第2話「逢魔が時・2」

 私はただ、この願いを叶えてほしかっただけ。

 それだけ、だったのに――




 私は家の最寄駅で、改札から、仕事帰りらしきサラリーマン達がふらふらと吐き出されてくる様を眺めていた。

 可哀想に、こんな時間に帰宅とは、余っ程酷いブラック企業に勤めているのだろう。おしなべて疲労の色が濃く、誰一人として喋らないものだから、漂う空気は持久走の次の授業さながらだ。聞こえてくるのは、引き摺るような靴音と、駅前の道路を走る車のエンジン音だけだ。


「お仕事、お疲れ様です!!」


 そんな中を、駅中に響き渡るような声でいきなり叫ばれては、普通なら、さしものサラリーマン達も度肝を抜かれて、弾かれたように一斉に声の方に振り向くだろう。だが生憎と叫んだのが私であるため、視線は集まらないどころか、反応を示すものすらいなかった。スマホを弄っていた人はスマホを弄ったまま、思い詰めたように俯いていた人もそのまま、各々が各々の行動を続けている。


「やっぱり!! 誰も聞こえませんかあぁぁ!!」


 叫び声は虚しく木霊する。巨大な空洞の中に一人置いてけぼりにされたような、なんとも心細い気分だった。


 父と『真実』が家に戻った後、私はしばらく途方に暮れていた。途方に暮れて、雪夜に一人立ち尽くしていた。

 現実感は皆無。知らない世界に放り込まれたかのようで、頭は真っ白だった。

 真っ白なのは頭の中だけではなく、頭の上もだ。頭に雪が積もったという意味ではない(ちなみに、降雪の中で暫く過ごしたというのに頭は水滴一つなく乾いていた)。私の髪が、絹糸のような見事な白髪になっていたという意味だ。

 まあ、髪が突然真っ白になるくらいのことは、人生生きていれば一度くらい、偶然に偶然が重なればあるとして。そして、体が見覚えのある白のワンピースに包まれていることも、まあなくはないとして。

 しかし、私が父から知覚されなくなっていたり、雪を窪ませることすらできなくなっていることを見ると、もう認めざるを得ないだろう。

 どうやら、私の体は白髪の君のそれになってしまったらしい。

 意味がわからない。本当に。全部。しかし私の性分では思案を放棄することもできず、結局漠然としばらく耽った後、惰性に身を任せて家に戻った。いくつか確認したいことがあったのだ。それらを確認した後、どうせ誰も私がいることに気が付かないのだ、家に居座ることも出来たが、いたたまれない気分になったためにたちまち家を出た。時刻は夜の十時頃だった。

 目指す先は最寄り駅だ。駅前のように人が多い場所なら、一人くらい私の姿が見える人がいるかもしれないと希望を抱いたからだ。正直、叶うはずもないとわかっているが。

 不安。

 なんて一言では全く表しきれないほどの不安。それに押し潰されるようで、体は鉛のように重い。しかし、進んできた道を振り返って見ても、地面に積もった雪に、私が歩いた分の足跡は出来ていなかった。


 そんなわけで最寄り駅に到着した私は、今もこうやって行き交う人々に呼びかけを続けているのだった。

 電車が発車する音が降り注ぐ。今回も駄目か。駅に来てからはや一時間。かなりの人数が私の前を通ったが、私の声に反応する人、私の姿が見える人は未だ現れない。

 もう駄目なのか? いや、終電も間近だし、それまでは諦めず踏ん張ろう。弱気になりそうな自分を鼓舞すると、数人の男女が遅れて改札から出てきた。

 若いカップルと、スーツを来た中年男性はこちらを見ない。その奥にいた一人――大柄な男はどうだろうかと見てみると、なんと、目が合った、ような気がした。


「……ッ!」


 しかし、私は反射的に目を逸らしてしまった。理由は私にもわからない。ただ、あれはまずいと、知識や経験ではない部分によって頭の中に危険信号が出されて、意識より先に勝手に体が動いた。

 だが、ここに来て初めて私のほうを見た人が現れたのだ。偶然かもしれないが、もしそうだったとしても確認しなければ。

 私は自ずと震えだす手を押さえながら、おっかなびっくり目線をその男のほうに向ける。やけに体格のいい、精悍な顔つきのその男は、もうこちらを見てはいなかった。不思議とそのことにほっとしている自分がいた。

 男は改札を抜け、私のすぐ隣にある出入り口を目指して進む。その姿を、私は期待と不安の両方を抱えながら、終始目で追っていったが、狙いはハズレ。彼が再び私の方を見ることはなかった。


「なんだ、気の所為か」


 落胆を隠しもせずそう言って、男とすれ違うタイミングに、私はふと、瞬きをした。刹那の暗転の後、光を取り戻した視界に、そこにあるはずの男の横顔はなかった。いや、きっとそれは男の横顔ではあるのだろう。しかし、一見してそうとはとても認識できなかった。

 異形。

 横目で見た先、男の、筋肉で大きく盛り上がった首の上は、とても人間のものには見えない、何かおぞましい異形に変化していたのだ。その変わり果てた姿に、私は全身を戦慄させずにはいられなかった。

 元の粗野な面影を残したまま、一回りか二回り増大した顔は筋骨隆々になり、肌は鉄錆のような赤色へと変わっていた。右の額には太い角が一本、口からは刃物のような鋭い牙が二本剥き出している。その形相には獰猛な獣を思わせる荒々しさと、見た者の魂を底から慄かせるような凄まじい威厳があった。

 それは正しく、私の想像するところの鬼のようであった。

 臓腑を鷲掴みにされたような恐怖。叫び出したくて堪らなかった。しかし、喉を縛り付けられたように声は出なかった。

 ついぞ一瞥をくれることもなく、何気ない顔で、しかし尋常ならざる空気を発して通り過ぎていくその鬼を、私は体が震え出さないように必死に堪えながら、視線だけで見送った。離れていく後ろ姿から片時も目を離さなかった。離したら死ぬと、そんな予感を本能が告げていたからだ。

 男が駅前の人工の光が照らす範囲から出ると、視界を横切る雪と被って、姿が一瞬闇に紛れた。見えなくなったこの一瞬の間に殺されるかもしれないと、そんな経験もないのに、本能的に身の毛がよだったが、実際そんなことは起こらず、むしろ反対のことが起きた。

 瞬きと変わらぬ短い間に、鬼は元の人間の姿に戻っていたのだ。その拍子に、全身を圧迫していた常軌を逸した凄みと、それに触発されて湧き上がっていた恐怖も、綺麗さっぱり払拭されていた。先程までのことが嘘のようだった。


「なんなの、今の化け物……」


 男が角を曲がって姿が見えなくなっても、私はしばらく、放心状態で立ち尽くすよりほかなかった。




 終電まではまだ数本電車が到着する。もとの予定では最後の一人まで呼びかけを続けるつもりだったが、私は早々に引き上げて駅のそばにある公園に向かった。鬼との邂逅で神経が摩耗してしまって、これ以上続けられそうになかったからだ。時刻は深夜零時を回った頃だった。

 そこは、多様な遊具と広いグラウンドがある中規模の公園だ。中心辺りに噴水があるため、地元の子供達はここを噴水公園と呼ぶ。夕方などは子供達で溢れ返るこの公園も、夜闇に沈むこの時間帯は誰もいない。子供達の騒ぐ声が聞こえないと、公園という場所はここまで寂寞とするのかと新鮮に感じるとともに、一帯が雪化粧されていることもあってか、一種の親近感のようなものを抱いた。

 道路沿いに植えられた桜の木にもたれ掛かり、ずり落ちるようにその場に座り込む。

 小さい頃は私もよく両親に連れてきてもらって、そこの遊具で遊んでは落ちたりしたものだ。一度、ジャングルジムのてっぺんで足を踏み外して、ガタガタと全身を打ち付けながら落ちたことがあった。その時の母は確か凄い慌てふためきようで私のもとへ駆け寄り、私が大怪我をしたのではないかと真っ青になっていた。結局、運良く大した怪我はしていなかったが、そこまで心配してくれるとは、私もかつては愛されていたんだな。


「はぁ……」


 哀愁を帯びた溜め息をついて項垂れる。顔の横に白い絹糸が垂れた。勝手に思い出して勝手に寂しくなるとか、なんとも悲しいやつだ。

 木の下なら雪もしのげるし、このままここで寝よう。今日は色々ありすぎて精根尽き果てた。もう何も考えたくなくない。寒さなど微塵も感じないのに自分をそう納得させて、瞼を閉じる。自ずと頭に浮かぶ今日の記憶を無理矢理に剥がし取って、代わりに風や枝の擦れ合う音に集中して、努めて何も考えないようにした。蹲って、頭の中を空っぽにして、ゆっくりと、ゆっくりと、沈んでいって……


「あの」


 ――呼び起こされた。

 突然の声に私は飛び起きる。ぼやけた視界が段々と輪郭を得ていくと、雪の中、傘を差さずに現れたその人は、薄いグレーのダッフルコートに身を包んだ美青年だった。


「ずっとここで蹲っとったみたいだけど、大丈夫?」


 期待の色眼鏡を通して見たため正確性は保証しかねるが、彼に抱いた最初の印象は、クールな大学生、だった。雪に濡れている所為か艶のある、パーマの掛かった黒髪。その後ろからは、同じく黒色のギターケースが飛び出している。気がかりそうな表情を浮かべた面長の顔。その目鼻立ちはかなり端麗だ。夏の空を映したような濃い蒼色の瞳が嵌った双眸は眦が鋭く、それを向けられると、見られたというより、射抜かれたという感じがする。しかし反対に表情は何処か締まりがなく、気怠げな印象を抱くが、それもまた気取らない自然なクールさを加速させる。

 と、つらつらと彼の印象を語ってきたが、今はそんなのどうでもいい。それよりも重要なのが、


「……ッ!」


 足音もなく近づいてきて、目の前に屈んでこちらを覗き込むその青年の視線が、完全に私を捉えていたことだ。


「あ――ッ!!」


 私はつい大声を出してしまった。そして身を乗り出しながら、わたし、気になります! と言い出さんばかりの、驚きと期待に煌めかせた目で見つめる。


「うわっ……」


 顔をしかめて顎を引く青年。いきなりのことに驚いている、というか若干引いているようだ。目玉が飛び出そうなほど目を見開いた、しかも知らない人に迫られたのだから無理ない。


「弱っとんのかと思ったら急に元気になって、本当に何なんだ?」


 整った眉をひそめられるが、私の内心はそれどころではなく、ついに、ついに……と胸の中がはち切れそうになっていた。堪らず、私は青年の手を取る。

 その時不意に、彼から違和感というか、変な感じがした。つい先程にも何処かで同じようなそれを感じた覚えがあって、思い当たる節を探ると、すぐに行き当たった。

 駅ですれ違ったあの鬼と同じ感じだ。

 途端に、背筋に嫌なものが走った。咄嗟に危険を感じて手を離す。ただ、そうしてから、改めて青年を見ると、どうやら私の警戒しすぎだったことに気付いた。

 彼からは変な感じがするだけで、相手を萎縮させるようなおぞましさは、あの鬼とは比べ物にならないほどに少ない。というか、ないに等しい。彼に対しては、あの本能的な恐怖は湧かなかった。

 そのおかげか、すんなりとこれが聞けた。


「私が、見えるんですか……?」

「うん、見えるけど……」


 不審そうな顔で、しかし私の目をしっかりと見て答える。


「見えるんだ……、見えるんだ……!」


 安堵感が熱を帯びて胸の中を込み上げてくる。誰かが私を見ているという、本来ならば何でもないことが、今だけはこれまでに味わったことがないほど嬉しかった。

 それを抑えきれなかった。衝動の赴くまま、気がついたら青年の胸に飛び込んで、その引き締まった体に腕を巻き付けていた。


「よかった、よかったよぉ……。うっ、うっ……」


 涙がぶわっと溢れ出す。喉が締め付けられたように痛い。胸が苦しくて、小刻みに震える唇から何度も嗚咽が漏れた。


「ええ……」


 突然のことに青年は困惑した様子で身動ぎするが、絶対に離したくなくて、腕が軋むほど強く抱き締めた。申し訳ないと思いながらも、涙と鼻水を垂れ流したまま顔を左右に振って、彼の胸元に擦り付けた。それほどに、彼が離れていくことが怖かった。


「――――」


 それが伝わったのか、或いは抵抗を諦めただけか、青年は体の力を抜いて私を受け入れてくれた。私はゆっくりと全身を預けていく。それに従って、締め付けられていた喉も緩んで、声が出るようになった。


「あああぁぁああ!!」


 夜の公園に慟哭が響き渡る。迷子になって親を見つけた子供のように、青年の胸の中でわんわん泣き喚いた。

 白髪の君との一件があってから、私は誰からも知覚されなくなった。そんな荒唐無稽な状況下で、ここまで気丈に振る舞ってきたが、それは表面一枚、ギリギリのところだけで、心の底で湧くのは、これから先ずっと誰も私を見つけてくれないのではないかという恐ろしい想像ばかり。悪い想像が現実味を帯びていく度に、私は得も言われぬ恐怖に押し潰されていた。

 そんな中、駅でようやく発見した、私と目が合ったそれはおぞましい化け物ときた。私の精神は更にすり減って、いよいよ限界間近だった。私の今の体に重さなどないのに、移動する時は常に、鉛を背負って歩いているようだった。

 私は自分を迷子の子供のようと形容したが、これは比喩などではなかった。一人でいることの恐怖に押し潰されながら、誰かに見つけてもらおうと道に迷う私は、正しく迷子の子供だった。

 だが。

 この瞬間、この公園で、この青年に、私は見つけてもらった。それにどれだけ私が救われたことか、きっと彼には計り知れない。

 青年は泣き喚く私をそっと抱擁すると、我が子をあやすように、優しくトントンと背中を叩いた。その感覚は心地よく、胸を破裂させそうなほどだった安堵感をゆっくりと落ち着かせてくれた。彼に、全開だった私の感情の蛇口をそっと閉めてもらったかのようだった。

 やがて涙も収まり、激情が引いていった私の胸中は、凪のように静まった……わけではない。が、とにかく私は青年の胸元から体を剥がした。見ると、彼のダッフルコートは染み一つなく綺麗だった。そのまま彼の顔を見ることは出来なかった。初対面なのにいきなり抱きついて、泣いてしまったことに、申し訳なさと気恥ずかしさの混じって、酷く決まりが悪かったのだ。


「ごめんなさい、いきなり泣きつたりなんかして……」


 顔を伏せたまま謝る。そろそろ青年の驚きと熱も冷めて、怒っているか不快に思っているだろうと身を小さくしていたが、


「全然いいけど、それより大丈夫か?」


 返事は思ったより明るく、負の感情よりも心配が勝っているようだった。


「大丈夫……とは言えないです……」


 大丈夫、が何に対して聞いているのかはわからないが、おそらくは私の行動全てに対してだろう。ただ、何を指していたとしても、大丈夫でないことは確かだった。

 とはいえ、人から姿が見えなくなった、なんて突拍子もない話をして大丈夫だろうか。頭のおかしい人だと思われるだけではないだろうか。気まずくて、辺りに視線を彷徨わせながら考えていると、不意に聞かれた。


「君、名前は何て言うんだ?」


 名前。そういえば自己紹介がまだだった。名前も名乗らず話を進めようとしていたのは早計だった。これを聞かれて、私は自分が焦りすぎていることに気が付いた。

 まずは一度深呼吸。それから意を決して顔を上げた。私と向かい合わせで、雪の上に胡座をかいている青年は、火星人でも見るようにこちらを見ていた。変に意識しているのが私だけだと知れて、余計に恥ずかしくなってしまった。


「真実、です」


 目を伏せて言った。


「真実、ね。勝手に呼び捨てにさせてもらうよ」

「はい」

「あと、敬語は使わんでいいよ。敬語で話されると俺がやりにくいもんで」

「わかり……わかった」


 なんだか青年のペースに飲まれしまう。初対面にしては距離の詰め方が早い。


「それじゃあさっそく本題に入るとして――」

「え?」


 まるで初対面の挨拶が終わったかのような雰囲気を出す青年に、私は思わず声を零す。


「え?」

「え?」


 コントのように、出鼻を挫かれた彼と互いに顔を合わせて、目をパチクリさせる。羞恥心など一瞬で吹っ飛んで、気付いたら普通に彼の顔を見ていた。


「いやいやいや、あなたは誰なの?」

「ん?」

「だから、人の名前は聞いておきながら、あなたは名乗らないのって?」

「ああ、そっか。忘れとったわ」


 ハッとした顔でそう言う彼は、とても演技には見えなかった。本当に忘れていたらしい。本当か?


「俺はあおい。それじゃあさっそく――」

「いや、短っ! それじゃあなたが青いってことしかわからなかったけど!?」


 初対面なのにツッコミを入れてしまった。ハッとしたが青年は気にした風もない。


「確かに俺は青いけどね? 目も青いし、人としてもまだ青い」


 誰がうまいこと言えと。


「けど、真実のほうこそ名前しか教えてくれとらんやん」

「あ、名前なのね、あおいが。まあそうだけど……」


 それは彼が独りでに話を進めるからであって……ああ、この人結構やりづらいかも。


「それに、自己紹介なんかするよりさっさと本題入ったほうが話が早いからなぁ」


 あおいが面倒くさそうにボヤく。つい聞き流しそうになったが、私はそれを聞き逃さなかった。

 話が早い、とはどういうことだろうか。まるで何かを知っているかのような口ぶりだ。


「本当!? ならもういいよ。本題に入ろう?」


 私は飛びつく。自分の身に起きていることを把握する手掛かりがあるのなら、それが何より優先だ。自己紹介など後でいい。何度も話の腰を折っておきながら早く話すように促すのは虫が良すぎるが、この際はやむを得まい。


「結局そっちでいいんかい。でも、せっかく自己紹介する気満々でアップしとったのに、今更しないのもなんかなぁ……」

「じゃあダウンしてもらって」

「ええ?」


 物欲しそうな目でこちらを覗き見る蒼勇。


「そんな捨て犬みたいな目しないでよ……」

「くうぅん……」

「可哀想な鳴き声出して庇護欲を誘ったって無駄だよ!?」


 大袈裟に言っても、彼はその目をやめない。


「ねえ、良いだろ? ちょっとで良いから。先っちょだけで良いから」


 前かがみになって顔を近づけてくる。


「先っちょも駄目! って、そもそも先っちょって何の!?」


 私は頭を振って後ろに退こうとするが、木の幹が邪魔して下がれない。その間にもあおいは迫ってきて、鼻先がくっつきそうになったところでようやく動きを止めた。顔に吐息がかかる。

「ねえ、いいだろ?」


 色っぽく言われては音を上げざるを得ない。私はこういうのは慣れていないのだ。


「……わかったよ。手短になら」


 顔を背けて不貞腐れたように許可する。


「やった!」


 無邪気に笑って顔を離す蒼勇。差し迫った危機が去った私は目を瞑ってほっと息をついた。


「じゃあ改めて、俺の名前は『あおい』。顔面蒼白の蒼に、勇気の勇って書いて、『蒼勇』」


 顔面蒼白って。


「十九歳、男性。書類上は引っ越しのバイトをしとることになっとる。あとは……」

「はいはーい。もう十分わかったので大丈夫です~」

「自己紹介って言ったら好きな食べ物か……え、もう?」


 余程楽しみにしていたのか、ただの自己紹介なのに随分と楽しそうに語ってくれた。それを遮るのは心苦しいが、私は内心、今にも蒼勇の本題とやらを聞きたくて仕方がないため、饒舌に語る彼の声に重ねて声を張って、半ば無理やり中断させた。彼は少しだけ時差がありながらも話を止めた――


「そうだ、食べ物で思い出した! ここの駅前のマックって確か十二時半まで開いとるよね?」


 と思いきや、そんなことを言い出した。突然の話の飛躍についていけず呆然とする私をよそに、彼はポケットからスマホを取り出して時間を確認する。


「もうこんな時間やん! ちょっと行ってくるからここで待っといて!」


 そう言いつつ、背負っていたギターケースを丁寧に地面に置くと、凄まじい瞬発力で地面を蹴って走り出して、矢のような速さでマックへ行ったのだった。


「へ……?」


 私は呆気にとられてその場から動けない。第一印象はあまり参考にしないほうがいいと、そんなどうでもことを、私は今日学んだ。


「――――」


 置いていかれた闇色のギターケースが、不思議と寂しそうな顔をしているように見えた。

 そしてきっと私も――そんな顔をしている。




 蒼勇がマックから帰ってきたのは、ギターケースに薄っすらと雪がまぶされた頃だった。

 マックの紙袋を片手に現れた彼は、疾走してきたというのに、息一つ乱していなかった。


「どうだった? 愛しのマックさんは」

「ギリギリセーフだったけど、まだ開いとったわ」


 気丈に振る舞って、皮肉を込めて言ったが、皮肉と受け取られなかったようだ。だが態度と裏腹に、彼が帰ってきたことにほっとしている自分がいるのも確かだった。

 彼がいない間に一歩も移動しなかった私は、相変わらず木の幹に背を預けて座り込んでいる。蒼勇はその隣に並ぶように腰を下ろしつつ、紙袋に手を突っ込む。片手で器用に取り出したのは、Lサイズのポテトのカップ二つだった。

 それだけ取り出すと、もう片方の手で紙袋をくしゃくしゃに丸めた。どうやら買ってきたのはポテトだけらしい。


「夜ご飯買ってきたんじゃないんだ。てっきり夜ご飯まだで、ダッシュで買ってきたんだと思ってたけど」


 言うと、蒼勇はこちらを向いて、「ん?」と不思議そうな顔をした。


「これ、夕飯だよ?」

「え、まさかの夜ご飯ポテトオンリー?」

「うん。だってポテト美味いやん」

「理由になってない……。ていうか足りなくない? 男子って普通、もっと沢山食べるもんじゃないの?」

「男子って一括りにされてもなぁ、知らん。それとも、ああ、もっと買ってきてほしかった? ポテト」

「いや、買ってくるにしてもせめてポテト以外でお願いします」


 私が遠回しに食事の増量を要求しているのだとでも受け取ったのだろうか。しかし私は別に空腹ではない。というかそれ以前に、食事をしたいという欲求すら全くない。


「そう。まあ既にマック閉まっとるだろうから無理な話だけど……。はい」


 と、蒼勇が私に一カップ差し出した。


「あ、一つは私のなんだ」


 手を伸ばしてそれを受け取ろうとして、――虚空を掻いた。私の手がカップをすり抜けたのだ。


「あれ、掴めない……」


 それを見て思い出されるのは、玄関に向かって遠ざかっていく父の背中。――顔から血の気が引く。


『待って、待って!』


 届かぬ声。そして――必死に伸ばすも、父の体をすり抜ける手。

 当時の情景が蘇る。私は焦燥に駆られ、やたらに繰り返し掴もうとするも、結果は言うに及ばない。空振れば空振るだけ焦りと不安が膨れていくばかりだった。それが胸の中を圧迫するように苦しくて、涙が出そうだった。

 手が物をすり抜ける。そんな奇怪な光景を見て、蒼勇は何を思っただろうか。そう考えると、途端に頭に冷水をぶっかけられたような心地になった。怖がられて逃げられなどしたら……そんな何よりも恐ろしい想像をした私は弾かれたように顔を上げる。

 しかし、そんな心配は無用だった。


「あっちゃー」


 彼は手元を見ながらも、おどけたように掌で自分の額を叩いていた。深刻さを感じさせない様子に、私は毒気を抜かれた。

 何故そんな反応をしているはわからないが、ただ、これを見ても驚いたり、怖がったりしないということはやはり、


「蒼勇は私がどうなっちゃてるのか、何か知ってるの?」


 尋ねると、彼は何かを誤魔化すように咳払いをして、私に渡そうとしていたカップからポテトを数本摘み出す。


「いや、真実については何も知らんよ。いや、ちょうど今一つ知ったというか、思い出したというか……」

「え、何?」


 知ったとか知らんとか、答えがいまいちはっきりしない。

 ポテトを頬張った口でもごもごと言う。


「知ったことは、だから、今真実が見へてくれたやん」

「ポテトに触れなかったこと?」

「ほう」


 ごくりと飲み込む。


「厳密に言うなら、真実が物を動かせないタイプの化け物だってこと。それをど忘れしとったわ。そうならそうと先に言ってよね? ポテト買いすぎちゃったやん。まあそれならそれで、俺一人で美味しく頂くけども」


 ん? 彼は何を言っているのだろう。


「……ちょっと、意味がわからないけど……。化け物? 私が?」

「ん?」


 まるで私が化け物かのような言い方をする蒼勇に聞き返すと、彼は手を止めた。形のいい眉をひそめている。


「冗談だろ?」


 今度はその眉を上げてフッと笑う。そして、私が心の何処かでは気付いていながらも、認めたくなかった事実を真正面から叩きつけてきた。


「まさか、この期に及んで自分がまだ人間だと思っとんのか?」


 挑発的な色を孕んだ響きが、空っぽの頭の中でいつまでも木霊していた。

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