エピローグ

 海の底を思わせる、真っ暗闇の『無』から浮き上がってくるような感覚とともに意識が現実に近づくと、鳥たちの鳴く声で目が覚めた。

 目が覚めて、一番初めに思ったことは、寒い、だった。吹きつける風が刺すように痛い。ゆっくりと目を開けると、視界には、一方に向かってグラデーションのかかった藍色の空が広がっていた。

 屋外に仰向けで横になっているようだ。体には広げた厚手のコートが掛けられていて……と、ちょっと待って。何故かそのコートの下は全裸なんだが? 地面に接している背中やらふくらはぎの裏やらが少しチクチクする。


「ここ、どこ?」


 なんてありきたりな台詞を吐いたら、枯れ葉同士が擦れ合うような音とともに、誰かが身を乗り出して顔を覗き込んできた。


「起きたか……!」


 ありえないものを見るような、しかしどこか興奮もしている表情でまっすぐと私の目を見てきたのは、パーマがかかった黒髪の、整った顔立ちの中でも射抜くような鋭い双眸が印象的な青年だった。


「うん、起きたけど」

「よかったぁ……」


 と胸を撫で下ろす彼からは、緊張が解けていくのが目に見えてわかる。安心したような、力が抜けた笑顔。


「もう二度と目が覚めんかもしれんような容態だったもんで、本当に……」


 そんな物騒な、と手をついて上体を起こそうとする私を、慌てたように手を突き出して制止してくる。


「まだ動かんほうがいい」


 後ろに回り込み、手で背中を支えるようにして、ゆっくりと寝かせてくれた。


「とりあえず、気になっとると思うから、今の状況を伝えると、例の鬼からはなんとか逃げ切って、今はあれに見つかる可能性はない安全な場所にいる。だから安心して」


 早口で説明してから、一転、それと――と苦々しげに口元を歪めて言いにくそうに言う。


「銀さんは、助けられんかった。ごめん」


 痛々しいほどに悔しさと申し訳無さが滲む声だった。

 私は彼の背後に見える、数センチ雪の積もった、葉のない雑木林をぼーっと眺めながら、一連の話を黙って聞いていた。しかし、全て聞いた上で、


「さっきから、何の話?」


 こう尋ねざるを得なかった。彼の表情に困惑が浮かぶ。


「え?」

「いや、全く身に覚えがなくて。誰か他の人と間違えてない?」

「は?」


 は? と言いたいのは私の方だ。言われたことにこれっぽっちも覚えがないのだ。

 いや、まずそもそもだ。


「あなたはどちら様? どうしてか私のことは知ってるみたいだけど、自己紹介もなしにいきなり知らない話を始めるからびっくりしちゃって……」


 そう言う私を、青年は見開いた蒼瞳で凝然と見つめる。


「それに、私はどうして裸なの? まさか、あなた……」


 嫌な想像をして青ざめる私に、青年はその表情のままふらふらと頭を振る。


「そういうことはしとらんから……、安心しろ」

「そうなの。ならよかった」


 そんなやり取りの後も、青年はしばらく放心状態だったが、たちまち深呼吸を一度すると、彼は振り返って自分の背後、林のほうを指差した。


「あの人は、覚えてるか?」


 示された先には、一本太めの木があって、その幹に女性が一人、腕を組んで凭れかかっていた。思わず二度見してしまうほど大きな胸が良くも悪くも目立つ、大人びた印象を受ける、むすっとした顔でこちらを睨む女性だ。

 だが、言うまでもなく、


「知らない」

「そうか。じゃあ逆に知ってる名前を言ってくれ」

「知ってる名前……」


 考えてみるが、パッとは思いつかない。


「パパと、ママと、あと、あれは……」


 ようやく思い出せた名前らしい名前は、


「あき、ひと?」


 口に出してみると、彼の表情に驚愕が走った。


「今年は西暦何年だ?」

「んん、確か、○○年?」


 答えると、先程も見せたのと似た、苦虫を噛み潰したような苦々しげな表情で、彼は言った。


「それは、――十年以上も前の年号だ」



 ◆



 どうやら、私は物心ついたくらいの年齢からの記憶がすっぽり抜け落ちているらしい。

 私は自分について全くと言っていいほど何も覚えていない。自分の名前さえもしっかりと思い出せない。『ま』という文字がついていたようなついていなかったような、名前が何文字なのかもわからない、そんな程度の記憶しかない。

 唯一思い出せることと言えば、公園かどこかで、大人二人と遊んでいる記憶だ。もっとも、その大人たちが誰なのか、顔も声も思い出せないような曖昧な記憶だが。自分の名前に『ま』がつくことは、この記憶の中で、二人が私のことを『ま』から始まる名前で呼んでいたような気がするからだ。

 私が記憶を失ったことに、しばらく悲愴な表情を浮かべていた蒼勇と名乗ったあの青年とは対照的に、記憶を失う前の自分を知らないからだろうか、以前にも自分が存在していたという実感がない私は、別段何かを失ったような気分にはならず、案外平気だった。


「まず、何から話すべきか……」


 コートに身を包み、枯れた芝生の上でまだ横になっている私。そのすぐそばに腰を下ろした蒼勇は緊張した面持ちで切り出した。


「いろいろと確認しなかんことはあるんだけど、まず一つ、落ち着いて聞いてくれ」


 私は落ち着いている。お前が落ち着け、と言ってやりたいくらいだ。


「諸々の説明は後からするとして、今は一番の悪いニュースから伝えなかん」


 不穏な空気を感じ、知らず頬が強張った。


「絶対に、とは断言できんけど、銀さんがああなっちゃった以上、君の記憶がもとに戻ることは」


 彼は言った。


「――もう一生ないだろう」



 ◆



 この時の私は、記憶喪失になってしまったことを楽観的に捉えて――その本当の意味を、知る由もなかった。

 なんて、それっぽいことを言ってこの物語を締めるのも悪くないが、ラストはやっぱり笑顔がいいよねってことで、これはこれとして。

 さて。

 私は最早、自分がこの物語のプロローグで何を話したのか覚えていない。いや、そもそもプロローグがあったのかすら知らない。

 ただ、あったのならば、記憶を失ったとしても、他ならぬ私のことなのだから、私が何を話しそうか予想くらいはつく。

 そういえば蒼勇は、私が好奇心を見せるたび得も言われぬ笑顔を浮かべる。まるで、今はもう戻れない昔の記憶を懐かしむような、優しくも、嬉しくも、しかしそれでいて見ているこちらが胸を締め付けられるような、昏い憂いを帯びた笑顔だ。おおかた、以前の、私の知らない私を思い出しているのだろう。

 そこから予想するに、今までの私も、今の私と同じように好奇心旺盛だったのだと思う。きっと、あれこれ調べて得た知識自慢が趣味で、無教養な人を見下していたり、或いは知識を豊富に持っているからこそ、知識だけで人の価値は決まらないことを悟っていたり、いや、まあ、まさか、自分の知識に自信がなかったようなことはなかったと思うけれど……。

 ともあれ、あれから私は様々な新事実を知り、色々と思うところはあったのだが、それを語ると長くなってしまうのでさておき、一つここで明かしておかなければならないのは、現在、私の魂の半分が悪魔でできているという点だろう。

 そう。私はいまや人間ではないのだ。

 どうも半分悪魔になってしまったらしい。それによって私は悪魔という怪異の特性を理解し、そして蒼勇にこの晩に起きたことを教えてもらい、その二つを照らし合わせてみたのだが……一つだけ腑に落ちないことがあった。


「本能で、私の怪異の特性については理解してる。どうすれば人の記憶を覗き見れるかも、どうすれば人の願いを聞き出せるかも、どうすれば人の魂を食らえるかも、長年やってきたことように体に染み付いてる。だけど、どうすれば人に魂をあげられるかはわからない」


 蒼勇のほうを見て尋ねた。


「だから、そんな本能にないようなことをしてまで、どうしてどうして銀さん……だっけ? 例の悪魔は私に、怪異の特性ごと魂を渡したの?」

「さあ、わからん」

 蒼勇は肩を竦める。


「だからこれは勝手な予想にすぎん。どこかの誰かさんじゃないけど、銀さんのほうこそ――いなくなりたかったんじゃないかな」


 そう答えて、意味ありげに小さく口の端を釣り上げたが、私にはよくわからない話だった。首を傾げると、何が可笑しいのか、堪えられないとばかりにくすくすと笑い出した。

 困惑する私をよそに、彼は視線を外して、町の方に向ける。

 私達が今いるのは、町外れの小高い丘だ。そこからは人間だったほうの私が生まれ育ったという町が一望できる。立ち上る朝日を背景に、カラッとした冬風が吹き抜ける、高い建物なんて一つもない、のっぺりとした町並み。記憶のどこにも見覚えはなかったが、なんとなく嫌いではなかった。

 長い一夜が明けた。きっと誰かにとっては終わりを意味した、しかし私にとっては始まりの、新しい朝がやってきた。

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貪り食う 馬刺良悪 @basasinoyosiasi

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