第1話「逢魔が時・1」

 冬の夜。ドアノブに手を掛けて玄関の扉を開くと、外では夜闇の中を、柔らかな雪がしとしとと降っていた。

 玄関先に広がる駐車場と、その先の道路が雪に埋もれたことで境目が消え、一面が凹凸なく真っ白になっている様はなかなかに美しく、これからここを踏みつけて通ることが、芸術品に傷をつけるような行いに思えて気が咎めた。

 その雪のカーペットを突き破って、暗闇に溶け込んでしまいそうな黒い街灯が一本生えている。それは、しなだれる枝のように高い位置でL字に曲がっていて、先端に取り付けられた灯りはちょうど真下を照らしている。その光芒はスポットライトのように夜闇を切り裂き、雪の舞台に白く輝く円を浮かび上がらせる。闇に紛れて空からゆっくりと落ちてくる雪が、光の円錐の中でのみ白色に輝くその様は、まるで、そこだけがこの世界から切り取られているかのようだ。

 そこを別世界に思わせる原因はそれだけではなかった。

 君の姿。

 消えてしまいように白く。

 見惚れるほどに美しい。

 そんな君の姿が、そこにはあった。

 あの時と同じ姿、同じ色、同じ空気を纏って、そこに――光の円錐の中央に、君は立っているのだった。

 いっそそれだけで、私にとってそこは別世界足り得た。

 淡い光を浴びて、ぼう、と降り続ける雪と共に輪郭が浮かび上がると、その親和性に、不意に、どちらが君でどちらが雪なのかわからなくなってしまいそうだった。

 君は手を後ろで組み、少し前傾姿勢になって、上目遣いでこちらを覗き込む。その堂に入ったあざとい仕草に、私は息を忘れて見惚れていた。

 ここで、君とは誰かを説明しよう。もっとも、君については、それこそ名前すら知らないくらいに、ほとんど何も知らないため、正しい説明が出来るかは自信がない。ただ、私の目に見えたことを見えたまま語ろう。

 君との出会いは、今からおよそ一ヶ月前、十一月のとある晩に遡る。


 あの晩は、私は自部屋で一人の時を過ごしていた。しかし、心身ともに消耗しきっていた所為だろう、ベッドで横になってスマホを弄っていると、沈み込むように寝落ちしてしまった。

 君と出会ったのは、そうして眠りについて見た夢の中でのことだった。その夢を私はよく覚えている。普通の夢のように、目が覚めたら忘れるようなことはなく、通常の記憶みたく、時間が経過するにつれて次第に希釈されつつも、今でもしっかりと思い出せる。

 場所は家の前。時間帯は夜。世界を満たす真っ暗闇に潜むように、柔らかな雪がしとしとと降っていた。街灯の真下、闇を切り裂く光の円錐の中に、まるで壇上の舞台役者のように、泰然と佇む君の姿があった。君が演者だとするならば、私はそれを席から見る観客だろうか。いや、そんな妄想じみた舞台設定は些末なことにすぎない。大事なのは、私が君をひと目見たその瞬間、そのあまりの華麗さに、対等ではない形で、君に対して一方的に、恋に落ちてしまったということだ。

 有り体に言えば、お恥ずかしながら、私は十八年の人生で初めての経験となる一目惚れをしてしまったのだ。

 君は白かった。その印象が強く刻まれたのは、背中まで伸びる、絹糸のような真っ白な髪が一番に目を惹いたからだろう。柔らかに波打つ一本一本が、街灯の光を反射して白金色に煌めいていた。

 君は美しかった。白髪の下にある顔を見て、知らず息を呑んだ。少年か少女か判別のつかない中性的な目鼻立ちは、この世のものとは思えないほどに美しく、気がついたら私は見惚れていた。


「さあ、願いを言ってごらん。このボクが、どんな願いでも一つだけ叶えてあげるよ」


 君の桜色の唇が動いて、言葉が紡がれる。脳がとろけるような甘い声だった。それに鼓膜を震わされ、私は我に返った。しかし依然として、目の前の状況をまるで理解できない。

 目の前のことだけではない。自分がどうしてここにいるのか、先程まで何をしていたのだったか、頭の中に雪のカーテンが掛かったように思い出せない。そして代わりに、魔性の魅力に吸い寄せられるように、意識が意図せず君の美しい姿に向く。

 年は私と同じくらいだろうか。白のワンピースから伸びる、これまた白いスラッとした四肢。作り物のように整った二重の双眸。大きな瞳が金色に煌めく。


「綺麗……」


 呆けたまま漏らした感嘆は、無意識だった。


「綺麗だなんて、照れちゃうねぇ。そう言ってもらえるなら、わざわざ来た甲斐があったよ」


 しなやかな人差し指を白い頬に当て、君は上目遣いにこちらを覗く。


「さあ、願いを言ってごらん」


 そして初めと同じ言葉を繰り返す。


「願い……?」


 ようやく意識がはっきりしてきた私は呟く。しかし、願いと言われても心当たりがない。


「わからないけど、その前に、まず、あなたは誰?」


 わからないなりに、回らない呂律で、単語を一つ一つ繋げるようにして、今一番気になっていることを尋ねた。


「さしずめ、あなたの一番の理解者……といったところかな? あなたに寄り添って、あなたの願いを叶える。それがボクの役目さ」


 その甘い声を聞くのはやはり快感で、頭の中をマッサージされているかのようだった。脳が痺れながらも話は聞き流さないように注意した。

 しかし、やはり、


「私、お願い事なんてした覚えないよ?」

「ん?」


 そう言って首を傾げると、君も同じように小首を傾げた。その仕草は年齢よりも随分と幼気に見えた。

 お願い事をしていない――これは本当だ。少なくとも、記憶にはない。それとも覚えていないだけで、寝る前に何か考えていたのだろうか。思い出そうとしたが、夢だったからだろうか、思い出せなくてもいいような気がしてきて、考えるのをやめて君の方を見る。


「あれ? おっかしいなぁ」


 しかし、何故か、現状を理解出来ていないのは私だけではないらしい。君もその白髪を指に絡めながらうーんと唸る。


「本当にお願いしたいことない?」

「ないと、思うけど……」

「でも、ボクにお願い事があるからボクが呼ばれたんだよ?」

「なら、おかしいよ。誰か他の人と間違えたんじゃないの?」

「それはない」


 ふと口に出してみた言葉は、力強く、毅然と否定された。瞬きの間に君の纏う空気が変わった。硬くなった。張り詰めるというほどではないが、わずかに気が引き締まった。


「あ、ごめんね。怖がらせるつもりはなかったんだ」


 と思ったら即座に弛緩する。


「うん、ボクの言い方に語弊があったね」


 そして言った。力の抜けた声で、気負いなく。


「ボクにお願い事がない限り、ボクと話せることはないんだよ」


 ふと、びゅうと風が吹いた。煽られた雪が、巻き上がったり舞い落ちたり、波打つように踊り狂った。雪混じりの風は私の顔にも吹き付けた。肌を刺す冷たさに、目が覚めたような心地になった。

 その瞬間に初めて、私は自分が呼吸すら忘れて君に魅入っていたことを自覚した。咄嗟に息を勢いよく吸い、吐く時は俄然ゆっくりと。浮かび上がった白い靄が、紫煙のように立ち上り、やがて風に紛れて闇に消え入った。

 一ヶ月前のあの夢をそのまま再現したような眺めに、私は驚きや戸惑いを通り越して感動を覚えていた。

 夢の中で、あの後、君は「本当に願い事がないのなら用はない」と、興味をなくしたように言って踵を返した。


「でも、願い事が出来たら、いつでもボクを呼んでね。待ってるから」


 振り向くことなく最後にそう残すと、途端に街灯の光が消えて、視界が暗転した。しかしそれは一瞬のことで、すぐに電灯が再びついた。

 視界が戻った時には、そこに君の姿はもうなかった。

 そうして夢の時間は終わり、私は目を覚ました。翌朝の空は爽やかな晴天で、地面も乾いていた。言うまでもなく、積雪があったような跡はなかった。

 あの時はまだ願い事がなかった。しかし、今日は違う。願い事が出来たから君に来てもらったのだ。


「こっちにおいで」


 脳をとろけさせる声にうんと頷いて、私は呼ばれるままに、雪も寒さも意にも介さず、何かに憑かれたように歩き出す。まっさらだった白雪に、一つ一つと足跡が増える。

 こちらを見つめる金色の瞳を、私も熱心に見つめ返しながら十歩ほど進むと、光の円に踏み入る一歩手前で足を止めた。私にはその舞台に登る資格がないように思えた。目と鼻の先、手を伸ばせば届く距離に愛しの君がいる。


「ほら、手を出してごらん」


 君はその細くしなやかな、思わず握りたくなるような愛おしい手を私に差し出す。


「こう?」


 私も手を出す。


「そう。ボクの掌に手を重ねたら、あなたの願いを言ってごらん」


 言われた通り手を伸ばして、ゆっくりと近づける。君に触れてもいいのだろうか。壊れたり、溶けて消えてしまったりしないだろうか。途端に胸の中で不安が膨らんで、心臓が暴れだし、息が苦しくなる。額の辺りをじんわりと汗が流れる。


「大丈夫」


 耳元で囁かれ、顔を上げて君の顔を見ると、君は私の内心を見透かしたのように、包み込むような笑顔を浮かべた。

 君が言うならば、きっと大丈夫だろう。綺麗に拭い取られたように、胸に突っ張った不安が消え去った。これなら大丈夫だ。

 私は一度息を大きく吸い、続いて肺の空気を吐ききってから、覚悟を決め、手を伸ばす。まず指先が光の円錐に入ると、第一関節、第二関節、指の付け根と、光に照らされる範囲が少しずつ広がっていく。亀が首を伸ばすのよりもゆっくりと、光の円に影が一つ伸びていく。手の甲全体が光に覆われた頃、まだ少しだけ震えを帯びた指先が、君の指先にちょこんと触れた。


「あっ……」


 思わず声が漏れる。この一連の様は、まるで初めて手を繋ごうとする中学生カップルのようで、傍から見たらさぞ滑稽に映ったことだろう。だが、そんなことすら気にならないほど、私は君と手を重ねることに傾注していた。

 壊れそうに柔らかい指。肌はすべやかで温度感も同じ。触れ続けたら、そのまま親和するように溶け込んでしまいそうに錯覚した。いや、いっそ溶け合ってしまいたいと、それすら歓迎する心地だった。

 そっと指先同士を合わせてから、君の指の腹をなぞるように私の指先を動かしていく。指同士が擦れ合う感触が気持ち良い。なんだかくすぐったくて、私はつい肩を竦めてしまった。優しく、我が子を愛でるように撫でてから、ゆっくりと掌を重ね合わせる。手の大きさは同じくらい。少しずつ触れ合う面積が増えていき、やがてぴったりとくっつくと、掌全体が柔らかに包み込まれる。すると、心も柔らかに包み込まれるようで、胸が幸福感にいっぱいに満たされた。


「さあ、願いを言ってごらん。このボクが、どんな願いでも一つだけ叶えてあげるよ」


 そうだ。私はこの願いを、――私ではどうにも出来なかったこの願いを叶えてもらうために、君を呼んだのだ。

 私は誘われるように顔を上げて、恐ろしく整った君の白い顔を見つめながら、それを口にする。


「私の願いは一つ。――ただ、みんなに幸せでいてほしい」


 万感の思いを込めた願いの言葉は、思いの外あっさりと、無事に世界に紡がれた。しかし、本当に聞きたいことはここからだ。その質問をしようして……と、そんな悠長な私の見立ては実に甘かった。

 そのことに気付く暇すらないほど、直後の出来事は一瞬だった。その感覚は喩えるなら、全身で脈打っている命の灯火が、掌の一点に向かって急激に吸い寄せられ、触れ合う君の掌へとごっそりと抜き取られたようだった。その感覚の直後、酷い立ち眩みを起こしたように全身が脱力。電源が切れたように視界が暗闇に染まると、たちまち意識が途切れた。

 事態が、私の想定から大きく外れた瞬間であった。



 ◆



 次に目を覚ますと、今度は反対に目の前が真っ白に染まっていた。そう見えたのは、私がうつ伏せで地面に這いつくばっていて、視界いっぱいに雪原が広がっていたからだ。

 倒れてしまったのだろうか。起き上がろうとするが体に力が入らない。いや、入らないというより、感覚がない。雪が積もっているとはいえその下はコンクリートだ。倒れた拍子に何処か打ち付けて怪我しているかもしれない。そう思ったが、痛みはおろか、肌が地面に触れる感触も、雪のキンとした冷たさも感じない。

 やはり感覚がない――と改めて首を動かそうとすると、不思議と思い通りに動いた。感覚はないのに体は動かせる。

 奇妙だと思いながら頭の位置をずらすと、不意に、顔の前に何かが垂れ下がってきた。これは顔に擦れるとくすぐったかった。視界を掠めるそれは、透き通るように真っ白な絹糸の束だった。

 いや、違う。柔らかく波打つ真っ白な髪だ。それを見て思い出す。


「君は何処に!」


 弾かれたように顔を持ち上げると、すぐ目の前には光の円の舞台。その中心に、紺色のパジャマにだらしなく身を包んだ、栗色の髪を肩の高さで切り揃えた、大人びた顔立ちの少女がいて、私は言葉を失った。

 へたり込んでいる私のすぐ傍で立っていたその少女は、他でもない――私だったからだ。

 それ以外に説明のしようがない。服装から体型、髪型、目の下のほくろの位置まで一緒。私とそっくりそのまま同じ姿かたちをした人のことを、私以外の何と呼ぼう。或いは、こう呼ぶのかもしれないが。


「ドッペルゲンガー……?」


 本当に訳がわからないことを前にすると、どうやら人間は固まって動けなくなるらしい。私は今それを証明した。私は混乱すらしなかった。目に映る光景が理解の限界をひとっ飛びに超えると、思考がぷつりと停止して、『私』の姿を呆けたまま眺めることしかできなかった。

 これは夢、だろうか。しかし、夢にしては意識がはっきりしすぎている。そのうえ、この家の前は間違いなく本物だ。

 では、現実か。いやいや、現実的に考えて。まさか自分自身が目の前にいることなど有り得ない。

 夢にしてはリアルすぎて、しかし、現実にしては奇怪すぎる。

 どうなっているのだと考えていると、――そこで、不意にガチャリと音が響いた。その音を拍子に、止まっていた時間が急速に動き出したように感じた。首を捻って振り向くと、家の玄関の扉が開いていて、そこから出てきたのは父だった。


「真実?」


 私の名前を呼ぶ。


「こんな夜に、外出て何してるんだ?」


 彼のその声に咎めるような刺々しさはなく、純粋に心配しているようだった。

 我ながら意外なことに、私は父の姿を見てほっとした。彼を未だに家族として受け入れることは出来ないが、それでもこの意味不明な状況下で、心の支えになりうる程度には信頼を寄せていたらしい。

 縋るような気持ちで「お父さん!」と声を上げようとした瞬間だった。


「ごめん、ちょっと外の空気吸いたかっただけ」


 私の発言を遮るように、すぐ隣で誰かがそう言った。聞き馴染みのある、誰かと全く同じ声で。

 声のほうを向いた私は絶句した。私の前に立つ私が喋っている。そんな衝撃的な絵面に対してもそうだが、何より目を疑ったのは、もう一人の私(仮に『真実』と呼ぼう)が、あろうことか、父の呼びかけに対して、私のふりをして答えたことだ。隣に這いつくばる私を差し置いて、自分が本物だと言わんばかりに。

 ここで言明しておかなければならないが、彼女が喋ったのは私の意思でも指示でもない。彼女が独りでに声を出して、言葉を発したのだ。

 それはつまり、荒唐無稽極まりないことで、信じがたいことだが、『真実』は私の姿をしているだけで、私ではない、ということを意味する。

 しかし、それは自分自身のことだからわかることである。


「そうか」


 『真実』の外見も声も、寸分違わず私と同じなのだから、父はそのことに気付けるはずもなく、平然とそう言って玄関から出ると、彼女に向かってまっすぐに進み始めた。

 しかし、どうしてそうも平然としていられる。私が二人いることを異常だと思わないのか? いや、そんなことを考えている暇はない。騙されている父に伝えなければ。その『真実』は私ではなくて、それは偽物で、この私が本物の真実なのだと。

 私は立ち上がりながら声をかける。


「お父さん、違うよ。その人は私じゃない」


 父は無視して進み続ける。


「お父さん、聞いてる? 無視しないで!」


 叫ぶように訴えかけるが、父は無視し続けるどころか、反応しないし、こちらに視線を向けすらしない。


「あれ、どうして……。どうして反応してくれないの? わざと無視してるの?」


 私は歩みを止めようと、父と『真実』の間に立ちはだかる。すると、やっと父と視線が交わった。


「よかった、お父さん! もう家に戻ろう」


 聞こえているのか聞こえていないのか、父は目を合わせたまま、速度を緩めることなく私の目の前まで進み、私と鼻先が触れ合うほど近づく。そのままぶつかると見えた瞬間、父の体は私の体を通り抜けていった。


「ぇ……?」


 文字通り、通り抜けていった。私がそれこそ文字通り空気になってしまったかのように、私の体があるはずの場所を、躱すこともせず、何故かぶつからずにすり抜けていった。目が合ったというのは、私が彼の目線上に立ったからそう錯覚しただけで、実際彼が見ていたのは、私ではなかったようだ。

 それを示すように背後から声が聞こえてくる。


「寒いだろう。これを着るといい」


 電灯の下まで進んでようやく足を止めた父は、危惧した通り本当に『真実』を私だと勘違いしているようで、自分の着ていたコートを脱ぐと、『真実』の肩に羽織らせる。

 それを彼女は拒まなかった。


「ありがとう。お父さん」


 『真実』はコートの袖に腕を通しながら、父を見上げてぎこちなく微笑む。

 私は得も言われぬ衝撃を受けていた。ここまで『真実』の取った選択、言動、表情は全て、私だったらこうするだろうなというそれを完璧に模倣している。それは物真似というにはあまりに精巧で、全くもって違和感がない。これではもはや……。

 笑顔を向けられた父は安堵したように目尻を下げる。ちくり、と胸に針が刺さったような痛みを感じた。先程からそれ以外の感覚がないというのに、それだけは如実に感じた。

 視界を横切る雪が激しくなる中、私は相変わらずスポットライトの外から、スポットライトを浴びる父と『真実』を傍観していた。


「雪が強くなってきたな。家の中のほうが温かいぞ。戻ったほうがいい」

「うん」


 『真実』はまたもや父娘間の絶妙な距離感を演じ、家に向かって戻りだす。私は我に返って叫んだ。


「待って、待って!」


 伸ばした手は案の定というべきか、二人の背中をすり抜けて、空振りした私はバランスを崩してたたらを踏む。

 どうしてこうなった。白髪の君は何処へ行った。『真実』は何なのだ。父は何故私を無視する。私は何故父を触れない。理外の事態が立て続けに起こり、私の思考は真っ白に塗り潰されていた。パニックだ。

 二人は私を蚊帳の外に置いて、何気ない会話をしながら進み続ける。


「私の声が聞こえないの? 姿が見えないの? 体に触れられないの……? こんなの、こんなのまるで――」


 ――私がいなくなってしまったみたいではないか。


 私が一歩も動けず立ち尽くす間に、二人は我が家の玄関まで到着する。父が扉を開けると、『真実』はいけしゃあしゃあと、私がいつも浮かべているであろう作り笑顔を、私そっくりのその顔に湛えて会釈し、玄関に入っていく。それに違和感を覚えてくれ。願っても仕方がない。とにかくその笑顔を、父は幸せそうな心温まる表情で受け取り、追って家に戻る。

 また、ちくり、と胸が痛んだ。それはずっと私が受けていた温かさのはずだ。なのに、自分に向けられているのと、他人(私と同じ見た目をしてはいるが)に向けられているのでは全くの別物に見えて、それを受け入れてこなかったことが、父に申し訳なくて、自分が不甲斐なくて、何より『真実』が羨ましかった。

 自ずから閉まっていく扉が閉まりきるその瞬間まで、私の視線は扉の向こうの、和やかな家族の肖像を捉えて離さなかった。

 バタン――扉が閉まった。途端にびゅうと不吉な音を引き連れて風が強まった。雪も横殴りに顔にぶつかる。肌を刺す風が冷たいと、痛いと感じたのは、きっと本当に冷たくて痛かったからだろう。そう思うことにした。

 あれだけ綺麗だった駐車場の雪も、人が何往復かする間に、足跡で随分と穴ぼこになって、隠れていた黒いコンクリートが露出してしまっている。

 なんだか残念に思ったのと同時だった。雪に残る足跡に、若干以上の違和感を覚えた。


 ――玄関と光の円の間の線分上にしか、足跡が存在しないのだ。


 足元に視線を落とすと、乾いた白色のワンピースのスカートから覗く私の裸足の両足は、一ミリたりとも雪を窪ませることなく雪の上に乗っていた。まるで、雪を窪ませることすら出来ないほど、体重が軽くなってしまったかのように。

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