第3話 絵画

 愛華が芸術に興味を持ったのは、音楽だけではなかった。絵画にも興味を持ったのだが、それはプログレッシブロックを聴くようになってから、少ししてのことだった。

 プログレッシブロックの音楽は、隼人にCDを借りて聴くのがほとんどだったが、そのCDも実際には販売用ではなく、自分用に加工したものだった。

 だが、彼はCD(当時はレコード)ジャケットをプリンターでカラー印刷して、カバーとしてつけていた。そのジャケットがいかにも幻想的なものが多く、音楽の魅力を大いに引き出していた。

 ほとんどのジャケットは写真画像ではなく、絵として描かれたアートだった。それを見た愛華は音楽の魅力とともに、アートの魅力にも見出されたような気がした。それまで自分の中で封印してきた絵画への魅力に目覚めたとすれば、その時だったのかも知れない。

 CDを貸してくれた隼人は、高校時代は美術部に所属していた。今では絵画をすることはなくなったが、アートの魅力に目覚めた愛華は、さっそく隼人に話してみることにした。

 さすがに、

「先生になってほしい」

 と言って切り出すのはいきなりだと思ったのだが、なるべくなら教えてもらえればそれが一番だと思っていた。

「お兄さん、いつもCD貸してくれてありがとう」

 というと、

「いやいやいいんだよ。他ならぬ愛華ちゃんの頼みだからね」

 と言って、優しく微笑んでくれた。

 その笑顔は今まで知っている惰性の中でも一番で、従兄弟とはいえ、

「家族のようなイメージを持っているからではないか?」

 と感じたからかも知れない。

 愛華にとって両親は、

「近くて遠い」

 という表現が一番の人で、特に父親は顔すら半分忘れかけているような存在だった。

 クラスメイトの男性に対しては、正直毛嫌いしか感じていない。特に思春期になってからというもの、顔からはニキビの汚らしい吹き出物ができていて、その視線はいやらしさに満ちている。女性を見る目を思い出しただけで寒気が襲ってくるほどで、アレルギー一歩手前だったような気がするくらいだ。

 そんな男性への恐怖感に近いものが、父親の顔がシルエットでしか浮かんでこない印象に相まって、自分の中で男性という人種の存在を否定する気持ちになっていたとしても、それは無理のないことではないだろうか。

 かといって、そんなことを相談できるほど仲のいい女友達がいるわけでもない。しかも思春期の女の子たちも、どこか背伸びしたいのか、化粧を施したり、学校を離れると、学校での恰好とはかけ離れたいでたちで、街に繰り出したりしている。最初はその心境がどこから来ているのかよく分かっていなかった。

 愛華自身、化粧を施したり、自分を綺麗に見せようなどという欲は一切持っていなかった。その心境がどこから来るものなのかということも、理解不能だった。

 そこへもってきての男性不振である。

「愛華ももう少し垢抜けないと」

 と言っているクラスメイトもいたが、心の中では、

――余計なお世話だわ――

 と思っていた。

 もちろん決して口には出すことはなく、苦笑いをしているだけだが、相手のクラスメイトもきっとそんな愛華の気持ちを分かっていて。敢えて余計なことを口にしているのではないかと思っていた。

 それは、半分はいやがらせであり、半分は自己満足ではないかと思っている。

 いやがらせというのは、そのまま言葉通りなのだが、自己満足というのは、思春期特融の、いや、思春期から以降の、大人になったという気持ちの表れとしての感情ではないだろうか。

 相手におせっかいすることで、自分がまわりを見て、中心にいることができるような人間であることを自他ともに認めてほしいという考えに他ならない。

 愛華はそのあたりは理解しているつもりだった。そんな自己満足をするクラスメイトを軽蔑する気にはならないが、自分にはできないこととして、切り離して考えることができた。

 愛華は決して自分が中心にいるような人間ではないことは分かっている。ただ、目立ちたいという気持ちがないのかと聞かれれば、そこには疑問を感じる。確かに、

「目立ちたいという気持ちがないのか?」

 と聞かれると、答えに窮するに違いない。

 ハッキリした性格でありたいと思うようになってきた愛華には、自分にはないことであれば、一瞬にして即答していることだろう。しかし、

「ハッキリした性格でありたい」

 と思うようになってから、逆に答えに窮したり、曖昧にしか答えたりできないことが増えたような気がした。

――私の考えていることが間違っているのかしら?

 と考えたが、愛華は逆の発想を持つようにもなった。

「他の目立ちたがりな女の子たちと自分とでは、そんなに変わったところというのもないのかも知れない」

 という感情である、

 愛華は、

「人と同じでは嫌だ」

 と思うことで、人との差別化を図っているつもりでいた。

 だが、まわりの女の子が化粧を施したり、目立つ格好をするというのも、

「人と違って自分がその中で一番でなければ嫌だという考えの表れではないか」

 と思うようになった。

 一番になりたいという感覚があるかないかというだけで、他の人と何ら変わりがないのではないかと思うと、愛華は自分の中で何か一つ目からうろこが落ちたような気がした。

 しかし、だから余計に、彼女たちと一緒にいようとは思わない。自分と彼女たちには自分が考えているよりも大きな結界が存在しているのではないかと思うからだ。

 結界というのは、超えることのできないものではあるが、向こう側はハッキリと見えているものである。行くことができないという意識があることで、距離は感じるが、本当は背中合わせにしか過ぎないということは、小学生の頃から分かっていたはずではなかったのか。

 愛華の目はどうしても、目立ちたがり屋な女の子の方にばかり目が向いていた。それは思春期の最初の頃の特徴だったと思う。それまでは下の方ばかり見ていたような気がしたのに、その頃から急に上ばかりを気にするようになった。その意識は愛華にはなかったが、冷静に考えると、そういうことだったのだ。

 それがいいことなのか悪いことなのか分からなかったが、上ばかりを見ているということは、

「自分が憧れを持った証拠というべきではないだろうか?」

 と感じるようになった。

 憧れをそれまでも持ったことがなかったわけではなかった。だが、その憧れの対象は、思春期になるまでは、

「仮想の存在」

 という相手だった。

 ドラマやアニメの主人公だったり、登場人物に自分を投影して見ていたのだ。それが思春期になると、目の前にいる実在する人たちに視線の対象が変わってしまったのである。それがどういうことを意味するのか、愛華にはよく分からなかった。

――それまで意識していなかった現実を、意識するようになったということなのかしら?

 ということになるのかと考えていたが、それも少し違っているようだ。

 愛華には思春期という意識がハッキリと会った。

 それは自分を対象としている時期だというよりも、思春期というのが、自分もさることながら他人を余計に対象にしているものだという意識を強く持っていることでの意識だという思いであった。

 最近そのことを考えるようになったのは、従兄弟の隼人という男性の存在が大きいことも愛華には分かっている。クラスメイトの男性を極端に毛嫌いし、さらに同性である女生徒たちにも、あまり好意的に感じていなかった自分が意識するのは年上である隼人という大学生である。

――これって、恋なの?

 相手が従兄弟だという意識があるから余計に気になっているのではないかとも思っている。

 確かに相手が従兄弟であれば、恋愛をしても結婚をしても、法律的には何ら問題がないことは知っている。だが、それでも禁断の匂いを感じるのは、愛華が思春期という微妙な精神状態の時期を過ごしているからなのかも知れない。

「やっぱり私は背伸びしたいと思っているのかしら?」

 少なくともまわりはそう思うに違いない。

 愛華は、自分が本当はどんな気持ちになっているのか、よく分かっていなかったのだ。

 隼人とは最初の頃ほど連絡を取り合うことはなくなった。隼人が忙しくなったというのもあるが、愛華の方も、なかなか隼人を呼び出す口実もなかなかなくなっていたのだ。

 愛華が隼人を意識するようになると、隼人は少し愛華を避けるようになったように感じた。

――やはり、私の気持ちに気付いているのかしら?

 隼人は愛華から見ても大人である。

 他の大学生のようにちゃらちゃらした雰囲気に見えないのは、愛華の贔屓目なのかも知れないが、愛華に対して紳士的に振る舞ってくれているからなのかも知れない。隼人であれば、クラスメイトの女の子に、

「従兄弟のお兄さん」

 と紹介すれば、きっとモテるに違いないと思った。

 あまりモテられるというのも愛華にとっては面白くないだろう。相手が従兄弟だと割り切っていたとしても、隼人がもてていると、

――自分の方が、はるかによく知っている――

 という思いから、その日に出会っただけの友達など、相手にならないとは思うのだが、何しろ男女の仲というのは不可解なもの。

「気付けば付き合っていた」

 などという話を青天の霹靂として聞かされでもしたら、ショックは大きいに違いない。

 クラスメイトの中には、ウワサの絶えない女の子もいる。同じ中学だけでなく、他の中学にも彼女のファンがいて、付き合っているのは一人や二人ではない複数の相手ではないかという話だったりする。

 そんなウワサを彼女は、一切気にしている様子はない。

「言いたい人には言わせておけばいいのよ」

 とでも言いたげで、開き直っているというよりも、

「ウワサなんて有名税」

 とでも言わんばかりの態度に潔さすら感じるほどだ、

 その中でも一番ウワサの絶えない女の子を見ていると、

「実際には、誰かと付き合っているという雰囲気は感じられないんだけどな」

 と思えた。

 事実はよく分からないが、本当に誰かと付き合っているのであれば、もう少し秘密めいたところがあるように思えるが、彼女はいつでもオープンだ。つまりウソはないと言えるのではないだろうか。

 それでも、彼女に彼氏がいるのだとすれば、本命以外にも他に尽きっている人もいるような気がした。ウソがないというのは間違いではないが、一人だけを愛し続けているようには思えない。一人の決まった相手だけしかいないのであれば、ここまでオープンになれないと思う。敢えてオープンにすることで、まるで

「木を隠すには森の中」

 という感覚に近いものを感じさせる気がした。

 目先を逸らすというよりも、正面から見られることを意識して、その複数の視線を逸らすには、敢えてオープンにしておけばいいという考えは、潔いというよりも正面突破という、無鉄砲に見えるが、実は緻密な計算から作られていると思わせるに十分な考えなのかも知れない。

 もちろん、愛華にはそんなマネができるはずもない。今までに男性と付き合ったことはおろか、同年代の男性を、彼氏候補として意識したこともないからだ。しいて言えば、隼人を彼氏候補として感じたかも知れないが、

「年上への憧れ」

 という思いか、

「お兄さんなら、きっと私たちの年齢からもモテるに違いない」

 と感じたことだ。

 隼人の同年代である女子大生であれば、モテたとしても、それほど嫉妬することはないが、愛華と同年代の女の子が憧れるのを見るのは忍びない。それが恋心から来るものなのか、それとも憧れの気持ちから来ているものなのか、愛華には分かるすべを感じたわけではなかった。

 プログレのジャケットは、幻想的なものもあれば、妖艶に見えるものもあった。芸術的にもアートとして十分に単独で成立するもののように見えた。

 最初に気になったジャケットは、架空の動物のようなもので、よく見るとタンクになっていた。

「これは目立つので結構ジャケットを印象に購入する人も多いですね。このジャケットを見て、ジャンルに入り込む人もいるんじゃないかって僕は思っています」

 と、隼人は言った。

 隼人が愛華のために、いろいろなジャケットをどこかのサイトから拾ってきてくれたのか、ジャケットの画像集を作って見せてくれた。

 その中には幻想的なもの、妖艶なもの、怪奇に近いもの、さらには自分の頭脳では解析が難しいもの、つまりはどう表現していいのか分からないものと、分類できる。愛華は幻想的なものには今までも接することがあり、造詣を深めることはあったが、それ以外のものはほとんど接することがなかった。

 いや、厳密にいえば、自分から避けていたと言ってもいいだろう。あまり接することがなかったのも、無意識に避けていた証拠ではないかと考える愛華だった。

 だが、お兄さんは敢えてそのことを分かっているのか、愛華に対してわざわざジャケットの画像集を作ってくれた。

 隼人は愛華のことをよく分かっていて、

「愛華という女性は、自分のことをよく分かっているくせに、人に言われたり、指摘されるような態度を取られなければ、自分から行動を起こすことはない」

 と思っている。

 愛華の場合は、さらに自分のことを分かっているにもかかわらず、それを自ら意識している様子もない。それは表に出さないだけではなく、本当に意識していないようだ、内に籠った考え方をしていると言えば、イメージとして、

「自分の考えから逃げている」

 と言えるのかも知れないが、愛華に場合は少し違っている。

 プログレという音楽を最初は幻想的な音楽だけだと思っていたが、聴いてみれば、想像を絶するような意味不明と思える音楽が多かった。半世紀前のこととはいえ、全世界で一世を風靡したというのだから、それだけ世界的に受け入れられた音楽であり、さらに今とはまったく違う世界が、そこには繰り広げられていたということだけは理解できる気がする。

 ただ、その世界がどのようなものなのかということを想像することはできない。愛華はプログレを聴くようになってから、近代史の勉強をするようになった。明治の後半くらいから大東亜戦争の終わる頃までを本で読んだりしていたのだ。

 クラスメイトには、そんな素振りを見せることはなかったが、隼人とはよくその時代の話をするようになった。

 愛華がこの時代を好きになったのは、今まで学校で習ってきたことから頭の中にインプットされた日本を取り巻く世界情勢というものが、まったく違っていることに気付かされたことはセンセーショナルな発見となったのだ。

 それは、それまで知らなかったプログレッシブロックというジャンルを古いにも関わらず、当時としては前衛音楽として最先端だったということを思いながら聴くことで、新鮮さが今でも最先端ではないかと思わせることで、新たな発見が実は根底にある魅力であることに気付かされるということであろう。

 愛華は歴史の本を読んでいると、

「勉強をしている」

 という意識を持つことはなかった。

 普通に小説を読んでいるような感覚になったのは、歴史上で事実関係が違和感なく結びついているからである。

 中には計算された策略も含まれていて、それは事前な工作が功を奏しているということを示していることに繋がる。今でいうミステリーに近いものがあるのだろうが、今の社会はミステリーでは決してない。時代が違うのだから当然なのだろうが、モラルや根底にある精神的支柱が違っているのだから当たり前のことである。

 イデオロギーというものを考えたことはないが、過去の時代、しかも極近の過去を歴史で勉強するということは、

「イデオロギーの追求」

 に繋がるものもあるのだろう。

 文学的には大正時代後半くらいから、昭和初期くらいに造詣の深さを感じた。

 その時代は、大正ロマンと呼ばれる時代、モダンボーイ、モダンガールという流行りを経て、時代は暗黒の時代を迎えるようになる。

 その最初が、関東大震災ではなかっただろうか。

 地震によって首都は崩壊し、街には焦土の臭いと、荒廃した街並み、そこに復興の足音が微妙に聞こえるという時代。さらに世界的に襲ってくる恐慌、

「激動の時代」

 が昭和初期であり、そんな時代を描く小説も、ロマンを求めるもの、さらには荒廃した世界に人間の隠れていた陰湿な部分が浮かび上がってくるような世界観を持った作品が存在したりした。

 その時代の検閲がどれほどのものだったのかということは分からないが、当時としても発行には検閲が入るものも少なくはなかっただろう。特に軍国主義、挙国一致の世の中になってくると、余計な感情は許さなかったに違いないからだ。

 それなのに、どうして今そんな小説が残っているのか、水面下で発表できない小説を保存するような仕組みができていたのか、愛華には分からなかった。

 それが今の世の中に出回っているというのもおかしなことだ。

 時代としては、新しい作品にはありえないことにもかかわらず、過去の世界観として発売され、購入する人もそんなにはいないだろうが、販売されているということは、それだけ需要もあるのだろう。

 ただ、普通の本屋で販売されているものではないようで、見つけたのは図書館だった。隼人がいうには、

「これは今の時代で売っているものではないですよ」

 と言われた。

「そうなんですか?」

「いくら表現の自由があるとはいえ、さすがに今の世の中では売れるものではないですからね」

 と言われた。

 自分の思い過ごしであることに恥ずかしくもあったが、最初から分かっていたことだけに、別に驚きはなかった。

 愛華は結構自分が最初に感じたことを、確定的なこととして思い込むことがあった。この本についても、思い込みがあり、思い込みがあったおかげで、将来忘れることのないような印象的な作品であることを気付かせた。

 そんな作品が、愛華に新しいジャンルを開拓させることになる。

 最初は大正後期から昭和初期の激動の時代にここまで興味を持つとは思っていなかった。そこにはプログレの音楽が影響していることに気が付くまでには、それほど時間もかからなかった。

 時代的には昭和初期と言っても大東亜戦争終結の時代なので、二十世紀前半である。しかしプログレの時代は、六十年代後半から七十年代前半という年代的には二十年以上も離れた、いわゆる四半世紀は離れた時代である。

 愛華は自分なりに考えがあった。

「プログレッシブロックの流行りは、戦後の平和ブームの中で、余裕が生まれてきた時代が、平和の飽和状態に陥ったことで、新たな芸術の出現を誰もが待ち望むようになった時に現れた『必然の文化』ではないだろうか」

 というものであった。

 飽和状態という考えは、愛華の中で今までに結構あったような気がする。

 さらに極近の時代の歴史を垣間見ると、特にバブルという時代が弾けてからというものも一種の激動の時代であり、そんな時代にはある程度の飽和状態が何度かあり、そこに毎度何らかの新しい文化が生まれてきたのではないかと思うようになった。

 その間隔が愛華には短いものに感じられたが、大正後期から昭和初期にかけての激動の時代を本で読んだりすると、間隔的にはそこまで短いというわけではないが、激動の度合いは今とは比較にならないほどの溝が感じられた。

 まったく違う時代を想像しているのだから、そこにはかなりの贔屓目が存在しているのは当たり前ではないかと思うのだが、愛華にとって、

「時代の流れを時系列で捉えることができない時代が存在するのではないか」

 と感じさせるものが頭を巡ったのだ。

 それが大正後期から昭和初期の激動の時代なのかどうか、確定的なことをいう自信はなかったが、

「時系列がこれほどハッキリとした時代もない」

 と言えるのだが、時系列を度返しして考えてみることもできるのではないかと思ういう妄想を抱かせたのは、プログレの音楽なのではないかと思えた。

 愛華は、大正後期から昭和初期の文献や小説を読む時、プログレを聴くようになった。本を読むようになったきっかけが別にプログレに興味を持ったからではないということは分かり切っていることではあるが、いつのまにか、この二つは、

「切っても切り離せないもの」

 として考えるようになっていた。

 プログレの画像を見ていると、

「その時代の人の発想が、その時代から過去に向かって目が向いているようにしか思えない」

 と愛華がいうと、

「僕もそう思う、元々プログレという音楽は、いろいろと多彩なジャンルのある音楽を融合させた前衛音楽と言えるのではないかと思うんだよね。基本はジャズやクラシックなんだけど、ロックやポップスを取り入れて、さらには、その国の伝統的な音楽を取り入れた曲も結構ある。そう思うと、時系列も現代を基盤として、過去や未来を融合させた発想であってもいいと思うんだ。でも未来に関しては確定的なものはない。過去であれば、確定されているものなので、幻想を演出するには十分に思える。そう考えると、プログレは時系列を超越した発想を思い浮かべる時にBGMとしては最高ではないのかな?」

 と隼人は言った。

 隼人の話はいちいちもっともだと思った。

 愛華はその話を聞きながら、目は彼が集めてくれたプログレのジャケット画像に向けられた。

「この画像を見ていると、確かに時系列なんて超越しているように見えるわね。アートとして見ることは狭い世界に入ってしまいそうに思うくらいだわ」

 と愛華がいうと、

「そんなことはないさ。アートという芸術的なジャンルは、そもそも時系列を調節しているんじゃないかって思うんだよね。絵画というと、目の前に見えているものを忠実に描くというものもあれば、まったくの想像物を、創造物として製作するというものもあるでしょう? 僕はそのどちらもアートというのは遊び部分を含めた汎用性のあるジャンルだって思っているんだよ」

 隼人の話を聞いていると、自分の中で考えていた思いが、次第に膨れ上がっていくのを感じた。

 水分を含んでいないものに対して、スポイトで水を垂らす感覚で、次第に潤っていくのを感じる。

 しかし潤ってはいるが、まったく水っ気のないところに水が含まれているのに、思った以上に容積が増えているという感覚はない。

 膨れるかわりに、ふやけている感覚になってくるのを感じると、まるで脳の画像を見ているような気がした。

――そういえば、プログレのジャケットの中に、脳の画像を思わせるアートがあったわね――

 と感じた。

 その絵は、人体の解剖図というイメージよりも、まるでロボットの断面図に近いものがあった。だが、愛華にはロボットの断面図と見るよりも、人間の解剖図を見ている方が、音楽的にしっくりくるように感じたのだが、その思いは、

「過去を表現することで、未来を創造しているのかも知れない」

 と思わせた。

 愛華自身が確定的なものを感じさせないものと、確定的なものを比較した時に、どうしても確定的なものが勝ってしまうことで未来を見ることができない思いから、過去を誘発された思いを抱くのだ。

 だが、愛華は未来を創造できないとは思っていない。ただ、確定的な発想が頭の中にないことで、今は発想できないと思っているだけで、

「大人になればある程度未来を見ることができるような気がする」

 と感じた。

 それは、大人になることで、たぶん、大人になるための成長が終わり、肉体的にも精神的にも飽和状態になることは分かっている。肉体的には衰退がありうるが、精神的な衰退はないと思っている。

 そのため、きっと頂点が見えてくるのだろうと思うのだが、頂点が見えてくると、それまで見えてこなかった未来が見えるようになると思っている。

 つまり、

「世の中の未来への創造は、あくまでも自分の未来を見ることができるかということで決まるのでないか」

 と愛華は感じるようになったのだ。

 愛華は未来が見えてきた自分に対して、

「大人になりかかっているのかも知れないわ」

 と感じた。

 しかし、その思いは手放しで喜べるものではなく、不安が付きまとっているものであった。

 愛華が絵画を描くようになったのは、プログレのジャケットを見たのが最初だったが、元々、

「絵を描いてみたい」

 という思いもあった。

 音楽を志そうとして、なかなかうまくいかないということで、絵画に興味を持ったと思っていたが、そうではなく、音楽への思いと絵画への思いが似ていることに気付いたからだ。

 音楽をするのも、基本は作曲だから、

「何もないところからの製作」

 という意味では絵画と似ている気がした。

 絵画も、真っ白なキャンバスであったり、スケッチブックに自分が加筆することから始まる。ただ、絵画の場合は被写体があって、模倣するのが絵画であった。

 小学生の頃から、絵を描くことが苦手で、図工の時間は苦痛でしかなかった。工作は嫌いではなかったが、絵画が嫌いだっただけに、総合的に考えて、図工の時間は苦痛でしかないという思いが強かった。

 小学生の頃は音楽にしても図工にしても、芸術的な時間は苦痛だった。中学に入っても好きにはなれなかったが、思春期になりかかった頃に仲良くなった人の影響を受けたということは否定できない。

 その子の名前は千春という。

 千春は、普段から一人でいるタイプで目立つことはなかった。端の方にいるから目立たないわけではなく、比較的真ん中にいても、その存在は人から意識されなかった。

――ひょっとすると、天性の目立たないタイプなのかも知れない――

 人にはそれぞれ性分というのがあって、どんなに目立とうと思っても、影が薄い人もいるだろう。

 まるで石ころのような存在と言えるのではないだろうか。

 石ころは、目の前にあっても、その存在を意識されることはない。河原のように石ころが無造作に放り出されている場所であれば、

「そのうちの一つを誰が意識するというのか」

 と言えるのだろうが、コンクリートを敷き詰めてある場所で、場違いに思える場所であっても、石ころであれば目立つことはない。

 それが、

「石ころの石ころであるゆえん」

 とでもいうのであろうか、愛華は石ころというのは、他のものにはない、別の意味でのオーラを感じる。

 いわゆる、

「マイナスオーラ」

 とでもいうのであろうか、これは負のオーラとは違う。

 負のオーラというのは、マイナスイメージというよりも悪いことの前兆のような雰囲気があり、放っておくのが怖い気がするくらいのものだ。

 だが、マイナスイメージは、存在感のマイナスであり、誰からも気づかれないものの代表として表現するものだと愛華は思った、

 もっとも、そんな表現をするのは愛華だけなのかも知れないが、同じような発想をする人は探せば見つかりそうな気もするくらいだった。

 千春は最初、そんな石ころのようなイメージだと思っていたが、実際にはそうではなかった。確かにまわりを意識させない雰囲気を醸し出していたが、それが無意識のうちであることは間違いない。逆に無意識だからこそ、石ころになりきれない何かがあるように思えた。

 意識してしまうと、自分が石ころだと思い込んでしまうのか、思い込んでしまうと、石ころの雰囲気は身体にしみついてしまうものではないだろうか。ひょっとすると、元々潜在している石ころが顔を出すだけなのかも知れない。潜在している意識が表に出てきて、表面をコーティングすることで、外部からの影響だと表から見るとそれ以外には見えないのではないだろうか。

 愛華は千春を見ていると、いろいろな発想を抱くようになった。人を観察することなどほとんどないと思っていた愛華だが、たまに、いや、人によって観察していることがあった。

 それは無意識のうちのことなのだが、きっと意識する相手が千春だからだと思うと、納得できる気がした。

 千春は、愛華に対して他の人に対する目と違う視線を浴びせているような気がする。

 最初はその視線を、

「助けてほしい」

 と、何か救済を求めているかのように思えたが、そうでもないようだ。

 自分と同じタイプの人間として仲間意識を抱いた視線でもなかった。そもそも愛華も千春を意識してはいたが、まったく違うタイプの人としての意識があっての注視だったのだから、仲間意識という視線であれば、すぐに視線を逸らしたに違いない。

 愛華が千春を意識するのと、千春の視線を意識するのとどっちが先だったのだろう。

 愛華は自分の方が先だったと思っている。なぜなら自分が意識しない限り、もし最初に相手の視線を感じてしまうと、我に返ってしまって、自分の意識はあくまでも、

「相手に意識されたから」

 という意識が自分の意識の前提になると思ったからだ。

 千春が愛華を意識していると分かると、今まで、

「石ころのような存在」

 と思っていた千春に対して、

――少し違うような気がする――

 と思うようになった。

 千春は決して石ころではない。もし、石ころなのだとすれば、自分が彼女を意識するはずはないからだ。それは自分が先に千春を意識したのだとしても、千春が先に意識していたとしても、関係のないことだ。

 千春が自分を意識するなど、石ころのような存在の人間にはできないことだろう。石ころは、まわりに同じものがなくて、場違いであっても気づかれない存在であるのだから、自分からまわりを意識することはご法度のはずだ。

 それは、以前小説で読んだ、

「暗黒星」

 の発想から感じたことだ。

 暗黒星という発想は、ある天文学者が創造したものだという話であったが、それが架空の話なのかどうか分からない。もし架空の話だとしても、愛華にはインパクトが強く、ことあることに思い出すことであったのだ。

 暗黒星という発想として、

「星というのは、太陽のように自らで光を発するか、月や地球のように、光を発する星の恩恵を受けて、反射という形で光るものである」

 というのが、星の世界、天体の理論である。

 しかし、暗黒星というのは、自ら光を発することがないどころか、光を受けて反射するわけではなく、光を吸収するという星が存在するという発想である。

 そんな星が存在すれば、まわりにはその星の存在はまったく分からない。その星は、宇宙の中での危険な星として認識されるだろう、

 まわりに一切の存在を示さないのだから、すぐそばにいても分からない。いつぶつかるか分からない存在の星があるのだから、これ以上の恐怖はないというものだ。

 暗黒星というのは、存在を打ち消しているということが、そのまま危険を孕んでいるということになるのだが、そんな暗黒星と同じような人間が、世の中に存在したとしても、それが直接世の中に悪影響を及ぼすとは思えない。

 暗黒星というのは、あくまでも創造された架空のお話であるが、人間にも同じような存在の人がいるとすれば、考えてみれば恐ろしい。すぐそばにいながら、その存在感をまったく示さない。自分から内に籠るという意識があるのかどうか分からないが、存在自体を誰も意識していないから、実害はないのかも知れない。

 世の中には、訳が分からないままに不幸になる人もいる。唐突な事故に遭ってしまったり、突然の不幸に見舞われる人もいる。その理由が分からずに、世の中の理不尽さだけを感じるのだろうが、その原因が、人間版の暗黒星だったとすれば、理屈に合うのかどうか分からないが、考えを膨らませるだけの材料になるかも知れない。

 千春は、そんな暗黒星のような女性だと愛華は感じ始めていたのだが、暗黒星の発想を思い浮かべたとたん、千春に存在感を少しだけ感じられるようになった。

 そこに何かの力が働いているのは間違いないだろうが、千春の力なのだろうか?

 もし、千春の力だとしても、それは千春の意識の中にあることなのかどうか分からない。愛華としては、無意識であってほしいと思ったが。無意識であれば、それはそれで怖いものだという意識が強くなっていた。

 千春は確かに自分から何かを発信するということはない。人に話しかけることはもちろん、何を考えているのか分からないという印象が深いのだが、

――本当に何かを考えているんだろうか?

 と考えされられた。

 愛華は、最初、千春は何も考えていないと思っていた。視線も一点に定まっているわけではなく、結構きょろきょろしているからだ。

 きょろきょろしている雰囲気は、意識が定まっておらず、考えたとしても、まとまることはないだろうと思っていた。

 だが、きょろきょろはしているが、見つめた先にいつも何かを見つけているのではないかと思わせる瞬間もあり、

――そんなことはありえない――

 と、考えたことを一瞬にして否定する自分もいた。

 そのうちに千春の視線が定まってきた。虚空を見つめていて、知らない人が見れば、

「何を考えているか分からない」

 と思うだろう。

 しかし、今までの千春を知っている人は、

「今までの千春とは違う」

 と感じるはずだ。

 だが、元々千春は、人に自分の存在を悟らせないという性分だったのだから、人に千春の存在を考えさせた時点で、それまでの千春とは違うのだった。

 千春のことが意識から離れなくなったのを、愛華はすぐには分からなかった。それを意識するようになったのは、千春の視線が一点に定まってきたからだ。

 千春の視線が一点に定まってきたから、千春のことが意識から離れなくなったのか、それとも、意識が離れなくなったから、千春の視線が一点に定まってきたのか分からなかった。だが、どちらにしても、千春の視線に関しては、千春は無意識なのではないかと愛華に思わせた。そちらか分からないだけに、その二つがあまりにもかけ離れていては、理屈に合わないと考えたからで、二つをあまりかけ離れていないように考えようとすると、そこには、

「千春の意識が無意識である」

 という理屈をはめ込めるのが一番だと思ったのだ。

 愛華はそれからずっと千春を意識するようになった。

 それでも千春は愛華のことを意識するようにならなかった。あくまでも目立たない存在ではあるが、愛華にだけは目立たない存在ではありえない。

 愛華は千春を見ていると、

「彼女の感情は内に籠っているわけではなく、誰にも見えないところで発散されているのではないか」

 と感じるのだ。

 その誰にも見えない先に、愛華は「暗黒星」の存在を感じた。

「愛華が暗黒星を意識しているから、愛華は千春を意識したのかも知れない」

 どちらにしても、暗黒星の意識の中での存在が、大きく左右しているのは間違いのないことであった。

 愛華が暗黒星というのを意識するのと、千春を意識するのとで、どちらが先だったのか自分でも分からない、まるで、

「タマゴが先か、ニワトリが先か」

 という発想のようである。

 千春を意識し始めると、彼女は愛華にしか見えない存在ではないかと思うようになった。それは彼女が石ころのような存在が健在であり、愛華以外の人には相変わらずの石ころにしか感じられないという意味である。

 それは愛華にとって都合のいいことなのだろうか?

 愛華は自分で都合のいいように考えてしまう癖があることを気にしていたが、千春に関して言えば、

「自分で納得できるのであれば、都合のいい解釈も悪いことではない」

 と思えるようになった。

 千春という女の子の性格が徐々に分かってきた。それは今まで分からなかったものが分かってくることへの喜びでもあるが、逆に、

「本当は触れることのできない神聖な彼女の性格」

 であってほしかったという思いもあり、複雑な心境であった。

 千春は、愛華と同じで、

「何もないところから新しいものを作るということに造詣が深い」

 という性格を持っていた。

 だが、思っていたよりも千春は人間臭いところがあり、愛華が見ていても不器用に感じられた。

 不器用だからこそ、憧れるという感覚が芽生えるのだろうが、千春という女の子に関しては、そんな普通の人であってほしくないという思いが深かったのも事実だ。

 ガッカリはしたが、それでも千春には愛華がまだ知らない力が秘められているように思え、簡単に頭から切り離すことのできない相手であることに違いはなかった。

 千春が石ころのような存在に見えたのは、どうやら親からの遺伝だったようだ。千春と仲良くなってから聞いた話だったのだが、

「私の母親は、スナックで働いているの。お父さんは失業しちゃったから仕方ないんだけど、お母さんは元々普通の主婦だったので、スナック勤めなんか初めてだったこともあって、なかなか馴染めなかったのよね」

 と言っていた。

「それで?」

「お母さんは、人との交わりがうまくいかないことをいつも悩んでいたんだけど、どうやら、それは生まれ持った性格のようで、それを見ていると、私も同じような性格なんだって気付いたわ」

 千春は自分がまわりに存在を消していることに気付いているようだった。

 最初に愛華は、彼女が無意識だと思っていたが、考えを改めたのはその時だった。

「もし、私が大人になって、スナックで働くようになることがあれば、あんな感じになるんでしょうね」

 と言ったが、

「そんなことはないと思うわよ。千春さんには、話題さえあれば、会話をすることは難しくないと思うわ。それに千春さんには話題が豊富な気がするしね」

 と愛華がいうと、

「そうかしら?」

「そうよ。千春さんは気付いていないかも知れないけど、千春さんと話をしていると、何か引き込まれるところがあるように感じるの。どこがと聞かれると指摘するのは難しいんだけど、私には感じるわ」

 千春から指摘されるのが怖くて、先手を打ったような話し方をしたが、その言葉に自分ではウソがないと思った愛華だった。

 千春と話ができるようになるまでには、思ったよりも時間が掛かった。会話を始めるにはタイミングというものがある。そのタイミングが千春との間で確立するには、少し時間が掛かるようだ。

 それは愛華に限ったことではなく、他の人であっても同じことのようだった。

 きっと会話のタイミングを合わせるには、アイコンタクトのようなものが必要であって、相手も何かを話したいという思いがなければ、アイコンタクトが成立しない。他の人であれば、会話の内容がどうであれ、相手が何かを話したいと思うと、アイコンタクトは成立する。

 しかし、千春の場合は、何かを話そうと思い、アイコンタクトを送るのだが、その内容が相手と合っていないと、アイコンタクトが成立しない。

 こちらがいくら千春に対してアイコンタクトを送っても、千春は敢えて視線を逸らしているようで、決して視線を合わすことはない。千春にとってその意識はあるのか、それとも無意識なのか分からない。聞いてみるのは怖い気がするし、理屈で考えようとしても、理屈で理解できることではないようだ。

 理屈で考えようとすると、堂々巡りに入り込んでしまう。それは迷路に迷い込んだような感覚で、

――あれ? ここはさっき通ったはずでは?

 と思うことが何度もある。

 堂々巡りを繰り返していることが分かると、迷い込んだ迷路が、紙一重で同じところをグルグルと回っているように思えるのだ。

 愛華は千春がスナックに勤めている姿を思い浮かべた。まだあどけなさの残る千春にスナック勤めをイメージすること、そして、愛華自身、テレビのドラマなどで見たことはあるとはいえ、当然行ったことのないスナックを思い浮かべることは困難に違いなかった。

 だが、その二つが結び付くと、思ったよりも想像ができるものだった。虚空の中の虚空の発想、マイナスとマイナスを掛け合わせると、プラスになるような感覚である。

 千春がカウンターの奥にいて、愛華が客としてカウンターに座っている。他に客は誰もおらず、スナックの人も誰もいない。スナックという未知の世界を想像する中で、二人だけの空間を作っていた。

 せわしなく手を動かしている千春の姿をボーっと見つめている愛華だったが、最初は何を話していいのか考えていた。本来であれば、客の愛華の方から話題を振るのではなく、店の人から話題を振ってくるのがスナックだと思っていたので、無言で通り過ぎる時間を苦痛に感じていた。

 すると、少しして千春が声を掛けてきた。愛華の想像の中では、二人は初対面のつもりでいたのだが、話しかけてきた千春の方は、旧知の仲を演出するかのような口ぶりだった。

「最近、来なかったけど、どうしてたの?」

 明らかに知っている口ぶりで、しかもその言葉から、愛華は自分がこの店の常連であることを悟った。

 それならそれで会話のしようもあった。実際に記憶から消えているのだから、正直に知らない素振りをしながら聴きだせばいいのだ。

 千春のことだから、愛華の様子が少々変でも、別に気にしないに違いない。学生時代から話をすることはあっても、いつも話が合っていたわけではない。むしろ、お互いに忘れていることがあったり、そのたびに、お互い新しい発見をしていたからだ。

「そうね、ちょっと忙しかったのよ。千春さんの方はどうだったの?」

 スナックというところは源氏名のようなものがあり、本名ではないと思ったが、敢えて千春さんという言い方をしたが、千春はそのことに何ら反応することはなかった。

――やはり、これは夢なんだわ――

 愛華は直観した。

 千春は都合の悪いことを感じた時は、一瞬であっても顔に出る方だ。そのために、仲良くなりかけた人がいても、そんな千春の顔を見た時、

――この人とはうまくいかないわ――

 と感じるのだろう。

 その人は千春の前から音も立てずに立ち去る。千春は立ち去っていることに気付きながらも、知らぬふりをして、その様子を見送っている。その時の千春の顔は、これ以上ないというほどに冷静な表情をしている。

 顔色はすこぶる悪い。しかし、体調が悪い時とは違う顔色だ。

「まるで死人のような表情だわ。気持ち悪い」

 と言っていた人の声を聞いたことがあったが、さすがに愛華もその時は、その通りだと思ったのだ。

 千春の店は、決して派手な店ではなかった。千春の性格を表しているかのような店で、きっとこの店を、

「隠れ家」

 として使っている人もいることだろう。

 むしろそんな人がほとんどなのかも知れない。愛華もそんな店が好きになるだろうと思っていることも、千春と気が合う理由の一つとして考えた。もっとも、千春の母親がスナックに勤めていることを知ってからのことだったが、千春がそのことを愛華に話したのも必然だったのかも知れない。

 そんな隠れ家のような店は、昼間は喫茶店でもやっているのではないかと思うほどに落ち着いた佇まいをしていた。カウンター席だけではなく、奥にはいくつかテーブル席もあり、テーブル席の横に、油絵が飾られていた。

 愛華はそれを見て、若干の違和感を抱いた。

――何に違和感を覚えたのかしら?

 こんな雰囲気の店のテーブル席の横に、油絵があるという光景はどこにでもあるもので、却って何もなければ殺風景に感じるだろう。

 しかし、この違和感は、殺風景をさらに増幅させるもので、寒気さえ感じさせるものだった。

 絵が不気味だというわけではない。普通の風景画なのだが、何か怖さがあったのだ。

――何なのこの感覚――

 愛華は、ゾッとしたが、そっちばかりを見るわけにはいかないと思った。

 愛華が店内を見渡そうとすると、千春は寂しそうな顔になる。やめてほしいという気持ちが表情に表れているが、それは咎めるような視線ではなく、哀願に近いものだった。

――もし、千春のこんな顔がなかったら、こんなにゾッとした気持ちになったかしら?

 と感じたが、それでも一度気になってしまったものを無視することはできなかった。

 後ろから千春の情けなさそうな視線を感じながら、絵に目は行ってしまっていた。

 だが、よく見ると、その中の一枚に見覚えがある気がした。

 その絵はお世辞にもうまい絵とは言えなかった。完全に素人の絵であり、ずっと見続けるほどの価値はないと思えた。

 しかも、その絵はまだ未完成のようだった。完全に出来上がっていない絵を飾っているのには何か理由があるのかと思ったが、よくよく考えると、また違った意味でその絵を見ている自分を感じるのだった。

――この絵が完成していれば、どんな絵になっているのかしら?

 と思った。

 その絵の完成した姿は、愛華には容易に想像できた。

――この絵が完成した絵であれば、この場にはふさわしくない――

 と思えたのだ。

 なぜなら、完成した絵よりも未完成の方が精度として完成されているような気がしたからだ。

――完成されていない絵の方が完成されたものに見えるなんて――

 と感じたが、それもひょっとすると、一つの画法なのかも知れないと思い、絵画の奥深さを感じたような気がした。

「あの絵」

 千春が後ろから声を掛けてきた。

 その時にはもう、情けなさそうな視線はなくなっていて、その代わり、覚悟を決めたかのような表情になったのに気がついた。

「何?」

 愛華は千春の方を振り返り、千春が何を言うのかドキドキしながら、恐る恐る尋ねてみた。

「あの絵はね。私が以前に描いたものなんです。途中まで描いたんだけど、急にそれ以上を描けなくなって、それでも、この絵を見た人から、ここに飾ればいいって言ってもらったんです」

 と言った。

「それは誰からなの?」

 と愛華が聞くと、

「お母さん」

 と答えた。

 千春は話を続けた。

「お母さんがいうのは、お母さんも子供の頃に絵をよく描いていて、自分も同じような絵を描いたことがあったんですって、お母さんは完成させたんだけど、その絵の出来が最悪で、自分の中で嫌悪しか感じられなかったので、その怒りをキャンバスにぶつけるように、八つ裂きにして葬ったようなの。でも、私の未完成の絵を見て、自分が絵を完成させてしまったことを後悔したみたい。だから、この店で公開しなさいって言ってくれたの。私もこの絵には何か思い入れのようなものがあって、このまま隠し続けるのも嫌だったので、ここで飾ることにしたのよね。なかなかこの絵に興味を示す人はいなかったんだけど、まさか最初にこの絵に興味を持つのが愛華だったとはね。でも、今思えばそれも室全な気がするわ。気付いてくれたのが愛華で私は嬉しいの。ありがとうって言いたい気分になっているわ」

 と言ってくれた。

 その話を聞いて、愛華は、千春と母親が切っても切り離せない関係にあることを改めて感じたが、すでに千春が母親の呪縛からは抜けているように思えた。そんなことを考えていると、愛華は目を覚ましたようで、目の前から、千春の店は消えていた。

「千春のお母さんのお店の話を聞いて、こんな夢を見たのかしら?」

 と感じた。

 千春が絵に造詣が深いことは分かっていたが、まさか夢に出てくるとは思わなかった。しかも近未来であればさることながら、お互いに大人になってからのことであり、場所がスナックというのも、不思議な気がした。やはり夢というのは、愛華の想像を絶するものであるに違いないと思った。

 その絵は、どこかヨーロッパのお城のようだった。まるで湖畔の森の中に浮かび立つその建物は、まるでロケットのように、空を突いて見えていた。一瞬だけ遠くに見えたかと思えば、様子は斜め上から城の中心部を眺めているかのように見えた。

 全体が見えたような気がしたのは、絵の端の方にあるかすかに見える川が、目に入ったからである。一瞬だけでも気になってしまったことで、全体のバランスが頭の中に浮かんできて、目の前の絵に描かれているという錯覚を起こしたのかも知れない。

 すぐに絵は実際に描かれている角度に変わり、愛華にとっての絵の中心部は、ロケットの先端近くにある細長い円筒形部分に変わってきた。

 その部分をよく見ていると、そこにはいくつかの窓があった。窓と言っても開け閉めできるものではなく、吹き流しになっている下が正方形で上部が半円になった窓であった。

 この窓の形にはまったく違和感がなかった。こんなお城にこそふさわしい窓として、言葉で説明しなくても、

「西洋の城の窓」

 と言えば、一目瞭然で理解してもらえるようなものである。

 その窓をよく見ていると、そこからこちらを覗いている人がいた。思わず目をしょぼしょぼとさせて、目をこすってもみたが、確かにそこに誰かがこちらを覗いている姿が見て取れた。

――誰なんだろう?

 と思うと、意識はそこから離れてくれない。

 その人の正体が分からなければ、気が気ではないとはこのことだ。その人が女性であることは分かっている。そう思うと、愛華は何か余計な想像をしてしまったようで、背中にゾクッとした寒気を感じた。

 最初はお姫様ではないかと思ったが、雰囲気としては、もっとみすぼらしい雰囲気だった。こちらを見ながらよく見ると、その表情は、何かを哀願しているかのように感じられ、助けを求めているように思えた。

「ひょっとして、あの場所に投獄されているのではないか?」

 と感じた。

 投獄されているわりには、鉄格子が嵌っているわけではないので、少し自由なのかとも思えたが、その場所は下は完全に寸胴になっていて、誰かが助けにくるなど、不可能に近かった。

 空からの救援はできるかも知れないが、たぶん、その場所に近づくだけでも難しいだろう。当然見張りは幾か所に設けられていて、四六時中見張られているに違いないからである。

 ここからは愛華の妄想に違いなかったが、牢獄に閉じ込められている女性は美しかった。身なりは明らかな囚人なのだが、綺麗な服を着れば、きっと美人に違いない。

「よく見ると、千春に似ている」

 と感じた。

 愛華のまわりで、一見目立たないが美しさを醸し出している女性というと、千春だけだった。千春のイメージを思い浮かべたから彼女を美しいを感じたのか、それとも彼女の美しさから、千春を思い浮かべたのか分からない。

 千春という女性は、顔立ちがハッキリとした美人というよりも、一見何を考えているか分からないところがあり、視線も一定していないところがあった。それがまわりに目立たないように思わせているゆえんなのだろうが、愛華にはその正体が分かっているかのように思えた。

 千春に美しさを感じる人は、そうはいないに違いない。目立たない人に美しさを感じる感性は、そんなにたくさんの人にあるとは思えないからだ。

 愛華も最初は千春をただの目立たないだけの女の子だと思っていた。それが気になりだしたのは、千春の中に「オンナ」を見たからではなかったか。大人しい雰囲気の女性に美しさを感じるというのは、難しいような気がする。愛華の意識としては、感じる相手と自分の感覚のタイミングが合うことで、相手の美しさに気が付く。つまりは、相手をそのつもりで意識しなければ、いつまで経っても、美しさを感じることなどできないと思った。

 しかし、一旦その美しさを感じると、まるで信仰しているかのような疑いようのない美しさを強烈に意識してしまう。それが千春にはあった。

 千春に美しさを感じるようになったのは、実は大人のオンナを感じたからではなかった。どこか定まらない視線であるにも関わらず、見つめた先で、相手が意識しないではいられない状況を作り上げている。しかし、相手がそのことに気付く前に千春は視線を切ってしまうので、相手にはその意識が伝わることはないのだ。それが愛華の中では、

「相手とのタイミング」

 という表現で表されているに違いない。

 千春の目はいつも焦点が合っていないように思える。最初はそれでも、何か誰にも見えないものを凝視していることで、焦点が定まっていないような気がしたが、そうでもないようだ。

 本当に目が踊っているという表現が正しいのかは分からないが、視線を感じた人が気のせいだと思うくらいに視線を切るのが早く、実際に見ているのかどうかも怪しい気がしたくらいだ。

 千春を見ていると、時間の感覚が自分で分からなくなることがある。それはスナックで見た西洋の城に浮かび上がる千春を意識してから後だったのは分かるのだが、その時の妄想がどのように影響したのか分からない。

 愛華は、ある時から、一日が二十四時間なのに、その時間が定期的に変わっているような気がした。感覚の上での時間が人それぞれで、同じ二十四時間でも、人によって感じ方が違ってしまうのは仕方のないことで、よくあることだとも思っている。しかし、その時間の感じ方が違っていると感じたその時、連鎖反応的に千春を思い出すのは、愛華の中で妄想と時間の感覚にずれを感じているからではないかと思えていた。

 妄想というのもは、元来時間の感覚など違う次元の発想のように思っていたが、意外と大切な要素を部分的に捉えているような気がしている。

 愛華は時間の感覚がマヒしてきた原因を、

「絵の中に千春を見たから」

 と思っていた。

 それは、時間という次元としては、まだ未知の領域である四次元の発想委対し、絵画という平面、つまり二次元の発想が交錯したからだ。

 二次元の世界から見れば、自分たち三次元の世界というのは、未知の世界であり、まるで時間を超越した世界、あるいは夢の中のような普通の発想では説明ができず、納得できないことを見ているに違いない。

 絵などの平面では動きがない。動かせるとすれば、三次元の人間が意志を持って動かさなければ成立しない。それはアニメの世界のように、映像という形でしか正立できないものである。

 愛華が絵画に興味を持ったのは、そのあたりに原因があるのかも知れない。音楽のような発想とは違い、夢を創造した時のような発想が、共有できる発想として、頭の中を巡っているのだ。

 愛華が助けを求めている千春の絵を見た時、自分が初めて千春に対して優位性を感じたということに気が付いた。いつも彼女に対しては目立たないはずの彼女に何かの魅力に取りつかれたかのように意識から離れてくれないことで、千春が自分にとって絶対的な優位性を持っているかのように感じていたのだ。

 もちろん、その感覚は漠然としたもので、発想を紡ぐことはできない。そのため、千春を理解するための、何かのきっかけを絶えず求めていたような気がする。

 この絵はその答えを見つけてくれたような気がする。本当の答えなのかどうか、そもそも何を持って答えを求めているのかが分からないため、愛華は自分の発想が暴走し始めていて。妄想と重なっていると思っているのだ。

 絵の中の千春は愛華に必死になって助けを求めている。

――彼女から私は見えるのかしら?

 千春の様子を見る限り、気付いているようには思えない。

 ただ、空に向かって漠然と助けを求めているだけで、その答えが見つかったようにも思えない。

 愛華自身、自分がその絵の中の千春を見ながら、どんな顔をしているのか、想像するのは困難だった。驚いているというのが一番なのだろうが、その驚きが何を引き連れてくるものなのか、想像もつかなかった。

 絵の中の千春を見ていると、最初は焦っていると思っていたが、次第に別に焦っているようには思えなくなっていた。

 そう感じると、助けを求めているというわけでもなさそうだった。

 彼女はみすぼらしい姿をしているが、実際には綺麗なドレスを着て、化粧でも施せば、この上もなく美しい女性に変貌すると思った。

 普段から制服姿しか見たことがないので、さらにみすぼらしい服を着ているのを見ると、もう少し汚らしく見えてもよさそうなのに、その美しさに変わりはなかった。

 だとすれば、どんなに綺麗な衣装を着たとしても、さほど彼女の美しさは皮ならないのではないかと思えた。

 しかし、実際には綺麗な服装を着たなりに、さらに美しさが増してくるように思えるのは、彼女の美しさを普段から誰も理解している人がいないということを示しているように思えてならなかった。

 愛華は、以前見たピエロを思い出した。あのピエロの表情がなかったことと、この絵を見て千春の顔を思い出したことと何か関係があるのかも知れない。顔を思い出せないという愛華の特徴も、愛華が妄想を抱くたびに、その性格が顕著になっていくような気がしてくると、愛華は今までの自分の発想と妄想を結び付けてしまいそうになるのを感じてしまった。

 ピエロは鏡に写っていた。鏡に写る姿への疑問も思い出し、絵の中の千春に結び付けてみた。

「今この中にいる千春に、過去の疑問や妄想を結び付けてみると、何か今までにはなかった答えが見つかりそうな気がする」

 と、愛華は感じた。

 愛華は千春の絵を見ながら、過去にいろいろな発想であったり、妄想したことを思い出していた。その中でも次元の違いや、階層的な次元への発想を含めて、結界の存在と、それぞれの世界が紙一重であるという思いが強くなってきたことをいまさらのように感じていた。

「愛華にとって千春とはどんな存在なのか?」

 あるいは、

「千春の存在は、愛華にどのような影響をもたらすというのか?」

 という発想は、すべてが自分中心の考えであり。いまさらながらに、自分中心でしか、人は何のできないのだということを認識したような気がした。

 愛華は絵の中の千春の姿から目を切ることができなくなった。そう思って見ていると、必死にこっちに向かって手を振って助けを求めている千春が、果たして本当にこちらが見えているのか疑問を感じるようになった。

 手を振っている千春の気もしhが、手に取るように分かったのは、同じような気持ちになったことがあったのを思い出したからだ。

 それは夢の中でしかありえないことで、夢の中であったことだというのを意識した瞬間に、自分が見られていることで、恐怖よりも嬉しさを感じるという不可思議な感覚になったのを思い出していた。

 だから、今千春がこちらに向かって手を振っている気持ちが分かる気がした。本当であれば、空から巨大な人が覗いているのだから、この上なく恐ろしい光景を見ているはずだ。――そんな光景よりも、さらなるう恐怖を感じたということなのか?

 愛華は、そう思うとゾッとしてくるのを感じた。

 お城の中の千春は女王様だったはず、しかし、彼女は何らかの原因で幽閉されていたのだ。

 ひょっとすると、クーデターが起こり、それまでの人生とはまったく違った波乱が彼女を待ち受けていたのかも知れない。昨日までは女王様としてもてはやされていたにも関わらず、いきなり幽閉され、まるで罪人にでもなったかのような状況に追い込まれれば、死にたいというほどの感覚になってもおかしくはないだろう。

 それだからこそ、空からであっても、助けを求めている時に表れた人を見ると、安心した気分になるのではないだろうか。愛華の中では想像もできなかった。

――さらなる恐怖が巻き起こり、負の連鎖が自分をどんどん追い詰めていくのではないだろうか――

 と感じると思ったからだ

 人は考え方ひとつで人生が左右されるというが、簡単に言えることではないだろう。女王様にとって、それが何を意味するのか、自分が女王様のような立場になったことがないのでよく分からない。

 千春は自分の夢で絶えず女王様をイメージしていたのだろう。愛華はそう思うと、千春の見ている夢を、今自分が見ているという感覚に陥っていた。

「夢の共有」

 この言葉がこの場合の状況に適切なのかどうか分からない。

 夢を誰かと共有することをいつも意識していた愛華だったので、今まで自分が妄想していたことのそのほとんどは、夢で見たことだと感じていた。

 ただ、その夢が誰かとの共有であるという思いも強かった。しかし、その夢は共有している相手とのどちらの夢が本当なのかがよく分からなかった。

 自分が相手の夢に入り込んでいるのか、相手が自分の夢に入り込んでいるのかである。

 そして、愛華が自分自身で人と夢を共有していると感じている夢では、見ている相手も一緒に夢を共有していると思っているのではないかと感じている。そうでなければ、夢の共有という現象は起きないものだと感じたからだ。

 人の顔を覚えられないということも、諦めてしまっていた芸術に、またしても目覚めてしまったということも、誰かと夢を共有することで自分を正当化しようとしている表れではないかと思うようになっていた。

 愛華は、今いろいろ考えているが、これが自分の持っている意志ではないような気がしていた。

「意志を持たない人間が見る夢だからこそ、誰かとの間に夢を共有できるのではないか?」

 という思いである。

 夢の中で意志だと思っていることは、妄想であり、その妄想も誰かと共有することで夢として意識されること、

「つまりは、夢というのは、意志を持たない人間が感じる妄想の総称であり、そんな人が寄せ集まって一つの夢というものを、一人の人間に見せているのではないだろうか?」

 という思いである。

 夢を共有しているとしても、愛華には、

「同じ夢を見ている人が同じ時間に、同じ夢を見ているとは思えない」

 という感覚があった。

 次元が違えば、同じ空間に存在することができても、同じ時間に存在することはできない。逆に同じ時間に存在できれば、同じ空間には存在できない。それが異次元の世界なのだとすれば、夢も同じ時間で存在し、共有できるものではないと思えたのだ。

「遠い空の向こうい光っている星は、何百年も前に光ったものが、やっと今になってこの地球に振ってきている」

 と言われている。

 いわゆる何百光年と離れた宇宙での出来事であるが、宇宙にも限界があるのではないかと愛華は思っている。

 例えば数百年に一度、世界は繰り返すのではないかという思いがあり、それは、数百年前に光った光がやっとの思いでこの地球に到達した感覚であった。

 夢には時系列がないというのも、同じ理屈で考えられる。ひょっとすると、数百年の時を超えて、繰り返している場所と同じところに到達しているとすれば、それはまったく違和感のない世界でのことになるからだ。そんな世界を見せているのが夢だとすると、共有している人は、数百年の時間を経ているのかも知れない。それは過去であるかも知れないし、未来なのかも知れない。無限の可能性を秘めたパラレルワールドを愛華は想像していた。

 愛華は、いろいろな発想を凝縮し、今頭の中で飽和状態を迎えようとしていた。

 手を振っている女王様は千春にしか見えなかったが、自分が空を見上げて安心しきっている気分を思い出した時、愛華は自分の中にある、

「心理の裏側」

 を見たような気がした。


                  (  完  )

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心理の裏側 森本 晃次 @kakku

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