」


 海岸には波の音ばかりが響いている。僕は黙って小金井の話を聞いていた。


「蓮見岬から数キロ離れた沖でお父さんと釣りをしていて、その時、私は蓮見岬の教会を見たの。まだ暗かったからそんなにはっきりとは見えなかったんだけど何だか知らない建物だったからお父さんにもっと近くで見たいってせがんだわ。それで岬のほうに近づいて……」


 僕は頷く。


「気づいた時には海に放り出されてた。だから、全部私のせい」


 小金井は笑っていた。


「日の出てない海って中も真っ暗で何も見えないの。それで……いつの間にか私だけ病院のベットの上にいたわ。ほんとどうしようもないでしょ?」


 僕は何を言っていいのかわからなかった。


「海の中にいるとき、体が沈んでいって、上も下もわからなくなった。それで、真っ暗なはずの海の中で、見たのよ」


「何を?」


 小金井はこちらをじっと見て言う。


「シーラカンス」


 僕は思わす彼女の肩を摑んだ。


「本当に⁉︎」


 小金井の目がこちらを見つめている。大きく見開いた目の内に月の光が映っている。


 彼女は頷いた。


「見たのよ」


 僕は彼女の肩から手を離した。


 やっぱり、この海にシーラカンスはいる。僕は夢を見ているような気分になった。シーラカンスを見た人間が祖母以外にもいたのだから間違いないと思えた。


 小金井はまっすぐにこちらを見つめていた。


「だから、私はあの魚のことが知りたい。君はどうして探すの?」


「僕は、僕の祖母も君と同じであの魚を見たことがあったんだ」


 小金井は一歩踏み出す。


「本当に⁉︎ 会わせて!」


 顔が近くにきて僕は思わず後退る。


「ごめん。それはできない」


「どうして⁉︎」


 小金井が僕の腕を摑んだ。


「もう亡くなってるんだ。三年前に」


 彼女の手から力が抜ける。


「ごめんなさい。私……」


 そして、彼女は僕から手を離した。


「いいよ。別に。大往生だったから。こちらこそごめん。期待させちゃって」


 小金井は頭を振る。


「初めてだったから、私以外に見た事がある人がいたって。それだけでも、少し救われる」


 暗い砂浜で笑みを浮かべる彼女の姿を見ているといつかこんな光景を見た気がした。


「それで小金井さんが見たのはどんな姿だったの?」


 小金井は頷いた。


「私が見たのは黒くて斑模様の入った鰭の長い魚だった。すごく大きくてクジラみたいだって思った。それから……」


「それから?」


「君のおばあさまはなんて言ってたの?」


「祖母も君と同じことを言ってた。黒くて大きくて、腕みたいに長い胸鰭がついてたって」


「他には? 何か言ってなかった? 例えば白い生き物の話とか」


「白い生き物?」


「そう」


「いや、そんなことは聞いてないけど。ただ。あの魚には関わるなって言われた」


 遠くの海で鳥の声が聞こえてきた。


「わかるわ」


 小金井は遠くの海を見て言った。


「何がわかるの?」


 僕が訊くと急に小金井は車道のほうを振り向いた。


「鳴き声」


 次の瞬間オートバイの甲高い排気音が聞こえてきた。小金井は一瞬耳を塞いだがすぐに車道に向かって走り出した。


「どうしたの⁉︎」


 僕は小金井の後を追う。


 遠くの海岸線を一台のバイクがこちらに向かって走ってくるのが見えた。ヘッドライトの明かりが眩しい。そのバイクは甲高い排気音を立てて一直線に迫ってくる。


 小金井の表情はよく見えなかったけど、ひどく焦っているように思えた。


「待って、やめて……」


 声は小さかった。しかし、嘆願するような必死さがあった。


 凄まじい勢いでバイクはこちらに近づいてくる。


「もっとスピードを落として! 止まって!」


 大声で叫ぶ小金井を僕は後ろから見ていた。


 どうしてそんなに慌てているのか僕にはわからなかった。ただその叫び声には鬼気迫るものを感じた。


「止まって!」


 掠れるほどの大声、しかしライダーには届かなかった。


 バイクはそのまま僕らのすぐ横を駆け抜けて、海岸線の緩やかなカーブで激しい音を立てガードレールにぶち当たった。


 ライダーが宙に放り出されて硬いアスファルトに落ちる音が聞こえた。鈍く嫌な音だった。


 辺りに排気ガスの臭いと何かが焦げたような臭いが漂った。


 小金井はその場にへたり込んでしまった。


「何で! 何で、私ばっかり! 何で、止まらないの! 聞いてよ。聞けよ!」


 小金井の声は次第に大きくなりいつもの穏やかで冷たい声は金切り声になって響いた。


 叫んだかと思うと彼女はすぐに立ち上がって事故のあったほうに駆け始めた。僕もその後を追って走った。


 バイクは全壊しており、原形を留めていなかった。小金井はそのバイクを素通りして人が倒れている街灯のもとに向かった。


 その人は黒いライダースーツに青いフルフェイスのヘルメットを付けていた。だから、表情とか細かいところは何一つ見えない。ただ、そのライダーが死んでいるということははっきりわかった。街灯の明かりに照らされてライダーの姿はよく見えた。胴体と首があり得ない方向に曲がっている。僕はそれ以上近づくことができなくなった。


 けど小金井は迷わずにその人に近付いていった。


 そして、街灯の下、白い小金井の指先がそのライダーをさした。


「これ君には見えない?」


 その時の表情からは何の感情も読み取れなかった。ただ彼女には先ほどのような焦りや恐怖という感情はなくなっているように思えた。彼女は静かに微笑みを浮かべている。


 街灯に照らされた彼女と死体、そして、その微笑みは一枚の油絵のように鮮烈だった。恐ろしくも蠱惑的なその様子を僕は呆然と眺めることしかできなかった。


 それから僕は救急と警察に電話した。緊急車両が来るまで僕と小金井は道路の隅で立ち尽くしていた。十数分で遠くからサイレンの音がいくつも聞こえてようやく安堵する事ができた。その間、僕は何を言えばいいのかわからず、ただ呆然と目の前で起こったことを飲み込むことに努めた。


 それから僕と小金井は警察に事情を聞かれてそれぞれ別の車で自宅まで送り届けてもらった。


 そして、自宅に着いた僕はすぐにベッドに入り眠りについた。

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