芹澤という男
芹澤。高校の友達である。
芹澤とは、よく一緒に帰った。そのとき、よく買い食いもした。芹澤は大食いで、食べるのも早い。先に食べ終わった彼のとなりで私が何かを食べていると、彼は決まって「それって旨いん?」と訊いてきた。
「うん、おいしいよ?」
「へえ。じゃあ今度買ってみよ」
これは、私から「一口食べる?」を引き出そうとしているのである。
最初は私も気づかなかった。だから、素直に「一口いる?」と言っていたが、私がおやつを食べるたび、あまりにも頻発するこの問答に、さすがの私もピンときた。
もしや、こいつ……いや、間違いない。卑しいハイエナめ!
それからは、お前のやり口は分かっているという旨を芹澤に宣告し、私から「一口いる?」を引き出そうとするのを禁止としたのだった。
芹澤とは高校二年生で初めて同じクラスになったものの、放課後に買い食いする程度の仲になるまでには少し時間が掛かった。
春の新学期、彼は最初の自己紹介の際にダジャレを連発していて、私は自己紹介で張り切る人がけっこう嫌いなので印象が悪かったのだ。
夏ごろになって、初めて遊びに行くことになり、それはボウリングだったのだけど、芹澤はボールの穴に指を掛けず、手のひら全体で投球して強い回転をかけようと試みていた。
最初は狙い通りカーブしたボールが派手にピンを倒したが、次第により強い回転を求めるようになり、それがいけなかった。
2ゲーム目の中盤、回転狂となった芹澤は胸の高さに構えた球に横回転をかけつつ、ほとんどその場に落とすように手放した。
斜め後ろから見ていた私は、あ! と思う。
球が空中で激しく廻りながら芹澤の足に垂直に落ちていくように見えたのだ。
次の瞬間、ドンと鈍い音がした。目を凝らす。
足は無事だった。
実際には、球は隣のレーンのガターに落ちていた。一度あの窪みに着地してしまうと、球はもうすっかり大人しくなっていて、そこから改めてゆっくりとピンの方向へと向かい始める。
ゴロゴロゴロ……
球がレーンの先に到達するまでどれくらいの時間がかかったのか、あまり覚えていない。
これなにしてんの? と思いながらそれを目で追うことに終始して、フワフワとした感覚に包まれていた。
GUTTER!
コミカルな字体でお隣のモニターに表示されたとき、夢から覚めたようにハッとなった。
とっさにそのレーンでプレイしていた集団に目をやると、私たちと同じく高校生と見受けられる男子4人組で、自分たちのモニターのGUTTER! に立ち尽くしていた。投げてもいないのにスコアにGと刻まれたのだから無理もない。
次に芹澤を見た。ちゃんと謝れよ! の視線を送る。
芹澤は「っす」と小さく息を吐きながら隣に軽く会釈した。
もう少し恐縮しろよ。
お隣さんは優しいのか、呆気にとられていただけなのか、特に怒ることもなく、許してくれた。
他に芹澤の特徴といえば、お腹が弱いということが挙げられる。
彼はよく、お腹を壊していた。「トイレ行っていいですか!?」と、授業中に慌てて教室を飛び出していくことが本当に何度もあった。
ある日、休み時間がそろそろ終わるというタイミングで教室に戻ってきた芹澤が、「なあ、聞いてくれ」ため息交じりに言う。
芹澤の話は次のようなものである。
この休み時間、急な腹痛を感じた芹澤は、いつものようにトイレに駆け込んだ。しかし、不幸にも男子トイレに二つある個室は両方とも使用中。追い込まれた彼は、「南無三!」と、職員用トイレに飛び込んだらしい。そこで無事に用を足し、安堵しながら手を洗っていた。
そのとき、数学教師のY先生がトイレに入ってきた。芹澤の姿を認め、怪訝な顔をする。
「あ、ちょっとマジで腹がヤバかったんで、ここ使わせてもらいました」
芹澤が弁明すると、「なんだそういうことか」と先生も警戒を解いた。
──その瞬間だった。Yの表情が苦痛そうに歪んだ。
なぜ? しかし、芹澤はすぐに理解した。原因は自分にあった。
用を足した直後の、この狭い空間。そこで、Yは、Yの嗅覚は、強力な刺激を受信したのだ。
先生は顔を歪めたまま、「僕は他のトイレを使わせてもらいます」そう言って、すぐにトイレを出ていった。
こうして、一人になった芹澤は、なんと表現していいのか分からない、屈辱感と申し訳なさとが入り混じった感情を抱えて教室に帰還したという。
知らない。そう思った。
興味が、湧かなかった。
芹澤はお構いなしに続けた。
「教師なら、ポーカーフェイスで普通にトイレ使って欲しかったよ!」
知らん。
季節が夏から秋に移る頃、修学旅行があった。行き先はマカオで、3泊4日の日程だった。
宿泊するホテルでは二人一組で部屋を使うらしく、私は芹澤とペアを組んだ。ボウリング場で明らかに自分が悪いのに、軽会釈だけで場を収めるふてぶてしさを目の当たりにし、ホテルでも何か面白いことが起こるかもしれないと期待してのことである。
マカオ1日目の夜、ホテルに到着してから軽く荷物を整理し終えた私がトイレに入ると、先に使った芹澤が流し忘れていて最悪だった。トイレを飛び出し、そのまま流れるように自分のベッドに潜り込んで少し泣いた。さっそく芹澤と同部屋にしたことを後悔した。
その後、マカオ2日目だったか、3日目だったか忘れてしまったのたけど、夜に超大型ショッピングモールのような施設を訪れ、そこのフードコート的な場所で夕食をとった。私たちの学年は14クラスあったから、フードコートの一画を貸し切った状態だった。
食事が済むと私たちはそのまま雑談をし、途中、芹澤がトイレに立った。
しばらくして戻ってきた芹澤は重く沈んだ顔をしていた。
彼の話はこうだ。
トイレを探していた芹澤だったがなかなか見つけられず、気づけばフードコートの出入り口までやってきていた。すると、そこには数学教師のY先生が立っていた。勝手にあるいは誤ってフードコートから出て行く生徒がいないか監視しているらしい。
どうしたのかと訊かれた芹澤はトイレに行きたいのですと答えた。Y先生も警戒を解いて、トイレだったら、と指示した。
そうして芹澤はY先生から教わった通りに施設内を進んだ。トイレはフードコートからはそこそこ遠かったが、漏れそうな状況でもないから平気だった。
無事、用を足し終えるとモール内の様々な店を眺めながら来た道を戻る。
そして、再びフードコートが見えてきたとき、芹澤は驚いた。さっきは気付かなかったが、フードコートのすぐそばにもちゃんとトイレがあったのだ。
芹澤はあることを思い出していた。
約3ヶ月前の職員用トイレで起こった、あの一悶着である。
トイレの香(か)に表情を歪め、踵を返して逃げるようにトイレから出ていったY先生。
奇しくも、そのY先生がトイレの場所を指示したという事実。
このことが芹澤を一つの可能性に思い到らせた。
──先生はあえて遠くのトイレに俺を誘導したのではないか。
ほかの生徒たちも使用するフードコートに近いトイレの環境を守り、ほかの生徒たちを守るため。
こんなことは考えたくもなかった。
でも……。
話を聞いた私たちは笑った。
そして、考え過ぎだと芹澤を励ました。たまたま先生も近くのトイレを見逃していただけだよ、と。
そんな、トイレのみに特化した閻魔がいるとは思えない。
「お前はうんこがクサイから地獄のトイレ行きーッ!」そんな話があるだろうか。
以降、一度もY先生にこの件の真意を問うたことはないけれど芹澤のためにも私は信じたい。
修学旅行最終日は、特にレクリエーションなどはなく、ただホテルを出て飛行機に乗るだけだった。
ホテルの前に並んだバスにクラスごとに乗り込み「それじゃあ空港に向かうぞ」という段階で私は自分が忘れ物をしていることに気が付いた。部屋に制服のブレザーを置きっぱなしにしていたのだ。「ごめんなさい!」と手を挙げて申告すると、「ええ!? すぐ取りに行け」となり、私はバタバタとホテルに駆け込んだ。後ろからは先生が一人付いてきてくれている。逸る気持ちでエレベーターから飛び出し、先ほどまでいた部屋に飛び込んだ。入ってすぐのところにクローゼットがあり、バッと開ける。中を見て笑いそうになった。
私のブレザーは確かにあったのだが、その隣には芹澤のカッターシャツが当たり前のように掛かっていた。シャツに人格はないのに、ふてぶてしかった。効果音を付けるならば、デーン! みたいな、そういう堂々とした落ち着きがあった。こちらは息を切らしているというのにである。
背後から先生の、こいつブレザーだけじゃなくシャツも忘れてるやん……という視線が痛い。「違うんです! これは僕のじゃなくて!」と弁明したかったが、そんなことを言ったところで詮無いのでグッと堪えた。
悔しさを抱えたままバスに戻ると、芹澤が呑気におしゃべりしていて、なんかムカついたからシャツを投げつけた。
ここまで読んでもらえればわかる通り、芹澤はたびたびトイレに行くものだから、トイレ関係のトラブルに遭遇する確率も高い。
ある日の放課後、私は友達数人で教室に残ってだらだらおしゃべりしていた。そこで芹澤は、先日体験したというエピソードを話しはじめた。
夜、ランニングに出かけた芹澤はいつものごとく、急な腹痛に襲われ、近くの公園のトイレに駆け込んだらしい。無事、用を足すことには成功したが、なんと、紙がなかった。万事休すである。しかし、芹澤があきらめかけたとき、トイレに入ってくる人の気配があった。芹澤はとっさに個室のドア越しに、紙がなく窮地であると訴え、ポケットティッシュを投げ入れてもらうことに成功したという。
その親切な人はどうやら、タクシーの運転手さんらしく、休憩のためトイレに立ち寄ったとのことだった。とにかく、この運転手さんのおかげで芹澤は九死に一生を得たのだった。
「よかったね。親切な人がいて」
「いや、ほんとラッキーやった」
そんなことを言っていると、いい時間になったので、帰ることにした。一緒に帰るのは私と芹澤、そしてもう一人仲の良い、山本。学校の近くを川が流れていて、それに沿うように三人で自転車を走らせる。
途中で、「あのさ」芹澤が重い口調で言った。
「あのさ、さっき教室で話したエピソードあるやろ? あれ、嘘」
「え、そうなん!?」
私たちは自転車を漕ぐ足を止めた。
「じゃあ、全部作り話?」
山本が訊くと、芹澤は首を横に振る。
「全部ではない」
そこで彼は一瞬、なにかを考えるような風情を見せた後、息を吸い込んだ。心なしか、その目には覚悟のようなものが宿っていた。
「本当は、タクシーの運転手なんて来なかった」
「え?」
「だから、尻も拭けなかった」
え? である。
芹澤は九死に一生を得てなどいなかった。普通に死んでいた。
「じゃあどうしたん?」山本は更問いの手をゆるめない。
「そのままパンツもズボンも履いて、細心の注意払いながらゆっくり帰った」
いま真実を話すのなら、何故わざわざあんな嘘を、と言いかけて気づく。
教室では女子も芹澤の話を聞いていたのだ。
女子の前では、せめて、拭けた自分を。せめて、ハッピーエンドを。
ある種の虚栄心やプライドを超えた、祈りにも似た気持ちが、あの嘘をつかせたのだ。
このとき、私の脳内では山崎まさよしの「One more time,One more chance」が流れていた。
いつでも捜しているよ どっかに君の姿を
向かいのホーム 路地裏の窓 こんなとこにいるはずもないのに
世界中、どこを探しても、あの親切なタクシードライバーは見つからない。だって、嘘だから。こんなとこ(現実世界)にいないから。
私はなぜか、すっかり切ない気分になってしまった。
「じゃあ、帰ろ」そう言って、再び自転車のペダルに足をかける。
オレンジに染まった空と、横を流れる川の音。そして──山崎まさよし。
これらに包まれて、私たちは家路を急いだ。
嘘をついてまで「拭けた自分」を演出する羞恥心があるなら、最初から「ランニング中に催した話」なんか披露しなければよくない? という疑問は飲み込んだまま……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます