優先順位をきめたなら

野森ちえこ

ひそかな決意

 妹思いの兄、兄思いの弟、姉思いの妹、世の中にはできた兄弟姉妹きょうだいしまいの物語があふれている。家族は仲がいいもの。きょうだいは助けあうもの。家族神話のお手本のようなエピソードの数々。

 ひかえめにいって、とても羨ましい。家族神話が呪いになっていない人たちが、ほんとうに、吐き気がするほどに羨ましい。


「頼むよ。母さんも今月は無理だっていうんだ。なあ、二人っきりの兄妹きょうだいだろ」

「無理なもんは無理。兄妹に扶養義務はないし、私はあんたに対して家族の情も持ってない。法的にも気持ち的にも助ける理由がないの。だいたい、あんたのせいで私の人生めちゃくちゃになったんだからね。わかったら二度とかけてくんな」

 いいきると同時に通話を切ってそのままスマホの電源も落とす。ぐしゃぐしゃと髪をかきむしり、スマホをソファーの上に放りなげた。


 こんなやりとりを数か月おき、へたすると毎月くりかえしている。なにがイヤって、あとに残るこの微妙な罪悪感だ。

 ない袖は振れない。振りようがない。仮にあったとしても絶対に振らない。

 だけどもしもこれでなにかあったら? きっと私は後悔する。なんで? 兄妹だから? 血がつながっているから? わからないけれど、きっと切り捨てた自分を責めてしまう。そんな自分の性格がたまらなく腹立たしい。

 それ以上に、いっそ殺してやろうかと思うくらいにはあいつへの怒りも降り積もっている。ほんとうに毎度毎度、金の無心ばかり。いい加減にしてほしい。


 女とギャンブル、そして甘い話にめっぽう弱いバカ兄は、親の老後資金とわたしの結婚資金をあとかたなく溶かし、本人も自己破産してさすがにすこしは懲りただろうと思ったのだけど、まったくそんなことはなかった。

 あんなろくでなしと、この先もずっと血をわけた『兄妹』でいなければならないのかと思うと絶望的な気分になる。うんざりとため息をついたとき、ガチャりと浴室のドアがあく音がした。ほどなくして湿った空気と一緒に同棲中の哲生てつおが戻ってくる。


「あれ? どうした? 顔が鬼みたいになってるよ?」

「ひどい」

「ひどいのは理央りおの顔だって」


 そういいながらも、ソファーのすみっこで沈黙しているスマホと、ソファーの下で膝を抱えている私を見て哲生はすぐに事情を察したらしい。


「また?」

「また」

「そっか」


 となりに座ってよしよしと頭をなでてくれる。あったかい。おおきな手と寄り添う体温にすこし力が抜ける。

 親が貯めてくれていた結婚資金も、自分で貯めていた預金も、ぜんぶ兄のせいでなくした。

 でも、自分の預金を差しだしたのは兄を助けるためじゃない。親に泣いて頼まれたからだ。もうこれっきり。次はないという約束でくれてやった。

 そのすぐあとのことだった。哲夫からプロポーズされたのは。

 うれしかったのに。すごくうれしかったのに。なんで今なのとか、なんでこのタイミングでとか、息が苦しくなって、胸が熱くなって、変な汗が出てきて、自分でもなにがなんだかわからないくらいグチャグチャに混乱した。それでもたったひとつ、今プロポーズを受けるわけにはいかないということだけはハッキリしていて、それがどうしようもなく悲しかった。


 ——それでもオレはいいけど、理央がイヤなんだよな。う〜ん……。


 お金にだらしがない兄のこと、自分も親も預金がすっかりなくなってしまったこと、意を決してすべてを打ちあけると、哲生はしばらくひとりでうなっていた。


 ——とりあえず、一緒に住もうか。


 ようやく口をひらいたと思えば、そんなバカげたことをいう。話、聞いてた? と、つい半眼になってしまった。

 お金のことだけではない。私と結婚すれば、あのろくでなしも哲生の義兄になってしまうのだ。


 ——うん。だからさ、結婚はいったん保留にして、同棲しよう。で、結婚資金、一緒に貯めよう。一からじゃキツいかもしれないけど、オレの預金があるし、二三年もあればいけんだろ。ほら、一緒に住めば生活費の節約になるし! な!


 そう得意げに提案する哲夫は、先生にほめてもらいたくてウズウズしている小学生みたいな顔をしていた。


 ——お兄さんとは直接会ったことがないから、現時点ではなんともいえないけど、どんな一族にもはみだし者っているもんだし、オレがちゃんと対応すればいいだけだろ? 情に流されないとか、金は貸さないとか、保証人にはならないとかさ。そのへんは心得ておく。だからそう心配すんな。


 もしもあのとき、哲生が『家族になるんだから』とか『兄妹なのに』とか、ひとことでもそういうニュアンスのことをいっていたらその時点で別れていたと思う。


 その価値観を他者に押しつける家族神話支持者はすくなくない。

 面倒なのは、実際に話してみるまでそれがわからないことだ。それなら最初から話さないほうがいい。

 成長するにつれそんな思いが強くなっていって、いつしか私の中で家族、特にきょうだいの話題はタブーになっていた。

 だから、哲生に話すにもそれなりに勇気がいったのだ。彼が三人兄弟の次男で、兄弟仲も悪くないと知っていたからなおさらだった。

 そのときのことを思いだすだけで、今でもちょっと心臓が痛くなる。でも、だからこそ彼の軽い口調と提案に救われたような気持ちになったのだ。


「今さらだけど、着拒したら?」

「したことはあるんだけどね。お母さんが板ばさみになっちゃってさ……」

「ああ……そうか。ご両親にとっては二人とも大切な子どもなんだもんな」


 そうなのだ。両親のことは私も人並み程度には大切に思っている。だからすくなくとも、両親が健在のあいだは兄との縁も切れないだろう。


「テツくん、イヤになったらいつでもいってね。私、駄々こねたりしないから。ちゃんと出ていくから。結婚も同棲も無理し」ふわりと手のひらで両目をふさがれて言葉が途中でとまった。

「はい、深呼吸」


 吐いて吐いて吐いて、吸って吸って——哲生の声にうながされるまま呼吸しているうちにたかぶっていた気持ちも落ちついてくる。


「このまま寝ちまえ。ネガティブスイッチはいってるぞ」

「まだ眠くないよ」

「無理やりでも寝ろ。疲れてんだよ」

「そんな無茶な」


 思わず笑ってしまって、気がゆるむ。


 きっと誰にでも決定的に『あわない』相手というのがいる。それが家族だった場合はおたがい悲劇だ。

 だけど家族だからという理由だけで、性格のあわない人間と一緒にいる必要なんてない。血のつながりがあろうがなかろうが、離れていいし、縁を切ってもいい。

 哲生と出会ってはじめて、私はそう思うことを自分にゆるせるようになったような気がする。それでも、助けをもとめてきた手を振りはらうことにはやっぱり罪悪感を持ってしまうけれど、最近は罪悪感を捨てる努力より飼いならす努力をしたほうがいいのではないかと考えるようになった。それもたぶん、哲生の影響だ。

 彼は基本的に物事を肯定的に考える人だ。目のまえの現実をいったんまるごと受けいれる。その現実が望まないものであっても、まずは受けいれるのだ。そこから、どうすれば自分の望むカタチに近づけるかを考えていく。


「オレはね、理央が好きなんですよ。この世でいちばん大切なの。だから理央が背負ってたり抱えてたり、理央にくっついてるものごとぜんぶもらうつもりでプロポーズしたんですよ」


 目を覆う手があたたかい。

 しかしどうした。いきなり敬語で、しかもどんどん早口になっていく。


「そのかわり理央にもオレのぜんぶをもらってもらうつもりですから。一緒に生きてくってそういうことだと思うんだけど、そこんとこ理央さん的にはどうですかね」

「……なんで敬語? めっちゃ早口だし」

「うっせえな。そこツッコむなよ。よけい恥ずいだろ」


 照れていたのか。

 なんだか、胸の奥からぽかぽかとあたたかいものがあふれてくる。それは心にできたささくれも、殺気立った感情も、まるごと包みこんで私の中を満たしていった。

 なんだろう。この気持ちは。


「……好き」

「ん?」

「私も、テツくんのこと大好き」

「お、おう」


 ふいに視界がひらけたような気がした。

 これからなにがあっても、私は、私のいちばん大切なモノを、私と哲生の人生みらいを守るための選択をしていけばいいのだ。


「もう大丈夫だから。そろそろ手はずしてよ」現実の目はまだ哲生にふさがれたままである。

「やだ」

「なんでよ」

「なんでも。せっかくだから寝とけって」

「せっかくの意味がわかんないだけど」

「せっかくはせっかくだ」


 手をはずそうとジタバタしていたら抱きしめられた。

 どうあっても顔を見られたくないらしい。そんなに照れているのか。

 あきらめて、その広い背中に手をまわす。


 この先も兄がからめばまた乱されるのだろうけど、自分の中で取捨選択の軸さえブレなければいい。

 それに、私が間違えそうになっても、哲生ならきっと気づいてくれる。

 もうすこしで二人できめた目標金額が貯まる。そうしたら、今度は私からプロポーズしよう。ありったけのありがとうと大好きをこめて。

 哲生の、いつもよりすこし早い鼓動を頬に感じながら、そんなことを思った。



     (了)


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