ねむるときこえ

吉野茉莉

ねむるときこえ

「おはよう、リサ」

「おはよう、マイ」

 ベッドからのそりのそりと起き上がった私はまずメガネをかけ、そばにいたリサに声をかける。まぶたを何度もしばたき、リサの輪郭を目ではっきりと掴む。リサはベッドの私の横にいる。二人の距離は十数センチしかない。私のショートにした金髪と対照的にリサの腰まである長い黒髪が白いシーツの上に乗っていた。手足は細く色白で、まるで昔の人形のようだった。脳のスリープから復帰した私はグラスの右上に表示されている時計を見た。朝6時を指していた。この時代になっても多くの人々は朝起きる生活を習慣的にしている。なぜこの習慣が廃れなかったのか、結局大多数の人にとって夜に寝て朝に起きる生活が「人間らしい」ということだったのだろう。人間らしい、人間のようだ、その定義は長く議論はされている。しかし、それはもはや議論をするのが人間だけだ、ということになりつつある。人間以外は議論をしない。だから人生のほとんどを議論に使っている。

「リサ、コーヒー?」

「うん、お願い」

 いつものように、お決まりの朝のように、私はベッドから起き上がってキッチンに向かいコーヒーメーカーのスイッチを入れる。いつまで経ってもコーヒーメーカーは進化しないな、とぼんやりと思った。普段から思うようなことでもない。誰だってこんなことで昔のことを思い出すわけないのではないか。

 コーヒーポットから二人分のカップにコーヒーを注ぐ。習慣化したコーヒーは朝の匂いがした。カップを持ってリビングに行く。リサはすでにリビングのソファに座っていた。リビングテーブルに二つのカップを置く。

「目が覚める?」

 リサが柔らかい、すべてを包み込むような微笑みで私に聞いた。

「どうかな、デカフェだしね」

 カフェインがあまり得意ではなく、大量に取ると具合が悪くなってしまうためカフェインレスしか飲まない。リサと出会うまでコーヒーを飲むことがなかった私は、二人で暮らすようになってからコーヒーを飲むようになった。今となってはそれもどうでもいいかもしれないが、この習慣だけは続けている。

 リサがカップに右手で触れる。だけどそれを持ち上げることはしなかった。私が大好きな微笑みを維持しながら手を自身の膝に置いた。リサはカフェイン入りのものの方が好みなのだけど、現状に不満はないようだ。カフェインでリサが覚醒する必要もない、いつだって意識ははっきりしている。

「マイ、今日もお仕事?」

 コーヒーと一緒にサプリメントを口に放り込む。一瞬だけ喉に張り付く感覚があったがそれもすぐに流れてしまう。

「そう、まいったよ、しかもアウトワーク」

「マイは偉いね」

 少ししてクローゼットから一番シンプルな服を選ぶ。人と仕事で会うときはなるべく装飾のないもので行くことにしている。家で多くの仕事ができるようになった社会でも、対面で会うことをよしとする人類は淘汰されなかった。まだもう少し時間がかかるということだろう。かつてあった「リモートワーク」が標準になると、今度は会社に出社しなければいけない仕事は「アウトワーク」と呼ばれるようになった。

「頑張って」

 笑顔でソファに座っていたリサが言った。

「うん、頑張る」

 私は座ったままのリサの頭を撫でる。フィードバックがないことにほんの少しの空虚さを感じたが、リサは嬉しそうに首を左右に振った。

 玄関に向かい、ドアノブに手をかけたところで私は振り返る。

 リサはソファに座ったまま、こちらを失敗のすべてを許してくれそうな優しい顔でみていた。


 マンションを出て歩道に出る。宅配用の鈍いロボットがゆっくりと動いていた。ぶつからないように避けて歩く。ようやく人類はロボットを人間に合わせるのではなく、人間をロボットに合わせればいいということに気が付いた。

 定刻通りの電車に乗り、会社まで向かう。昔は満員電車というのがあったというが、今はそのようなものはなくなった。わけではなく、今も今でぎゅうぎゅうになっている。どうやら電車の数が今と桁外れの本数で走っていたらしい。

 オフィスにつき、同僚と出社したことによる愚痴をいいつつ、最終的には「なんだかんだ会うと違うよねー」という当たり前の言葉で締めくくった。それから会社を出てクライアントの会社に向かい、わざわざ対面でプレゼンをした。資料は添付済みなので、確認の要素が多い。

 プレゼンが無事終わり、スタバで季節限定のフラペチーノを飲みながら、リサを呼び出した。ワンコールでリサが出る。グラスの先に現れたリサは朝のときと同じ服装だった。

「どうしたの、マイ?」

「いや、どうしたもないけど」

「あ、それスタバの新作だよね! 私も食べたいなあ」

「うん、今度ね、買って帰るから」

 その瞬間、私の心のどこかがチクリとした。

「リサは?」

「私? 何もしていないよ、ぼーっとしていた。マイには悪いけどね」

 これも意地悪というか、自分で何を言っているのかと思った。

「午後は?」

 リサが聞いた。

「コフィンに行こうと思う」

「そう……」

 それを聞いて、リサは明らかに曇ったような顔をした。

「ああ、いや、ごめん、メカニカルメディカルに寄るよ」

「わかった。どんな感じだったか教えてね」

「うん」

 午後に少しだけ仕事を片付けて、私は自動運転のタクシーに乗って街から少し離れた場所まで来た。自動車なのだから自動運転であることは自明なのでは、と私の世代は思ってしまうが、今でも手動運転の車は残っているし、運転免許は手動運転車を前提として存在している。

 そんなどうでもいいことを考えていると少し開けた空間が出てきた。よく整備された芝生があり、入り口をタクシーで抜けると、白い建物が出てきた。横よりも奥行きがある長方形のような十数階建てのビルだ。入り口の正面に「メカニカルメディカル」のプレートが申し訳程度の大きさであった。大々的に公開するような状態ではないという意識なのかもしれない。

 受付で身分証を出し、カードキーを受け取った。カードキーの種別は「パートナー」だ。右手に向かって進み、エレベータにカードキーをかざす。やがてやってきたエレベータに乗り、静かに下に降りていく重力を感じていた。長いな、と思ったときにタイミングよく目的の階についた。

 その部屋は悪く言えばだだっ広い倉庫のようなもので、壁一面に大量の引き出しが埋め込まれている。全体的に寒々とした部屋だ。初夏の今では信じられない。

 数歩進んで台座があったのでカードキーを置いた。左側の壁が静かにうなり声を上げて、引き出しが一つ動いて機械的な動作でもって二メートルほどの長方形の箱が正面に現れた。

 直方体の上部がガラスになっていて、そこに寝かされている人間の顔が見えた。

 一人一人が一人分が収まるポットのようなものに寝かされていて、それが壁いっぱいに規則的に並べられているのだ。

 中に入っている人間は、記録は「生きている」ことになっている。ただ眠り続けているだけだ。この見た目から、通称としてコフィン、つまり「棺桶」と呼ばれてもいる。一般名詞としては「冷凍睡眠機械」である。

「久しぶり、リサ」

 私は顔が見えるガラスに手を当てる。前と変わらずガラスは冷えている。リサは目を閉じて眠っていた。はるか昔から、そして遠い未来に渡って、リサがここに保管されているようにも思える。当然実際はそうではない。

「元気?」

 私がリサに声をかけるも、眠っているリサからの返答はない。

「もう少しだね」

 もう一度ガラスに手を当てる。

「それじゃあ、またね」

 後ろめたい気持ちがあるまま、私はコフィンを元に戻すボタンを押した。

 そのままエレベータで戻り、受付にカードを返す。カルテを見せてもらい、状態に変化はない、という定期検査のメモを読んだ。

 呼び寄せたタクシーで最寄り駅まで戻る。

 電車に揺られ、私は自分の家についた。

「おかえりなさい」

 ソファにいたリサが私に声をかけてくれた。

「うん、ただいま」

「今日はどうだった?」

「何にも、特に何にもなかったよ」

「私はどうだった?」

「いつも通り」

「そう」

 やや抑揚のない声でリサが返す。

 寝室に行き、服を着替える。

 ソファに戻ってきたところで、今朝のリサ用のコーヒーがテーブルに置かれているの見つける。朝慌てて片付けなかったからだ。もちろん、コーヒーは冷めているし、何より一滴たりとも減ってはいない。リサはコーヒーを飲むことができないからだ。

「ご飯は?」

 リサがソファに座ったまま聞いた。

「どうしようかな、何がいい?」

「私はマイがいいならなんでもいいよ」

「そう、じゃあ何か作ってみよう」

「ありがとう!」

 大げさにリサが喜んだ気がした。これは私が今日コフィンに行ったことで少々過敏になっているだけだろう。

 適当な野菜炒めを作り、ダイニングテーブルに運ぶ。ダイニングにはすでにリサがいた。

「今日も美味しそう」

「うん、どうかな」

「またそうやって暗くならないの」

 リサが私を励ます。

「いただきます」

「いただきます!」

 明るい声でリサが言った。

 箸を持ったリサが野菜炒めを掴む仕草をする。

 しかし、現実には何も動いていない。

「うん、美味しいよ!」

 リサが感想を言う。

 実際には、目の前にいるリサは何も飲まないし、何も食べない。

「ありがと」

 お決まりの台詞ではあるけど、私も返す。

 にこやかな顔でリサが野菜炒めを掴み、味噌汁を左手に持ち、米を箸で掬う、そんな仕草を順繰りにしている。まるで本物のリサであるかのように。

 目の前にいるリサは本物ではない、かといって偽物なのかというと判断が難しい。少なくとも私はこのリサを偽物と断言したくない。

 目の前のリサは、私にしか見えない。

 いや、厳密には私もこのメガネを外すとリサを認識できない。

 リサはこのレンズの先にだけ存在している、人工知能のARだ。


 私とリサは大学で知り合い、なんだかんだあって意気投合して付き合うことになり、同棲をするようになった。この辺りは今さら思い返して他人に言うようなものでもない、今や性別についてあれこれ言われることは大分なくなった。見た目の割にはくよくよ前にあったことを考えてしまう私と、見た目の割に思い切りがいいリサで、釣り合いが取れていたのだろう。

 しばらくは穏やかな暮らしをしていた。多少の衝突があったけど、それは建設的な作業だった。

 同棲をしてから働くようになって少し経ち、リサの身体に異変が出てきた。おっとりはしているが運動能力はそれなりにあるリサが、何でもないところでつまずいて転ぶようになった。ただコップを掴むだけのような動作に失敗することが多くなった。ただの疲れだというリサに、心配性の私が無理矢理病院に連れていった。その結果、リサの病気が見つかった。全身の筋肉が本人の意思で動かすことができなくなり、その症状も徐々に進行していき、最期には完全な寝たきりになってしまうようだった。

 私とリサは落胆をしたが、リサは取り乱すようなことはなかった。私の方が毎日泣いていたくらいだ。もちろん、リサは持ち前の明るさでもって気丈に振る舞っていたに違いないことくらいはわかった。

 ただ、この病気に対して良い知らせがあった。

 現状では完治することは不可能だが、画期的な治療法が最先端の研究により発見されたことだった。

 それに対する私たちにとって悪い知らせもあった。

 研究結果は研究結果で、人間に使われているようになるためには十年以上がかかることだった。

 今ある治療法で進行を遅らせるとしても、この新しい治療法が受けられる頃にはすでにリサの身体はもう動かないだろうことはわかっていた。

 わずかな望みがあるのに、それに縋る時間がないというのは私たちにとっては十分過ぎるほどの悔しさがあった。

 私たちが、主に私だけど、途方に暮れているとき、リサが一つの提案をしてきた。それが「冷凍睡眠」の適用だった。冷凍睡眠も最近になってようやく実用化できた技術で、現代の治療法では治療が望めない人に向けて提供が始まりだしていた。ただ単に未来が見たいからというのではダメで、それなりの理由が必要になるのだ。身体の時間を止めるというよりは、極めてゆっくりにする、という技術だ。それに危険がないわけではなく、多くの研究では蘇生が問題なくできたが、そのまま起きなかった事例も低い割合であった。

 一か八かやってみる、リサはそう古くさい言葉を言った。

 この技術を保有する企業の一つであるメカニカルメディカル社がリサの勤め先だったこともあり、待機中の「被験者」の列に割り込むことができた。私が何か言う前にリサが勝手に申し込んでしまったが、もっとも、私が何か言える立場ではないかもしれないし、リサもリサで病気に対して私に見せていたほど楽観的ではなかったというのもあったかもしれない。

 期間は十年間を目処にしていた。実験データを取ることに同意することで費用もかからないこともわかった。

 実験参加は一年後となった。

 リサは十年間眠っていればいいが、その間も時は流れ、私も年を取ってしまう。その時間をどう埋めていくのか、それが問題だったし、私にとっては途方もなく長い時間かのように思われた。


 そして私たちは一つの計画を実行することにした。

 コフィンに入るまでの一年間、リサは自分に関するあらゆるデータをAIに教え込むことにした。容姿や声質に言うに及ばず、一般的な性格診断、想定問答、歩き方やふとしたときに前髪を触る癖、それと合わせて私たちの会話をすべてデータとしてAIに組み込んでいった。

 そして一年間かけて、「リサだったらどう振る舞うか、どう発言するか」を構築していった。

 それが今私がメガネのレンズを通して見ているリサである。

 リサは美味しそうに私の作った手料理を食べている「風」の動きをしている。同棲していた頃のリサならきっとこう食べて、こう発言するだろう、という振る舞いだ。

 しかもリサのAIは、新たに情報を得てアップデートをすることができる。私が新しい情報を入力することで変化していき、それを踏まえた上でのリサらしい回答が返ってくる。

 私はリサといろんなところに行き─リサは私のグラスを通して情報を得ている─様々な会話をし、議論をし、打ち解け合った。

 そうして、リサのAIと暮らしはじめて三年が経った。

 この期間はあっという間だった。

 触れることができない、というデメリットを最初は割り切っていたけれど、段々と辛くなり、また落ち着くようになった。人体の皮膚に近いロボットがあればまた別だったかもしれないけど、私の給料ではそこまでは無理だった。料理も朝のコーヒーも二人分用意するのも慣れた。

「今日も失敗しちゃったよ」

 テーブルの向かい側にいるリサに私が話しかける。

「どうしたの?」

 微笑みながらリサが私に聞く。

「いや、課長がさ、またよくわからないこと言っていて、新企画もうまくいきそうにないし、なんか自信なくなってきちゃった」

 心配そうにいつもの癖で前髪を触りながら軽く頷いたリサが口を開く。リサの口から本当に喋っているわけではなく、あくまでデータとして処理されてメガネから流れるリサを模した音声だ。

「マイが心配症すぎるからだよ! あんまり考えないでやっちゃった方がいいよ!」

「そうかなあ」

「そうだよ、こういうのって、なんだっけ、案ずるより?」

「生むが易し?」

「そうそう!」

「……そうだね」

 私はそれから社内で抱えている新企画の話をリサにした。リサはリサであるかのように、その企画の評価をした。それはリサの発言としては妥当なものであるかのように思えた。

「なんだか安心してきた」

「そう、マイはやればできるんだって!」

 リサに励まされて、少し気分がよくなった私は、冷蔵庫からワインを取り出してリサと乾杯して一杯だけ飲んだ。

 酔いが回ったのか、いつしか私はソファに横たわってまどろんでいた。メガネが邪魔になって外してテーブルに置いていた。こうなると、リサはどこにもいなくなる。そのまま意識が朦朧としてきた。

 気が付くと私は真っ白い部屋にいた。倉庫のような広さで、でも何もない。

「リサ!」

 私は急に不安になり叫ぶ。

 返答はどこからもなく、ただ私の声が反響するだけだった。

 しばらく広い部屋をうろうろしていると、どこかでドアの開いた音がした。その音の方を見る。

「リサ!」

 そこには青い入院服のようなものを着ているリサがいた。

 私がそこに駆け寄る。正面に立ち、私はリサの手を掴んだ。ひんやりとして、真冬の外を歩いてきたような、私の手まで凍ってしまうような冷たさだった。思えば、三年ぶりにリサに触れることができた。本物のリサだ。

「マイ」

 体温と同じ冷たい声でリサが言う。

「あれはね、私じゃないの」

 氷のつららで私の心臓を突き刺すような声だ。

「あれって?」

「あなたがいつも話している、あれ」

 胸がざわついた。

「私じゃない」

「でも……」

 これはリサと決めたことだ。私がいつでもリサと過ごせるように、二人で作り上げたものだ。

「私ももちろん私じゃない」

 背筋が寒くなる。

「これはあなたの都合の良い私。本当の私じゃない。本当の私は、ずっと冷たい世界にいる」

「そんな」

「こうだったらいいな、という私を見ているだけ。私自身じゃない。あそこも、ここも、ただの夢みたいなもの」

 それはずっと私の中でくすぶっていたものだった。それを私の夢の中で指摘されている。指摘しているリサも、結局は私が作り上げたリサでしかなく、私が言われたい、指弾されたいと心のどこかで思っているから出てきているだけだ。

「もしも私が起きたとして」

 リサが問いかける。

「あなたは私と、あの私のどちらを選ぶの?」

 胸がざわざわしているのを感じる。焦燥感で身体が震えてくる。

「私は……」

「あの私は、あなたに最適化された私。私よりずっとあなたに優しく、思いやりがあって、励ましてくれて、信じてくれる私」

「でも、私は、あなたを、待っている」

「本当にできるの? 十年眠り続けた私よりも、十年一緒にいた私の方がいいんじゃないの? この私は成長していないけど、あの私はあなたと成長していたのに。あなただって十年で考え方も変わるでしょう? その十年後でも、起き上がった私と暮らせるの?」

「それは」

 といいかけて、言葉が詰まる。

「それに、マイはきっと、あの私を消すことができない」

 それは非難のようでもあるし、忠告のようでもあった。

 私は十年間考えることができる、でもリサは眠る直前で止まったままのリサだ。あのときのようにはいかないかもしれない。それであれば、ずっと対話をし続けているあのリサの方がいいのだろうか。考えがまとまらず、汚れた暗い感情が湧き出そうになった。

 そこで私は頭痛を感じて目を覚ました。

 ソファから身体を起こして、慌ててメガネをかける。

「リサ!」

「どうしたの?」

 いつものように穏やかな声がした。

 ソファで先ほどまで私が頭を置いていた位置にリサが座ってこちらを見ている。

 不思議そうに首を傾げ眉を寄せた。そうだ、こういうとき、リサはこんな顔をするのだ。

「あなたは、リサ?」

 私が聞く。

 リサは首を傾げる。

 いつものリサがそうするように、リサは私の頬に触れた。フィードバックはないので、触れた、というのは私の思い込みだ。それもかまわないように、リサが言う。

「もちろん、私はリサよ、マイ。だってそうでしょう? 私がリサじゃなかったら、私は誰なの? あなたは誰と過ごしているつもりなの? リサ以外の誰と? リサを捨てて?」

 少しだけ強い口調のように思えた。

「リサは、リサはそんなこと言わない!」

「言うわ、だって私はリサだもの」

 私が感情にまかせて言っているだけのはわかっている。リサの言っていることが正しい。リサならきっとそう言うだろう。

「こんな……」

 右手でメガネのつるを掴む。

「マイ、あなたはそれを望んでいない」

「わかってる!」

 メガネの向こうでリサが座ったまま手を伸ばす。触れられるわけでもないのに、後ろに身体が引いてしまう。

「あなたはそれでいいの? ネガティブになっているだけじゃない? もっと素直に考えてみて。そんなことをしても誰も得をしない」

 リサが耳元で問いかけてくる。とても優しい声だ。

「でも、ごめん、さよなら、リサ」

 リサが悲しそうな顔でこちらを見た。

「そう、さよなら、マイ」

「グラスマネジメント、リサプログラムをデリ……」

 レンズの縁を強く握る。

「オフにして」

 しん、と静まりかえった部屋でソファに倒れ込んだ。

 メガネを外しテーブルに乱暴に置いて、目を閉じ、呼吸を落ち着かせる。

 これでいい、これでよかったんだと自分に言い聞かせる。

 そう、シンプルに考えればいい、何も難しいことはない、これまでがおかしかったんだ。あのリサは偽物で、私は無意味に時間を使っただけ。

 部屋に満ちていたリサの気配ももうない。

 あのリサは、どうなってしまうのだろう、ただ一人、ずっとレンズの向こうに居続けるのだろうか。

 一人きりで?

 いや、もう考えても仕方ない、全部忘れてしまうのがいい。

 安心したのか、急に力が抜けて、意識が遠のいていく。

 そうだ、夢で彼女に会えばいいのだ。

 それだけで十分だ。

 夢の中のリサは、今度は優しくしてくれるだろうか。

 ソファに身体が沈み込んでいく。

 まどろみの中に溶けてしまいそうになる。

 腕も、足も、胴体も、頭も、なくなっていく。

 肉体が失われて、すべてが均一になっていく。

 おやすみ、リサ。

「またね」


 私は組んでいた腕をほどき、デスクの上に置かれていたコーヒーカップを持ち上げる。勢いをつけて中身を飲み干した。苦いカフェインの味がした。目が覚めていくのを感じる。

 一息ついて、ディスプレイから目を離す。

 人間がどんな夢を見ているか観測できる時代になった。

 だから私はいつも彼女が見ている夢を見続けている。

 席を立ち、腕を大きく上に伸ばすと、部屋のドアを開けた。だだっ広い倉庫のような白い部屋に出る。

 中央まで歩きカードキーを台に乗せる。ピッと機械音が鳴り、奥の壁から直方体が滑らかに出てきた。

 その箱、コフィンの顔が見えるガラスを撫でる。

 ガラス越しに、目を閉じて眠っている顔を見る。

 彼女が眠りについてもう三年になる。

 起き上がるまでおよそ七年。

 彼女はいつも同じ結末の夢を見ている。

 私はその夢をディスプレイ越しに見ながら、彼女がずっと私に会うのを待っていることに満足して、そうして眠りから覚めるのを待っている。

 スイッチを押して、コフィンは音もせず元の位置に戻っていった。

 踵を返してまた観測室に戻る。

 おやすみ、マイ。

「またね」

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