2.

 野営地は思いの他に静かでした。ただ、努めて静寂を保っているのではなく騒ぐ気力すら失われているという印象を持ちます。このあたりでは灰の影響も大きくないようでマスクをしていない方もちらほらと見受けられます。作業着を羽織ったあの男性は、物珍しいであろうこちらの身なりを一瞥したのち、自身の手元の食事に絶え絶えそうな興味を移してしまったようでした。あのテントの隅に座っている少年は、半身を巻き取る包帯の切れ目からは火傷の跡がちらと見えており、焦点の合わない視線で地面を見つめています。よく見れば袖の先にあるべきものもありません。あちらには、この野営地の管理者らしき数名が、伏した女性を囲んで何かを話し合っています。女性の首元には、今しがた隣の建物の屋根の引っ掛かりから取り外したのか、細く長く捩じったシーツが絡みついており———

「あまりじろじろと見るものではない」

肩に黒手袋が置かれて、わたしの身体が跳ねました。慌てて視野を狭めるように顔を下げ、ウォーレンさんの足元を追いかけます。ずかずかと歩く黒色のコートにしがみつくように歩き、足元を見ているはずなのに転がっている石片に躓きそうになっていると、ウォーレンさんが急に止まり、わたしも慌てて止まりました。

テントの森の端、ひときわ大きなテントが立ち、中ではあくせく動き回る人と暇を持て余して遠くを眺める人の二手に分かれている様子でした。ウォーレンさんはこのうち、暇を持て余している方の一人に声を掛けました。

「ん、なんだ……って、またあんたか」

 その方はウォーレンさんを見るなり深く息をつきました。

「何度来たって無駄だよ。アムシ―スは……」

「あれからもやはり情報はないのだな?」

「あるかと言われても、あるわけがないだろ……。この近くの村でさえ逃げ延びた人間が何人だと思っている?既に何もかも手遅れになった街のことを考えていられるほど、こっちも気楽じゃないんだ」

「その割には随分と呑気に景色とアルコールを楽しんでいるようだが?」

 この方はウォーレンさんからの煽り文句に舌打ちを混ぜた後、

「うるせぇな……暇ができたときに現実逃避でもしてねぇとやってられねぇんだよ……」

 ウォーレンさんはそれで用が済んだらしく、邪魔したな、と踵を返していきました。わたしはこの方のことが気にかかりましたが、余りに見つめていたせいかギロリと睨まれてしまい、この視線から逃れるように黒色のコートを追いかけました。

 ウォーレンさんとしては、他に宛はあるのでしょうか?

「申し訳ないが、特にない。私も、君のいた街のことで知りたいことはあるが……地道な情報収集しかないだろう」

 わたしとしては、それには頷く他なかったと言いましょう。物事がトントン拍子に進むこともありません。

「先にも言ったが、私はマリーの都合を優先する。君が望む結果を得られるまで付き合おう」

 その言葉に感謝の気持ちを述べつつも、わたしには、行きたい場所もなければ探そうと思うものもありませんでした。雰囲気や空気感から長居する場所ではないことは明らかでしたので、テントの森からひとまず、どこかへでも向かう馬車の集まりの方へ行こうという話になりました。

 連絡網の一環として扱われているからか、馬車の周辺も人の行き交いが他の場所よりも盛んな様子です。といっても、この場所に来たばかりで場所の空気に飲まれきっていない方々の発する音が主体のようです。

「大きな街に向かうのがよいだろうか。何も得られずとも、少なくともそのような場は楽しめるのではないだろうか」

 宛のない旅ならば、せめて楽しくしていこうと付け加えました。わたしもそれには肯定しました。少なくとも、情報屋さんの焚火を囲っていただいたお肉の味、あの味のような心の中が温まるような出来事を私が求めていないわけではありません。とはいえ、過剰な幸せをわたしが得るのはもったいないかもしれないと、多少の遠慮を感じないでもありませんでした。

そのような、杞憂じみた躊躇で頭の上に雲を作っているとき、太陽が一瞬隠れました。金属の鳴る音。衣擦れ、逆光の照りが目を差して、その薄めた眉をゆっくり開くと、人一人が、ナイフひとつで宙を舞っていました。


ガキンッ、という音が過ぎてゆき、ウォーレンさんは小型の火器で刃を受け、振り下ろした後でした。刃を向けたその人、その女性は空中の大回転の後、低姿勢に着地しました。

「受け流すなばかっ!」

 不満そうにナイフで空気を刻みながら姿勢を整えます。

「刃物を向けられてそのまま斬られる奴もいないだろ」

「仕事が面倒になるでしょ!とっとと刻まれときなさいよ!」

 反応が遅れましたがわたしはウォーレンさんの陰に隠れ、該当の女性の様子を伺います。周囲の方々も、トラブルかと注目を集めている方ももちろんいるのですが、このように十人十色な人が集会する場では日常的であるのか、関心を引いている方は少数のようです。

「目的はなんだ」

「唐突に切り込まれて心当たりもないわけ?」

「ない。少なくとも、初対面の人間なら喉元を狙うより先にすることがあるんじゃないか」

 ウォーレンさんとしては、至極真っ当なことを述べているつもりなのでしょうが、言葉の節々がこの方を挑発してしまったらしく、その挑発がこの方の感情のボルテージを更なる高みへと連れて行ってしまっているようです。

「取り立てに決まってんでしょ!しらばっくれんじゃないわよっ!」

「取り立てだと?」

 その女性はショートパンツに括り付けていた紙切れ一枚をこちらに見せつけました。それは何らかの取引が行われた証拠を示すような書類で、中央に大きな印章と、下部に誰かの署名がはっきりと見えました。この署名がウォーレンさんのものと言うことでしょうか。

 つまるところウォーレンさんはお金を借りていたということでしょうか。確かに、情報屋さんとの取引然り、どことなくウォーレンさんの資金源は気になっていましたが。

「まぁそうだ。東の方の街の金融でな。だが、返済期限は2年は先のはずだが」

「2年!? ちょっと、んなわけないでしょ!!あんたとっくに1年以上返済渋ってるって話じゃない!それも返済を催促したら逆上したって——」

「借りたのだって1月前だ」

「よくもまぁそんな嘘ばっかり言えるわね!ここに証拠だって……」

「それ貸してみろ」

「はぁ?……あっ、ちょっと!!」

 ウォーレンさんは、数歩で近寄り、書類を取り上げると、まじまじと見つめました。わたしとしてもどういう取り違えが発生しているのかと凡その見当がついてきたころです。あるいは本当にウォーレンさんが大悪党という線もあるのかもしれませんが。

「この印章だが」

ウォーレンさんは書類の大きな印章を指さして言いました。

「収入庁の印章と、特にこのあたりが違っている。あとで確認すればわかるはずだ」

「はぁっ!?そんなわけ……」

「許可はもらえたが行政に見限られてしまったとかそのあたりの理由をつけて君のような足の軽いものに頼んだ……そう言われたのだろうが、仕事は選んだ方がいい」

「ぐ、むぅ……」

 女性はしかめっ面で返された書類をにらみつけていました。

「いや、ごまかさないでよね!でないと頑張ってここまで来たあたしがバカみたいじゃない!」

 この場合、おそらくそのバカに該当してしまったのだと思われます。不運は不運だったのでしょうが、どうも騙されやすいのでしょう。

「第一、借金を取り立てに来て何故問答無用で切りかかるんだ。交渉から入るものだろう」

「それは……依頼元から、手が付けられないから問答無用で身ぐるみはがしていいって言われて……」

「なかなか私のことを過大評価してもらえていたらしい」

 評価というほど正の方向ではないとも思いますが。

「ともかく、君はおとなしくそれを破り捨てて別の仕事を探したほうがいい。私もあの連中はハナから信用ならないとは思っていたから、踏み倒すつもりではあったが」

 返す気はなかったのですね。

「2年あるとはいえ、収入能力がほとんどない今の私が返せる額ではなかったからな。それに……」

 それに?

「……いや、なんでもない」

 ウォーレンさんはマスクのズレを正して手にしていた小銃をコートの中に仕舞いました。

「……でも納得できない!」

 この女性は苛立ちを顔全体で的確に表現しながら、

「これが偽造なのか、ちゃんと確かめるまで一緒に来てもらうわよ!」

ぴっとナイフの切先で命令を下しました。ウォーレンさんはかなり億劫な様子を示しながらも、構わないか?とわたしに尋ねました。わたしがここで意見することは何もないと思います。元をただせばウォーレンさんが踏み倒す気でお金を借りたことが原因で、この女性がうまい具合に話をややこしくしてしまったことも原因で、思えばわたしは完全に巻き込まれているわけですが、だからと言ってわたしに都合らしい都合もありません。

「そういえば、その子は?」

「あぁ。私が保護した子だ。例の噴火で身寄りがない」

「へぇー……って、ちょっと!!」

 この方は、一度平静を保った顔をまた激しく顰めて、私の足元に駆け寄りました。

「あんたこんな小さい子を、靴も履かせずこんなとこ歩かせ続けてたってわけ!?」

「ん、あ、あぁ。思えば——」

「思えばー、じゃないでしょ!ああほら、こんなに足の裏も真っ赤にさせちゃって……」

 わたしを持ち上げてわたしの足を大きな手でさすります。確かに今思うと、灰の上を歩いていた時はまだしも、こうして瓦礫片混じりの地面の上を歩いていたわたしの足は傷だらけになっていました。自分でもあまり気付いていなかったようです。

「す、すまない……何も言わないから気付けなかった」

「この年頃の子は遠慮しがちなんだから、あんたが気付いてあげなきゃダメでしょ!!服だってこれじゃあ夜も寒いだろうし……」

 そのままわたしはこの方に抱きかかえられて、背中をさすってもらえました。体温を感じますが、体温以上の温かさも感じます。

「靴と、着る物!先にそっちそろえるから。ここからなら、クライストールに行けばひとまず揃うから」

 ナイフはもうショートパンツにくっついた鞘に納めていましたが、人差し指がまさに人を刺すようなほどにウォーレンさんに突き立てており、どうやら旅の主導権は奪われてしまった様子だと思いました。

 そういえば、お名前は何というのでしょうか?

「あー、そういえば言ってなかったわね」

 腕に抱えたわたしの髪をなでながらこの方は答えました。

「ハーツって言うの。よろしくね。あなたのお名前は?」

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