5.きれい

「あれ、朝ぶりですね」


 揺れる電車に振り落とされないように握り棒につかまっていた僕は、開いたドアから入ってくる人影を前に目を見開いた。


「あ、朝以来だね……え? なんで同じ握り棒掴むの?」


 ドアが閉まり、閉まったドアに体を預けた彼女は、空いている反対側の握り棒ではなく、僕の手元の握り棒の下方をつかんだ。


「だって、こうしないと話せないじゃないですか。離れてたら、迷惑になるし」


「それは、そうか」


「それに私は背が小さいですから、この位置がちょうどいいんです。はぁ」


 大きなため息とともに上げられた顔に、少し違和感を覚えた。


「なんかあった?」


「……エスパー?」


「いや、なんとなく」


「エスパーじゃん……ま、別に言いふらすようなこともないだろうし、いっか」


「口は堅い方だけど」


「聞いてください!」


 食い気味な言葉と共に距離を詰めてくる。


「私、今日男子からチビって言われたんですよ。それでむかむかして、追いかけまわしてたら怒られてしまって。ただでさえ走って疲れたのに、居残り掃除までさせられて、こんな時間になっちゃったんです」


「叱られ方が……なんというか」


「なんですか?」


 冷たい声色で、距離以上の圧を感じる。


「いや、何でもない」


「まあいいです。それより、いつもこの時間なんですか?」


「今日は部活があったから」


「何部ですか?」


「書道」


「へー、すごいですね。やっぱり書道部って、字きれいなんですか?」


「きれいな人は多いね。僕も、読めない字ではないと思うし」


「何か持ってます?」


「えーと確か……あった。はい」


 リュックサックを前に抱え直して、今日返却された宿題用のノートを渡す。


「ありがとうございます……なんか汚れすぎじゃないですか?」


「あはは……」


 僕は、書かれた名前に被るほど表紙が墨で汚されたノートを見て、苦虫をかみつぶす。


「うわ、字、きれいですね。形がそろってる」


「そろってるだけで、そんなにうまくないでしょ?」


「私、よくきれいって言われるんですけど、その私がきれいって言うんですから間違いないです。ちょっと待ってくださいね」


 ノートを返すや否や、肩から掛けた制カバンからノートを取り出す。


「見てください」


「……おー」


 歴史の授業用ノートのようで、丁寧にまとめられてわかりやすい。見覚えのある内容であるから、やはり同級生のようだ。


「きれいですか?」


「わっ」


 ノートとの間に顔を差し込まれ、思わず大声を出してしまった。周りを見ると、皆イヤホンをしていてこちらには気づいていないようだった。


「なんで驚くんですか」


「そりゃ驚くでしょ。あんなに近い距離、電車が揺れでもしたら危ないでしょ?」


「それで、私、きれいですか?」


「え……」


 少し離れた場所に移った彼女は、首をかしげてこちらに微笑む。車窓から差し込む夕日に照らされた、茶色がかった髪がキラキラと輝く。


「……うん、きれい」


「ふふっ、ありがとうございます」


 きれいに微笑む彼女を前に、思わず唾をのんでしまう。なるべく動揺をしないように、ノートを返す。

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