兄と私

チョコレートストリート

兄と私

「来年結婚しようと思って」 

 働き出して4年目の兄が電話でそう言ったとき、私に特段の感慨はなかった。兄とは仲が良くも悪くもない。夏に兄が帰省したときにそういえば、彼女がかわいいとかなんとか言ってた気もする。


 2歳違いの兄は、地元和歌山から広島の大学へ進学した。経済的に余裕のない両親が大学進学に当たって出した条件は「家から通えること」だったのだが、兄はなぜか北海道と広島の大学に願書を出した。


「広島も通えないけど、北海道ってどういうつもり?」

 受験の前に兄に聞くと、兄はうきうきした顔で言った。

「子供のころテレビで『北の国から』を見てから北海道に行きたいとずっと思ってたんだ」

 ……単なる旅行か。「白い恋人」を手に帰ってきた兄は、池に積もった雪の上に鳥の足跡がちょんちょんと残る景色がきれいだったとか、電車で隣に座った女子高生におすすめのランチのお店を教えてもらったとか楽しそうに話し、試験結果など気にもとめていなかった。


 家からは通えないが、合格通知をくれたのが広島の大学だけだったので、兄は家から出て奨学金とアルバイトで広島の大学に通い、よほど気に入ったのかそのままそこで就職して、その地の女性と運命の出会いをしたようだった。ちなみにいい子の私は奨学金とアルバイトで家から通える大阪の大学に行って、家から大阪の会社に通っている。


「ふーん。お父さんたちにも彼女のこととか結婚のこと話した?」

「まだ。実は今度のクリスマスに内緒で彼女を連れて帰って、『メリークリスマス!婚約者を連れてきたよ!』って紹介してびっくりさせようと思って」 

「……。絶対にやめた方がいい」

 両親は古めかしく気難しい人たちだ。結婚相手をそんなサプライズで紹介されても氷のように固まるだけだろう。その後一体どうしたらいい。誰がフォローするというのか(たぶん私だ)。ノープランで能天気にもほどがある。連れてこられる彼女さんが気の毒この上ない。

「ええ?喜ばれると思ったのになぁ」

 同じ両親のもとで育ったはずなのに、兄の目にはあの堅物な親が陽気なアメリカンにでも見えているのだろうか。


「それで、結婚資金のことなんだけど、ちょっと足りなさそうなんでお金貸してくれない?」

「お金が貯まってから結婚すればいいんじゃないの?」

「この辺って田舎で、彼女以外みんなもう結婚してて、再来年とかその翌年とか言うのかわいそうなんだよ」


 父母にはお金の話はタブーだ。世間並みにお金を出してやれないと気に病ませてしまう。そもそも私達は奨学金といえど大学まで行かせてもらっただけで十分で、働き出した今親にお金を出してもらうつもりなどさらさらない。だから兄は私に頼んできたのだ。兄が奨学金の返済をしているのはわかっている。彼女さんの待てない気持ちもわかる。私はなけなしのウン十万を貸してあげることにした。

「それで、どうやって返してくれるの?」

「来年のボーナス2回に分けて返すから」


 お式は、妹の欲目もあるかもしれないけど、とてもよかった。兄と同じ年の花嫁さんは兄の隣で幸せそうに笑って、友人やご家族の温かい祝福にときおり潤む涙もきれいだった。家によく遊びに来ていた兄の友人達がマッキーの「どんなときも。」を歌い、お世辞にも上手とは言えないその熱唱に胸がいっぱいになって、私まで涙ぐんでしまった。お金貸してあげてよかった、若く未来ある二人に幸あれ、と。


 その後私がボーナスをもらって、ふと兄からなんの連絡も来てないことに気が付いた。

「私の会社はボーナス出たんだけど、そっちも出た?」

「うん、もらった。借りたお金半分振り込むよ」

 忘れてはないみたいだった。その後振り込まれたことも確認した。


 その次のボーナスをもらった後も、兄からは連絡がなかった。

「あのさ、ボーナス出た?」

「ああ、うん。そのことでちょっと相談なんだけど、お金を返して、同じ金額をまた借りるっていうことにして、お金をそのままにできないかなぁ」

「? 今回返さないってこと?」

「そう、パソコンを買いたいんだ」

「そしたら、お金いつ返してくれるの?」

「次のボーナス」

 兄は基本的に気のいい人で、私からお金を搾取しようとかいう悪気がないのはわかっている。ただ、なんというか気楽で気が長い。兄を特段慕う気持ちや恩のようなものもないのだけど、私達は同じ家で育ち苦労を共にしたいわば同士である。お金で助け合えるのは兄弟以外にいない。特に使う予定もないお金だったので、私はそのまま貸すことにした。


 次のボーナスのときも、やはり兄から連絡はなかった。

「ねぇ、ボーナス出たかな?」

「あ、お金返さないとなぁ」

 兄はまたものんびりと言った。

「実は赤ちゃんできて。次のボーナスで返していいかなぁ」

 ……。返すつもり、ほんとにあるだろうか。だんだんめんどくさくなってきて、もう返ってこなくてもいいような気になり、まあいいよと私は答えた。


 さらに次のボーナスのとき、一応連絡をしてみた。

「ボーナス出たね。またなんか買うものあるの?」

「うーん、そういうわけでもないんだけど」

「けど?」

「もうあのお金、返さなくてもいいかなぁ?」

 何を言っているのだろう、この人は。返さなくていい、というのは貸した方から言う言葉であって、借りた方から言う言葉じゃないだろう。

 単純にびっくりして思わず無言になってしまったら、怒ったと思ったのか兄が言った。

「いや、お金はあるから振り込むよ」

 あるのか。そして返す気もあるのか。その後兄からお金は振り込まれ、もともと結婚資金だったはずのお金は全額返ってきた。


 同じ遺伝子が同じ環境で育っても、似たような性格になるとは限らない。一緒に苦労したよねと思っているのは私だけで、兄はそんな風に感じていなかったのかもしれない。だからあんなにとんぼみたいに気楽なんだろうか。同じ場所にいたけど見えてる景色は全く違っていたのだろうか。

 そうだとしたら、生真面目できりきりしている私よりも、兄の性格の方が人生ずっとシアワセなのではないだろうか。


 その後も頼まれてお金を貸したことがある。相変わらずあんな調子なので、返してもらったのか返してもらってないのか実は把握できていない。私は他人にお金を貸すことは一切ない。でも、兄には返ってこなくてもいいと思える金額であれば返ってこなくてもいいつもりで貸している。

 なんか、まあいいよ、と思えてしまって。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

兄と私 チョコレートストリート @chocolatestreet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ