死がもたらす平衡

森本 晃次

第1話 死がもたらす平衡


 今年三十歳を迎えた池田吾郎は、昨年結婚した妻の良枝とともに、郊外の賃貸マンションに引っ越してきてから、そろそろ一年が経とうとしている。新婚でこのマンションに入ったのだから、引っ越し二年目に突入が、そのまま結婚一周年ということになる。

 吾郎の方は、結婚一周年などという意識はほとんどなかったが、妻の良枝の方が、節目節目をしっかり覚えていて、一周年をどうやって祝おうかと、虎視眈々計画していた。

 良枝はこういうことには神経を使うが、それが一つの楽しみであった。子供ができるまでは共稼ぎがいいというのは、お互いに共通した意見で、結婚二、三年は新婚気分を味わいたいというのも、共通していた。お互いに趣味や楽しみに詮索しないやり方は自由でいいのだが、節目のイベントに関しては、双方で考え方が微妙に違った。

 どちらかというと神経質なところがある良枝に比べ、まったく無頓着な吾郎は、こういうことでは、良枝に頭が上がらない。嫌いなわけではないのに、ただ面倒臭がり屋なだけなので、良枝さえしっかりしていれば、いいことだった。

 良枝はサプライズを考えて、会社の帰りに今までは直接帰って、ゆっくりと夕食の準備を進めていたのだが、最近では、帰りに百貨店や、グッズの店などに寄り、サプライズに必要なものを物色していた。

 地味な性格の吾郎だが、良枝に逆らうことのない性格を考えれば、少々のサプライズは、却って刺激があったいいかも知れない。

 最近は、仕事で遅くなることの多い吾郎なので、良枝も寄り道をして帰っても、夕食の準備はゆっくりとできる。怪しまれることもなく、水面下で組み立てることができるのだ。

 良枝は、サプライズを考えてほくそ笑んでいるような自分が好きだった。誰かのために一生懸命になることは、楽しいことだ。それが新婚の夫であるならば、なおさらのこと、あまりにも地味な時があるので、少し考えさせられることもあったが、落ち着いた性格の人間に間違いはないということで、結婚したことを今さらながらに幸運に思い、時々気が付けば一人でほくそ笑んでいるのに気が付き、顔が真っ赤になるのだった。

 吾郎の会社は、家から十五分の駅から電車に乗って、約三十分の駅に降り、そこから五分という、会社の立地条件としては、一等地に事務所を構えていた。

 それだけに、さほど大きな事務所ではない。雑居ビルの一室にあるのだが、十人分も机が入ればぎっしりで、良枝が最初に入った時は、狭さに少しビックリさせられた。

「まあ、駅から近いという便宜さを考えれば、これで十分さ」

 と、吾郎は言っていたが、完全に納得しているわけではなさそうだった。

 会社まで近い分、駅から家までの十五分というのは、さほど遠くないはずなのに、実際に歩いてみると、遠く感じる。さすがに都会からであれば、電車の三十分は、住宅街と言っても、田舎の佇まいの残るところである。

 徒歩十五分は、最初に住居を探した時の、距離ギリギリであった。電車で三十分は仕方がないとしても、徒歩は十分以内を探したが、どれも埋まっているか、築年数が古すぎて、新居には似合わなかった。

 良枝の勤め先は、同じように電車に乗っても、二駅ほどなので、さほど遠くは感じないが、さすがに三十分乗っていると、疲れが残らないのも、ウソだろう。

 それでも、吾郎の会社の上司は、もっと遠くから通ってきている人もいる。ただ、そんな人は一戸建てだったり、分譲マンションだったりと、完全に住まいのランクが違っていた。

「しょうがないか」

 良枝と二人で、何度口にした言葉だろう。会社や仕事のことを愚痴ることのない吾郎だが、通勤に関しては、どうしても愚痴ってしまうようだった。マンションもそれほど人が埋まっていないので、

「面倒な近所付き合いをする必要もない分、気が楽だわ」

 と、良枝は言っていたが、本心からのことだろう。

 良枝は優しい性格だった。

「人から好かれる性格というのは、君のようなことを言うのかも知れないな」

 めったに人を褒めることのない吾郎が、良枝に対して感心していることだった。近所づきあいする必要がないと言葉では言っているが、もし近所づきあいする必要に迫られても、吾郎はまったく心配していない。それは良枝の性格があるからだ。優しく見えるのは、明るくて、順応性があるからなのかも知れない。優しいという言葉は、それだけ漠然とした表現なのであろう。

 吾郎も、良枝と知り合わなければ、自分でどうなっていたかと思うと少し、ゾッとすることがあった。自分ではそんなつもりはなかったが、なぜか、女性が寄ってくることが多かったのである。

 吾郎と良枝が知り合ったのは、大学の頃だった。

 吾郎は、文芸サークルで、小説などを書くことが好きだったが、良枝は、演劇サークルで、シナリオを書く方だった。演劇自体を自分で演じることには興味はないといつも言っていたが、当時の部長から、

「君だったら、十分役者としても面白いと思うんだけどな。おしいな」

 と言っていた。

 吾郎には、そこまで演劇について分からなかったが、同じ演劇部の人たちも部長と同じ意見らしく、それだけでも、演劇としての彼女の存在は一目置かれるところがあるのだと感じていた。

 吾郎の書いている小説は、ほとんどがミステリーで、あまり大げさなものが書けないこともあり、内容は一般夫婦内の殺人のようなものが多い。会社や大家族のような登場人物がたくさん出てくるような話を書くことはなかった。これも彼の性格を反映しているのか、殺人を描くというより、簡単なトリックを考えて、まるでゲーム感覚で描くだけだった。彼には、人間のドロドロとした部分は、到底書けるはずもなかった。

「小説を書くには、あまりにも経験不足かも知れない」

 そう思うことが、本格的なミステリーを書けない一番の原因だった。トリックやストーリー性以前の問題だったのだ。

 だが、そんな小説でも理解者がいた。それが、演劇部でシナリオを書いていた良枝だったのだ。

 良枝も演劇部でシナリオを書いているからと言って、プロになりたいという大きな夢を持っているわけではなかった。時々、ラジオなどのシナリオコンクールに応募することはあったが、いつも落選。自分の作品が、学校以外の場所で日の目を見ることなどないと思っていたのだ。

 シナリオを書く上での性格が、そのまま表に出ているので、役者として表舞台に立つなど、考えられない。シナリオを書くことが好きなだけで、演じることへの楽しみを感じることはなかったのだ。

 吾郎は、良枝にすら、最初自分の作品を見せるのを拒んだほどだった。良枝が見たがっていたのは、サークルから発表される機関誌に載せている作品以外の、吾郎の作品だったのだ。

「そんなに大した作品は書いていませんよ」

「そんなこと言わないで見せてくださいよ。私もシナリオを書く参考にさせてもらいたいんですよ」

 それが、吾郎と良枝の出会いだった。

 吾郎も良枝には作品を見せるようになり、良枝も、褒めてばかりではいけないと、辛口批評ではあるが、あまり傷つけないように気を付けながら批評をした。

 それでも、吾郎には厳しい批評だったようで、少し落ち込むことが多かった。それまで誰にも見せたことのない作品を見られたことへの恥かしさも手伝ってか、なかなか表に出せない性格が、災いしているようだった。

 二人の仲がよくなったきっかけは、良枝のシナリオが、演劇部で評価され、シナリオコンクールに応募を促され、応募してみたところ、佳作ではありながら、評価された時のことであった。

「大賞じゃあないところが、良枝らしいね」

 と、演劇サークルの仲間から冷やかされていたが、元々プロになろうなどという夢を持っているわけではなかったので、皮肉を皮肉とも思わない良枝の性格が、吾郎には新鮮だった。

 一番好きになってほしいところを好きになってくれた吾郎に、良枝も元々淡い恋心のようなものを抱いていたのが、形となって現れた気がした。吾郎の優しい性格が、良枝の少しうちに籠ってしまう性格を包み込み、暖かな気分を与えてくれる。二人の関係は、そこから始まったのだ。

 二人でささやかなお祝いをした。大学の近くにあるバーに二人で初めて入ったのだ。バーのような場所は、行ったことがなかったが、行ってみたいとは思っていた。一人でゆっくりとできる場所を求めているのは、大学に入ってからずっとで、一人自分の部屋にいるのとは違った雰囲気を与えてくれる一人の場所、そんな場所がほしかったのだ。

 行ってみようと言い出したのは、良枝の方だった。良枝もバーには行ってことがないという。テレビドラマなどのシーンで憧れていたし、自分の作品に書いてみたいという意識は、二人の共通の感覚であった。

「あなたなら、きっと感じてると思ったわ」

 と、良枝が言えば、

「もし、行くとすれば、良枝と一緒に行ってみたいと思っていたんだ」

と、吾郎が答える。

 良枝を呼び捨てにするのは、結構最初の方からであった。女性と二人きりになるのに慣れるまでは時間が掛かったが、慣れてくると、すぐに呼び捨てにしていた。気持ちの盛り上がりに関しては、二人とも、強いものがあったに違いなかった。

 良枝の書くシナリオは恋愛モノが多かった。良枝の恋愛モノに、あまり大げさではない吾郎が書くミステリー、その調和がバランスよく作品の中で育まれ、主婦や学生に受けるライトなストーリーが受けたのだった。

 良枝はしばらくすると、シナリオを書くのを止めたが、吾郎の方は、いまだに小説を書き続けている。

「私は、プロになる気もないので、シナリオはそろそろ卒業しようと思うの」

「じゃあ、何をするんだい?」

「絵を描こうかって思っているの。デッサンのような簡単なのでいいんだけどね」

 良枝は、佳作とは言え、結果を出したことで、シナリオの世界に興味がなくなったようだ。もっと他のことでも結果を出したいと思うようになったのか、それだけある意味ではたくさんの欲を持っているということなのかも知れない。

 吾郎は、小説家になりたいと思っているわけではないが、結果を出したとしても、それ以上を求めるかも知れない。せっかく一生懸命に頑張っているんだから、やめたりはしないだろうと思っている。良枝の潔さが、吾郎には分からなかった。

 良枝は、吾郎と付き合い始めたのは、良枝がシナリオをやめて、デッサンを始めてからだった。それまでは普通の友達関係だった。シナリオと小説。同じようなモノを趣味にして、お互いに目指しているものが似ていることで、恋愛感情はお互いに浮かんでこなかった。

 どちらかが好きになるということもなかったのだ。まるでお互いに「よきライバル」という形が、しっくりきていたのだ。

 良枝は、自分が吾郎から好かれるタイプではないと思っていた。吾郎の好きな女性のタイプは、もう少し明るくて、自分を引っ張ってもらえるような女性に憧れていると思っていたのだ。

 逆に吾郎も、良枝に対して自分がタイプだとは、どうしても思えなかった。好きな人を見ると、吾郎は照れ隠しで、まともに相手の顔を見ることができなくなるからだ。

 良枝は相手のそんな気持ちが分かるほど、男性慣れしていなかった。吾郎と話をしているだけで、それだけで楽しいという思いは、淡い恋心として、自分が書いたシナリオに残されていた。

 ただ、その作品が佳作に選ばれたわけではない。良枝としては、自分だけの世界として取っておきたい気持ちもあり、どうしても贔屓目で見てしまうことで、賞をもらえるような作品にはならなかったのだ。

「良枝の作品を見ていると、時々、僕の作品と似たところがあるような気がするんだ。ひょっとすると、目線の高さが同じかも知れないね」

 と、吾郎は言っていたが、それは良枝も感じていた。だからこそ、自分の作品に、吾郎の発想を少しエッセンスとして混ぜ合わせることで、賞をもらえる作品が書けたのだと思っている。

 吾郎の作品も、決して悪いものではないと思うのだが、小説界の動向が果たして吾郎の作品にマッチしたものなのかどうか、疑問であった。どうしても、こじんまりとした作品であれば、ライトなものを求められるのだろうが、吾郎にライトな作風を求めるのは、無理だった、

 ハードボイルドやサスペンスのような作品を描けるわけもないと思うが、それ以上に、ライトな作品を書く吾郎というのは想像がつかない。

 性格の真面目さが、作品をライトな方に向かわせない。ライトな作品を書く発想が、彼の真面目なイメージから湧いてこないのだ。

 それはまわりが見ていても同じことで、少しでも吾郎を知っている人がいて、彼の小説を読めば、ライトな作品を書けるはずなどないと、誰もがいうに決まっている。

 大学時代までの吾郎は、ほとんど性格が変わるようなことは何もなかったが、卒業して就職すると、少し変わってきたようだ。

 真面目な性格なので、間違いがないかというと、そんなことはない。仕事を始めれば、ミスが多く、先輩社員から怒られる毎日だった。研修期間中は、まだ許されていたものが、一年経っても、同じミスを繰り返しているようでは、埒があかない。

 ただ、二年目のある時から、吾郎のミスはまったくと言っていいほどなくなった。それまでの業務内容がウソのよう、スピードも正確さも、今までにないほどの成長ぶり、もう少しで、上司から業務失格レッテルを貼られて、どこか別の部署か最悪、へき地に転勤させられるかのどちらかだった。

「お前は、切羽詰らないとできないタイプなのか?」

 と、飲み会の時上司に言われて、苦笑いをしていたが、実際のところ、本人にもよく分からなかった。本当に仕事のできは目を見張るようになったのだが、性格的なところが変わったわけでもない、切羽詰ったという意識があったわけでもなかったのだ。

 呑気だというわけではなく、真面目な性格なので、ついつい自分のこととなると、分からないことが多かったのだ。

 吾郎の就職した会社は、全国に支店があり、支店を拠点とし、いくつかの営業所を持っている。吾郎が赴任した先は、支店の営業部だった。支店管轄内の営業所の成績を把握し、業績を伸ばすことが彼の仕事だったのだ。

 営業所はさすがに現場ということもあり、いつもバタバタしているが、支店はそこまではない。

「営業の仕事にもいろいろあるんだ」

 と感じたのは、数字を追いかけることが一番で、表まわりや客と接することのない営業の仕事というのも、不思議な感じだった。

 真面目な性格と、学生時代に理数系を出ていて、成績もそれなりによかったので、抜擢されたというところだろう。

 他の支店にも同じような部署があるが、他に比べて、吾郎の支店は、それほど切羽詰った部署ではなかった。なかなか覚えられないのは、自分の中で仕事自体に納得できないところがあったからだろう。納得できないことには、実力を発揮できない性格であることを知ったのは、この時だった。

「真面目な性格というのは、損をする時と得をする時とでは、圧倒的に損をする方が多いのかも知れないな」

 と、自分の性格をひがんでみた。

 元々、自分が真面目な性格で、しかも悪い方に真面目であることを分かっていただけに、あまりありがたい性格ではないと思っていた。

 二年目のある日、急にまわりの心証がよくなったことに、最初は不思議だった。

「今までと変わっていないはずなのに」

 と思っていたが、気持ちの中で、仕事をする意義が、漠然として分かってきたことで、仕事がはかどるようになったのは自分でも分かっていたが、それがまわりの心証の良くするなどということになるとは、思ってもみなかったのである。

 やっと人に追いついてからの吾郎は、仕事の面では、人よりも上に行かないようにしていた。あまり目立たない性格がそうさせたのだ。

 営業の仕事をしていると、えてして、人を押しのけてでも上に上がろうとする人が多いが、中には野心家の人がいて、少し成績を伸ばすと、露骨に嫌がらせを受けるのを見ることがあった。

 吾郎の場合は、そんな心配はなかった。人を押しのけるような気力を仕事に持っているわけではない。とりあえず仕事を無難にこなすことができるようになると、後は趣味である小説に没頭する毎日だった。

 会社で残業することもなく、仕事が終わったら、まっすぐに帰って、小説を書く。そんな毎日が一年くらい続いたであろうか。

 それから、パソコンをノートパソコンに変えると、今度は、部屋ではなく、喫茶店で書くようになったのだ。

 部屋の近くにある喫茶店、その頃は、まだ家は会社の近くにあった。会社から二駅ほどのコーポを借りての一人暮らしだったが、駅からはやはり十五分くらい歩く距離だった。

 駅を降りてから喫茶店までは、帰り道から、少し入ったところにあるこじんまりとした店だった。明るめの店で、音楽も軽音楽で、小説を書くにはちょうどいい環境でもあった。会社の帰りに立ち寄ると、午後七時近くである。店は九時くらいまで開いているので、時間的にも十分ある。

 小説を書く量は、大体その日のノルマとして自分に課していた。ノルマなど別に立てる必要はなさそうに思うが、自分で目標を立てておかなければ、なかなか進まない。それも真面目な性格が災いしているようで、それでも、慣れてくると、却ってやりやすさを感じるのだった。

 仕事が終わって、家に帰るまでに趣味をしていると、趣味というのが、これほど充実した時間を与えてくれるものなのかと思うほどだった。仕事で嫌なことがあっても、小説を書いていれば、精神的な癒しになるだろう。

 喫茶店で最初の一時間集中して書いていると、十分に、充実した時間を満喫した気分になる。まわりから、

「なかなか楽しみな時間だね」

 と言われると少し嫌な気がした。確かに小説は趣味で書いているのだが、自己満足を味わいたいと言う気持ちが強く、楽しみで書いているという意識はない。ノルマを課しているからなのかも知れないが、それがないと進まない。どこかジレンマに襲われた気がしてくるのだった。

 喫茶店で毎日書いていると、書いている時間が長いと感じられる時、あっという間に感じる時様々だ。あっという間の時がほとんどなのだが、それは集中しているため、まるで別世界にいるような気持ちになるからだった。

 時間を超越しているような感覚を味わうのが、小説を書いている時の醍醐味だった。

 この醍醐味を味わっていると、小説のジャンルも、ミステリーから、ホラーまで書けるのではないかと誤解してしまうこともあるくらいで、一度書いてみようと考えたが、難しかった。ホラー自体、自分が好きではないので、好きではないジャンルを書くことは、やはり難しいのだ。

 それでも、他のジャンルを書いてみようと思い、恋愛モノに挑戦して、何作か書いてみた。良枝にも見てもらったが、評価は微妙だった。さすがに男性が恋愛モノを書くのは難しいのかも知れない。

 仕事にも慣れてくると、仕事半分、趣味半分の毎日が続いた。そんな中で、時々良枝に会ってデートをする。

 良枝の方の趣味であるデッサンは、そのまま続けていた。デッサンのコンクールに応募することもなく、ただの趣味として描いているだけだが、一度シナリオで賞を取っている良枝は、

「もう、賞を取りたいという欲もなくなってきたわ」

 と言っていた。

 小説を書いては、コンクールに応募して、いまだに結果が出ない吾郎には、理解できない発想だった。

「賞を取ったら、どんな気分になるんだろう?」

 賞を取れば有頂天になるのは分かっている。だが、その後自分はどう考えるだろう?

 良枝は、それまで頑張ってきたシナリオの道をアッサリと捨てて、違う道を歩み始めた。同じ芸術ではあるが、シナリオと、デッサンではだいぶ違うもののように思える。

「これが良枝の性格なのかも知れないな」

 普段優しい性格の良枝だが、簡単に乗り換えられるところが、少し引っかかってもいたのだ。

 仕事が終わって喫茶店で、毎日のように小説を書くことが日課になってしまい、最初は、日課としてノルマのように思っていたが、長く続けていると、書かない方が気持ち悪く感じられる。慣れてくるとそんなものなのだろう。

 熱いお湯のお風呂に入った時、最初は熱くてたまらないが、慣れてくるとまるで包みこまれるような気持ちよさを感じる。それと同じではないかと思う吾郎だった。

 毎日が平凡で、ほとんど変わらない生活だったが、時々、まったく同じ毎日に不安を感じることがあった。会社の同僚に少しだけ不安を打ち明けてみた。こんなことは、女性の良枝に言えないと思ったからだ。

「どうも、毎日同じことの繰り返しで、平凡な毎日なんだけど、本当にこれでいいのかって思うんだ」

 すると、同僚は、

「何言ってるんだよ。平凡な毎日を過ごすことが難しいんじゃないか。精神的にも平凡な毎日が送れるのは、羨ましいと思うぞ」

 同僚の話を聞いていると、誰もが平凡な暮らしを営んでいるように見えていたのに、急に、見えているものとは違う現実を感じた気がした。

 ハッキリと見えるわけではないが、表面上に見えているものが本当の現実ではないと思えてくると、同僚の言葉が何となく分かってくる気がした。

 平凡な毎日がどこまで続くのか分からないが、疑念を抱くことを溜めることにした。

 それから五年ほどがあっという間に過ぎていた。平凡な生活であったわりには、気が付けばあっという間だったというのは、本当に、何も意識せずに過ごしてきた証拠なのかも知れない。その思いから、目を覚まさせてくれたのが、良枝だった。

 我に返ったというべきか、人生の節目を良枝に悟らされたのだ。

「結婚、そろそろ真剣に考えない?」

 ストレートな表現であるが、ストレートな方が、吾郎にはよかった。遠まわしに言われると、却って余計なことを考えてしまうくせがあったからだ。

「私をこのままにしておくの?」

 などと言われたら、一気に責任感がのしかかってくる気がしてくるだろう。

 本当は、それくらいのことを言いたかったのかも知れないが、それを言わないのは、良枝の優しさだ。ひょっとすると、ずっと自分の立場を考えて、吾郎に進言するべきかを考えていたのかも知れない。もし、デッサンのような趣味がなければ、気持ちに余裕がなくなって、結婚の二文字が頭に浮かんだ時、すぐに言葉にしていただろう。それを思うと、趣味というものが、気持ちに与える余裕が人間関係にも大きな影響を与えるのだろうと思うのだった。

 我に返った吾郎は、さっそく結婚について考えるようになった。本当は、その気持ちを良枝にも言わなければいけないのだろうが、自分だけで、まず気持ちを固めることが先決だと思ったのだ。

 相手から言われては、さすがにしっかりしないといけない。そう思った吾郎は、結婚の話を進めた。自分でもビックリするくらいに、結婚までの道のりがアッサリとしていた。相手の親には、以前から付き合っていることは話をしていたし、結婚に差し障りのあることは何もなかったのだ。

 新居に関しても、良枝の方から要望はこれと言ってなかった。吾郎が提示した条件に、良枝の意見と狂っていなかったのが一番だが、良枝の性格からして、吾郎の意見に逆らうことはほとんどなかった。それだけお互いの意見が一致しているからなのか、良枝が本当に吾郎を慕っていて、慕っている相手に逆らうことはできない性格なのかのどちらかであろう。吾郎としては、前者の方が気が楽だった。

 吾郎は、どちらかというと調子に乗りやすい方だった。自分の思い込みを信じ込むことが多く、相手が慕ってくれていると思うと、自分のいうことは何でも聞いてくれると思いがちだったからだ。その勘違いから、大学に入学した時、すぐに付き合った女性と仲たがいして別れる結果になってしまったことがあるが、頭の中から今でもその思いが消えないでいたのだ。

 付き合った人は良枝で二人目、最初の失敗の教訓が生かされていると思っているから、良枝との結婚に踏み切れたのだと思っている。友達の期間が長く、交際期間も友達の期間に近づいていたので、一歩間違えると、マンネリ化してしまい、「長すぎた春」にならないとも限らないからだ。

 良枝が結婚を口にしたタイミングは、絶妙だっただろう。もう少し遅れると、微妙という言葉に変わり、それ以上長いと今度は、完全にタイミングを逸したことになる。勇気を持つにも気持ちの余裕が必要で、余裕を持つには、相手を見つめる目が必要になってくる。相手の目を見つめていると、相手もこちらの気持ちを分かろうとしてくれるので、それが阿吽の呼吸を呼ぶことになるのだ。

 結婚がゴールのように思っていた時期のことだったので、余裕も生まれたのだろう。結婚してしまうと、見える高さが違ってくるのも分かっていたので、まずは新婚時代を大切にすることと、お互いにプライベートはあまり詮索しないことが大切だと思っていた。それだけお互いに信頼が強いのだと思ったのだ。

 だが、いくら気が合うと言っても性格は違うのだ。同じように考えているわけではないだろう。最初は微妙な違いだが、いずれ、亀裂にならないとは限らない。その思いは心の奥に封印し、新婚生活を満喫することが一番だと思うのだった。

 結婚生活をスタートさせた新居は、新築だった。

 新築にこだわったのは良枝の方で、吾郎が折れた形だった。

「少し、会社まで遠いんじゃないか?」

 と、言ってはみたが、

「やっぱり、新しく始めるには、何事も新しいものがいいと思うの。やっぱり気持ちの問題と言っても、最初が肝心だと思うと、住むところは新築って、私は思うの」

 普段、あまり自分の意見を押し通すことのない良枝の意見なので、聞くことにした。その理由は、一緒に暮らし始めてすぐに分かった。要するに良枝は潔癖症なのだ。他の人が住んでいた部屋に入るのである。いくら管理会社が整備したとはいえ、誰が住んでいたか分からない。そんなところに住むのは、かなりの抵抗があるのだろう。

 それでも、新築に入って、吾郎は良枝のいうことを聞いてよかったと思った。

 他の人なら嫌だと思うかも知れないが、吾郎は新築の匂いが好きだった。接着剤のような匂いが残る部屋だが、これが新築とそうでない部屋の違いだということを感じさせてくれるものであるならば、嫌ではなかった。吾郎は新築でもそうでなくても、何ら変わりがないと思ったから、あまり新築にはこだわらなかったのだ。

 四階建てのマンションで、エレベーターもない。それでも、新築の香りがする中で、吾郎は新婚生活を満喫できると思っていた。

 一人暮らしも悪くはなかったが、何が違うといって、部屋に帰ってきた時の扉を開けた時に中から洩れてくる暖かい空気であった。足元から冷たい空気が漂ってくる一人暮らしの部屋とは、雲泥の差であった。

 三階の一番奥の部屋を選んだが、それも間違いではなかったように思った。出窓もあるし、隣に住人は入らなかった。上の階にも住人はいないようで、望んでいたよりも十分に満足できていた。

 最初の一年目は、あっという間に過ぎていき、二年目の引っ越しシーズンを迎えたが、隣に新婚夫婦が引っ越してきたのは、シーズンも終わりかけで、

「隣には、誰も引っ越してこなかったね」

 と、良枝と話をしていた矢先だった。

 四月も下旬に差し掛かった頃だったので、さすがに引っ越しシーズンは終わったと思っていたが、引っ越しシーズンに関係なく、引っ越してきたのは、新婚夫婦だった。

 日曜日の晴れた日に、表に引っ越しのトラックが止まって、イソイソと作業を始めたのが見えたが、テキパキとした作業のおかげか、昼過ぎには、すべてが終わったかのようだった。

 夕方頃になって、部屋のブザーを押す音がして出てみると、一組の男女が並んで立っていた。

 前面に立っていた女性は、大事そうに手土産を持っていた。それをゆっくり差し出すようにしながら、

「初めまして、隣に引っ越してきました村田と言います。新婚なので分からないことも多いですが、宜しくお願いいたします。これ、つまらないものなのですが」

 と、言ってニッコリと笑った。笑顔にはえくぼが浮かび上がり、真っ白い歯が目立って見える。明るい性格なのだろうと思わせた。

「池田と申します。ご丁寧にありがとうございます。こちらこそ宜しくお願いいたします」

 差し出した手土産を大事そうに受け取った良枝は、頭を深々と下げ、挨拶をした。後ろで吾郎も同じように頭を下げたが、吾郎の目は、奥さんの方に向けられていて、旦那の方がどんな顔だったのかすら、その時は意識していなかった。

 時間的には、二、三分ほどのことだったのに、十分くらい一緒にいたような気がした。奥さんに見とれていたわけではないと思うのだが、なぜか目が離せなかったのだ。奥さんが良枝と話をしているはずなのに、チラチラと自分の方を見ているのではないかと思ったからだった。

 確かに、二人を相手に話しをしているのだから、二人に対して交互に視線を向けることもあるかも知れないが、奥さんの視線は間違いなく、良枝にしか向いていなかったはずなのだ。それなのに、自分を見ているような気になって、思わず奥さんに向かってニッコリと微笑んでしまったのは、滑稽なことである。良枝の背中に目があったら、何と言われるだろう。恥かしさから、二人が帰った後も、良枝の顔をまともに見れないくらいだった。

 その日から、隣を意識しなければならず、今まで広いと思っていた部屋が、少し狭く感じられるようだった。だが、今まで隣に誰もいなかったのが幸運だっただけで、誰が入ってきても不思議のない状態だった。それを思うと、贅沢を言えない。少し狭く思えるくらいの部屋の方が、却っていいかも知れない。

「掃除する時、気が楽だわ」

 と、良枝がボソッと呟いた。きっと吾郎と同じ気持ちだったからに違いない。

「行ってきます」

 午前六時半、いつものように吾郎が、家を出て行く。まだ少し表は暗いが、次第に昇ってくる日が早くなってくるのを感じていると、ゴールデンウイーク明けの今くらいが、一番気持ちよく出勤できる時期であると感じた。

 隣の部屋の換気扇から、おいしそうな匂いがしてくるのを感じた。

「スクランブルエッグかな?」

 朝食の卵料理にもいろいろあるのに、なぜスクランブルエッグが浮かんできたのかというと、良枝はいつも目玉焼きだからである。黄身をあまり硬くしないような焼き具合は嬉しいが、たまにはスクランブルエッグも食べてみたいと思うこともあり、匂いだけで勝手な想像をしてしまった。

 良枝は一途で、吾郎が、

「おいしい」

 と言えば、いつまでも同じ料理を続けるところがある。一見、非の打ちどころのない良枝を見ているつもりだったが、いつどこかで綻びを見えることがあるとすれば、一途な性格が見えた時、感じるのではないかと、時々感じている吾郎だった。

 隣の夫婦は、新婚ではあるが、旦那は出張がちだった。食品メーカーの営業の仕事をしているようで、広域にフォローする必要があり、月のうち半分近くは、ビジネスホテルで暮らしているらしい。

 よく見ると、ガッチリした身体をしている。学生時代には何かスポーツでもしていたのだろう。小柄で華奢な奥さんとは似合っていないように見えるが、

「却って、アンバランスに見える方が、相性はいいのかも知れないわね」

 と、良枝がたまにカップルを見ては言っている言葉を思い出した。

「そういえば、僕たちもそう見えるかも知れないよね」

 体格は別にして、性格的には完全にアンバランスな二人、まわりから、どう見えているのだろうか?

 吾郎は、どちらかといえば、大雑把な性格で、よく言えば細かいところにこだわらない性格で、悪く言えば、いい加減なところがある。良枝は逆に、几帳面な性格で、よく言えば、一途で大きな間違いをしない性格であるが、悪く言えば、融通の利かない、堅物と言えるだろう。そんなアンバランスな二人であるが、一年経っても、まだ新婚気分の中にいる。良枝がアンバランスな二人ほど相性がいいと言いたい気分も分からなくはない。

 良枝と吾郎が知り合った時、二人とも最初から、お互いに性格が違っていることに気付いていた。

「一番、相性が合わないとすれば、私たちのようなタイプなのかも知れないわね」

 と、最初から冷静だった良枝が言った言葉だった。二人が結婚するなど、その時にはまったく考えていなかったことだろう。

 隣に新婚夫婦が引っ越してきた数日前、二人は結婚一周年を迎えた。その時のサプライズを思い出して、時々ほくそ笑んでしまう良枝だったが、何が一番の楽しいだったかというと、普段から表情をあまり変えることのない吾郎が、良枝の考えたサプライズでどんな表情になるかが、楽しみだったのだ。

 吾郎はさほど表情を変えなかった。

「やっぱり」

 がっかりしなかったと言えばウソになるが、それが吾郎の性格なのだから、良枝はいつもの吾郎であったことが平凡な生活を変えることなく、これからも歩んでいけるという確信を持てただけでも、安心だった。

 喜びは薄かったが、その代わり安心を得ることができたのだから、どっちが良かったのかと言えば、微妙なところであった。

 この間のサプライズで、初めて良枝がスクランブルエッグを作ってくれた。

「これは?」

 と言って、スクランブルエッグを指差すと、

「少しアンバランスでしょう?」

 確かに、ローストチキンや、洋風サラダの近くに、一皿、スクランブルエッグがあるのは不自然な感じがした。

「どうして?」

「スクランブルエッグ。今まで作ったことがなかったのを思い出して作ってみたのよ」

 なぜスクランブルエッグなのか分からなかったが、後で隣の部屋の卵の匂いを嗅いだ時にスクランブルエッグを思い浮かべた理由の一つには、これがあったからかも知れない。この日から、吾郎の中でスクランブルエッグは、キーワードになっていたのだった。

 吾郎は、好きな食べ物は、少々続けられても、あまり気にならない方だった。三日続くと飽きるというが、吾郎は好きな食べ物であれば、一か月でも大丈夫だ。

 良枝のシナリオには、いつも朝食のシーンがあった。ほとんどは和食の世界で、ごはんに味噌汁、生タマゴ、吾郎にとってはビジネスホテルの朝食のイメージだ。

 吾郎はたまに出張に行くことがあるが、ビジネスホテルに泊まると、和食が多かった。普段はトーストにハムエッグ、そしてコーヒー。そこにちょっとしたバリエーションが加わるくらいで、さほど朝食メニューに変化など見られない。

 それは、どこの家庭も同じではないだろうか、特に朝食を食べずに会社に行く人が多いが、理由の一つとしては、

「目が覚めてすぐには、食べられない」

 という思いがあるだろう。

 だがそれ以上に、

「いつも同じようなメニューでは飽きる」

 という理由で食べない人も決して少なくないように思える。

「朝食を食べないと、力が出ない」

 と言って、和食ばかりの人がいるが、良枝も吾郎も、朝からの和食は苦手だった。

 特に良枝の場合は、毎朝のように決まった和食のメニュー、朝食を食べることができなくなった時期があるくらい、身体が受け付けない時期があった。誰にも相談できずに、朝食を食べないでいると、結構まわりにも理由はどうあれ、朝食を食べずに学校に来る人が多いことを知ると、気が楽になって、洋食なら食べれるようになった。

 いくら好きなものは飽きないタイプの吾郎でも、毎朝だと気が滅入ってしまう。一旦嫌いになると、とことんまで好きになれない吾郎の性格は、まわりからは、堅物に見えるだろう。堅物というわけではないが、吾郎は性格的に、自分で納得したり、触って感じたものでなければ絶対に信じないという性格でもあった。

 大雑把でいい加減に見えるのは、自分で納得できないものがあまりにも多すぎて、仕方がなく妥協していることもあり、時々、我慢できずにまわりに湧き出る仕方なく妥協した感情だけが、人に伝わることで、大雑把でいい加減に見せているのかも知れない。

 朝出かける時の感情が、隣に新婚夫婦が引っ越してきたことで変わりつつある中でスクランブルエッグを作っている隣の奥さんのイメージが頭から離れなくなってしまった。

――想像するのは、エプロン姿か、割烹着なのか――

 どちらも似合いそうに見える奥さんを思っていると、良枝に対して、割烹着も似合うかも知れないと想像したことがなかった自分が不思議だった。

 良枝は、明るい性格で活発な感じもするが、清楚なところが好きな男性もいるだろう。かくいう吾郎も、付き合っている時は明るい性格が好きだと思っていたのだが、結婚を決めた最大の理由は、清楚なところに惹かれたというのが本音である。

 結婚を決めるには覚悟がいると言われるが、吾郎には覚悟はいらなかった。

「結婚するなら良枝しかいない」

 と思っていたので、後は、背中を押してもらえるかどうかだけだった、

 自分で決め切らないところが優柔不断だと言われるかも知れないが、そんな吾郎を良枝は、安心した気持ちで見つめていたのだ。

 相性が合うというのは、気が合うのと少し違っている。お互いに話をしたりして表に出るのが気が合うことで、相性は「肌が合う」という表現で表されるように、本人たちの間でしか分からないところがあるのだろう。話が合わなくても相性が合うこともある。年齢差のある夫婦でも、うまくいっているのは、相性が合うからなのだろう。

 そう思うと、気が合うというよりも相性が合う方が、結婚相手としては、いいのかも知れない。

 吾郎は、良枝に対して、どちらも合う相手だと思っていた。結婚に覚悟が必要なかったのはそのおかげで、問題はタイミングだった。

「何も言わなくても、理解してくれている」

 と思える相手で、余計なことはほとんど口にしない人ほど、相手のことを分かっているのだということを分からせてくれたのが、良枝だと思っている。

 良枝と結婚したことで、結婚に対しての憧れなど何もなかったと思っていたはずなのに、始めた結婚生活が、理想のものであったことを再確認した気がしたのだ。憧れも持っていないのに、理想があるというのもおかしなもので、憧れのない理想があるということも、この結婚によって教えられたものだった。

「結婚するということは、新しい発見をいくつもできることなんだ」

 と、思うようになり、

「結婚は人生の墓場だ」

 などと言っている人は、結婚の本当の素晴らしさを知らないのだろう。理想が高すぎて、実際の結婚生活との差が激しい人が、そう言って自虐しているのか、あるいは、憧れが現実離れしていることで、現実とのギャップによって生じた我に返る瞬間が、時間の経過に追いついてくれないことで感じる悲哀なのかも知れない。

 吾郎は、ずっと結婚への憧れを持ってこなかったことが、結婚することで、理想を手に入れることができたのだと思っていた。

「他の家庭がどうであれ、自分たちが幸せであれば、それでいい」

 自分本位の考えに見えるが、他人のことなど気にしてはいけない風潮にある世の中で、自分たちが他人に関わることで、関わられた人が不幸になることだってあるだろう。理屈では分かっているが、

「決して、自分だけはそんなことはない」

 と、思っている人も少なくない。

 普通のサラリーマン家庭のマンションでの新婚家庭。どこにでもある平凡な暮らしができるのであれば、それが一番の幸せというものだ。

 そんな幸せは、実際には薄っぺらいものであるということを思い知るのが自分だということに誰も気づくはずなどないのだ。幸せを捜し求めている時はいいのだが、実際に幸せの中にいて、自分で感じていた幸せだけでは満足できないのが人間というものなのかも知れない。

 それを「欲」という言葉で表すが、欲を見てしまうと、欲だけにしがみつき、抑えが利かなくなることもある。

 だが、それがすべて欲だけによるものなのか、そこに人間の意志が働いていたりはしないだろうか。新婚生活を脅かす存在が目の前に現れた。吾郎と良枝、その後の運命を知っている人間が、果たしていただろうか? 今年、三十歳を迎える新婚夫婦、初めて、波が訪れたのだった。


 村田夫婦が引っ越してきてから、一か月が経とうとしていた。吾郎は、隣の卵料理の匂いを感じながら、毎日出勤していたが、村田夫婦の台所では、月に半分しか、朝食の食卓に旦那がいることはなかった。

 それでも、奥さんは作り続けている。それが毎日の日課だからだ。

 村田夫婦の夫の方の名前は茂、奥さんの名前は由美という。年齢は男が三十歳で、女は二十八歳だった。二十八歳ではあるが、落ち着いて見えるので、少し年上に見える。最初に年齢を知った吾郎は、正直ビックリしていたのだ。

 池田夫婦と村田夫婦、最初に話をするのは、吾郎と由美のことだ。

 やはりきっかけは朝食の卵料理の匂いだった。会話のきっかけとしては、ちょうどいい話題だったのだろう。吾郎の帰宅時間と由美の帰宅時間がピッタリ合ったのが三日前だった。夫が出張でいないので、仕事帰りの途中で買い物をしてきて、吾郎の帰宅時間と一緒になった。

「久しぶりに街に出てみたんですよ」

 と、本当に久しぶりに出かけた都会で、知り合いに会えたことが、由美を喜ばせたのだろう。由美の笑顔に新鮮さを感じ、吾郎は自分が良枝以外の女性にときめいていることに不自然さや罪悪感を感じることはなかったのだ。それだけ自然な出会いで、忘れかけていた何かを思い出させてくれる新鮮さを感じた。

 馴染みの喫茶店があるという由美にくっついて歩いていても、不自然さは感じなかった。普段見ることのない夜空を見上げると、

「星が瞬くというのは、本当なんですね」

 と、照れ臭さから見上げた空に感動すら覚えた。

「最近では珍しく、星がきれいですね。田舎出身の私は、いつも星を見ていたから分かるんですけど、空気が澄んでいないと、星が瞬くなんて見ることはできないようですよ」

 ずっと都会暮らしの吾郎からすれば、田舎があるのは羨ましかった。綺麗な空を見上げていると、あっという間にかなり歩いていたようで、気が付けば、あまり知らない場所に入り込んでいた。

「もう少し向こうですね」

 由美が連れてきてくれた場所は、どこか懐かしさがあった。

――そうだ、大学の近くにも同じような喫茶店があったな――

 と感じたが、卒業してから行ってないので、まだあるかどうか分からない。良枝と一緒に行ったことはなく、良枝だけではなく、誰とも一緒に行ったことはなかった。自分にとっての隠れ家のような店だったのだ。

 思い出してみると、懐かしさよりも、今自分を引っ張ってきた由美と一緒に行けたらよかったという思いが湧いてきた。そうであれば、その店は二人にとっての思い出の場所となり、会話にも花が咲くのではないかと思うのだった。

 彼女は奥さんで、自分も妻帯者である。由美との思い出を欲すれば、浮かんでくるのは、良枝の顔だった。

 罪悪感が頭を過ぎる。なぜここまで一緒についてきたのかが分からない。

 吾郎は小説を書いていて恋愛小説を書けないと思ったのは、経験が乏しいからだと思っていたが、経験が乏しいのではなく、経験することを怖がっていたからである。妄想することは簡単だが、実際にその場面に遭遇すると、怖さが滲み出てくるのだ。我に返ったと言ってもいいだろう。そうなると、筆が進まないのも当たり前というものだ。

 小説を書いていて、一番引っかかるのが、リアリティだった。妄想であっても、どこかリアルな発想が伴わなければ、書いていても続かない。比較対象になるものがないからだ。ただの想像であっても、現実世界との比較があるから、信憑性があるのだ。頭の中で、小説のネタになるという言い訳がましいことを考えていると、次第に、由美が自分に接近しているのが、計算ずくではないかと思えてくるのは、自分がそれほど女性からモテるはずがないという偏見から来ているのかも知れない。

 その時すぐには分からなかったが、最初、道でバッタリ出会った時、由美がまるで苦虫を噛み潰したような表情になっていたことを吾郎は見逃さなかった。それは、本当に困ったという表情で、見てはいけないものを見てしまった感覚に陥ったのは、一瞬だったが、間違いのないことだった。

 次の瞬間の笑顔が、今まで誰の顔からも感じたことのない表情だったことで、吾郎はすぐに気持ちが切り替わった。笑顔は吾郎を包み込み、それまでの感覚がマヒしてしまいそうなほど、その時間だけがいつもと違っていたのだった。

 偶然にしては、あまりにも間合いが良すぎることで、最初、由美が待ち伏せていたのかと思ったくらいだ。それは吾郎の妄想の世界での出来事で、そうでもなければ、苦虫を噛み潰したような表情になるはずもない。どちらかというと、出会ってしまったことが、まずかったような表情ではないか、偶然の出会いにしまったと感じているのは、由美の方だったのだ。

 喫茶店に呼ばれたのも、ここで出会ったことを誰にも言わないでほしいという約束をさせるためだったのだろうか?

 いや、それ以後の表情を見れば、それは考えすぎのようだった。第一、少しでも気まずさを感じたのであれば、すぐにでもその場から立ち去りたいと思うはずだ。そこまで思わないということは、出会ったことの気まずさから、誘われたわけではないだろう。

 喫茶店に入ると、由美は吾郎と良枝の馴れ初めを聞いてきた。

「私たちはお見合い結婚だったので、恋愛結婚がどんなものか、興味があるんですよ」

 と、由美は言った。そういえば、どこかぎこちなさを感じる二人だったので、見合い結婚と聞いて、なるほどと思った。だが、見合いというのは、昔からあるまわりがお膳立てする古風ゆかしい「お見合い」のことであろうか。

 最近では、「お見合いパーティ」なるものもあるが、そこで知り合って結婚した場合も「お見合い結婚」ということになるのだろうか。

 お見合いパーティに参加した人は、なるべく自分から参加したことを話さない人が多い。恥かしいという感覚があるからなのか、それでも結婚してから、

「実は、お見合いパーティで知り合って」

 と、話す人がいるのを聞いたことがある。結婚してしまえば、どうやって知り合ったかということは、あまり気にならないのだろうか? 何かの研究結果にでもすれば、面白い結果が得られるかも知れない。

 お見合いの定義がどこにあるかというのも考えものだ。

 恋愛できない人への救済というイメージが一番強いが、昔はそんなことはなかっただろう。格式高い血統が結びつくために見合いするという考えもありだったように思う。それだけ日本人が、血の伝統を大切にするということなのだろうか。

 恋愛で結婚してしまうと、

「一度くらい、見合いしてみてもよかったな」

 という人がいるが、見合いをゲームのように思っていて、結婚する意志などサラサラない人ばかりである。さすがに相手があることなので、好奇心だけで見合いをする人もいないだろうが、以前は、

「見合い結婚の方が、離婚率が低い」

 と言われていたくらいで、熱しやすく冷めやすいのが恋愛ではないかと思っていると、見合いも別に悪いものではないように思えてくるのだった。

 結婚してから後悔したことなどなかった。まだ一年経ったばかりで、結婚式もついこの間だったのではないかと思うほどだった。たくさん人が集まってくれたが、頭数を揃えただけで、今度誰かが結婚する時は、自分が頭数に数えられるだけである。

「結婚なんて、巡り巡って今回は自分のところに回ってきただけさ」

 何とも、冷めた言い方だが、辛口にしても少し寂しい。出会った人にも失礼だ。結婚に対してあまりいいイメージを持っていない人がいるのも事実だが、だからと言って、結婚という二文字を一つの発想だけで決めつけてしまうのは、いい気がしなかった。

 由美と出会った時、最初に感じたのは、新鮮さと結婚している自分を忘れさせてくれるような爽やかさだったのだ。

 喫茶店に入り、さっそく話は結婚のことになったが、

「僕と妻は学生時代からの付き合いだから、結構長いと言えば長いですね」

「じゃあ、交際期間も長かったんですか?」

「そうですね。六年くらいの交際期間はありましたね」

「学生時代から、卒業して少しの間は友達として?」

「卒業してから、少しだけ連絡は取り合っていたんですが、すぐに仕事がお互いに忙しくなって、連絡を取っていなかったんですよ。でも、卒業してから三年目の同窓会で会ってから、お互いに気持ちを確かめ合ったというのが実際のところですね」

「何かそれって、ステキですね」

「ドラマみたいな感じでしょう? 自分のことなのに、何か他人のことのように思えるのが不思議なんですよ」

「それだけ、偶然というか、夢のような出来事だったのかも知れませんね」

 と、うっとりした表情で、由美はあらぬ方向を見つめているようだった。

「奥さんは、お見合いだということですが、僕もお見合いとかしたことがないので、よく分からないんですが、どんな感じなんですか?」

 吾郎が想像するお見合いは、料亭の離れのような部屋で、庭にはこじんまりとした日本庭園、ししおどしの「カツーン」という音が響く中、足の痺れに耐えながら、スーツと和服で見つめあう。

 お互いの親と、仲人のような人がいて、最後には、

「後は若いもの同士」

 というお決まりのセリフで去って行って、二人残される……。

 そんなシーンしか浮かんでこなかった。

「池田さんは、きっと古風なお見合いの光景を頭に描いているのかも知れませんが、そうでもないですよ。ホテルのレストランのようなところで、普通に家族でお食事してという雰囲気なので、かしこまった感じではなかったですね。もちろん、目いっぱいのおめかしはしていますけどね」

「そうなんですね。でも、やっぱり、それでもかしこまった雰囲気を感じますよ」

「ある程度は、かしこまってないと、お見合いではありませんからね。お見合いというのは、雰囲気も大切だと思うんですよ。それにお見合いをするからといって、恋人ができないからだとか、行きそびれてしまったから、何とか結婚を……、というような雰囲気でもないんですよ」

「どうしても、お見合いと聞くと敬遠してしまうのは、まわりから、そう思われるのが嫌だからなのかなって思ってしまうからですね」

「それに私は、結婚というのは勢いもあると思うんですよ。長く付き合っているから、結婚できるというものではないですからね」

 思わず、その言葉に反応した吾郎は、一瞬ドキッとし、我に返った気がした。

 吾郎の様子に少し変化が現れたのを見た由美は大げさに驚いたように、

「あら、ごめんなさい。そんなつもりではなかったんですよ」

 と、慌てて取り繕った。

 この時初めて吾郎は、由美の態度が少し大げさであることに気付いた。どこかわざとらしさのようなものがあり、

――少し気を付けないといけないかな?

 と、感じたが、

――気のせいかも知れない――

 とすぐに考え直した。

 ここで、一度疑って、すぐに思い直した行動が、この後で大きな影響を自分に与えてしまうことに、その時はまだ気付いていなかった。

 相手の雰囲気に「免疫」のようなものを感じたのだ。まるでハチに刺されたことでできる免疫のようではないだろうか。

 その時は、そこまで感じなかったのだが、ともあれ、会話は結婚の話だけではなく、お互いの仕事の話しなどにも発展していった。由美が話をして、それに対して吾郎が受け返すという話し方である。

 吾郎は、元々会話が得意な方ではない。良枝もあまり饒舌ではないので、二人でいて、さほど会話に花が咲くと言うことはないが、それでも、主導権を吾郎が握り、何とか会話をしてきた。そういう意味では吾郎は、会話に対して少し疲れのようなものを感じていたのだ。

 由美と話していると、会話に疲れを一切感じない。相手に主導権を渡すということが、これほど楽だとは思ってもみなかった。

 それは会話に時間を感じさせない力があることを初めて知ったからであった。由美との会話はそれだけ楽しいものだったのだ。

 由美と一緒に、店を出て、マンションに帰りついたのは、午後十時前くらいだった。お互いの部屋の明かりはついていた。吾郎の部屋は分かるのだが、由美の部屋に電気が付いているということは、旦那が出張から帰ってきているということだろうか。

「うちの人、昨日から明日までこっちで勤務なんですよ」

 旦那が帰ってきているというのに、道でバッタリと出会ったからといって、簡単に喫茶店で話をするというのは、吾郎には少し理解できなかった。しかも、新婚である。良枝も同じなのかと思うと、せっかく二人の楽しかった時間も少し色褪せて感じられるのだった。

 表からマンションの自分の部屋のベランダを見つめることは今までにもあったが、その日は、手を伸ばせば届きそうなほど、すぐそばに感じられたのだ。

――不思議な感覚だな――

 と思ったが、それは今までにも感じたことのあることではあった。ただ、それがベランダを見てのことではなく、確か学生時代に感じたことだったので、場所やシチュエーションはまったく別物だった。

――思い出せそうで思い出せない感覚――

 苛立ちを覚えながら、次第にその苛立ちも薄れていくのを感じていくと、今度は、スーッと頭に上った血が下りてくるのを感じるようだった。

 頭に上った血が下りてくる時の感覚は、快感に似ていた。一点に血液が集中したところから、一気に放出される快感、性の快楽を思わせるものがあるのだ。

 由美を見ると、彼女もベランダを見つめていた。顔は髪の毛に隠れて見えないが、二人の距離を離そうなどという意識はなさそうで、つかず離れずの距離をずっと保っている。歩くスピードは若干早くなったと思ったのは、目的地が見えることから、最後の力が出てきたからだろうと思う。

 そう思うと、吾郎は身体の力が一気に抜けてくるのを感じた。身体から力が抜けてくると、今度は疲れを感じるようになる。さっきまで歩くことに何ら違和感はなかったが、今では足を上げるのも億劫だ。足の裏に痺れを感じ、疲れが足から来ているのを感じるのだった。

 汗を掻いていないのに、汗ばむような肌の感覚は、空気が腕にへばりついてくるように思ったからだ。

「雨でも降るのかな?」

 と思い、また空を見上げたが、さっきから三時間も経っていないにも関わらず、どんよりと曇っているのか、さっきまで瞬いていた星が、まったく見えなくなっていた。それなのに、少し低い位置に月が見える。いつもよりも大きく見え、色も黄色というよりも、オレンジ色が掛かっているようで、不可思議な光景だった。お世辞にも、綺麗な月だと言えるものではなかったのだ。

 もう一度ベランダを見てみると、そこに人影が見えた。

――良枝――

 良枝がこちらを覗いているのが見えたのだ。そして、さらに隣のベランダにも人影が見えた。こちらは由美の夫である茂であることは分かった。二人とも、偶然ベランダを見ていたのだろうか、その視線がどこにあるのかまではハッキリと分からなかった。ただ、良枝の視線がこちらを向いていたのではないかと思えてならない。目が合ったような気がしたからだ。

 由美は、そんな吾郎の心配を知ってか知らずか、ベランダを意識している様子はない。淡々と歩いているだけである。

「今日はどうもありがとうございました」

 マンションの玄関であるエントランスに到着すると、由美はそう言って、頭を下げた。

「いえいえ、こちらこそ時間を使わせてしまってありがとうございました」

 集中ポストの郵便受けを開くと、そこには郵便がいくつか残っていた。

――おや?

 不思議に思いながら、郵便受けを見ていると、

「じゃあ、お先に」

 と言って、由美は先に階段を上がり始めた。

 郵便受けを見ながら、立ちすくんでいる吾郎は、最初から上に上がるのは、由美と時間差をつけるつもりだったので、それはそれでいいのだが、郵便受けに手紙が入っているのが、腑に落ちない。

「今日は、良枝は仕事のはずだったのにな」

 外出していれば、必ず帰ってきた時、郵便受けを確認するのが、良枝の日課だった。一度良枝が休みの時、吾郎が郵便受けを確認せずに上がってくると、

「どうして、郵便受けを見て来てくれなかったの?」

 と叱られたことがあった。人を叱っただけのことはあり、今までに郵便受けを見ずに上がってきたことはない。ということは、良枝は今日、どこにも出かけていないということになる。

――体調でも崩したのかな?

 一月に一度の腹痛は、ひどい時は、仕事を休まないといけないくらいの時があると言っていたが、確かまだのはずではないだろうか。吾郎も良枝もお互いにまだ新婚生活を楽しみたいという思いから、安全日を気にしているのだ。少し後ろめたい気分で帰ってきたこともあり、良枝の行動がいつもと違えば、どうしても精神的に不安定になり、妻に対して敏感になってしまうのも仕方のないことだろう。

 郵便をいくつか確認する中に、気になる郵便があった。

 それは良枝宛ての郵便だったのだが、差出人を見ると、坂口裕二と書かれていた。

 確か坂口というのは、学生時代に良枝が所属していた演劇部の部長をしていた男ではなかっただろうか。

 そうだ、確かに坂口裕二という名前だった。友達として付き合っている時に、何度か坂口と会ったことがある。

 学生時代には、坂口と良枝が噂されていたことがあった。二人が付き合っているのは事実だったが、それほど長い期間ではなく、三か月ほどだったと思う。吾郎は、坂口のことで良枝から相談されたこともあったくらいだ。もちろん、付き合い始める前のことだったのだが。

 二人が付き合い始めた時期、そして別れた時期が、吾郎にはハッキリとしない。二人が付き合っていた時期もそれだけアバウトなのだ。ただ、二人が別れたであろうと思われる時期からしばらくの間、良枝と坂口の間が目に見えてぎこちなかった。それまでは、一番意見が合う相手としても、二人はお似合いのカップルで、誰の目から見ても、付き合っていれば、将来結婚しそうな雰囲気に見えたのだった。

 良枝のことを考えていると、坂口の影が後ろから襲ってくるのは、大学を卒業してからもしばらくはあった。吾郎が良枝と付き合うことがなかったのは、吾郎の中に坂口のイメージがこびりついていたからだ。

 だが、良枝が吾郎を意識しなかったのはなぜだろう? 仲のいい友達としてしか見ていなかったからなのか、それとも、仲のいい友達と、付き合い始めると、それまで築いた関係が崩れてしまうことが怖いのか。そのどちらかであろう。吾郎が思うのは、後者の方で、そう思ってくれていた方が、男としては嬉しい限りであろう。

 郵便の中身を見るわけにもいかず、良枝に渡さないわけにもいかない。

「こんなもの見るんじゃなかった」

 これも、良枝がいながら、由美との楽しい時間を知らない間に過ごしてしまったことへの報いなのかも知れない。見たくもないものを見てしまったことで、せっかく楽しかった至福の時を台無しにしてしまったことで、さらに坂口に対する恨みのようなものがこみ上げてくるのだった。

「ただいま」

 玄関を開けると、いつもの暖かさが足元から溢れてきた。安心感に繋がる暖かさだった。――まるでウソのようだ――

 手に握られている手紙を見て、そう思ったが、まぎれもない事実である。

「おかえりなさい」

 声もいつもの良枝と変わりはない。何も変わらない帰宅風景であった。手紙を直接手渡しする勇気がないので、良枝がお風呂のお湯を確認してくれている間にキッチンのテーブルの上に置いて、吾郎は何食わぬ顔で自分の部屋に戻り、ネクタイを外し、着替えを始めた。

 お風呂のお湯の確認は、毎日吾郎が帰ってきてからの、良枝の日課だった。着替えてすぐに風呂に入るのが吾郎の日課で、よく聞く、

「ごはんにする? お風呂にする?」

 という会話は、二人の間では不要だったのだ。

 キッチンからは、カレーの香ばしい香りがしてきた。ちょうど、カレーを食べたいと思っていたので、ありがたいと思い、食べたいものが何なのか、何も言わなくても、なぜか良枝には分かるようで、まるで予知能力でもあるのではないかと思うほど、食べたいものがいつも食卓に並んでいた。

 吾郎が良枝と結婚して一番よかったと思うのが、

「痒いところに手が届くやさしさ」

 だったのだ。

 ただ、それが優しさなのかどうなのかは、分からないが、新婚の間くらいは、それを優しさとして受け止めてあげるのが、男としての懐の深さではないかと、吾郎は感じていた。

 お風呂の湯加減もばっちり、どこも変わったところのない様子に、次第に自分の気にしすぎではないかと思うようになった。

 さすがに差出人の名前を見てうろたえてしまったが、それは仕方がないことではあるが、だからといって、自分が心配しなければいけないようなことであるかどうかは、ハッキリとしない。

「サークルの同窓会か何かかも知れないな」

 そういえば、自分たちも同窓会で再会したことを思い出していた。

 演劇部と文芸部の合同の同窓会、あの一回きりだったが、それ以降、二人は同窓会に顔を出すことはなかった。ただ、招待状だけは、結婚前にも来ていたので、考えてみれば、演劇部だけの同窓会の誘いであっても不思議ではない。もっとも、結婚してからも吾郎は同窓会に顔を出す気持ちはないが、良枝はどうだろうか? ひょっとしたら、毎日の生活に変化を持たせたいとも思っているかも知れない。そこも少し気になるところだった。

 だが、あまり気にしすぎるのもいけない。何よりもすぐに顔に出てしまって、良枝に気付かれて、気まずい雰囲気にならないとも限らないからだ。それを思うと、あまり気にしないようにした方がいいのかも知れない。

 風呂から上がり、カレーを食べながら良枝を見ていると、別に会話があるわけでもない毎日、テレビを見ているつもりでも見ていない毎日、そんな毎日であることに気が付いた。

「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」

 良枝がこちらを振り向き、ニッコリ笑っている。

「別に何も変わりない毎日ですよ」

 と言いたげな表情に見えた。

「いや別に」

 と答えたが、それ以上はお互いに会話がなかった。

――こんな毎日を過ごしていたんだ――

 吾郎の中で、何かに気が付いたような気がした。まさかこれが夫婦の危機になるようなことはないだろうが、不安ではあった。

――不安?

 それがないのが、二人の間の関係ではなかったか。今までに抱いたことのない不安という感情。一体どうすれば拭うことができるのか。これも、隣の奥さんと話をしたということだけの報いなのか。吾郎は頭の中が混乱してきたのを感じた。

 吾郎にとって、その日が何かが変わるきっかけになる一日になりそうで怖かった。普段であれば、良枝を抱きたくなる欲情が、その日は湧いてこなかった。欲情を感じようとすると、震えが走るのだ。

――罪悪感に苛まれているのか?

 それほどのことをしたわけではないのに、今までの吾郎にはない感情の起伏、何かが動き始めているようで、その前兆が襲ってきているにも関わらず、分かっているのに、どうしていいのか分からない。そんな感情をどこにぶつければいいのか。まるでジレンマに襲われているかのように思えてならなかった。


 次の日になると、吾郎はいつも通り出勤していった。

 良枝はそれを見ながら、昨日届いた坂口からの手紙を開いてみた。

――この手紙、吾郎さんが帰ってきてからテーブルの上にあったけど、吾郎さんが持って上がってきたんだわ――

 良枝は、やはり吾郎の危惧を分かっているようだった。だが、まさか今さら坂口のことを気にするような人ではないと思いたい。確かに学生時代に二人が知り合いだったが、付き合っていたわけでもなかったのだ。

 良枝は昨日、吾郎が思っていたように、会社を休んだ。理由は今ここでは言えない。吾郎には知られたくないことだった。良枝は、坂口からの手紙を見て、何か皮肉めいた運命を感じずにはいられない。

 それは、良枝が隣に引っ越してきた夫婦の、夫である茂を知っていたからだ。良枝が高校時代に、家の近くに住んでいた人で、少し憧れもあった。中学時代までは知らなかったが、高校に入って意識するようになった。今から思えば、あれが初恋だったのではないかと良枝は感じている。

――初恋って何なんだろう?

 今まで初恋の思い出を友達が話していても、自分だけ蚊帳の外にいるような気がしていた。自分には初恋などないという気持ちがあったからだ。だが、今こうして結婚した自分と、茂が再会することによって、初恋を思い出すというのも皮肉なものだ。

 ただ、この出会いが、自分の気持ちに変化をもたらすなどと思っていない。なぜなら、

「初恋というのは成就しないから初恋であって、淡く切ないもの」

 という意識があるからだ。その意識があるから、今まで初恋が何なのか分からなかった。良枝にとって茂は、淡く切ない相手ではなかったからだ。憧れと慕うような気持ち、それも初恋だということを、知らなかったのだった。

 そういう意味では、恋愛に関して良枝はウブなのかも知れない。それでいて恋愛のシナリオを書こうというのだから、おかしなものだ。しかも入選までするのだから、世の中本当に皮肉にできている。そう思うと、良枝は、思わず苦笑いを隠せなかった。

「でも、彼は私に気付いてくれたのかしら?」

 良枝は、彼の顔をすぐに分かった。憧れた時のまま、大人になった感覚だからである。

 あの頃から落ち着いていたし、今では、まだあどけなささえ残っているように思う。

「さすがに分からないわね」

 良枝の高校時代は、本当に田舎っぽさの残る女の子だった。今では自分で言うのも何だけど、大人になったという感じを抱いている。女の成長は、男が思っているよりも変化は激しいものだと良枝は思っていた。

 今は、良枝一人の胸に閉まっていることだが、この思いは、意外と心地いいものである。実際に好きになって結婚した夫がいて、さらに、近くに初恋の人が現れた。彼は以前とそんなに変化があるわけではなく、夫を見ては今の幸せを、そして茂を見ては、懐かしい中学時代を思い出すことができるのだから、心地よさも倍増であった。

 だが、そんな心地よさがいつまでも続くほど甘くはない。そのことに、その時の良枝はまだ気が付いていなかった。

 ただ、良枝は、茂に裏切られたと思っていた時期があった。一度彼からモーションを掛けられたのに、すぐに違う女性と付き合い始めたからだ。良枝にその気がないと思ったのだろうが、見切りが早すぎる。恋愛に疎い良枝には裏切りに見えたようだ。いつの間にかその思いが強くなり、心の奥に封印されていた。あとから思い出すのは、裏切りの方が強かったのだ。

 茂が、時々しか帰ってこないのは、良枝にとっていいことだったようだ。いつも顔を合わせていると気持ちが揺らいでくる可能性もないとは言えない。もちろん、そんなことはないと思ってはみても、気持ちがいつ変わるかも知れない。良枝は、ずっと吾郎だけを見つめていける自信は、正直言ってなかったからだ。

 恋愛のシナリオを考えている時は、人間の心の変化など、実に簡単なものだと思えていた。だからこそ、シナリオをいくつも書くことができるのだし、世の中に溢れている恋愛小説の数を考えれば、どれほど恋愛のパターンがあるか、想像を絶するものがあるのかも知れない。

 恋愛小説を書く人の中には、本当に恋愛などしたことのない人や、インタビューなどで、恋愛について聞かれて、どう答えていいか困っている姿を見かける。

 恋愛をしたことのない人にしか分からないことがあるのだろう。きっと恋愛についての質問で、返答に困っている人のことは、同じように恋愛経験のない人でしか分からないのだ。

 良枝が恋愛に疎いということを知っている人は、ごくわずかな人に限られるだろう。夫である吾郎にも分かっている。それだけに、自分が気付かないのをいいことに、他の女性と付き合ったりしないかということが気になってしまう。嫉妬深いわけではないのだが、自分の知らないのをいいことにされてしまうのが嫌なのだ。要するに確信犯なのだろう。

 ただ、吾郎はすぐに気持ちが顔に出る。一番確信犯にはなりにくいタイプである。

 しかし、その時吾郎の気持ちが、少し由美に揺らいでしまうかも知れないところにいることを、まだ良枝は知らなかった。一歩間違うと、背中を押してしまうのが自分になってしまう危険性を孕んでいることは、隣に村田夫婦が引っ越してきた時から生じた一触即発の状態になっていることを知っている人は、誰もいなかった。

 それでも、どこか歪みが生まれるのを危惧している人がいた。この輪の中で一番蚊帳の外に近いところにいるはずの茂であった。

 彼は仕事でほとんどいないのに、たまに帰ってくると、何か引っ越してきた時と比べて、表から見た部屋が小さく感じられることがあった。元々霊感の強い茂は、それを何かの前触れとして受け取っていたのだった。

 学生時代から、何か少しでも変わったことがあると、嫌な予感が頭を過ぎり、頭を過ぎった時には、いつも悪いことが起こっていたように思えたのだ。直接自分が被害に遭うこともあれば、人が被害に遭っているのを見て、まるで自分のことのようにゾッとした気持ちに陥るのだった。

 茂は良枝のことを覚えていた。覚えていたのだが、自分から覚えているなどということは言えるはずもなかった。もし、良枝が気付いていないのなら、それが一番いい。もし気付いているとしたら、これから先、どのように接すればいいのだろうかと、思っていたのだ。

 茂には、良枝に対して後ろめたさがあった。

 良枝が茂を恨んでいるかも知れないと思ったからだ。良枝が自分のことを好きだということが分かっていながら、当時、まだ誰とも付き合っていなかった茂は、後から告白してきた別の女性と付き合うようになったのだ。

 相手は、本当に積極的な女性で、いかにも男好きの雰囲気のする女性だった。茂も確かにウブではあったが、押しの強さに負けたというべきか、相手の女も、良枝が茂を好きなことを分かっていて、わざと意識している様子を相手に植え付けた。

 見せつけるように茂と一緒に歩いたこともある。

「どう、私の方があなたよりも、いい女なのよ」

 と言わんばかりの態度に、良枝は完全に萎縮してしまった。

 だが、良枝も現実では負けていたが、シナリオで彼女のことを書いた。恨みを込めてと言った方がいいかも知れない。

 それが佳作とはいえ入賞したのだ。もし大賞を受賞し、誰もが良枝の作品を見たならば、皆主人公が誰か分かっただろう。

 フィクションとは書いているが、半分はノンフィクションであった。小説やシナリオでフィクションと言っても、そこには必ず作者の思い入れがある。それが良枝にとっては、実際の恋敵だったのだ。

 だが、似たような感覚で書く人も少なくないだろう。

「私はこの作品に、自分の運命を掛けているのよ」

 と言って応募した人もいるようだが、運命という言葉はノンフィクションだからこそ言えることなのかも知れない。

 良枝の作品は、幸か不幸か、誰の目に触れることもなかった。佳作として受賞というだけで、形に残るものではない。少し寂しい気もしたが、誰にも知られないだけで、間違いなく受賞という記録は残るのだ。自己満足だけど、良枝はそれでよかった。何とも自分らしいではないかと思うからだ。

 茂は、良枝を裏切ったと思って、後ろめたさを感じていた。良枝は、

「やっぱり自分のような大人しくて地味な女の子は嫌なんだ」

 と思うだけで、悪いのは自分だと思っている。

 神様は何と不公平なのだろう? お互いの気持ちが分かっているのは神様だけのはずなのに、どうして二人を結び付けてあげないのだろう。それは、どちらかというと良枝の性格に問題があるからなのかも知れない。

 茂は目移りするタイプではないはずなのに、どうして派手な女の方に引っかかったのだろう? 良枝の存在が、相手の女のプライドに火をつけたのかも知れない。

「私が、あんなチンケな女に負けるはずないんだわ」

 どれほどまでに高いプライドを持っているのか、逆にこの女こそシナリオで叩き潰すには絶好の相手でもあった。良枝が少し後ろめたさを感じるとすれば、自分の中だけではあるが、完膚なきまでに叩きのめした相手の女の悲惨さに、書いていて同情するくらいであった。後から考えて、大賞をもらえなかった理由があるとすれば、それはあまりにも露骨に女を叩きのめしたからだろう。リアルな情景は、事実に基づいての話だったからなのであった。

 良枝には二面性があった。憎いと思えばシナリオに書いてストレスを発散させるところだ。だが、それも、性格的に情に脆いところがあるからで、それだけ思い入れが激しいからではないだろうか。

「熱しやすく冷めやすい」

 というところもあり、茂への気持ちも、シナリオを書くことで、相手の女を知らないこともあり、思い切り勝手な想像によって、相手を威喝して書けるのだった。

 茂が相手の女に従わされているという意識はあったが、だからといって、同情はしなかった。情に脆いところがあるといっても、それ以上に自分を見限った相手として見てしまったのが先だったこともあり、同情を抱く余地はないと思ったのだ。

 そこが冷めやすいと感じるゆえんで、情に脆いくせに、計算高いところもある。感情をあらわにするところと冷静なところが良枝の二面性を形作っている。シナリオを書いている時は、自分の世界に入りこむ、時間を感じさせない空間が好きだったりするんだ。

「私は自分の時間に入り込むと、気弱になってしまうことが多いから」

 良枝の自己分析だった。普段は人と話をするのが嫌いではない。だが、シナリオの世界に入り込んでいる時は、まわりを億劫に感じてしまう。次第にシナリオを書いていない時でも、まわりを億劫に感じる時が増えていったが、結婚生活に入った時点で、一度その思いは消えた。その原因を考えてみたが、マンネリ化に一番の原因があるのではないかと思った。結婚生活もまだマンネリ化まではしていないことで、まわりを億劫に感じなくなっていたのだ。

 また、良枝は自分の性格が潔癖症であるということも、茂を許せない理由だったように思う。一度でも自分を裏切った相手を情に流されて許すことは、自分の中にある清潔感をけがすことに繋がる。それだけは嫌だった。

「でも、もうあれから何年も経っているんだわね」

 いくら許せなかった相手とはいえ、何年も経った相手に、今さら恨みはない。幸せならばそれでいいし、何よりも今は自分が幸せなのだ。最初は隣に引っ越してきた相手が、以前付き合っていた相手ということで戸惑ったが、後ろめたさがあるとすれば向こうの方だ。こっちは、堂々としていればいいのだ。

「あなた、おかえりなさい」

 いつものように夫を迎える妻。隣の夫婦をまったく意識していないように、夫は見ているのだろうか? 吾郎は、どちらかというと、他人のことにあまり干渉しない方だ。隣に新婚夫婦が引っ越してきたというだけで、他には何も感じていないだろう。

 良枝が吾郎を結婚しようと思って意識したのは、あまり他人のことに干渉しないところだった。良枝は情に脆いせいで、なかなか自分で決め切れなかった、優柔不断なところがあると思っていた。結婚相手には、吾郎のようなあまり他人を意識しない人の方が、余計なトラブルを招き入れたり、巻き込まれたりしないと思ったからだ。

 結婚にはタイミングと勢いが必要だということを教えてくれたのは、吾郎だった。まだ、結婚を意識する前のことで、彼が結婚を考えていると初めて感じた時だった。それからしばらく結婚の話をしてこなかったのは、タイミングも勢いもまだないと思っていたからではないだろうか。

 結婚してからの吾郎は、本当に楽しそうだった。

 相手が楽しそうにしていると、自然と笑顔がこぼれてくる。悲しそうな顔をしていると、自分も悲しそうな顔になる。それが良枝の性格だった。

「情に脆い」

 という性格は、そのあたりをまわりの人が見て、感じたことなのかも知れない。よく人から言われるが、悪いことではないと思っていたが、ただ、そのせいで損をすることも多々あるので、いい性格なのかどうかは、疑問であった。

 茂が自分のどこが好きだったのかを、思い出してみた。

 付き合ったと言っても、それほど長い期間ではなかったので、本当に好かれていたのかというのも疑問だが、最初に付き合ってほしいと言ってきたのは、茂の方だった。男性と付き合ったことがほとんどなかった良枝はビックリしたのだが、付き合ってほしいと告白してきたわりには、付き合い始めると、クールなところがあった。

 まるで、

「釣った魚には餌を与えない」

 ということわざのようで、それは結婚した人からよく聞く話だったが、交際期間中にはあまり聞くことはなかった。それほど彼がクールだったのだろう。

 ただ、相手が良枝だったからというのもあったかも知れない。

 吾郎がよくいっていたが、

「気が合うのと相性が合うのとでは違うからな」

 相性が合うと思って付き合ってみたが、気が合わなかったりしたら、付き合い始めてから、急に冷めた気分になるかも知れない。付き合い始めるまでには、相性が問題になるが、付き合い始めてからは、気が合っていないと、難しい。つまりは、きっかけは相性で、継続は気が合うことを必要とするのであろう。

 付き合い始めてからすぐに別れるであれば、やはり気が合っていなかったのだろうし、付き合っている最中に気が合う相手を見つけられたことで、別れる結果になってしまったのだろう。

 気が合う相手と、相性が合う相手。吾郎の話を聞いて、目からウロコが落ちたような気がした。

「では、吾郎と私はどっちなのだろう?」

 どちらも合っているようには思えない。どちらかというと相性が合っているように思える。そう思う根拠は、会話が時々ぎこちなく感じるからだ。

――会話が弾んでいるのに、長続きしない――

 吾郎は、会話は弾んでいるので、ぎこちなくはないと思っているかも知れない。しかし、良枝から見ると、会話はどうしても、ぎこちなく感じるのだった。

 郵便受けにあった坂口からの手紙、坂口は、良枝と付き合っていたわけではないが、良枝のことを好きだったようだ。茂に対して淡い恋心を抱いていたのだが、その時良枝の心の中には茂がいたのだ。

 そんな良枝を茂が裏切ったことで、良枝の中にポッカリと空いてしまった穴を、自分が埋めてあげようと思っていたところに、吾郎が現れた。坂口という男は、要領が悪いところもあり、それでもヘラヘラと笑っているところがあり、どこか憎めない性格なのだ。

 しかし、女性から見れば、これほど頼りない男はいないだろう。

 演劇サークルで部長をしていたと言っても、まわりから本当の信任を得ての就任ではなかった。誰もやりたがらないことを、人から言われて断りきれない性格の坂口は、半ば強引にまわりから引き受けさせられたのだ。

 それでも、良枝は彼をどちらかというと好きだったのかも知れない。当時の自分が誰かに頼りたいという気持ちが強かったので、坂口では物足りなかったのは事実なのだが、それでも、憎しからずという思いは、今でも持ち続けている。

 結婚してから一度も手紙などよこしてこなかった坂口だったが、内容を見ると、ドキッとするものだった。

「このたび、結婚することになりました」

 まるで他人事のような書き方は、昔のままであるが、結婚という言葉を見て、最初に感じたのが疑問だったのは、自分でもビックリだ。

 まさか今でも好きでいてくれているはずなどないのに、好きでいてくれていると思っていた人が結婚するということは、寂しさを感じるものだ。背中にすきま風が通りすぎて行く感覚であった。

 結婚する相手は、親の勧めでの結婚で、見合いに近いものだという。

「坂口さんらしいわ」

 控えめで、人から勧められると断りきれない坂口らしいと思ったのだ。

 茂も見合い結婚だというが、まさかそんなことなど知らない良枝は、

「見合い結婚というのは、坂口さんくらいのものよね」

 と、勝手に思い込んでいた。

 坂口が結婚した知らせを聞いたことで、今まで自分だけ幸せな結婚をして、新鮮な気持ちになれたと思っていたものが、今まで結婚していないと思っていた人の結婚話を聞かされると、今度は、相手に新鮮さを持っていかれたように感じてしまう。結婚した人間云々よりも、結婚したという事実の方が、重くのしかかってくるのであった。

「今の生活は十分新鮮な気がするのに、どうしてすきま風を感じるのかしら?」

 以前から感じていたことだが、その理由が半分、坂口からの手紙で分かったような気がする。もしあとの半分が存在するとすれば、それは茂によってもたらされるものに違いない。果たしてその思いを茂からもたらさられる日が、本当に来るのだろうか、良枝には不安半分、期待のようなものがかすかに漂っている気がしていた。


 茂は毎日を忙しく過ごしていた。新婚なので、張り切っているのも事実だが、まさか隣に良枝が住んでいたなど、まるで悪夢を見ているような気がしていた。

 仕事を一生懸命にしていれば、余計なことを考えないで済むという考えも頭の中にあった。

 どちらかというと、神経質で、さらに一つのことを考えると、他のことが目に見えなくなる。

 しかし、彼には悲しい性のようなものがあった。

 本人にはその気はないのに、誤解されやすい性格ということなのだが、まわりからは浮気性だと思われているようだ。

 実際に良枝の場合も裏切ったという意識はないのに、誰が見ても裏切ったようにしか見えない。それは自分自身でも誤解されやすいと思っていることが、相手に誤解を与えることになりからだ。

 学生時代に初めて見た良枝、完全に一目惚れだった。

「人を好きになるのに、理由なんていらない」

 などと言っていた友人の話を思い出す。

「そんなことはないだろう。理由があって好きになるんだからね」

 と答えた自分をハッキリと覚えている。

「恋愛は理屈じゃないのさ」

 いかにも理想主義的な話し方をする男だったが、あまりにも理想的な話し過ぎて、他の人では話が続かなかった。そんな話をしていたのが実は坂口だったのだが、良枝にもまさか坂口がこんな話をするなど想像できなかったかも知れない。理想主義者だったとは思っているだろうが、一人で考えるだけの発想だと思っていたからだ。

「俺だって、お前じゃないとこんな話はしないさ」

 もし、坂口に茂という友達がいなかったら、どうなっていただろう。そして、良枝が裏切られた相手が茂だと知ったら、どう思うだろう? この思いを抱く人は誰もいない。三角関係に見えて、どこか微妙に線が切れている。そんな関係、世の中にはたくさんあるのではないだろうか。

 坂口には一目惚れの経験はなかった。今もないようで、

――女性と付き合うとすれば、徐々に好きになっていった人と付き合うことになるだろう――

 と思っているくせに、結婚相手は親の勧めというのもどういうことなのかと思ってみた。

 一目惚れは、結局最初の良枝だけだった。しかも、裏切ってしまったような形になったことで、後悔の念は拭えない。その中に、

「好きになってしまったこと」

 というのが含まれているのも皮肉なものだ。

 茂は、今でも時々坂口に会っている。最近会ったのは、一月前のことだった。

 坂口は大学卒業後、就職した会社が広域なので、他県に転勤ということあった。実際に今は隣の県の県庁所在地にある支店で勤務していて、営業でまわることの多い地区だったこともあって、会える時は会おうということで、一致していた。

 坂口にとって、初めての一人暮らし。期待半分と不安半分だった。

 それでも一年経てば、土地にも仕事にも慣れて、さほど茂を必要としなくなったが、とかく二人は気が合うのか、どちらからともなく誘いを掛ければ、相手は断ることをしなかった。

 ちょうど、お互いに話をしてみたいと思う時、相手からお呼びがかかる。要するにどちらから誘いを掛けるかというだけで、相手は待っているのだった。

 これは気が合うというべきか、相性だというべきか難しいところだ。言葉で表すなら気が合うという方が印象的にはいいが、イメージとしては、相性が合っているという方が、ピッタリくる。気も合って、相性も合うのは、異性よりも同性の方が多いのかも知れない。

 結婚する少し前くらいから、茂は忙しくなった。最初は、結婚を先延ばしにしようかと思ったくらいだったが、親から言われて仕方なくお見合いすると、後はトントン拍子だった。もちろん、茂も気に入った相手だったことが一番だったのだが、これこそ、結婚は勢いだと茂は思ったかも知れない。

 坂口に相談すると、

「いい話じゃないか」

 と言っていた。まだ独身の坂口に相談すること自体が間違いだったかも知れないが、今では結婚してよかったと思っている。忙しいから結婚しない方がいいという発想がどこから出てきたのかということ自体、自分で不思議なくらいだった。

 坂口の結婚は、茂よりも早かった。それは結婚式が早かったという意味で、茂と由美の結婚は、坂口の話が持ち上がるより前から、秒読み状態であった。

 同じ見合い結婚だったのに、茂の方が遅かったのは、坂口の方がとんとん拍子の勢いだったというのもあるだろうが、茂の方には由美の方で、少し時間が掛かる事情があったようだ。

 茂は詳しいことは知らないが、由美の家庭の方で、少し問題が発生していたようだ。二人には直接関係があったわけではないが、結婚には家庭同士の結びつきの要素もあるため、結婚式にも影響が出てくる。

 それでも、秒読み状態だったことには違いなく、茂も由美も別に心配はしていなかった。

「元々、恋愛結婚のような交際期間が長いわけじゃなかったんですから、ゆっくり進めばいいんですよね」

 というのが、由美の意見だった。

「そうだよ、交際期間を満喫すればいいのさ」

 と、茂が返すことで、お互いにわだかまりもなく、スムーズに結婚を迎えることができたのだ。

 しかし、交際期間は思ったよりも二人に影響を与えた。それほど長すぎたわけでもないのにである。見合い結婚は、本人たちの勢いではなく、まわりの勢いだ。結婚するのは本人たちなのに、自分たちでペースを乱すと、まわりから包まれている環境に異変が起こり、気付かないうちに、相性に亀裂が入らないとも限らない。

 まわりからよほど冷静に眺めていないと気付くことではない。それに気付いたとすれば、坂口だったかも知れない。坂口は茂とは対照的に、勢いで結婚した。

「見合い結婚の方が、長続きするって言いますからね」

 坂口の奥さんの言い分だった。まるで言い訳のように聞こえるが、坂口ももっともだと思っていた。やはり、結婚に勢いは必要だと思っていたからだ。

「知り尽くして結婚するのが本当にいいことかどうかですね。他の人のことを知らずに、極端に狭い視線から眺めているからなんでしょうね」

 坂口の名前で、

「結婚しました」

 という手紙を良枝に出したのは、奥さんの勝手な判断だった。

 坂口という男、住所録に良枝の欄が残っていたのだ。

 なかなかモノを捨てることのできない性格の人はいるようで、坂口もその一人だった。

 奥さんが郵便を出してから、

「しまった」

 と思ったが、あとの祭り。奥さんにそのことを言うわけにもいかず、言ってしまえば、夫婦仲が拗れるのは分かっていることだからである。

 出してしまったものは仕方がない。もう、良枝と会うこともないのだから、気にする必要もないのだ。すぐに我に返ってそう思うと、今度は手紙を出したことすら忘れてしまっていた。

 坂口の奥さんは、さすがに勢いで結婚しただけのことはあって、坂口の性格をほとんど把握していない。坂口も同じことだが、奥さんの性格的には分かりやすい方なので、なるべく怒らせないように気を付けている。分かりやすいということは、それだけ性格も直球なので、投げてはいけないコースに行ってしまえば、ホームランを浴びてしまうこともあるが、逆に言えば、それ以外のコースを投げてさえいれば、間違いなく打ち取れるのだ。

 手探りの新婚生活は、それでも刺激があって楽しかった。坂口は刺激を求める方だが、奥さんはそうでもない。不安が先に来てしまい、頼れる相手は坂口だけであった。坂口にしてみれば、操縦しやすい相手であり、不安よりも刺激を楽しめるのだった。

 そんな坂口と一月前に遭った時は、坂口は自分のことよりも、茂の新婚生活の方に興味があった。

――それだけ、自分の新婚生活に不安は少ないということか――

 不安なことがあれば、人に相談してみたいのが、人間というもの。聞きたいことは山ほどある。

 そう思った茂は、いろいろ坂口に聞いてみた。だが、坂口から返ってくる答えは、ありきたりの返事だけだった。

 新婚生活に自信を持っていても、それを人に言えるだけの表現力と豊かな想像力を持ち合わせていない坂口に、少し失望した茂は、結局話題を変えるしかなかった。

 だが、これも坂口の作戦でもあった。下手に自分のことを人に話したくはない。的確な答えを出して、さらなる質問をされてしまったらたまらない。坂口は、わざと質問が返ってこないようにありきたりなことを言って、

――この人に相談してもダメだ――

 と思わせようとしたのである。

 それにしても、坂口がこのように計算高い人だということを、良枝は知っていただろうか?

 きっと知らないに違いない。サークル内では、要領の悪さだけが目立っていて、損ばかりしているように見えたからだ。

 損ばかりしていた性格をどこかで変えたいと思って、心機一転、変えることができたとしても、こんなに細かいところまで計算できるかどうか疑問だった。

 逆に要領の悪さを見せていた学生時代の方が、虚偽の姿だったのかも知れない。人を欺くことに掛けては、天下一品だったのだとすれば、一体何を信じていいのか分からないほど、ショックなことだったであろう。

 もし、坂口が今、村田夫婦の前に現れれば、ややこしいことになるだろう。茂はそのことを分かっている。坂口の要領の悪さは本当であるが、計算高いところは茂には分かっているからだ。

 坂口は久しぶりに茂と会って、自分たちの結婚について話をしていたが、お互いに見合いであることに偶然というより、呆れを感じるほどだった。それは相手が見合い結婚をしたことを聞いて、改めて自分も見合いだということを再認識させられたからだ。

「まさか、お前が見合い結婚するなんてな」

 とお互いに言いながら、自分に言い聞かせていたのだ。

 それぞれに付き合った人も少なくはなかった。その間に恋愛結婚しても不思議のない状態でもあったのだ。

「何が悲しくて」

 と思っても仕方がないことではあるが、見合い結婚に対して、お互いにくすぐったい思いがあるのは事実のようだ。

 それでも、見合い結婚は新鮮だった。知らなかった相手を意識していくうちに、次第に好きになってくるのを感じるからだ。恋愛にはない遠慮を相手に感じるのは見合いならでは、二人とも、感じているくすぐったさは、男女ともに、お互い遠慮し合っているところにあった。

 坂口は学生時代、最初に付き合った女性は年上だった。

 入学してすぐに演劇部に入ったが、当時部長をしていた先輩に気に入られて、しばらくの間付き合っていたのだが、それは良枝が入部する前のことで、良枝は知らなかった。

 坂口は年上に憧れるというよりも、甘えん坊なところがあるので、どうしても、最初は年上になるだろうと思っていただけに、先輩の誘惑に簡単に乗ってしまったのも、無理のないことだった。

 年上に包み込まれるような感覚は、甘えん坊の坂口は、身体が溶けるのではないかと思うほど、今までと世界が違っていた。

「あなたは、演劇部に入って正解かも知れないわね」

「どうしてですか?」

「あなたは、要領の悪いところもあるけど、その裏で、別の性格が蠢いているような気がするの。私はそんな性格のあなたを嫌いじゃないけど、気を付けないと、人から嫌われるかも知れないわ。そういう意味では演劇で、まわりを欺くようになるのも、一つの手かも知れないわね」

 ズバリと指摘され、ビックリした。自分が要領の悪い性格であることを嫌悪していたが、まさか裏にもう一つの性格が潜んでいるなど、想像もしていなかったからである。

 坂口は、人を好きになるよりも、好かれる方が好きだった。何事も受け身な性格であることを分かっていたので、演劇部の先輩の誘惑を心地良く感じたのだ。

 先輩に言われた言葉が頭から離れず、もう一つの自分の性格を考えてみた。自信を持つこととは違い、表に出ている性格を隠れ蓑にしているのかも知れないと思うと、誘惑されたことも、決してこちらが下手に出ることもないことを教えてくれた。

「そうよ、あなたは、私と対等、あるいは私を引っ張って行ってくれるだけの器量を持っているのよ」

 まるで洗脳されていくようだった。

 茂は、そんな坂口を見ていたのでよく分かっていたが、良枝が入部したのは、変わっていく気持ちの変化が終わった後であり、先輩も就職活動で、引退したあとだった。表に見えている頼りなくて、要領の悪い坂口しか良枝は知らなかったのだ。坂口のもう一つの性格は、相手が先輩だから表に出せるのだった。もし、坂口の性格を垣間見ることができるとすれば、先輩に匹敵するような、妖艶な女性が坂口の前に現れる必要があるだろう。


 茂が坂口と久しぶりに会ってしばらくして、良枝は玄関先でバッタリと、帰宅してきた茂と出くわした。お互いに気まずい雰囲気を感じさせないように、

「こんにちは」

 と、気軽に挨拶して、それぞれの部屋に入ろうとしたが、すぐに入らず、お互いに入ったふりをして、再度扉を開け、隣の部屋の扉を見た。

 すると、相手も同じ行動を取っているではないか。思わず顔を見合わせて微笑んでしまった。この微笑みが完全に二人の間にあるわだかまりを打ち消したわけではなかったが、それでも笑顔は随分と助けられた。お互いに話をしてみたいと思うに十分な笑顔だったのだ。

 良枝は扉を閉めると、茂に近寄っていった。これには茂もビックリしたが、

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

「はい、何とか元気にしてました」

「何とか……」

 というのは、茂の口癖でもあった。どう答えていいか分からない時、この言葉が漠然としていて苦笑いをするには一番だと思ったのだ。バツの悪さを照れ隠しにするには、ちょうどいい。

「ちょっといいかしら?」

「えっ?」

「お時間がありましたら、そこに喫茶店がありますので、ご一緒していただけます?」

 時間はまだ昼下がり、朝から少し体調が悪く、仕事を休んだ良枝には時間があった。

 近くの喫茶店には、今まで一度も入ったことがなかった。この喫茶店には、マンションの奥さん連中も来ないので、変な噂を立てられることもなかった。マンションから反対側の通りにある喫茶店を常連としているので、こっちにほとんど人が流れてくることはなかった。

「学生時代のことは、もう忘れましたから、茂さんも忘れてください」

 いきなり良枝は本題に入った。気になることを先延ばしにして、世間話から入れるような性格ではなかったのだ。普段は気さくで明るい良枝だが、それもわだかまりがないことが前提だった。

「分かりました。僕もいろいろわだかまりもありましたが、肩の荷が下りて気が楽になりましたよ」

 茂はそう言って、安心したようだ。良枝の性格はただ明るいだけだと思っていたが、思ったよりも神経質なところがあり、自分なりのこだわりがあると分かったことも、茂には新鮮だった。

「改めて、宜しくお願いします」

 良枝としては、隣の夫婦の奥さんとして、よろしくと言ったつもりだったが、茂の方からすれば、

――何をよろしくなんだ?

 と、一歩踏み込んで考えてしまった。ただ、この時はそこまで深くは考えていない。わだかまりが解けただけで、お互いによかったと思うことが、お互いを卒業できた気になれたのだ。

 二人が喫茶店で話をしているその日、まさか、お互いの伴侶も他の場所で会っているなど、想像もしなかった。喫茶店で話をしていたのは、二時間ほど、後で思い出してもどんな会話だったか思い出せないほど、感覚的にはあっという間だったはずだ。お互いに自分の部屋に入ってからは、お互いの家庭のことを思い出し、たった今の記憶を心の奥に封印しようという暗黙の了解を忠実に実行していた。

 良枝は、時間を持て余していた。あまり身体が強くないこともあって、たまに会社を休むことはあったが、そんな時は、寝ているだけだった。吾郎には心配を掛けたくないので、休んだことはたまにしか言わない。特に生理痛が激しい時など、腰が痛くて起きることさえ億劫になることもある。そんな時は気分転換にテレビを見ていたが、痛みもあるせいか、テレビを見ていても、内容までは覚えていないのである。

 だが、その日は、テレビをつけても、最初から頭に入ってこない。映像が動いているのも分かるし、声が聞こえてくるのも分かるのだが、それぞれが独立したものに感じ、違う意味で、あとで覚えていないのだ。そういう意味では、なかなか時間が経過してくれない。頭や腰が痛くて横になりながらテレビを見ている時は、意識が朦朧としているので時間の感覚はないが、後から思い出すとあっという間だった気がする。それに比べて、意識があるのに漠然としてテレビを見ていると、時間が止まってしまったかのように思えてくるから不思議だった。

――あの人のことを考えているからかしら?

 あの人とはもちろん茂のことだ。お互いに考えないようにしようという暗黙の了解だったが、不可能ではないかと思うと、壁一つ隔てた隣にいる茂も、自分のことを考えてくれているのではないかと思い、ドキドキしてしまう。意識されてドキドキしない女性などいないに違いない。

 胸の鼓動はしばらく続いたが、次第に落ち着いてきた。表を見るとそろそろ日が沈みかけている。さっきまであれほど時間が経つのが遅いと思っていたのに、すでに夕方になっていたのだ。我に返った良枝は、テレビを切り、夕食の準備を始めた。いつもより早いがここからの時間はあっという間に過ぎるのではないかと思うと、行動を起こすのは気が付いた時に限ると感じた。

 その思いは間違ってはいなかった。日が沈むのを意識すると時間が経つのは早かった。夕食の支度を終えて、一息ついていると、ふっと、部屋の中の空気が止まっていることに気が付いた。冷房は入れているが、閉め切った部屋を少し換気する意味で、ベランダに続く扉を開けて、少し空気を入れ替えた。ベランダまで出る気はしなかったが、網戸を通して、表の道を見ていると、普段見たことのない景色であることに気付き、しばらく表を見ていた。

 良枝の方からは見えなかったが、ちょうどその時、表の道を歩いてきた二人、吾郎と由美がいること、そして吾郎が自分を見ている良枝に気付いて、ドキッとしていることなど、知る由もなかったであろう。

 吾郎は良枝に見られたと思っている。その時はドキッとはしたが、あまり気にしなかった。ただ、吾郎は元々が神経質なところがある性格である。神経質だということは、心配性でもある。余計なことを考えてしまって、時間が経つにつれて、心配が募ってくる。悩んでしまって、病気になったりする人もいるだろう。

 今までの吾郎であれば、それほど大した悩みを感じなかったからなのか、途中で開き直り、今度はまったく気にならなくなってしまう。さっきまで何を気にしていたのかということすら忘れてしまうくらいである。開き直りがどれほど大きな影響を自分に与えるかということを知っていたのだ。

 良枝が自分を見ていたということを、吾郎は部屋に入った時、

「自分の錯覚だったのかも知れない」

 と思った。

 なぜなら、帰り着いた時、良枝はまだベランダにいて、表を見ていたからだ。もし、自分と由美が一緒のところを目撃したのであれば、見ていなかったという素振りを見せようと、家事に勤しんでいる姿を見せただろうと思うからだ。

 だが、それは自分に都合のいい発想なのは、よく考えれば分かることだった。表で見ている方が、よほど何も気付かなかった証拠ではないか。下手に小細工する方が却って怪しまれる。相手が自分を見ていないという発想のもとであれば、家事に勤しむのが一番いい方法であるが、

「自分に見えるのだから、相手にも見えるはずだ」

 という発想がどうして生まれなかったのかが、不思議だった。

「どうしたんだい? 表なんか見て」

 と、不用意にも声を掛けてしまった吾郎だが、

「ちょっとボーっとしたので、頭を冷やそうと表を見ていたの」

 と答えた良枝。二人はそれぞれにその日秘密を持ったのだが、相手に対して不思議と罪悪感が湧いてこなかった。良枝は帰って来てからボーっとした時間を持て余していたからだが、その間に茂を思い出すことはなかった。ただ、今までの呪縛が解けたようで、肩の荷が下りたことでの脱力感が支配していたのだろう。

 茂の方は部屋に帰ってから、少しだけ家にいて、それから表に出た。元々、出張から帰ってきて、荷物を片づけるつもりだった。片づけたあとは、いつものことだが、一寝入りするつもりだったのだ。

 ちょうど帰ってきたところで良枝と出くわし、その日の予定が狂ってしまった。良枝とのわだかまりが解けたのは嬉しかったが、予定が狂ったのは計算外だった。あまり計算高い方ではない茂だったが、それだけに無意識にでも立てていた計画が少しでも崩れると、精神的なショックはないのに、わけもなく調子が狂ってしまうのだった。

「寝るには中途半端な時間かな?」

 しかも一旦良枝と会うことで入ってしまった気合いを抜くのは難しかった。このままシャワーを浴びて布団に入っても、とても眠れそうにないと感じたからだ。

「そうだ、通りの向こうに最近開店したパチンコ屋があったな」

 と思い立って、出かけてみることにした。午後四時近くになっていたので、だいぶ涼しい時間帯だ。一人でぶらぶら出かけるにはちょうどいいだろう。

 角を曲がって、見えてきたパチンコ屋に入った。出張先では時々時間が余るとパチンコをしたが、地元ではほとんどやらない。妻の由美も茂がパチンコをするなんて知らないに違いない。

 家では真面目さを振りまいていた。学生時代も真面目だったこともあり、良枝も茂がパチンコをするなど知らないだろう。パチンコを始めたきっかけは、営業の帰りに時間ができたことだった。ビギナーズラックに嵌ってしまい、後は時間がある時に出かけては、お小遣いの範囲内で楽しんでいた。

 茂はパチンコ台の前に座り、玉を弾いていた。普段はパチンコをしながら何かを考えるということはなかったのだが、その日は、先ほどの良枝との会話を思い出していた。

 良枝と何かわだかまりがあったような気がしていたが。それが一体何なのか、次第に記憶から薄れていった。

「何をあんなに気にしていたんだろう? それに対して俺も答えを返していたようだが……」

 わだかまりのことを考えていると、今度は良枝との過去の記憶すら薄れていき、自分が過去に彼女と知り合いだったことすら、意識から消えてしまっていくように思えたのだ。

「これは一体どういうことなのだろう?」

 時々、自分の中から記憶が消去されていくような気がしていたが、今回のように、実際に意識して消えて行くのは初めてだった。

「何か都合の悪いことを忘れようとしているのだろうか?」

 そんなことを考えていると、目の前のパチンコ台に、

「激熱」

 の文字が光り、真っ赤になったかと思うと、金色に盤面が変わっていった。ギミックの落下などあり、大当たりは目の前だ。それまで考えていた頭がさらに真っ白になり、気が付いたら、良枝との記憶はほとんどなくなっていた。

 大当たりの盤面に茂は、いつになく興奮していた。普段から見慣れてはいたが、この興奮があるから、パチンコは辞められない。大切なことかも知れない記憶が消されても、すでに意識の中にはないことだった。茂の意識はそのまま盤面に集中し、時間はあっという間に過ぎていった。

 確変に確変が重なり、久しぶりの大爆発だった。十連チャン以上したのは久しぶりだった。時間的にも陽はすっかり落ちていて、表はネオンサインで眩しかった。

 気が付けばお腹も空いている。このまま帰れば時間的にもちょうどいい。妻の由美が帰ってくるより少し前に帰ることができるだろう。茂の頭の中には大爆発したパチンコ台の意識しかなく、良枝のことは記憶の奥に封印されてしまったようだ。

 夜のとばりの中を歩いていると、マンションの自分の部屋が見えてきた。茂は、マンションが近づくと、自分の部屋のベランダを見るのがくせになっていて、その日もいつものようにベランダを見ると、人影が見えた。

「あれ? 由美が帰ってきているのかな?」

 少しバツの悪さを感じたが、パチンコで負けたのならいざ知らず、勝っているのだから、罪悪感を感じることもなく帰ることができる。

「そういう問題ではなくて」

 と、パチンコのことが分かれば、きっとそう言われるだろうが、大爆発は精神的に大らかな気分にしてくれたこともあって、気が大きくなっているのだった。

 足にだるさを感じ、急いで部屋に帰ろうと思ったが、なかなか足が先に進んでくれない。今日一日がいろいろあった証拠だろう。あっという間に過ぎた気はしているが、朝の時間帯を思い出そうとすると、かなり前だったように思うからだ。

 それでも何とか部屋まで上がると、

「ただいま」

 と言って、カギを開けて扉を開けた。

「おや?」

 まだこの時間は暑さが残っているはずなのに、足元から溢れてきたのは、冷たい空気だった。懐かしさを含んだその空気は、中に誰もいないことを証明してくれる空気だった。実際に部屋はどこにも玄関に照明はついておらず、人の気配も感じられない。ただ、奥の部屋だけが電気をつけたままだった。時々、電気をつけたまま外出することのある由美だったので、不思議でないか。それでもいないことに、

「おかしいな」

 と感じ、玄関から中に入り、片っ端から見て回った。誰もいるはずのない部屋を覗くのは勇気がいった。さっき、ベランダから人が見えたからである。

「疲れているんだろうな」

 錯覚だったとしても、それは自分が疲れているからで、疲れを感じると、一気に身体に重さを感じた。

「そういえば、数日前から風邪気味だったな」

 大人しく寝ていれば治ったかも知れないと思ったが、

「まあ、仕方がないか」

 と、今日一日のことを思い出してみたが、やはり、良枝との記憶は封印されたままだ。それを茂は、

「パチンコで大爆発したために記憶が飛んじゃったかな?」

 と思うようにした。明らかに記憶が封印されてしまった説明がつかないことへの言い訳でしかないのだが、それも無理のないことだった。今さらお互いに結婚している同士、わだかまりが解けたという意識だけでいいではないか。

「わだかまりが解けただけでいい?」

 分かっているではないか。それ以外に自分は何を意識しようとして、記憶に封印してしまったというのだろう。わだかまりが解けたことに対して、良枝との間では、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。後は。お互いに隣室の夫婦として、普通に挨拶をする程度の近所づきあいができればそれでいいのだ。

「それにしてもさっきのベランダでの人影は誰だったのだろう?」

「間違って隣のベランダを見てしまった?」

 だが、その時良枝は体調を崩し、横になって寝ていたということを、茂はおろか、他の誰も知る由もなかったのだ。

 茂は幻を見たと思った。思い込みが激しいところがある茂は時々、幻を見たと思うことがあった。思い込みが激しいせいか、まわりの環境の変化に対応できず、ついついまわりに流れされてしまうことが多いようだ。だから、学生時代に良枝から好かれていたのを分かっていたにも関わらず、後から現れた押しの強い女性に、半ば強引に付き合う羽目にされてしまったのだと思った。

 自分が蒔いた種ではあったが、それでも随分と悩んだものだ。今でもその思いはあり、肩の荷をやっと下ろせたことは、本当に嬉しかった。

 冬の雪が降っていた日、自分を強引に付き合わせたくせに、その女性は半年もしないうちに別れを切り出してきた。

 自分にはまったく悪いところはないと言わんばかりに胸を張り、理由を聞くと、

「他に好きな人ができたから、あなたとはもう付き合えないの」

 と言うではないか。

「それはどういうことなんだい?」

「どういうことって、あなたとかこれきりということよ」

 まったく未練などないと言いたげだった。

「付き合って行くうちにお互いの思いは深まっていくものじゃないのか?」

 というと、相手は笑いだした。

「そういう型に嵌った思い込みが嫌なのよ。融通が利かないというか。本当にそう思ってるの? 人の気持ちって刻々と変わるものなのよ」

「僕のそういう性格を好きになってくれたんじゃないのかい?」

「確かに最初は新鮮だったわね。でも、押しつけがましいのよ、その性格はね。堅物と言ってもいいくらいだわ。要するに私はあなたに飽きたのよ。分からないの?」

 そんな勝手な理屈があるものか。別れを一方的に切り出して、その理由が「飽きた」と言われたのでは、どうすればいいというのだ。

 確かに女性は相手と別れる時の理由として、我慢していることがあったとすれば、ギリギリまで我慢して、我慢できなくなったところで、つまり開き直ったところで相手に切り出すのだと聞いたことがあるが、それは殊勝な気持ちを持った女性であれば分かると言うものだ。しかし、この女に限ってはそんなことはない。最初から男を舐めているとしか思えない。そんなオンナに未練など持つ必要などないのだろうが、悔しさでいっぱいになってしまった頭には血が上ってしまい、制御が利かなくなった自分がいるのを感じていた。

――こんな女、どうなってもいいんだ――

 と思いながらも、置き去りにされた気分は拭えない。復讐してやりたいくらいの衝動に駆られたが、何とか思いとどまった。復讐するにしても、手段が思いつかないからだ。そのうちにさらに内に籠る性格になってしまい、しばらく精神的に立ち直れない状態が続いた。女性と付き合うことも嫌で、そばに女性が近づくだけで鳥肌が立つほどだった。

 良枝はそんな茂を知っていたはずなのだが、良枝にだけが知られたくないと思っていた。卒業とともに忘れてくれることを願ったが、会わないだけでもありがたかった。営業の仕事も最初は辛さが残ったが、一人になると次第に自分の世界を作ることができて、そこまで来れば立ち直るのは時間の問題だった。

 良枝はそんな茂を知らなかった。自分から避けているところもあったので、自分がシナリオ専門であったことは幸いだと思った。もし演劇のメンバーだったら、人の中に入ってしまって、会話が辛いと思っただろう。そういう意味では、学生時代の前半は、少し切ない時期があったのだ。

 元々が優しくて情に脆い性格なので、友達は自然とできた。彼氏らしい人もいたが、なかなか続かなかった。相性が合わなかったというのが、本音だったに違いない。

 茂は、外された梯子をすっかり忘れてしまっていた。仕事を始めてからも、坂口が友達としていてくれたことも頼もしかった。

 坂口のような計算高さはなかったが、見習いたいところはあった。ただ、計算高いくせにどうして要領が悪いのかが少し疑問だったが、人間らしくて、付き合って行く分には、却って暖かみがあってよかった。

 坂口は演劇部だったが、卒業してからは、普通のサラリーマンになった。彼も別に演劇で食べていこうという意識はなかったのだ。ただ仕事は営業ではなく、総務の仕事だった。演劇のように表に出る仕事から、総務のような裏方で精神的に大丈夫なのかと思ったが、実際にやってみると、楽しいという話だった。

「結構、自分で計画、立案して、それが採用された時なんて、喜々とした気分になってね。それをまわりが組み立ててくれるというのも、冥利に尽きるというものさ」

「なるほど」

 話を聞いて納得した。確かに部長までしたのだから、それくらいの考えがあってもいいだろう。

 坂口は学生時代の恋愛を時々思い出す。

 妖艶な女性に引っ張ってもらって、いい相手に巡りあったが、自分の友達である茂は同じように妖艶な女性に無理やりにでも付き合わされ、悲惨な思いをした。だが、本人は今では、

「いい勉強になった」

 と言っている。それだけ一皮も二皮も剥けたということだろうか。

 性格的に正反対な方が友達になった時に長続きするのではないかというのが、二人の共通の意見だった。

 坂口は、先輩と別れてから、もう二度と同じような女性が目の前に現れることはなかった。先輩と別れた時は感じなかったが、

「こんな素敵な女性は、二度と僕も前には現れないんだ」

 と思ったことだった。

 それから何度か女性と知り合い付き合ったりもした、だが、先輩のような女性は現れない。先輩のような女性というのは、妖艶でありながら、相手の気持ちをすべて察してくれている。言いたいことを言わなくても分かっていてくれるそんな女性のことだった。

 だが、その中に吾郎と関係のあった女性がいた。吾郎と付き合ったわけではないが、吾郎のことを弟のように思っていた女性だった。

 吾郎は、本人には意識はなかったが、女性から好かれるタイプだった。付き合い始めると微妙な違いに女性が気付いてしまうようなのだが、見た目は女性から好かれるタイプであることには違いない。

 その女性は、吾郎のだらしないところをまるで自分がお姉さんのように、何とかしてあげないといけないと思っていたのだ。そういう意味では計算高いところがあるが、どこか要領の悪い坂口に同じものに見えたのだろう。

 その女性は坂口と一緒にいる時に、名前は言わないが、吾郎のことを仄めかしていた。

「弟のような人がいて、放っておけないのよね」

 というような話をしていたのだ。

 彼女としては坂口にも同じだと言いたかったのに、坂口の方はそんな事情を知らないことで、相手の女に対して誤解を抱いた。付き合っているのに、他の男の話をされれば、確かにいい気持ちはしない。ただ、もっと彼女のことを分かってあげられればそんなことはなかったであろうに、誤解はどうしても避けられることではなかったのだ。

 坂口と吾郎の似たところを知っていたのは、さしずめ彼女だけだっただろう、共通に知っていた良枝もそこまで感じたことはない。坂口を部長としてしか見ていなかったからだ。良枝は坂口に恋心を抱いたことはない。どうしても好きになれないのは、最初に計算高さに気付いてしまったからで、いくらその後要領の悪さに気付いたとしても、それはわざとらしさでしか見ることができなかったからだ。

 だが、部長としてはそれくらいであってもいいと思っていた。尊敬とまではいかないが、自分にないところを持っている人だということで一目置いていたのも事実だった。坂口と茂が仲が良かったのは知っていたが、まさかいまだに付き合いがあるとは思っていなかった。男性同士の付き合いの方が、女性同士よりも深いということを知らなかったのもあるが、卒業してしまうと、皆バラバラという意識があったからだ。

 吾郎には学生時代から続いている友達はいない。隣に引っ越してきた茂とも面識がまったくないわけではないはずなのに、初めて会ったと思っている。それだけ今までの年月が長かったということでもあるし、良枝との付き合いの長さが、吾郎を学生時代から完全に切り離してしまったのかも知れない。良枝はそれでもいいと思っているが、男性の吾郎にとってはそれでよかったのか、疑問に感じていた。

 坂口と付き合った女性はほとんど長続きしなかった。坂口は一目惚れするタイプではなかったので、徐々に相手を好きになっていく。そして、本当に好きになったちょうどその頃に、相手から別れ話を突きつけられる。

 毎度同じパターンに、坂口は閉口していた。

「どうしてなんだ?」

 理由を聞いても、要領を得ない。皆同じ答えしか返ってこない。

「あなたは、私のことを見ていないのよ」

「だから、そんなことはない」

 必死に訴えるが、

「自分の胸に聞いてみてください」

 と言われるが、心当たりはない。

 ギリギリまで我慢して開き直った時に別れを切り出すのだから、説得は不可能である。せめて理由だけでもと思っても、冷たくあしらわられる。これを毎回繰り返しているのだから、恋が成就することもない。

「やっぱり、年上の女性がいいのかな?」

 坂口に興味を持ってくれる女性は、同い年か年下ばかりだった。何度も同じことを繰り返していくうちに、やっと原点に戻ってきたようだ。

「それならいっそお互いに知らない方がいいかもしれない」

 親の勧めの見合いをいい機会だと思ったのだ。

 これが坂口が見合いで結婚するに至った理由であった。

 茂の方は結婚に至るまで仕事に打ち込んでいた。営業の仕事でしかも、月の半分は出張で女性と知り合うということもなかなかなかったからだ。

 仕事に打ち込んでいると、一人の寂しさを感じることもあったが、寂しさは逆に毎日の仕事が癒してくれたりもした。一生懸命に働いていれば数字が付いてきてくれていたので、やりがいはあった。

 それでも、茂に好感を持っていた女性もいたようだ。告白できるほど度胸があるわけでもなく、控えめに見守っているだけで満足だという殊勝な女性であった。茂は吾郎のように女性から好かれるタイプでも、坂口のように同情を引くようなところもない。それを思うと一番平均的で平凡な男性だったのだ。

 それなのに、いきなり付き合った女性に騙されるような結果になり、それまで好きでいてくれた良枝を裏切ってしまったような格好になった。いくら自分が悪いとはいえ、

「どうして僕がこんな目に遭わなければいけないんだ」

 と、運命を呪ったりもした。それでも卒業したことですべてを洗い流したような気になって、女性を好きになることはないと思ったほどだ。それだけ心に受けた傷は大きかったし、男性の友達も坂口だけに絞って、あとは仕事での付き合いにしていたのだった。

 見合いしてみようという気になったのは、一種の気まぐれだったかも知れない。別にまわりから勧められたわけでもなく、軽い気持ちで登録したお見合いサークルがお見合いのきっかけだった。

 お見合いに至るまでの気持ちとしては、坂口と似ていたかも知れない。ただ、坂口はその頃すでにお見合いの話が出ていて、茂と連絡を取ることを控えていた。遠ざけていたわけではないが、一人で考えたいという思いがあったからだ。考えてみれば、茂が見合いを考えた時も坂口に連絡していない。連絡しても坂口の方で話ができない状態にありそうだったのが一つだが、自分からどう話をしていいか分からないというのも本音だった。それを思うと、お互いに同じような時期、同じ考えでいたというのは偶然という言葉で片づけられないものではないかと思うのだった。

 茂が由美を選んだ理由、ハッキリ何がよかったのか分からない。茂は知らなかったが、由美は学生時代に小説を書くのが趣味だった。ミステリーを書いていたのだが、知らなかったのは無理もない。由美は茂はおろか、他の誰にも自分が小説を書いていたなどということを話してはいなかったからだ。

 由美の書くミステリーは、ホラーに近いかも知れない。トリックやサスペンスというよりも、人間関係を元にした深層心理を描く作品が多かったからだ。賞に応募したこともあったが、趣味の域を出なかったのと、女子学生が書くミステリーで、しかも深層心理を描くような話がそう簡単に認められることもなく、壁は厚かった。人に話さなかったのは、それが一番大きな理由だったのだ。

 由美は、絶えず頭の中でいろいろなことを考えていた。吾郎と良枝のように考えすぎてしまう夫婦とは違い、論理立てて考えることが好きだったというのもあり、無意識にいつも論理を組み立てるように頭が働いていたのだ。それは、まるで考えることなしに心臓が動いているかのごとくで、くせというよりも無意識という言葉がピッタリであった。

 ホラーと言っても、オカルトのようなものではなく、人間の心理の中に潜む気持ちの中に何かが潜んでいるというのが、共通のテーマだったようで、じわじわとくる恐ろしさは、やはりホラーではあった。

 そのおかげか、いろいろなことが予知できるようになっていた。

「この人は将来……」

 と思うと、かなりの確率で的中していた。

 もちろん、誰にも言わない。下手に人にいうと気持ち悪がられてしまうからだ。他人に余計なイメージを与えて自分が損をするのは避けたかった。占い師が逆恨みをされるなどという話を耳にしていたからだ。

 これも霊感が働くからなのか、自分に危険になりそうなことには敏感に反応し、話題を察知する力があるようだ。これも予知する力とあいまって、由美が人には言えないことでもあったのだ。

 だが、世の中には同じような人は案外といるもので、しかも特殊に近い能力を持っている人は、近寄ってくるのかも知れない。クラスメイトに似たような女の子がいたのだ。

 それに気付いたのは、大学の講義で、いつも近くの席に座る人がいたからで、なるべく人を避けていた時期だけに、自分に寄ってくる人がいるなど、想像もしていなかった。

――どうしてなんだろう?

 それまでにはそんなことはなかった。類は友を呼ぶとはそのことなのか。しかも、声を掛けてきたのは、向こうからだった。

「いつも近くの席ですね」

「ええ、でも私を意識していたんですか?」

「はい、同じ気配を感じたからですね」

「気配?」

「あなたはすでに分かっているはずですよ」

 そう言われて、少し背筋に寒気を感じ、ゾクッとした。分かってはいるが、何と言えばいいのだろう?

 彼女とは、さすがに友達にはなれない。相手も友達として話しかけてきたわけではないようだ。同じような能力のある人がいることを知っただけで満足のようで、きっと自分のような人間の存在を、自分で納得させたかったからなのかも知れない。由美はそこまで考えたことはなかったが、彼女の存在がそれを証明してくれたことは、由美にとってもありがたいことであった。

 友達ではなかったが、お互いに助け合うことはあった。お互いに自分たちでしか分からないこともあり、それを納得させてくれるのも相手の存在。それを分かっているだけに話をしなくても分かり合える人がいるだけで嬉しかった。

 卒業してから連絡を取ったことはないが、いずれどこかで出会えるような気がした。出会ってからどんな話になるか、少し興味もあったが、結婚していないような気がして仕方がなかった。もし彼女が由美の結婚したことを知ったらどうなるだろう? そう思うと、複雑な心境だった。

 由美は、またミステリーを書いてみたいという衝動に駆られていた。主人公は自分になるのか彼女になるのか。それは結婚したことで、心境の変化があり、ひょっとして書いたものが現実になるのではないかと思ったからだ。

 実際に現実になりかかっている。それを知っているのは自分だけで、まわりは誰も知らない。自分の書き方次第で、いくらでも変化する。大いに醍醐味を感じるが、恐ろしい気もする。縁もゆかりもないと思っている人たちを巻き込むことになるからだ。

「でも、もっと書いてみたい」

 自分の好奇心には勝てない。何よりも自分が書いたことが現実となるのだ。ただ、それは自分自身で実際に着色しないといけないことに気付いていない。結局は、自分の書いたものが現実になるのではなく、運命に翻弄されていることに気付かないのだ。やはり気持ちは好奇心なのであろう。

 手始めは、誘惑だった。

 隣の旦那を誘惑している自分を描いてみたが、実際に誘惑してみると、

「何かが違う」

 と感じた。

 誘惑ではなく、相手に少し警戒心も与えたかも知れない。ただ、それはストーリーを先に進めるための通らなければいけない道であり、由美にとってこれからが難しいところであった。

「登場人物は多い方がいい?」

 いろいろ考えているうちに、話が混乱してきていた。

 由美は、想像力は豊かな方ではない。予知はするが、想像できないのが、却って現実を引き寄せるのかも知れない。

 登場人物をあまり増やしすぎると収拾がつかなくなるのは分かっていたが、偶然を引きつけることになるとは思わなかった。茂と良枝の関係などまったく知る由もない。しかも吾郎が茂のことは知らないが、茂は吾郎を知っていることなど、知らなかった。茂は知らないふりをしたが、学生時代から良枝を意識してきたのだから当たり前である。鈍感な吾郎が茂の視線を分からないのも無理はない。しかも、吾郎は人の顔を覚えるのが苦手だったからだ。

 偶然を引きつけたのが由美の小説だとは誰も思っていないが、引きつけたわけではなく、予知能力なのかも知れないとは、後になって由美が感じたことだ。予知能力があっても、結末までは分からない。それは夢の感覚に似ているからだった。

「夢って肝心なところで目を覚ますものですよね」

 学生時代に由美に近づいてきた女性が話していたことだ。彼女は小説を書くことまではしなかったが、その代わり、思ったことを口にした。予知能力を持っている人は、自分が感じた予知を表に出さなければ気が済まない。彼女の場合は口に出して話すことで、由美の場合は小説に書くことだった。同じ小説を書くにしても、吾郎とは目的が違う。良枝のシナリオともまた違っている。同じモノを書くことに造詣の深い三人であるが、それぞれまったく違う趣旨があるというのも面白いものだ。しかも、皆そのことを意識していない、もっともプロでもない限り、文章を書くのにいちいちその目的を考えている人も少ないだろう。

 由美は、今までに男性を好きになったことはなかった。異性への興味を抱くはずの思春期に、男性を好きになったことがなかったからだ。ただ、なぜか女性にはモテた。ラブレターを貰ったこともあるくらいで、由美に対して、男性的な憧れを持った女性が少なくとも数人いたのは事実だった。

 だが、レズビアンに走ることはなかった。女性から慕われるのは悪い気はしなかったし、慕ってくれば受け入れはした。それは精神的なものだけで、身体を求めてきた相手に対しては、冷たくあしらっていたが、それが相手の目を覚まさせることに繋がったことで、由美が恨まれることはなかった。ある意味得な性格だったのかも知れない。

 由美に冷たくあしらわれた女性は、すぐに彼氏ができた。元々女性としてのオーラは十分で、女性にしか興味を示さなかっただけだったので、その気持ちが少し瓦解すれば、男性が放っておくはずもない。

 彼女たちは、男性にとって

「可愛い」

 と思わせるような女性ばかりで、しかも、尽くすタイプだったのも共通していたので、彼氏ができるのは、時間の問題だった。

 それでも長続きするかは、相手の男性に因ること子が大きかった。どちらかというと、フラフラしたイメージに見える彼女たちなので、男性には頼りなく見えただろう。それだけに男性がしっかりしていないと、糸の切れた凧のように、勝手にどこかに飛んで行ってしまう。繋ぎとめられるだけの器量を持った男性さえいれば、そのカップルは結構長続きするはずである。結婚相手としてはどうなのか難しいところだろうが、意外とうまくいきのではないかと思う。

「お互いに足りないところを補えるような仲が、結婚相手には一番いいのかも知れないよ」

 という話を由美は先輩から聞いていた。

 それだけに由美も自分に足りないところを補える相手を探してみたが、なかなか自分で探すと見つからないものだ。

 実際に自分に足りないところというのが漠然としていて、ハッキリしない。自分が分からないのだから、まわりにも分かるはずがないという思い込みも、由美にとってはマイナスだった。その思い込みが、マイナス要素になるからである。

 由美には男性を見る目がないという意識が常にあり、ただ、それは自分の勝手な思い込みだった。

 一つのことを考えるとまわりが見えなくなる神経質な性格である茂と結婚したというのも、縁なのかも知れないと、由美は感じていた。

 由美がそんな女性であるということを、茂は知る由もなかった。どこか変わったところがあるとは感じていたが、お見合いで結婚したのだから、まだまだこれからだという思いの方が強い。

 小説を書くために自分がしている行為に対し、罪悪感がない由美は、感覚がマヒしてしまっているのだろうか? 自分を正当化してしまわないと、なかなか承服できない性格である。納得させられるだけの性格ではない。それは自他ともに認めるところだろう。

 仕事を始めると、本当に一人になってしまった。孤独感が襲ってくる。由美は孤独感には人一倍敏感な女性だった。

 寂しさは鬱病に繋がってくる。憂鬱な精神状態に陥ると、何をしていいのか分からなくなる。それまでできていた予知もできなくなり、眠っていても、夢すら見なくなった。

 だが、実際に夢を見ていないわけではない。夢を見ることができないという夢を見ているのだ。まるで笑い話のようだが、本人にとっては辛いことだった。夢を見ることがストレス発散だと思っていただけに、逃げ場を奪われた感覚である。

 夢が見れないとなると、どうやってストレスを発散させればいい?

 由美は、パチンコに嵌った時があった。今でこそパチンコはしていないが、あの頃の自分を思い出しと、吐き気がしてくるようだった。

 タバコを吸わない由美であったのに、よくあのタバコ臭い環境に耐えられたものだ。今では喫茶店で禁煙席にいるにも関わらず、少しでもタバコの臭いがしてきただけで、吐き気を催すのだ。そんな由美が耐えられただけ、パチンコ屋での自分は、普段の自分とは違っていると思っていた。

――だが、あれが本当の自分なのかも知れない――

 とも思った。

 パチンコに興じる自分は集中している。他の時は集中力が散漫なのに、パチンコ屋にいる時だけは、集中できるのだ。

「小説を書いている時のことを思い出す」

 と感じるが、同じ集中力でも少し違う。小説が予知によってもたらされ、書くことができるようになったと思っているからだ。小説を書いている時の自分が本当の自分なのかというのは、今でも永遠のテーマに思えていたのだった。

 茂が見たベランダの光景、リアルではあったが次第に、

「やっぱり幻だったんだ」

 と思うようになっていた。こんな錯覚を見るくらいなので、神経質と言われるのだと思ったが、茂は由美が躁鬱症であることには気が付いていた。

 以前ほど由美は鬱状態に陥ることはなかったので、普通なら気付かないかも知れない。だがそのことに気付かせたのは、実は鬱状態ではなく、躁状態があるからだった。

 躁状態もそれほど目立つものではない。それなのに、どうして分かったかというと、茂自体、躁状態を知らないからだった。だが、躁鬱症の人を知らないわけではない。それが母親だったのだから、茂としては、切実なものでもあった。

 母親は、茂が生まれてから躁鬱症になったという。茂の父親は猜疑心の強い人で、自分の妻、つまり母親が以前から付き合っていて、結婚を機会に別れた相手がいるのを知っていることで抱いたもののようだった。

 結婚する時には、すべてを水に流すという話だったから結婚したのに、実際に結婚してしまうと、豹変したのだった。

 それまで優しかった夫が高圧的になり、自分がすべてを支配しなければ我慢できなくなった。そのくせ優柔不断なところがあり、いい加減だったのだ。救いようのない性格なのだが、結婚してしまった以上、従うしかない。

 母には離婚する勇気もなかった。そんなことを思っているうちに、妊娠したのだ。父親は母を責めた。

「あなたの子よ。間違いないわ」

 と言って弁解したが、なかなか納得しない父は、時々酒に酔っては、母を罵倒し、暴力も振るったようだ、それでも子供に手を出さなかったのだけは救いだったが、そんな父が病気でポックリ行ってしまったのだ。

 母はすぐに再婚した。運が良かったのか、その人はいい人だった。それでも後遺症として躁鬱症は残ってしまい、母親を見ていると辛くなって仕方がない。ただ、途中から躁状態が急に強くなった時期があった。それまでの鬱状態の反動だということらしかったが、子供から見ていると、怖かった。

「躁状態というのは、ある意味鬱状態よりも怖いかも知れない」

 茂はそう感じた。

 まさか結婚相手に躁鬱症があるとは思っていなかったが、妻を見ていると、結構躁鬱症というのは、誰にでも潜んでいるものだということを思い知らされた気がした。

「僕の中にもあるのかな?」

 人を見ると、躁鬱症への偏見の目で見ていることに気付いてハッとすることもあった。それが嫌になった時期があったくらいである。

「本当に、僕は人を好きになったことってあるのだろうか?」

 精神に異常をきたした時期があり、オンナが信じられなくなったが、本当に好きになることができないという弊害を残すことで立ち直れた気がした。立ち直りは開き直りであり、失ったものの大きさで感覚がマヒしてしまった気がしたくらいである。

 茂は、結婚前はあまり余計なことを考えない性格だった。それは今も同じことで、今までの波乱万丈の人生を思い出すだけで悲惨な気持ちになってしまう。何も考えないようにしようと思っているから、躁鬱症にもならないのかも知れない。

 見合い結婚をしたのも、何も考えずに結論が出るからで、怖くないといえばウソになるが、恋愛結婚をしても、今までの経験から、自分が信じられないのだから、それならば自分の運命を他人に託すのもいいかも知れない。いざとなれば離婚すればいい、どうせ自分で決めた結婚相手ではないのだから。

 しかし、それは自分から離婚を考える時で、相手から離婚を言われるところを考えたことはなかった。恋愛であれば、いつ別れを切り出されるかドキドキしているのだろうが、見合いであれば、相手から離婚を切り出されることはないと思っていた。

「相手だって見合いするということは、今までにいい出会いがなく、行き遅れたのだから、見合いに関して言えば、男性の方が有利だ」

 という根拠のない考えを持つようになっていた。

 自分で考えた理論ではなく、言い出したのは坂口だった。

 学生の頃、

「結婚相手なんていくらでもいるさ。最悪見合いしてしまえばいいんだ。今はお見合いパーティなんていうのもあるから、女性も行き遅れている人が多いのさ」

 と、いう話だった。

 乱暴な発想だが、一理ある。男女の交際の場を提供するのがお見合いパーティ。お見合いと言っているが、恋愛を演出しているだけで、ある意味、恋愛に近いものがある。実は茂も何度か参加していたが、

「これって、恋愛と同じじゃないか?」

 と思ったほどだった。

 恋愛パーティでカップルになって知り合ったとしても、長続きするとは限らない。そこから先は相性であったり、気が合うかどうかである。茂は自分から相手を遠ざけたことはないが、相手と自然消滅はあった。お互いに相性が合わないと思ったのだろう。

 お付き合いした人もいたが、こちらも自然消滅だった、

「新鮮なのは最初だけ」

 結局、冷めてしまうのだ。

 見合い結婚も同じようなもののはずなのに、どうして急に結婚しようと思ったのだろう。相性が合うと相手が思ってくれたのなら、茂自身相性を合わせる自信があるというのだろうか。

 女性には結婚したくて仕方がない時がある。それは女性に結婚適齢期というものがあり、それを意識するあまり、相手に関わらず、結婚というもの自体してしまいたいと思うのだ。茂も結婚したくてたまらない時期に、ちょうどお見合いパーティが気になっていた。焦りがないと言えばウソになる。まるで女性の適齢期を感じているかのようだった。

「この期を逃すと一生結婚できないかも知れない」

 とまで感じてしまうのではないだろうか。

 茂には過去の経験から、被害妄想の感覚もある。思い切り人恋しい時と、人がそばに寄るだけで吐き気を催す時と両極端だ。躁鬱症に似たモノなのかも知れないが、どちらも辛いことであるだけ、ある意味躁鬱症よりもタチが悪い。ただ躁鬱症と同じなのは、それぞれの状態を抜ける時が分かるということだ。由美に自分の性格を話した時、由美も、

「それなら私も躁鬱症の気があるのよ。あなたが知らないだけで、結構まわりの人には躁鬱症の人が多いわ。石を投げれば、躁鬱症の人に当たるんじゃないかしら」

 と言っていたほどだ。もちろん、その言葉の裏に、

「程度の差はあるだろうけど」

 というのがあったはずだ。だから、

「被害妄想だとしても、あまり思い詰めることなんてないのよ」

 と言いたかったのだろう。

「でも、被害妄想には何かの原因があるんでしょうね。躁鬱症の場合は生まれつきだったりするので、どうしようもないけど、被害妄想は、その原因を断ってしまえば、治ることだってあるかも知れないわね」

 とも話していた。

 確かにその通りだ。被害妄想には被害にあったことで、自分がまたひどい目にあってしまうという発想である。被害が何であるか、そして妄想がどこから来るのかが分かれば、対応のしようもあるというものだろう。

 親から受けた言い知れぬプレッシャー、

「生まれてこなければよかった?」

 とまで子供心に考えたあの時、確実に茂の中に鬱積したものが残ったはずである。

 茂の神経質な性格は、妻には理解できないところがあるようだと思っていた。時々、茂を冷たい目で見ているが、急に暖かい言葉を掛けてくれたりする。言葉の掛け方が絶妙で、「僕にはできた妻だ」

 と思っていた。

 それだけに、少々のわがままは許していた。

「今度、友達と一緒に呑みに行くんだけど、いいかしら?」

 と、言われたら、

「構わないよ。ゆっくりしてくればいいからね。でも、気を付けていくんだぞ」

 なるべく優しく、そして、さりげなく釘も差しているつもりだったが、由美には分かっただろうか?

「ありがとう」

 由美は、結婚生活をどう思っているのだろう? 楽しいと思っているのだろうか?

 茂は神経質でもなければ、新婚生活を満喫できていただろう。逆に言えば、神経質な性格がすべてを台無しにしている。

 良枝とのわだかまりが消えたことは嬉しかったが、いくら偶然とはいえ、隣に昔好きだった相手が引っ越してきたというのは、バツが悪い。というよりも、神経質なところに、プレッシャーすら感じる。それは、由美に対してのプレッシャー、そして良枝に対してのプレッシャー、下手をすれば、わだかまりがあった方が、まだ精神的には楽だったかも知れない。わだかまりが解けたことで、良枝がどのように気持ちを変化させるか分からないからだ。

 自分からわだかまりを解きに行ったわけではなく、相手から解いてきたのだ。もし、自分からわだかまりを解いたのであれば、ここまで神経質にはならないだろう。もっとも、自分からわだかまりを解けるくらいなら、神経質になどなるはずもないからだ。

 茂はまわりに自分が神経質だというイメージを無意識に振りまくことが、自己防衛に繋がるのだと思っている。まるで動物が外敵から自分を守るために、保護色を使ったりするのと似ているのかも知れない。

 だが、自己防衛はまわりを引きつけないことになり、却って何かあっても、誰も助けてくれないことになるのを分かっていない。一種の意固地と同じだという意識はないのだった。

 そんな中でも茂は自分がまともなのだと思っている。すべてが神経質な性格が邪魔しているだけのことなのだと……。


 茂はしばらくして、また坂口に呼び出された。

 坂口は、茂が結婚してから、頻繁に連絡を取ってくる。会おうと言ってくるので、理由を訊ねると、

「友達が会うのに理由なんかいるのかい?」

 と言われて、本当に疲れている時は、苛ついてしまい、

「こっちの事情も考えてくれ」

 と言って、断ったこともあった。

 しかし、そう何度も断るわけにもいかず、何度かに一度会うようになったが、会ってからの話の内容は、要領を得るものではなかった。

 内容としては世間話から入るのだが、そのうちに次第に結婚生活の話に移行する。気が付けば、茂夫婦や、隣の夫婦のことまで茂の知っていることを話していた。坂口の切り出し方がうまいのか、別に隠すことでもないだろうから気にしてはいないが、どうやら、自分のまわりの環境を知りたいと言うのが目的のようだった。

 茂はうまく利用されているかのようだったが、それでも疲れていない時、坂口に会うのはいい気分転換になった。今までが、間が悪いというべきか、精神的に疲れている時ばかり坂口が誘い掛けてきたからだ。

 だが、坂口の誘いがあったからか、苛立ってはいたが、坂口の存在を意識することで、精神的な疲れが少しは早く解消された気がした。何とも皮肉なものであった。

 そういう意味で、茂は坂口に後ろめたさを感じた。後ろめたさが逆に坂口に対して誘いがあった時、

「いの一番で答えなければいけない」

 という気持ちになり、それが、

「早く誘ってくれないだろうか」

 という思いにも繋がった。

 茂から坂口を誘うという選択肢はなかった。なぜなら、一度感じた後ろめたさは、そう簡単に拭うことができない性格だからであった。

 後ろめたさと、話をしたいという気持ちの強さから、聞かれたことはすべて答えてしまう。大きな影響がないと思っているからだったが、それが間違いであったことに気付くのは、しばらくしてからのことだった。

「やっぱり、見合いでも新婚生活って結構いいよな」

 と、坂口は切り出した。坂口の話では、奥さんは大人しい人らしく、

「俺の理想の女性に出会ったような気がするんだ」

 と言っていた。だが、茂は自分の結婚をそこまで考えることはできなかった。

「そうだね。でも、新鮮なのは最初だけじゃないかって、最近は思うようになったんだよ」

 と茂は少し考えながら話した。これでも言葉は選びながら話しているつもりだが、言葉を選ぼうとすると、最初に考えた言葉に戻ってしまう。それなら、最初からそのまま言えばいいのだろうが、それができないのも神経質な性格が邪魔していたからだ。

「どうしてだい? 奥さんの嫌なところが見えてきた?」

「そういうことではなくて、結婚した時は、夢のような感じがしたんだよ。実際に現実を忘れさせてくれるんじゃないかって思ったくらいでね。でも現実を忘れることなんてできない。結局は逃げていたことを思い出さされる結果になっただけのことなんだよ」

 茂は、まわりに対して後ろめたさばかりを抱いてしまう。抱いた後ろめたさを解消すると、今度は相手に対して依存心が浮かんでくる。坂口に対しての依存心は受け止めてくれるが、由美には通用しない。

「男と女で差があるのかも知れないな」

 と思う。だが、この差も自分がまわりから利用されているために生じていることを、その時はまったく知らなかったのだ。

「今度、俺の奥さんと会ってみてもらいたいんだ」

 と、坂口が切り出したのは、前回会った時だった。

「どうしてなんだい?」

「見合い結婚だから、俺のことをほとんど何も知らないだろう? 俺の知り合いに会ってもらうのが一番手っ取り早いと思ってね。もちろん俺も同席するさ。そこでの会話から、学生時代の友達とどういう会話をしているか分かるだろうと思ってね」

 坂口は、自分のことを人に見せつけるのが好きだという悪趣味なところがあった。茂に奥さんを会せることで、茂には奥さんを、奥さんには茂を意識させ、自分のことを見せつけようという意図があるのだろう。それくらいであれば、可愛らしいものだ。別に断る理由もないので、茂は快く承諾した。

 実際、茂も坂口の奥さんに会ってみたいという思いもあった。引っ込み思案だということだったが、どんな人か興味もあった。坂口のような要領が悪い男に引っ込み思案の奥さん、大丈夫なのだろうか?

 茂は今まで自分のまわりで引っ込み思案で大人しい女性をあまり感じたことがなかった。皆自分からアピールするような女性が多く、明るい人ばかりだった。妻の由美も時々何を考えているのか分からない時もあるが、明るい性格であることには違いない。学生時代小説を書いていたというが、自分をモチーフにした作品が多かったという。自分を表に出したい気持ちが強かったのだろう。

 良枝にしても、友達も多く、人に好かれるタイプの女の子だった。もし、あの時自分が押しの強いオンナに引っかからなければ、普通に付き合っていたかも知れない女性である。結果はどうなったか、想像するのは怖いが、どちらにしても、人生が変わっていたことだろう。

「ひょっとすると、自分の結婚が一年早まっていたかも知れない」

 などと思ったりもした。あくまでも良枝中心の考え方である。引っ込み思案なのは女性の方ではなく、自分のことであった。

 坂口は結構押しが強い。それは茂が引っ込み思案なところがあるので、押しを強くしているのかも知れないと思っていたが、元々押しの強い性格で、茂のような引っ込み思案の相手が一番合うのだろう。何しろ理由を訊ねて、

「理由なんかいらないだろう」

 と答えるようなやつだからである。茂が折れるしかないではないか。

 坂口が奥さんを連れてやってきたのは、それから一週間後だった。

「初めまして、坂口優子です。宜しくお願いいたします」

 引っ込み思案と言っていたが、挨拶はしっかりしていた。夫から説得されたのか、人に会ってみると決めた時から、度胸は据わったのかも知れない。挨拶だけを見ていると、しっかりした女性のようだ。

「こちらこそ、宜しくお願いします。ところで新婚生活はいかがです?」

「ええ、私は夫と付き合う前は、あまり男性と仕事以外でお話することもなかったので、緊張もしましたけど、出会いは新鮮でした。そのまま結婚生活に入りましたので、戸惑いながらも新鮮な気持ちでいれば、何とかなると思っています」

 話の内容もしっかりしている。どこか要領の悪いところのある坂口に対して、彼女のような奥さんがいれば、坂口の家庭は安泰ではないだろうか。

 それにしても、坂口が自分を奥さんに会わせようと思った意図がなかなか掴めない。それを探そうと会ってみる気がしたのに、どうやらハッキリ分かるところまで行きつくことはなさそうだ。

「妻は、短大を出て、小さな美容室の美容師をしていたんだ。その小さな美容室というのが、俺の親戚のやっている店でね。それも見合いの理由だったわけだ。彼女にちょうどいい相手がいないかということで探していたところ、白羽の矢が向いたのが、この俺だったというわけだ」

 と言って、坂口は笑った。

 隣で奥さんは、それを見ながら恐縮したように黙っていたが、なるほど引っ込み思案というのは、坂口が話をしている時に出しゃばらないというだけで、実際にはしっかりした女性なのだろう。

――旦那を立てるいい奥さんではないか――

 夫婦にはいろいろな形があるが、坂口のような夫婦も珍しくはないだろう。坂口は奥さんを引っ込み思案だと言っていたが、決してそんなことはない。坂口も分かっていて、わざと最初に引っ込み思案という先入観を茂に与えて、そのうえで会わせてみたのかも知れない。

――何のために?

 ハッキリとは分からないが、そこに坂口の計算があるのかも知れない。最初に先入観を与えて、それが間違いだということを実際の目で確かめさせると、確かめたことがより一層リアルに感じられるという心理を使ったのかも知れない。その意図がどこにあるのか分からないが、坂口なら考えそうだ。

 奥さんは短大を出ていると言っていたが、茂は四年制の大学卒業者と短大卒業者とでは、少し違っているのを意識していた。四年制の大学卒業者は、やはり自分に自信を持った人が多く、短大卒業者は、自分に自信があるというより、男性社員を立てながら、縁の下の力持ちを自分の仕事だと思っている人が多そうだ。

 坂口の前で引っ込み思案に見せているのは、きっと短大卒のイメージがあったからだろうが、それを茂に会わせたのには、やはり何か計算があってのことに思えて仕方がなかった。

 話をしてみて、几帳面であることがよく分かった。話も理路整然としていて、論理立てての話なので、納得いくところが多い。論理立てて話をする人の中には、話を難しくしようとしている人もいるがそんなことはなく、実に分かりやすい内容だった。彼女自体の雰囲気も、インテリ風ではなく、清楚な雰囲気を味あわせてくれる。坂口が気に入ったのもそのあたりにあるのだろう。

 坂口の話と奥さんの話を聞いていると、自分も由美のことを考えてしまう。結婚してよかったかどうかなど、まだ分かるはずなどないが、現時点では、坂口も茂の方もよかったのではないかと思うのだった。


 茂が優子に会ってみたいと思っているのか気になるところだ。茂は坂口のことをどう思っているのか、坂口には気になるところだった。

「きっと、不器用なやつだ」

 と、思っているに違いない。それならそれで構わないのだが、茂も同じ見合いじみた結婚だとは思わなかった。坂口は自分の結婚を見合いだとは言っているが、決して普通のお見合いとは思っておらず、区別して意識していた。それだけに、ずっと友達として付き合ってきた相手が同じような結婚の仕方をしていることに不思議な因縁を感じ、思わず苦笑いをしてしまうのだった。

 茂の考えていることは、なぜか学生時代からよく分かった。手に取るようにという言葉があるが、まさにその通りだった。そのくせ他の人のことはまったく分からない。だから、要領が悪いとか、融通が利かないなどと言われることがあるのだ。

 他の人からいろいろ言われるのは構わないが、茂にだけは言われたくない。ライバルのような意識がある中で、茂に負けている気がしないのは、茂の考えていることが分かるからに違いない。

 人の気持ちが分からないと、ここまで要領が悪くなるとは思わなかった。

「考えすぎるからなのか?」

 と思うこともあった。余計なことばかり考えてしまい、理屈っぽくなってしまう。茂に対してはあれだけ講釈を垂れることができるのに、他の人の前では萎縮して何も言えなくなってしまう。

「あいつは何を考えているのか、さっぱり分からない」

 と言われることもあった。

 それだけ自分が他の人を見上げて生活していることにコンプレックスを感じているのかも知れない。

「人との関係にシークレットブーツのようなアイテムがあれば、少々高くても買うかも知れないな」

 と思うほどで、数に限りがあれば、取り合いになるくらい、同じことで悩んでいる人も少なくないだろう。

 坂口にとって茂は、ある意味生命線であった。

――茂がいてくれなかったらどうなっていたか?

 それを思うとゾッとする。

 まわりからは、

「どん臭いやつだ」

 と罵られ、自己嫌悪に陥り、躁鬱症も併発してしまっていただろう。まわり全員が敵に見えてきて、孤独感に苛まれていたに違いない。そうなってしまった時、自分がどうしていいかも分からず、頼る人は誰もいない。そんな時に現れたのが、茂だったのだ。

 茂は坂口の考えている通りに行動していた。まるで自分で操っているのではないかと思うほどの感覚だ。茂も坂口に自分の行動パターンを読まれていることが分かっているに違いないだろう。そう思うと、その時何を置いても、茂だけが自分の頼りであることに間違いなかった。

 生命線といえば大げさだが、茂がいなければ、本当にどうなっているか分からない。憂鬱な毎日を過ごし、人生の悲哀を悲惨さとして感じながら、前を見ていても、下を向いてばかりで顔を上げることなどできない。そんな毎日が生命線一つで変わるのだ。

 まわりから罵られることにはある程度慣れていた。それだけに、自分で怖かった。小学生時代に苛められっこだったからだ。

 耐えられないことはないだろう。だがそれは一時的なもので、下手に慣れてしまっていることで、耐えることはできても、どうしていいかという根本的な解決は何も分かっていない。一度苦しみを知っているだけに、二度と味わいたくないという思いも当然あり、耐えられなくなるのも時間の問題だからだ。

 そんな思いだけを抱いて毎日を暮していくのはもう嫌だった。子供の頃であればまだしも、先を見ることができる年齢になってくると、先が見えない苦しみほど苦痛なものなどないからである。

 こうやって書いてくると、坂口が実に捻くれた性格であることがよく分かる。要領が悪く見られることで必要以上に被害妄想を抱いてしまい、茂が抱いている以上に被害妄想が強いことで、茂の気持ちも分かるのだろう。だが、他の人から被害妄想の話をされると、きっと気分が悪くなって嘔吐してしまうかも知れないほどなのに、茂からであれば、的確なアドバイスもできる。それほど茂に対して優位性を持っていて、さらに坂口の中にも二面性を持っていることの証明になっているのだった。

 茂は、坂口を

「要領の悪いやつだ」

 と思いながらも頭が上がらない。だが、そんな茂に対して、今度は同じように頭が上がらない友達も学生時代にはいた。そいつに対して、坂口は本当に頭が上がらなかった。元々まわりに対して頭が上がらない中で、特にその男にだけは頭が上がらなかったのは、これといって理由はないが、不思議な感覚だった。

 他の人から見れば、この三人は「三すくみ」の関係である。

「ヘビ、カエル、ナメクジ」

 坂口、茂、そしてもう一人の友達、それを三人ともが意識していたわけではなく、意識できていたのは、坂口だけだったのだ。

 この三人は、学生時代、ずっと一緒にいた三人だ。坂口は目に見えない糸で、三人は縛られていたように思えた。結ばれていたというような生易しいものではない。縛られていたのだという、もっと深い関係だった。

 だが、その友達、名前を飯田卓司と言ったが、彼は卒業後、しばらくしてこの世を去った。大っぴらには公表されていないが、彼は自殺だった。電車に飛び込んだのだが、どう見ても自殺にしか見えない状況だったが、坂口と茂は信じられなかった。

「あいつに限って自殺する理由などないはずだ」

 警察の見解としては、会社で好きになった女性に裏切られての悲観が原因だということだったが彼の性格で、一人の女性に裏切られたくらいで自殺するなど、信じられるものではなかった。それを強く信じていたのは茂で、坂口は茂の気持ちに感化されたのが事実だった。

 飯田という男は、自分たち三人の中で、何事にも決断が一番早かった。早とちりをすることもあったが、それでも決断が早いわりには、間違った決断は少なかったのである。

「下手に考えると余計に迷いを生じるものさ。いろいろ考えることもしてみたけど、結局最後は最初に考えたことに戻ってくるのさ。それならば、最初から何も考えない方がいい。そう思えば即決に限るというものだろう?」

 飯田の意見はもっともだった。だが、一番考え込んでしまうことが多かった坂口は、飯田の考えを羨ましいと思いながらも、それが自分にないものを持っている人間への敬意なのだろうと思うのだった。そういう意味で坂口は飯田に頭が上がらなかったのだ。

 そんな飯田が死んだという知らせを聞いて一番驚いたのが坂口だった。

「あいつに限って自殺なんて」

 と言ってしばらく落ち込んでいた。敬意を表していた相手が死んでしまうと、かなりのショックなのだろう。

「もし、坂口が死んだら、僕はどうなるだろう?」

 ということを茂が考えたことがあるなど、坂口は知る由もなかった。それだけ茂が坂口を見ている証拠なのだろうが、坂口からすれば、その見る相手が飯田だったのだろう。見つめていく相手に死なれてしまっては、拍子抜けしてしまうのも仕方がないことだろう。

 飯田は、良枝に密かな恋心を抱いていた。それを知っていたのは、坂口だけだった。

「あいつには言わない方がいい」

 と、茂には話さないように諭したのは、坂口だった。良枝と茂のことを考えると、良枝に後ろめたさを持っている茂にとって、まるで追い打ちを掛けるのと同じだからだ。

 後ろめたさを感じているということは、それだけまだ茂は、良枝に対して恋心が消えていないということだからだ。

 茂と今後もずっと付き合って行こうと思っている坂口には、茂の精神状態があまり不安定では心もとない。親友と言っていながらも、何かあれば、利用できるところは利用しようと言うしたたかな気持ちがあるからである。

 逆に、茂は坂口が知らないことを知っていた。飯田が自殺する理由を、何となくではあるが心当たりがあったのだ。坂口には想像もできないことであろうが、飯田には、絵を描くという趣味があったのだが、実際の腕は、相当なものだという一部の人からの評価だった。

 コンクールに応募し、何度か入選も果たしている。だが、大賞となると、どうしても手が届かない。

「ギリギリのところ、あとちょっとというところまで来ているのだから、もう少し頑張ればいいことじゃないか」

 と、坂口はもちろん、まわりの誰もがそう思うことだろう。

 しかし、その思いを何度まで我慢できるかというのも問題だ。何度も同じところで躓いていれば、ここから先へは一生行けないと思うだろう。自分の限界を、現実として思い知らされたと思いこむのも当然のことだからだ。いくら自分に喝を入れても、精神的にもたなければ、そこから先へは行けない。行けなければ、諦めるしかないのだろうが、諦めるだけの気持ちもない。そのうちに悪い方にしか考えられなくなり、自分の人生すべてに限界を感じてしまうだろう。

 そうなったら、今まで考えたこともない「死」が、現実のものとして自分の目の前に立ちはだかってくる。

 茂がもしその場に居合わせていたらどうだっただろう? 飯田の様子がおかしいということで、ずっと監視を続けているだろうか。死んだと聞いて初めて、

「本当に自殺したのかも知れない」

 と感じたが、その場にいたら、まさか死ぬなんて考えるはずもなく、気にはなっても、ずっと監視しているなんて不可能に近いのではないだろうか。それこそ、自分がよそ見をしていることで、危なくなってしまう。

 誰もが、

「お前が悪いんじゃない」

 と言って、落ち込んでいる茂を励ましてくれるだろうが、目の前で知り合いの死という衝撃を見せられて、平気でいられるわけがない。

 本職としてやっていこうと思っているわけではない演劇ではあったが、部長までしたのだから愛着があって当然だ。そんな茂だから、飯田の気持ちが痛いほど分かるというものだ。

 飯田のことは、良枝も知っている。だが、学生時代に少し話をした程度で、茂の側から飯田を見るので、良枝には、

「茂に対して、頭の上がらない人がいるんだ」

 と、不思議な感覚を持っていた。

 茂の側からの見方であって、他のまわりの人の見方がどうなのか、意識もなかった。それだけ茂が飯田に対しての態度には自信を持っていた。

 だが、それは表向きなところで、内部では茂は飯田に敬意を表している。

 飯田の芸術的なセンスには一目置いていて、それだけに羨ましく感じられ、芸術に関しての態度を尊敬していた。

 芸術に関しては、坂口はまったくだった。妻が小説を書いていたこと、茂や良枝がシナリオを書いていたことなどは知っていても、話題にする気にもならない。

 話題にすると、自分だけが蚊帳の外にされるのはたまらなかったからだ。

 自分が蚊帳の外に置かれるのは、たまらない性分だった。いつも自分が中心にいないと気が済まないタイプの坂口が茂と友達として一緒にいる理由の中には、茂が大人しくて、あまり自分を表に出さない性格であるというところを狙ったのだ。

 しかし、そういう人間こそ、まわりから見ると、意識されやすいもので、目立つ存在だったりする。いつも端の方にいる人が、目立って見えることがあるが、それと似ている感覚ではないだろうか。

 坂口は、計算高いところがあるが、肝心なところでミスを犯すことが多い。計算していたことが、いつも計算通りに行かないこともあるというのを、本当の意味で理解できているわけではないのだ。

 だから、ある程度までくると、フッと気を抜いてしまうことがある。それだけ人間らしいとも言えるのだが、人間らしさは、定規で図ることのできるものではないということを証明している。

 計算通りに行かないのが芸術である。坂口は自分がいくら計算してもうまく行かないことで、不確実なものを相手にしないくせがついていた。その典型が芸術であり、芸術を憎悪しているところすらあった。本当は自分の甘さが原因で計算通りに行かないのに、責任転嫁もいいところだ。

「芸術は爆発だ」

 と言った芸術家がいたが、その言葉を坂口と茂や飯田とは違う意味で、解釈していたのだ。


 坂口優子が、以前に良枝に会ったことがあるなど、当事者の誰も知らなかった。もちろん、その時に優子も良枝も、坂口を通して、少なからずの関係があることなど、知る由もなかったからである。

 良枝が新婚として引っ越してきてから、半年が経った頃のことであった。当時、まだ固定の美容室を決めておらず、二、三か所の店に入ったが、どこも気に入った感じではない。下手ではないが、それぞれに、

「帯に短し、たすきに長し」

 と言った感じで、一長一短であった。

 こっちに来てから四軒目の店になるのだが、そこのオーナーがなかなかの腕前で、店の雰囲気も悪くはなかった。

「ここならいいわ」

 と気に入って、二回目に来た時、ちょうどスタッフとして働いていた優子と、話をする機会があったのだ。

「彼女は美容師としてもなかなか優秀なので、僕も安心なんだよ」

 と、オーナーの話。

 オーナーお気に入りの美容師を宛がってもらって嬉しかった。

「坂口優子といいます。どうぞ宜しくお願いします」

「ご丁寧にどうも」

 お互いに笑みを浮かべ、相手の愛想の良さが気に入ったようだ。

 優子は、ストレートでキレいな黒髪が肩まで伸びていて、清潔感を感じさせる女性だった。幼さが少し残っているところが、笑顔を引き立てるのだろう。

 お互いに年齢的にもそれほど違わない。ただ、大学は美容学校ではなく、普通の短大を出ているようで、知り合いのつてを頼って、この店にスタッフとして入り、後は仕事をしながら美容学校に通い、やっと美容師の資格を手に入れたとのことだ。

「ご苦労なさったんですね」

「いえ、学生時代に何になりたいかを最初から決めておかなかったから、苦労しましたけど、今は頑張ってきてよかったと思っています」

 そう言って、ニッコリと笑ったが、改めて笑顔の似合う女性であることが分かった。

 笑顔には、いくつか種類がある。もちろん、笑顔をもたらす人間にもよるのだが、表情の違いも千差万別。それでもいくつかの笑顔には、共通性があり、優子の笑顔と、良枝の笑顔には、同じものが感じられた。それをお互いに分かっていることから、仲良くなるまでに時間が掛かるはずもなかったのである。

 身体の一部、しかも女性にとっては、昔は「命」とも言われた髪の毛を弄らせるのだから、それだけ信頼していないとできないことだろう。しかもお金を払っているという意識もある。せっかくなら気持ちよくなりたいものだ。

 それは誰もが思っている願望、男性でもカットだけで美容室に行く人もいるが、それは散髪屋で男に髪を触られるよりも、女性から触られる方が、気持ちいいに決まっている。それに似た感覚なのだが、やはりそこには、

「お金を払っている」

 という感覚があって当たり前のことだった。

 優子の触り方は、絶妙だった。人気があると言うのも分かる気がする。優子を目当てにやってくる客もいて、店の繁栄を担っているのは、優子であると言ってもいいくらいで、オーナーには重宝がられていた。

 優子は性格的におだてられると調子に乗るところもあって、非常に使う方からすればありがたい方だ。調子に乗るとそれだけ、スピードも速くなり、スピードを上げてもサービスに変わりがないところが、優子のすごいところだった。

 優子と良枝はすっかり意気投合し、仲良くなった。さらに偶然バッタリ表で出会ったりしたものだから、余計に仲が深まって行ったのだ。

 あれは、夕方の買物帰りの時だった。仕事が半日で上がっていい日だったので、駅前のスーパーで買い物をし、ついでに喫茶店で、少し遅い昼食を摂ろうかと思って歩いていた時のことだった。

 駅前のスクランブル交差点で、声を掛けてきたのが、優子だった。

 良枝は、いつも歩いている時は、何かを考えているせいか、ボーっと俯き加減で歩いていることが多かった。

 声を掛けられても気づかないことがあるくらいだったが、その日は、しっかりと

「良枝さん」

 と、名前を呼ぶ声にドキッとして顔を上げたのだ。

 聞き覚えのある少し高い声、懐かしさを感じるほど、ずっと聞いていなかったような錯覚を感じるほど新鮮だった。だが、声を聞いて顔を上げた瞬間、相手が誰かを確認する前に、いつも聞いている声だということを思い出し、顔を見るまでもなくそれが優子であることが分かったのだ。

「優子さんじゃないですか」

「どうしたの? 今日お仕事は?」

「ええ、半日だけだったんですよ。優子さんは?」

「今日はお休みよ」

 と言われてハッとした。そういえば火曜日だった。美容室の定休日ではないか。

 それにしても、お互いに休みが合うことなどないと思っていただけに、しかも、こんなに人通りの多い交差点で、よく見つけたものだ。偶然が重なったとしか思えない再会に、二人は新鮮な気持ちを新たにしていた。

「今からどちらに?」

「ええ、どこかに行く予定もなく、スーパーにでも行ってみようかと思ったんですが、どうですか? 今からお時間があるなら、少しコーヒーでも飲みながら、女同士でお話しませんか?」

 と、言われた。

「女同士」

 という言葉が少し気になったが、

「いいですよ。ちょうど、私も遅い昼食をしようと思っていたところなんです。ところで優子さんは昼食は?」

「いえ、まだなんです。時間的にも中途半端だったので、いらないかなとも思っていたんですが、せっかくお会いしたんだから、私も食べようかしら?」

「そうしてください。一緒に昼下がりの遅いランチタイムというのも、いいものですよね」

 優子はさすがに美容師をやっているだけに、店はたくさん知っていた。中には自分のお客さんが勤めているというお店もあったり、お客さんからの口コミも結構あって、話だけ聞いていて、いずれは行ってみたいと思っている店も多いようだ。

 その中から一つ、パスタと紅茶のおいしいお店を紹介された。

「私も行ったことなかったんですが、次に行く機会がある時は、このお店って決めていたところがあるんです。ご一緒しませんか?」

「ええ、ぜひ」

 話を聞いてみると、良枝も一度雑誌で紹介されているのを見て。一度行ってみたいと思っていた店だった。雑誌には店の雰囲気、料理の画像、メニューの紹介、値段などいろいろ載っていた。

「いつになく、楽しみですわ」

「優子さんなら、いろいろお誘いがあるんじゃないですか?」

「そんなことはないですよ。お誘いされても、なかなかご一緒できるタイミングもありませんしね。それに私は気に入ったお店には一人で行くことが多いですから」

「今日は特別なんですか?」

「いえ、良枝さんとは以前からご一緒してみたいと思っていたんですよ。一緒にお話しながら食事をしたら、さぞかしおいしいだろうなって気がしてですね。他の人だと会話に集中すれば、食事の味が分からなくなりそうだって思うんですけども、良枝さんとでしたら、食事を会話と同時に楽しめる気がしたんです。それだけ気持ちに余裕が持てそうな気がするんですよ」

 と言ってくれた。

「ありがとうございます。ちょっと買い被りすぎかも知れませんよ」

「いえいえ、ご謙遜を。私は謙遜する人って、あんまり信じる方じゃなかったんですが、良枝さんは特別なんですよ。嫌みがないからなのか、それとも私が言いたいことを、良枝さんは分かってくれて、その上で話をしてくれているように思えるんですよ。相性がいい証拠なのかも知れないですね」

 相性のよさは、美容室での会話から感じていた。優子も同じように感じてくれているようなのが嬉しい。

 優子もこの街に引っ越してきてから、友達がいないのは寂しかった。前に住んでいた街とさほど遠いわけではないが、どうしても電車に乗っての移動となると、縁遠くなってしまう。電車の待ち合わせ時間などを考えると、それだけで億劫になってしまうのは、主婦になった証拠だろうか。

 この街で初めてできた友達が優子だった。新婚生活で初めてできた友達だということも言える。そういう知り合いは大切にしたい。何かと心細い中で、オアシスを見つけたようなものだからだ。

 食事をしながら優子の話を聞いてみると、どうやら優子には結婚の話が持ち上がっているという。

「ええ、オーナーの知り合いの人らしいんだけど、会うだけ会ってみれば? って言われているの」

 優子の心配も分からなくはない。

「会うだけ会ってみれば?」

 と言われても、会うだけですめばいいと思っているのだ。何しろ勤め先のオーナーの誘いである。会社で言えば、上司、さらには社長からのたっての願い、断ることができるかどうかを考えると、憂鬱になるのも仕方がないことだ。

 もし、優子の立場なら、自分も悩むことだろう。だが、会わなければいけない状況にはあるようだ。

「とにかく気持ちを大きくもつこと。あまり神経質になる必要もないと思うわよ。相手を見る目が曇ってしまっては、それが一番の問題なんですからね。まずは、相手の欠点を見つけるのではなく、いいところを探してみるのが一番だと思うわよ」

「はい、写真を見る限りでは、誠実そうな感じの人なんですけどね」

「会ってみないと分からないと思うし、まずは、会う前からそんなに神経質になっていては神経が持たないわよ。しっかりするということは、気持ちに余裕を持つのと同じ意味なんですからね」

 とまるでお姉さんのような言い方になってしまったことにしばらくして気が付いた。自分がどれだけ真剣な顔で説得しようとしていたか、恥かしさがこみ上げてきた。きっと次第に顔が真っ赤になってきたことだろう。

「神経質になってムキになっていたのは私の方だったかも知れないわね」

 と言いながら、良枝は自分の結婚について思い出していた。

――こんなに人に言えるほど、真剣に考えていたかしら?

 そう思うとおかしくなってきたのだ。

「私も、そういえば、神経質にはなっていたけど、真剣に考えていたかどうかって言われるとよく分からないわ」

 というと、優子も何かに気が付いたようで、

「そうですね、神経質になりすぎると、却って考えなければいけないことが疎かになってしまうかも知れないですね。良枝さんのいうように、気持ちに余裕がないといけないのかも知れないわ」

 と、自分で納得しながら、良枝に答えていた。

「じゃあ、会ってみるのね?」

「ええ、会うだけはやっぱり会わないとですね。その上で、自分の思っていることをまわりの人に言うようにします。実際に今誰かを好きだと言うわけでもありませんから、せっかくのお誘い。私なりに楽しんでみます」

「そうよ、その通りだわ。その時を楽しむことができれば、本当にいい人なら結婚すればいいし、その時に、お見合いの経験が生きてくるかも知れないわね。勧めてくれる人だって、あなたに合うと思っているから勧めてくれているのよ」

 どこまでが本心か分からないと思いながら、せっかくその気になった優子を励ましてあげるのが、良枝の仕事だと思ったのだ。

 良枝が結婚を決意したのも、実は友達の助言からだった。

「そんなに悩んだって仕方ないって。あんたは、考えすぎるのがたまに傷なのよ」

「どういうこと?」

「人には、悩まないといけない人もいれば、悩むだけ損な人もいる。あなたの場合は考えすぎるところがあるのよ。考えすぎると、決していい方には行かないでしょう? 多分、次第に同じところをグルグル回っているって思ってこない?」

「ええ、その通りなの」

「堂々巡りを繰り返しているということは、それだけ同じことを何度も考えているということでしょう? 自分でも深く考えているって思っているのよね。でも実際には最初に深く考えているので、それ以上考えるのって難しいのよね。それをまた深く考えようとすると、今度はロクなことを考えないようになる。そうなると、いわゆる泥沼というやつで、結局出てこない答えを勝手に探してしまうことになるのよ。だから、考えるだけ無駄だって、私は言いたいの」

 言っていることは、結構厳しいことを話しているようだが、気持ちは分かる気がする。逆にきついことであっても、ズバリ言ってくれる方がいい時もある。それで目からウロコが落ちることもあるくらいで、その時の友達の言葉は、まさにその通りだった。

 良枝にはそこまでハッキリという勇気はないが、人を説得するというのが、どれほど難しいかということを思い知らされた。それだけにやりがいはあり、友達を作っておいてよかったと思えるのだった。

 良枝は優子との話に夢中になっていて、時間が経つのを忘れていた。同じ集中している時でも、自分が人を説得している時は、時間はあっという間に過ぎている。

「まるでシナリオを書いている時のようだわ」

 シナリオを書いている時も、人を説得する時も、自分の世界に入り込んでいる。それが時間を感じさせない一番の理由になるのだ。

 優子と知り合えたことが、良枝にとって、この街に来て一番いいことだった。確かに新婚生活を始めたこの街なので、新婚生活が一番であるが、それをさらに高めるという意味でも、優子の存在はありがたい。

「まるで生活の中に一滴のエッセンスが垂らされた気分だわ」

 と、目を瞑ってうっとりして香水を嗅いでいるかのような気分であった。

 優子のような女の子のことを、以前シナリオで書いたことがあったのを思い出した。

「どこかで会ったことがあるような気がする」

 と思ったのは、会ったのではなく、

「自分で作った存在の人」

 だったからだ。

 優子のように自分を前面に出すオーラを持っていながら、どこか自分に自信がないという表から見ると、不安定に見えて、何とかしてあげたいような存在。

「どこかで実際にそんな感じの人を知っていたような気がする」

 と、思ってハッとした。

 男と女の違いがあるが、雰囲気は茂に感じたものだった。自分を前面に出すオーラがあることなど、本人には分からなかったが、自分に自信を持てないところは、人に頼りたいと思うところが大きい。しかもたくさんの人ではなく、自分が意識できる唯一の人、本当は茂の相手が自分であればよかったのだが、タイミングが悪かったのか、押しの強いオンナに取られてしまった。

 優子に対してはそんな思いはしたくない。もし、結婚したとしても、親友である自分の方が、結婚相手よりも存在としては大きいはずだと思いたいのだった。

「優子にとっての最高の相手は良枝だ」

 ということは、二人の間だけで分かっていればいい、そんなことを思っているうちに、茂が新婚で隣に引っ越してくることになるなど、本当に皮肉なことであった。

「こんなことってあるんだわ」

 良枝は運命の悪戯に対して、苦笑いをするしかなかったが、それも優子という存在がいるからで、そうでなければ、どんな気持ちになっていたか、想像しただけでも怖い気がした。

 その頃には優子も結婚の意志を固めていた。会った人はいい人だったらしく、

「結婚するなら、気が変わらないうちに」

 と、その気になっているのは、相手よりも優子の方だと思えるのだった。

「結婚なんて、本当に縁とタイミングと勢いなのかも知れないわね」

 良枝が感じていることを、優子も口にした。結婚を考えた人は皆、同じことを一度は考えるものなのだろうか?

 優子の結婚相手について話を聞いたことはなかった。もし、話したいのであれば、自分から話すはずだからである。話さないということは、話したくないということに思えるのは、優子に対してだけだった。

 話したくないからといって、秘密にしておきたいということであったり、知られたくないということではない。もし聞いたとしても、

「私もまだよく分からないの」

 という答えが返ってくるに決まっていると思ったからである。

 それは単純な発想で、良枝と優子はお互いに単純な発想で繋がっていて、だからこそ、お互いのことがよく分かるのだと思っている。まるで言葉を発しなくても、空気の振動で相手の考えていることが分かるのではないかと思うほど、お互いの距離に近さを感じていた。

 だが、優子が結婚してから、しばらくは音信不通状態だった。知り合ってから結婚までがあまりにも早かったので、お互いに気を遣う毎日なのだろうと思ったからだ。

 さすがに結婚までの交際期間が長かった良枝には、分からないところだった。優子が結婚を決めるまでがあまりにも早かったので、いくら結婚は本人次第だとは言え、良枝の中に考え深いものが残ったかのようだった。

「結婚って、何なんだろう?」

 優子を見ていて、そう感じた。しかも隣の茂も見合いだという。交際期間が長すぎるのも、

「長すぎた春にならないようにしないとな」

 と、知り合いから忠告されたので、あまりいいことではないのだろうが、ほとんどお互いを知らずに結婚することに新鮮さを感じなくもないが、だからといって賛成できるものではない。良枝の中では、到底理解できる範疇ではないのだった。

 優子が結婚してから、お互いに連絡を取らなかったが、忘れていたわけではない、久しぶりにと連絡を取ってきたのは、優子の方だった。

「久しぶりにお食事にでも行きませんか?」

 優子は結婚してすぐに、馴染みの美容室を辞めていた。どうやら、坂口が専業主婦を望んだらしい。

 優子も別に働くことにこだわっていたわけではないので、専業主婦でもいいと思っていた。店の人からは、

「もったいないわ」

 と言われたようだが、本人の意志なのだから、尊重するのが一番だった。新居は美容室の近くにあるので、いつでも手伝うことはできたが、今のところ、お呼びがかかることもないようだった。

 優子に呼び出された良枝は、

「どうしたの? 何か気になることでもあったの?」

「夫のことなんだけど」

 その時良枝は、まだ優子の旦那が坂口であることを知らなかった。

「私が専業主婦でいるようにって言ってくれてるんだけど、私はまだ働いてみたいのよね」

 店のオーナーの話とは少し違っていた。

 優子の方から、辞めると言い出したということだったが、優子の話では、辞めることを躊躇しているのか、悩んでいるようだった。夫のことだと言っているが、まわりの話と優子の話での食い違いは、まわりは優子の建前をそのまま話していて、本人は本音を話しているからに違いない。

「旦那さんがそう言っているのなら、その方がいいのかも知れないけど、そんなに悩むのなら、打ち明けてみれば?」

 優子の性格からすれば、思ったことは自分から言わなければ気が済まないと思っていたのに、相手が男だとすれば、事情も違ってくるのかも知れない。

 だが、優子の旦那が坂口だと知っていれば、そんな助言はしないだろう。坂口は頑固なところがあり、自分の意見がすべてだと思いこむところがある。そんな人に対して、打ち明けてみればなどという発想は危険なことぐらい。分かっているつもりだった。 

 坂口が自分の女房を他の人に紹介したいと思っているのは事実のようで、茂には会わせてみたいと思っているのも事実だった。さすがに良枝には後ろめたさがあるせいもあってそんなことを思うはずもない。

 良枝はどこか他人事だった。いくら親友とはいえ、すでに話の内容は、

「他の家庭の出来事」

 になってしまっているのだ。

 せっかく相談してくれているのに、という思いはあるのだが、他人の家の事情も分からないので迂闊なことは言えない。ただ、もし優子の旦那が坂口だと知っていたとすれば、何かアドバイスができたかも知れない。

 吾郎は、良枝が働くことに何ら文句をつけることはなかった。収入が増えるのだから、それだけ楽だという意識がお互いにあって、別に家を守るなどという古風な考えがあるわけでもないので、文句を言わないのだろう。子供ができたなどという理由ができれば別だが、それ以外で吾郎から、働くことに関して何かを言われることはないはずだ。

 良枝が今まで知っている男性の中では、

「坂口ならあり得るかも」

 という気持ちも心の中にあった。

 彼には人を束縛したがるところがあり、

「結婚したら、奥さんは大変だ」

 という気持ちもあった。良枝が坂口に対して恋心を抱かなかった理由の一つには、それがあったのだ。

 優子が良枝と知り合いなどということを、坂口も茂もまったく知らなかった。茂はともかく、坂口は良枝と会ってみたいという気持ちを抱いていたが、茂は坂口に隣の主婦が良枝だということを話していない。

 話せば良枝に会ってみたいというだろう。そうなると良枝夫婦はおろか、自分たち夫婦にもただならぬことが起こるような嫌な予感がしたのだった。


 坂口のところに訃報が飛び込んできたのは、秋も深まった十一月のことだった。まだ、結婚前だった坂口は、その内容に愕然としたのだが、飯田が死んだという知らせだった。

 さっそく、茂に連絡すると、茂のところにも連絡が行っていたらしく、坂口に連絡を入れるつもりだったと言っている。

 だが、実際には、坂口に連絡を取るつもりはなかった。自分から連絡しなくても、坂口のところにも誰かから連絡が入ると思ったのだ。万が一、連絡が入らなくても、教えるつもりはなかった。友達がいがないと言われるかも知れないが、飯田とのことを今さら坂口に連絡するつもりはなかったのだ。

 飯田が坂口の上に立っているような立場であることは分かっていた。だから坂口に今さら飯田を思い出させる必要はないという気持ちもあったが、それだけではない。三人の関係は、そんな単純な関係ではなかったという思いが茂にはあった。

 学生時代から三すくみのように感じていて、どれか一辺が崩れれば、どうなるか分からないと思っていたからだ。三人がそれぞれの立場で存在してこその安定だったはずだ。それが卒業してから何年も経っているのに、一辺が崩れれば安定が崩れるというのは変わらないと思っているのだ。

「飯田という一変が壊れた」

 それだけで不安感がいっぱいになってしまった茂は、それを自分の口から坂口に言うのが怖かったのだ。

 坂口も三すくみの関係を知っていた。知っていて、飯田から逃れようという意識がなかったのは、茂と同じように、安定感を重要だと思っていたからだろう。

 坂口が連絡してきたのは、その思いを一人で抱えておくのが怖かったからに違いない。学生時代、坂口にいいようにあしらわれた茂だが、茂の気持ちは一番分かっているつもりだった。

 逆に飯田の気持ちはよく分からなかった。何を考えているのか、茂のことをどう思っているのか、さらには、自分本人のことをどう思っているのかということも、まったく分からなかった。

 想像することはできたが、その信憑性を考えると、まったく自信がなかった。飯田という男が無表情に見えたからである。

 そういえば、坂口から、

「お前は本当にポーカーフェイスだな。もう少し表情を作ればいいのに」

 と言われたことがあった。

 何を言っているのか分からなかったが、飯田のことが分からない自分と同じ思いを抱いているということに気付くと、

「なるほど」

 と感じるようになっていた。

 坂口という男を考えると、飯田が分かってくるように思えてきた。だが、今その飯田はこの世にいない。そのことが、茂にとてつもない不安となって襲ってきたのだった。

 坂口にとってはどうだろう? そこまでの不安はないとしても、やはり三すくみの一角が崩れたことが不安に繋がることが分かってきて、まずは茂にその思いを伝えることが一番だと考えたに違いない。

 坂口の気持ちはよく分かる。だが、それ以上に今の茂は、まわりの人と関わるのが怖かった。躁鬱症の鬱状態がやってきたのだろうが、鬱状態がずっと続くと思ってもいないはずだ。

 今の状態で坂口には会いたくない。一番会いたくない人物の一人だと言っても過言ではないだろう。

 坂口が連絡してきた時は、かなり戸惑っていた。やはり、親友の一人が死んだというだけのものではなく、電話口での声を聞いただけで怯えも感じるほどだった。

「おい、飯田が死んだの、知ってるか?」

 挨拶もそこそこに本題に入ってきた。

「ああ、知ってるよ」

「どうして、知らせてくれなかったんだ」

 と、案の定坂口は責めたてた。それは分かっていたことだけに、

「君にも連絡が行ってると思ってね」

 というと、

「どうして、そんなに冷静でいられるんだ? 親友が死んだんだぞ」

 慌てていることを正当化しようとしているのが、見え見えだった。

「いや、僕だってビックリしてるさ」

 しばらく沈黙があって、

「ああ、そうだよな」

 と、妙に納得した。冷静な茂の声を聞いて冷静さを取り戻したのだろう。そのあとは、形式的な話になった。茂はいまだに坂口が飯田の呪縛に捉われていることがよく分かった。坂口としては。その呪縛を解く前に相手がこの世から消えてしまったのである。不安に陥るのは、茂と違う意味で、かなり大きなものであろう。

 ひょっとすると、茂よりも大きいかも知れない。いまだに呪縛が消えないのだから。

 坂口に同情してしまう気分にもなってきた。ただ、自分も鬱状態、どうすることもできない。いずれ皆気持ちが明らかになることもあるだろうが、まずは飯田の冥福を祈るしかなかった。

 飯田の死が与える影響についていろいろ考えてみたが、想像はつかなかった。それほど三人の関係が深かったということだが、本当にそれだけだろうか。

 飯田の葬儀が終わると、少し二人とも精神的に落ち着いてきた。数か月もすれば元に戻るだろうと思っていたが、それは間違いではなかったようだ。それも後から思えばのことであるが……。

 飯田という男は、学生時代から、人を驚かせることが好きだった。時々フラッといなくなることもあり、誰も知らないので心配になってみると、

「旅行に行ってただけさ」

 と言ってとぼけているが、笑っているわけではない。笑顔をしていても、それは含み笑いでしかなく、何を考えているか分からないところがあった。

 そんな飯田を最初から危険な存在だと思っていたのが坂口だった。坂口は神出鬼没で、何をするか分からない飯田のことを毛嫌いしながら、怯えていたのだ。その思いが、

「やつには頭が上がらない」

 というイメージを作り上げたのだが、なぜか飯田は茂に対して同じ思いを抱いていたのだ。

「君こそ、僕は何を考えているか分からないと思っているんだ」

 飯田の話を聞いてみると、いつも坂口に怯えているように見えているが、実際には、怯えているわけではなく、何かを企んでいるように見えるという。

「そんなことはないさ」

 というと、

「君の態度は他の人と坂口に対しては全く違う。怯えているからなのかと思ったけど、避けているわけではないんだよね。坂口を遠ざけるのが却って君にとっては不安に思えるようだ。だから、俺は君のような何を考えているか掴めないところのある人間には一目置いてしまうのさ」

 頭が上がらないというより、一目置いているという。頭が上がらないのとでは違っているのだ。

 茂は、飯田が何を考えているか、手に取るように分かっていた。理屈ではかなわないが、考えていることが分かるだけに、話をする分には、対等な気がしたのだ。

 だが、飯田は明らかに茂に対しては適わないところがあると思っている。三すくみの関係を保とうという意識を誰が一番持っているかと言えば、飯田だっただろう。

 三すくみの関係があるからこそ、自分の精神状態を平常に保つことができるというのは、三人が三人とも感じていたことだった。もちろん、その度合いには個人差があり、一番強いのが飯田で、その次は坂口、茂が一番低いようだ。だが、意識はそのまったく逆、冷静に見えているのは、茂であった。

 人を驚かせるのが好きなのは、子供のすること。飯田は、いつまでも少年の心を忘れないようにしていたようだが、そのことを一番理解できないのは、坂口であっただろう。

 ただ、今回死んでしまった飯田を考えると、

「飯田らしいな」

 と、人を驚かせる究極の選択が、「死」だったとすると、それを一番に感じたのは茂だった。

 飯田は、学生時代、良枝が好きだった。そのことは誰にも話をしていなかったが、知っていたのは坂口だった。

「茂には言わない方がいいかも知れないな」

 好きなくせに、何も言えないでいた飯田に対し、坂口は助言した。

 飯田は坂口の助言を受け入れた。このことに関してだけは、対等な立場での意見だっただろう。坂口も一時期、良枝を好きになったことがあったが、自分とは合わないと思ったことで、すぐに諦めたのだ。

 飯田はすぐに深読みするところがあった。深読みして、自分の読みが正しいかどうか、確かめてみないと我慢できない性格だった。

 茂の場合は、深く考えることがあっても、それを確かめようとまでは考えない。行動してしまって、間違った方向に考えが進んでしまうことを恐れたのだ。

 坂口はというと、ちょうど二人の間くらいに位置していて、ある意味、彼が一番その他大勢、平均的な人に性格的なものは似ていたのかも知れない。後の二人は、それぞれ極端なところがあり、一直線の線で結ぶと、二人の間に挟まれている関係になってしまうようだ。

 深読みする飯田にとって、冷静に考えられないところは致命的だった。飯田を、

「危険な人物だ」

 と評していた坂口の目も、あながち間違っているわけではない。

 坂口の場合は、自分の意図した考えとは少し違ったことでも、理屈を考えれば間違っていないということが多い。考えすぎない性格で、それでいて自分にある程度の自信があることで、大きな間違いを起こすことがないのだろう。

 極端と極端を掛けあわせれば、案外まともになるのかも知れないと感じる坂口だった。その考えは坂口を見ている茂も飯田も、坂口が身を持って示してくれているということを実感しているのだった。

 危険な人物である飯田が死に、三すくみが崩れたことを、卒業してからのことなので、別に関係ないと思っているのは、実は坂口の方だった。最初は怯えから震えが来たりしていたが、今では関係のない人間と思っていることで、別に怖がる必要もないのだ。葬儀の厳粛な雰囲気の中で、一人だけ他の人たちと違う感覚を抱いているのだと思っていた坂口によって、飯田を思い出させるものがあるとすれば、学生時代、飯田が、

「旅行に行っていたんだ」

 と言って、フラリと現れた時のことだろう。

 あの時、飯田から、

「俺は良枝が好きなんだ」

 と聞かされた時、良枝のことで、あることないこと吹き込んだのは、坂口だった。ほとんどが大げさなことであり、まるで良枝が片っ端から男の子に手を付けて、嫌になったらすぐに手放すような性悪女であるかのごとく吹き込んだ。

 しかも淫乱で、

「相手は誰でもいいのさ」

 と、下品な発想まで吹き込んでしまったので、本来なら坂口は、誰の前にも姿を見せることができないほどのことをしたのに、まったく悪びれた様子はなかった。自分で、悪いことをしたという意識がないのだった。

 下品な発想は、坂口の中にも良枝に対して、大きな影響を及ぼす記憶になった。自分が良枝を見る目は、明らかに淫乱な女を見ている目だった。本当はそんなことを考えているわけではないはずなのに、人に思いこませるためについたウソが、自分の中に意識として定着させるのだった。

「因果応報とはまさしくこのことなんだな」

 結局、自分に降りかかってくる。

「人を呪わば、穴二つ」

 というではないか。人に対しては計算高く見ることができるくせに、自分には変な自己暗示を掛けてしまう。

「こいつは要領が悪い」

 と言われてしまうのは、そんな外に対してのことと内に対してのことへのアンバランスさが引き起こしたものなのかも知れない。そういう意味では、坂口にも内と外とで明らかな二面性があるのだろう。

 茂は、そんな坂口をある程度分かった上で、坂口には頭が上がらない。

「ヘビに睨まれたカエル」

 のごとくではあるが、それ以上に、分かってしまったことが自分への呪縛になってしまったのではないかと思うのだった。

 三すくみになっている状態で、誰が三すくみの何に当たるのかということを、皆一度は考えたことがあるようだ。最初に考えるのを止めたのは、飯田だった。

「考えたってしょうがないか」

 という思いと、自分だったら、ナメクジだろうなという思いがあったからだ。それは自分がナメクジだという発想からではない。坂口にヘビの印象を感じたからだ。

 それは茂も同じことで、自分が明らかにヘビに睨まれるカエルだと思ったからである。そして一番最後まで、さらに今でも考え続けているのが茂である、明らかに坂口がヘビだと思っているくせに、さらにまだ考えようとする。三すくみに関して一番低い位置で見ているから、余計に感じることなのかも知れない。

 坂口は中間であるが、本当は飯田の方に考えは近い。それなのに、飯田よりも考えが深いのは、計算高い性格から来ているものであった。

「何が幸いするか分からない」

 という思いが強いからで、逆に

「何が災いするか分からない」

 という意識は浅い。この意識が三人の中で一番強いのは、茂だった。だが、本当は一番意識が強いのは飯田だと思っているのが茂だった。それは飯田が死んだ今でも変わらない。いや、死んでしまったからこそ、永遠にその思いが変わることはないだろうと思っている。死ぬということは、まわりの人間に、永遠の意識を植え付けることになるのではないだろうか。

 茂は飯田が死んだことで、永遠に何かが分からなくなってしまったような気がして、それが気持ち悪かった。

 学生時代から、飯田が何かを隠しているように思えてならなかったのは、茂だけではなく、坂口も一緒だった。学生時代に、

「あいつの秘密主義には困ったものだ」

 と、坂口が言っていたことから、坂口も飯田が何かを隠しているという気がしていたのだと思ったものだ。

 三人の中で秘密が多かったのは、本当は茂だった。秘密というよりも、自分の考えていることをあまり表に出さなかったという意味であるが、話さなかったからと言って、秘密だったわけではない。他の二人には分かっていたのだ。しかし、茂の根本的なところは二人にも分からなかった。三人の中で一番分かりやすそうで、一番分かりにくいのが、茂だったからだ。

 良枝の存在が微妙に影響していた。良枝を好きだったのは茂だけではなく、飯田もであった。そのことを知っていたのは坂口だけで、茂は気付いていなかった。

「話をしなかっただけで、秘密にしていたわけではない」

 もし、茂が訊ねれば、飯田はそう答えたに違いない。もう、答えることはできないのであるが……。


 吾郎は由美と一緒に帰宅してから、良枝の様子がどこかおかしいと思うようになり、吾郎は気になって仕方がなくなっていた。最初の数日はそれほどでもなかったのだが、一週間もすれば良枝の様子に違和感を感じ、次第に夫婦生活がぎこちなくなってくるのを感じた。

 それまで喧嘩をしても、お互いに言いたいことを言い合って、どんなに長くてもわだかまりは二、三日で解消していたのだ。それが今回は長いだけではなく、次第に思いが深くなってくるような気がして、どうしていいか分からない状態だった。

「俺が一人で気にしすぎているのかな?」

 とも思ったが、あまり楽観的に考えてしまって、取り返しがつかないことになるのが、一番怖かったのだ。

 吾郎は、自分でいうのも何だが、学生時代から、女性に好かれるタイプだと思っていた。

 好かれるというのは、モテるというよりも、好感を持たれると言った方がいいかも知れない。範囲としては広いであろう。いい加減なところも、痘痕にエクボ。範囲が広いというのは、そういう意味であった。

 ただ、女性の誘惑に引っかかりやすいところがあった。しかも、引っかかったとしてもそれは自分が悪いのではないという意識があるだけに、始末に悪い。そのくせ女性から好感を持たれるだけに、自分の判断で、女性を選ぶことが苦手なタイプだと言えよう。

「もし、良枝と知り合っていなかったら、どうなっていただろう?」

 吾郎は時々考える。

 女性は寄ってくるが、モテているわけではない。モテていると思って態度に出すと、男性からだけではなく、女性からも嫌われてしまう。女性から好感を持たれるということはいい面もあるが、逆に身動きが取れないというマイナス面もある。そう思えば、女性に対しては、幸運と不幸が薄い皮のようなもので、背中合わせになっているのではないだろうか。

 寄ってくる女性を自分で取捨選択しなければいけないのに、自分ではできないと思っている。

「せっかく寄って来てくれているのに」

 この思いは、ゴミを捨てることのできない人間の心理に似ているかも知れない。

「後になって後悔したくない」

 という感覚が一番強く、特に相手は女性、感情の起伏の激しさや、気持ちの切り替わりの早さには、ついていけないところがあった。

 吾郎は女性の誘いを断ることができない。それでいて、一緒にいて、急に怖くなることがある。

――この人は俺を利用しようとしているんじゃないだろうか?

 何をどう利用しようとしているのか、すぐに分かるものではないが、自分にモテているという感覚がないため、女性から誘いの言葉を掛けられて断ってしまうと、

「相手に悪い」

 と思ってしまうのだ。

 せっかく誘ってくれたという思いが強いのは、好感を持たれるということが、本当に自分が欲しているものと違っているという考えがあるからなのかも知れない。

 その思いが自分の中での「甘え」になっていることを、吾郎はずっと分かっていなかった。

 吾郎は良枝とほとんど喧嘩したことはなかったが、知り合った頃には良枝から嫌われていた。

――この人は一体何を考えているんだろう?

 良枝から見て、行動パターンが読めない。その頃の吾郎は、女性から好感を持たれるタイプではなかった。それでも、どこか女性から見て気になる何かがオーラとして発散されていたのである。

 他の女性はそれを深く考えることはなかったが、良枝は気になっていた。何を考えているか分からないだけに、知りたいと思うのだ。

 良枝には以前からそういうところがあった。気になる人のことは徹底して理解しないと気が済まない。だが、理解してしまって、やはり何を考えているか分からない相手であれば、その時に、疲れがどっと出るのだった。

 良枝にとって気になる人のほとんどは、疲れさせられる相手で、

「また無駄なことをしちゃったわ」

 と思うことばかりだったのだが、吾郎の場合は違った。

 よく見ていると、気を遣っていないようで、人に気を遣っている。おそらく、人に気を遣うこと、あるいは人から気を遣われることを毛嫌いしている人なのだろう。

 たまにそういう人がいるのは、良枝も知っていた。だが、実際に身近にそんな人がいたことはなかったし、いるなどと考えたこともなかった。

 吾郎は、そんな中でお互いに気さくな感じがありがたいと思っている人だったのだ。

 後になって話をした時に、

「喫茶店なんかで、おばさんたちの会話を聞いていると、腹が立ってくることがあってね」

「どういう時?」

「レジでお金を払う時のことなんだけど、誰かが代表で払えばいいものを、皆遠慮し合って、「私が払うわよ」なんて、それぞれが言うものだから、会話が行ったり来たりするんだ。後ろに並んでいる人がいるのにだよ。最初から決めておけば、レジで問答することなんかないのに、自分たちだけの世界を作ってしまって、他の人のことなんてどうでもいいんだ。自分たちで気を遣い合っているだけで、まわりは関係ないと思っている人ほど、気を遣ってもらわないと、たいがいに文句をいうもんだよね。腹が立つというのは、そういう時のことさ」

 確かに、自分たちの世界だけを作って気を遣い合っているのを見せつけているかのように見えるのは、醜さこの上ない。良枝もそんな場面に出くわせば、吐き気を催すほど、胸がムカムカしてくるだろうと思っている。

「だから、俺は人に気を遣うのが嫌だし、気を遣っていると思われるのも心外なんだ。気を遣うという言葉を穿き違えているやつが多すぎるんだよな」

 と言っていた。

 まさしくその通りで、切々と訴えられると、吾郎の意見が正論に思えてくる。気を遣っていながら、気を遣っているように見せない人が、一番「大人」なのだろうと良枝も感じていた。

 良枝が最初に吾郎を嫌ったのは、話をしなければ、彼の本当の気持ちが分からないと思ったからだ。それなのに、なかなか吾郎から話しかけてくることはなかった。吾郎は無口なところがあり、社交的な良枝には、違う世界の人間に、最初は見えたのだった。

 話をしてみれば、結構理路整然とした話し方をする。くどくどした説明ではなく、理論に基づいてはいたが、しつこいわけでもない。

 何よりも、

「相手に分かってもらおう」

 という考えが一番大きかった。

 最初の頃の吾郎は、人と話をするのが億劫なタイプだったようだ。話ができる相手がそばにいなかったからなのだろうが、最初に話しやすい相手として目の前に現れたのが、良枝だったのだろう。

 良枝は吾郎の話をするのが億劫な態度を見て、

――この人は、人と話をすることに対して、何か心の中に鬱積したものがあるのかも知れないわ――

 と感じていた。

 その予想は大方当たっていたのだが、女性に対しての不信感であるということまでは分からなかった。

 子供の頃に感じた思いはトラウマとなって残っていたようだ。ハッキリと聞いたわけではないが、付き合い始めてから、

「俺のことは少しでも分かっていてほしい」

 と言って話してくれたのが、子供の頃に、大人の女性から悪戯された経験だった。

 いたいけな子供に悪戯したいという女性は、少ないだろうが存在するようだ。もちろん、良枝にはそんな心境は分からない。

「悪戯したくなる少年がいるから、悪戯するのさ」

 と、開き直った女はそう言うかも知れない。だが、悪戯された子供はどうなる? 成長過程でまだ精神が固まっていない子供に取り返しのつかないトラウマを植え付けてしまうかも知れないのだ。

 どんなことをされたのかは、本人のトラウマを逆撫ですることになるので、余計なことを聞くわけにはいかない。だが、ある程度は想像がつく。怖くて恐ろしくて、涙も出なかったのではないかと思う。もし、自分に弟がいて、そんな目に遭ったとしたら、復讐だって企てたかも知れないと思うほどだった。

 良枝にとって吾郎は、弟のように感じることがある。決して兄ではない。慕われることはあっても、慕うことはない。それでも、しっかりしているところがあるので、男性を立てることは忘れない。

 吾郎を苛めたくなる女性の心理は、好感を持たれる感覚の反動なのかも知れない、薄い皮が背中合わせになっている感覚は誰もが持っているものなのだろう。

 良枝も、どこか歯車が狂っていれば、吾郎を苛めたくなるという本性を持っていたらどうしようと思った。理性があるから抑えているだけで、一歩間違うと、人を苛めたくなる性格を秘めているかも知れないと思うと、自分でも恐ろしくなった。

 誰でも子供の頃に、苛められたり、辱めを受けたり、恥かしいところを見られたりした経験があるものだと良枝は思っていた。もちろん、程度の差はあるだろうし、その人が深く感じていなければ、すでに忘れてしまっている人もいるだろう。

 良枝は自分では忘れてしまっていたが、悪戯をされた経験があった。悪戯をした方は覚えていてもされた方は覚えていない。この頃から良枝は、

「嫌なことは忘れてしまおう」

 という性格になっていた。

 いろいろなことを深く考えるのは、嫌なことを忘れてしまおうとするからで、それは時間が解決してくれるという感覚に似ている。

 子供の頃の記憶の中の苛められた記憶は、ある日突然に思い出す。夢に見ることも多く、何か共通性があるのかも知れないと考えてみたが、共通性らしいものは見当たらない。いきなり思い出すのであって、特に何かを外部からの影響が関係していたりするわけではない。

 夢の中の記憶はかなり鮮明だった。まるで昨日のことのように思い出す。

 ただ、夢の中に出てきた少女は自分ではない。自分の子供の頃の顔をした女の子が怯えている。二十歳くらいの男が二人で、女の子を押し入れに押し込めて、女の子の身体を触っている。

 女の子はまだ十歳にもなっていない。何をされるかなど分かるはずもなく、ただ、目の前の男二人から、

「殺さないで」

 と、苛められることよりも、殺されるのではないかという恐怖の方が圧倒的に強かったのだ。

「こいつ、どこを見てるんだ?」

 女の子の視線は男二人を見ていない。怖いから視線を逸らしているわけではなく、明らかに何かを意識して、意識した方を見ていたのだ。男たちは、その視線の異様さに気が付いて、二人で女の子の視線の異様さに、少し怯えている。

 男たちもそれだけ視線に怯えを感じている。自分たちが悪いことをしているという意識がある証拠であろう。二人の男は女の子が何を考えていて、何を見ているかなど、最初は意識していなかった。男二人で快感を分け合えばいいというくらいにしか感じていなかっただろうかである。

 女の子は男たちの顔をまともに見ていない。きっと警察に訊ねられても答えることはできないだろう。

 女の子の視線が捉えているものは、夢を見ている自分だった。その顔には不思議な感覚が漲っている。まるで幽霊を見ているかのような感覚で、夢を見ている本人を知っているかのような感じだった。

 そう思った瞬間、良枝はその時のことを思い出した。

 虚空を見つめていたわけではなく、確かにそこには誰かの顔があった。その顔には見覚えがあり、まるで鏡を見ているかのようだった。その顔は自分であり、そう感じた瞬間、意識が朦朧としてきた。夢を見ていて、どんな夢が一番怖いかといえば、夢の中で自分の顔を感じた時である。

「これは夢なんだ」

 と感じた瞬間、そこにある顔が自分であると分かり、それが恐ろしかったのだ。

 男たちの顔を見ると、怖いという感じがしなかったのを思い出した。二人はこちらから見て、逆光になっていて顔がハッキリ分からなかったのであるが、それよりも、自分の顔と同じ顔が、恥かしい姿の自分を見ているのが怖かった。その表情はまったくの無表情。まるで氷のようだった。

 少し微笑んでいるように見えたのは錯覚だろうか。いや、ほとんど表情は変わっていなかったはずだ。微笑んだように見えたのは、自分の顔でなく、もっと大人の女性に少しだけ変わっていたように感じたその時だった。その顔はまったく知らない顔で、どうしてこっちを見て微笑んでいるのか、訳が分からなかった。

 その女の人は、自分を見て、驚いた様子はなかった。

――それにしても、二人の男たちは、お姉さんの存在にどうして気付かないのだろう?

 という思いがあった。

 薄暗くカビの生えたような、今にも壊れそうな小屋の中、連れ込まれた時の恐怖が次第に余裕に変わってくると、まわりが少しずつ見えてきた。

 どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのかという理不尽な思いが、恥かしさを上回った時、二人の男たちは、急にあたふたと慌て始めた。

 その様子から、すぐに自分が解放されることが分かったのだが、結局、一人解き放たれ、事件にもなっていないことから、自分が警察に行っていればどうなったかということも想像がつかない。

「これでよかったんだ」

 家族も誰も知らないこのことは、死ぬまで自分だけの秘密にしていようと、心に深く刻んだことが、すぐに記憶から消すことができた。完全に消せない部分はトラウマとして残ってしまったが、それでも今まで、大きな影響もなく過ごしてこれたのだ。

 だが、最初の一年ほどは苦しかった。誰にも知られないようにすることがどれほど苦しいことなのか、思い知らされた。一年経ってしまうと、自分の中で勝手に時効だと思うようになり、安心したのだった。

 時効などという言葉も知らなかった少女時代。大人の男性が怖くて仕方がなかった。特に優しく微笑まれると、全身に痺れが走った。それでも相手に悟られなかったのは何故なのか、今でも不思議に思えるところだった。

 良枝は、吾郎にも男と女の違いこそあれ、似たような経験を幼児時代にしているのを感じた時、

「この人から、離れられない」

 と思ったのだ。

 最初から離れる気がしなかったと思っていたが、経験の共有が二人を結びつけたのかも知れない。異常な経験ではあったが、お互いにトラウマを共有することで、傷の舐めないから、本能的に愛情を感じ取ったのかも知れない。

――愛情とはどこから来るのだろう?

 お互いに惹き合っている感覚もそうなのだろうが、何か共有できるものが一つでもあれば、それが愛情に結びつく。それこそが、

「本能の共有」

 だと言えないだろうか。

 良枝が感じているような感覚を吾郎が感じているとは思えない。そういう意味で、吾郎は弟であっても、兄ではない。少し頼りないところがあるが、それを支えていくのは良枝の役目だ。ただ、そのためにお互いに考えすぎてしまうところがあるように見えてしまうようだ。

 長すぎた春にならなかったのは、お互いに惹き合うところが根の深いところにあったからだろう。吾郎も最初の頃に比べて、お互いにトラウマを持ち合わせていることに気付いているようだし、きっと、彼なりに、

「本能の共有」

 を、感じているに違いないのだ。

 お互いに過去に嫌な思い出があると、隠したがるものだが、二人は隠そうとはしなかった。気持ちを打ち明けることで楽になるというよりも、共有という気持ちを強く持てるからだ。

 そう思うと、

「私が本当に好きな相手というのは、吾郎さんなんだろうか?」

 という思いに駆られることもあるが、

「恋愛と結婚は別だ」

 と言われるが、吾郎は恋愛相手ではなく、結婚相手にふさわしいのだろう。

 二人の子供の頃の話は、大学時代にすることはなかった。大学時代までが恋愛期間で、卒業してからが、婚約期間だったような気がする。婚約期間としては長すぎたが、吾郎の方に過去を気にするところがあったことから、結婚が遅くなったのだと、良枝は思っていた。

 当の本人である吾郎は、結婚が遅れた理由を、子供の頃のトラウマにあるとは思っていない。そこまで深刻な気持ちではなく、結婚が遅れたのは、まったく違ったところに理由があった。

 吾郎が意識していたのは、考えすぎる二人の性格のことだった。

 お互いに考え始めると、深みに嵌ってしまうところがある。

「果たして結婚相手としてはどうなのだろうか?」

 という思いが強かった。似たもの夫婦という言葉があるが、短所が似ているのはあまりいいことではないだろう。吾郎は少なくとも自分の考えすぎてしまう性格が嫌いだった。

 良枝も、あまりいい性格だとは思わなかったが、結婚の差し障りになるなど考えたことはなかった。

「短所は長所の裏返し」

 つまり背中合わせで、紙一重だとも言える。悪いところばかりではなく、良いところも潜んでいると思うと、楽天的すぎるよりもいいことは分かっているつもりだった。

 良枝にとって思い出したくない忌まわしい過去、本当なら思い出すはずもないと思っていた。記憶の封印はすでになされていて、高校に入学するくらいから、思い出すこともなかった。

 思い出したとしても一瞬で、すぐに封印された。それなのに、良枝は夢に見るまでに思い出してしまったのだ。

 それが、ここ数か月くらいのことで、何が原因なのか、自分ではさっぱり分からなかった。

「抑えていた気持ちがよみがえるには、きっと他にも抑えが利いていたはずなのだけど、何かの拍子に抑えが利かなくなって、そのために意識としてよみがえったんじゃないのかな? たとえば、誰か抑えている人がいて、その人がどこかに行ってしまったとか、死んでしまったとか……」

 吾郎に話すと、そんな答えが返ってきた。

 抑えていた人、それは一体誰なのだろう?

 逆も考えられるかも知れない。

 ひょっとして、実行犯の二人のうちのどちらかが、忌まわしい過去として忘れてしまいたいと思っていたのが、被害者に伝染し、いい方に効果を表していたのだが、加害者の一人が死んでしまっていたとしたら、せっかく抑えてくれていたものが切れてしまうこともあるだろう。

「逆も真なり」

 いつもこの考えでいるのが良枝である。そのために考えすぎる性格だと、自分でも思ってしまうのだった。

――誰かが死んだ?

 そういえば、数か月前に良枝は「虫の知らせ」を感じたような気がした。

 あれは、仕事がいつもより早く終わって、

「今日は何もないから、早退してもいいよ」

 と、珍しく上司に言われた日だった、普段なら、所長がいて目を光らせているのだが、その日は出張でいなかったので、お許しが出たのだ。

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」

 普段は少々の残業はまったく手当に結びつかない。こういう時に帳尻を合わせておかないと割に合わないだろう。

 帰りに買い物を済ませて、前から行ってみたいと思っていた喫茶店に寄った時のことだった。

 初めて寄ったはずなのに、前に見たことがある光景だと思った。完全に錯覚なのだが、何か原因があって、錯覚を起こさせたのだろうと思って、本を読みながらじっと考えていたが、

「なるほど」

 と、思わせるものがあった。

 部屋の奥に飾られている絵が、どこかで見たことのある光景に似ていたからだ。一か所が似ているだけで全部が似ているように感じるのも、心理的な錯覚としてはポピュラーなものなのかも知れない。

 そう思いながら部屋を見渡すと、次第に部屋が狭くなってくるのを感じた。

「錯覚ではない?」

 明らかに狭くなってくる。錯覚ではないとすれば、これは夢なのだ。

 夢だと思うと、今度は、さっきの絵が違うものに変わってしまっていた。今度の絵は、まったく見たことがないはずなのに、見ていると引き込まれそうになってきた。鄙びた小屋が一軒建っているだけで、人が住んでいる気配もない。

 次第に自分が子供の頃に返っていくのを感じた。

「ああ、あの時の」

 思い出したくない記憶の断片が、まるでメッキのように記憶の奥を剥がしていく。よく見るとそこには男が二人、中に入って行った。

「子供?」

 高校生か大学生だと思っていたが、子供だった。それもまだ低学年くらいだろうか。

 何か嫌な予感がする。

「逃げなさい」

 思わず心の中で叫んだ。中にいる女の子が危ないと思ったのだ。好奇心も手伝って中に入ると、怯えに身体を動かすことのできない女の子が震えていて、男の子二人の厭らしい息遣いに不気味な笑い声が聞こえる。

「これが子供の笑い声?」

 まるで悪魔が笑っているような声だ。

 すると女の子が自分に気付いた。こちらを見つめている。引きつって表情を変えることのできない自分も金縛りに遭っていた。

「そうだ。あの時の光景だ」

 まさしく自分のトラウマの原点に、夢を通してなのか帰ってきたのだ。声を出そうとしても声にならないばかりか、女の子の表情は、この世の者とは思えない顔に変わっていた。あの時に自分が何を感じたか思い出した。

「そうだ、相手に自分の顔を想像したんだった」

 と思うと、急に恐ろしさが違う方に向いてしまった。

――違う時間の同じ人間が遭遇するというのは、許されないことだ。時間のパラドックスは夢でなら許されるというのか?

 一時期心理学やSFに凝っていたこともあって、時空の穴や、次元のポケットなどの話には興味があった。今から思えば、それは子供の頃の記憶が興味を起こさせたのかも知れないと感じたが、本当にもう一度夢を通して同じ感覚を味わうことになろうとは、思いもしなかった。

 その時に、相手の男の子の顔をハッキリと見た。

「この子は」

 見覚えがあった。同じ学校ではなかったが、近くの公園で遊んでいると、時々やってきて、近くで遊んでいる子たちだった。

 何をして遊んでいても、楽しそうには見えなかったので、気になっていたが、時々自分を見る視線に気持ち悪さを感じることから、なるべく近寄らないようにしていたのだった。もちろん、話をしたこともない。ただ、近くにいるのを感じるだけだった。

 仲のいい三人でいつも遊んでいた良枝たちに、因縁をつけてきた男の子がいた。遊び場でのちょっとしたトラブルだったのだが、その男の子に対して、良枝を意識している男の子たちが敢然と立ち向かい、撃退してくれたことがあった。

 最初はありがたかったが、次第に怖くなってくる。気持ち悪さを含んだ怖さなので、近寄らないでほしいと言う思いを強く持っていた。

 その時に撃退してくれた男の子たちが、自分と思しき女の子を蹂躙している。

「こんなことって」

 理不尽であった。

 助けてくれたのは、自分のものに他の奴らが手を出そうとしたことへの報復で、いずれは自分たちが蹂躙するためだったのだ。そう思うと、自分の立場が微妙で、存在すら、疑問に思えてくるのだった。

 喫茶店で見た絵は、今から思えば、まったく違った絵だったのかも知れない。だが、あの忌まわしい小屋の絵に見えてしまったのも、何か彷彿とさせるものが店の中にあったからなのかも知れない。

 その中の一人の男の子、今思い出そうとするとやけに影が薄い。

「もうこの世にいないからなのかも知れない」

 と思うと、最初に感じたのが、

「封印が解けたら、もう二度と封印されることはない。このまま永遠に私は悩ませ続けられるんだわ」

 という思いだった。

 今度思い出したら、封印する術はない。なぜなら、当事者でありながら、封印させることのできる唯一の人間が、すでにこの世の者ではない気がするからだ。

「当たらずとも遠からじ」

 良枝には、その人の死が、事故か自殺のどちらかであろうと感じていた。

「彼なら、自殺であってほしい」

 なぜか、良枝はそう感じたのだ。

 その相手というのが、飯田だったのだ。

 大学生になった頃の飯田は、すでに子供の頃とは違っていて、大人になっていた。もし普通に出会っていたとすれば、飯田だとは誰も気づかないだろう。

 子供の頃の飯田は、本当に気が弱い男の子だった。良枝が感じた気持ち悪さは、気が弱い中で、女の子を蹂躙するのは本当に嫌だという思いがあった。だが、本性がどこにあるか分からない子供としては、衝撃的な悪戯が欲求に繋がって、忘れることのできない快感が湧いてくることになるなど、想像もしていなかっただろう。

 やらされていたという感覚が、快感によって打ち消され、自分の本能の赴くままに女の子を蹂躙したのだという罪悪感が支配していた。

 さらには、相手からやらされていたという感覚も嫌であった。

「嫌なことなのに、しかも、やらされているなんて、どうして断ることができなかったんだ?」

 という思いが自分を苛める。

「やらされていたわけではない」

 という気持ちになるためには、していたことを正当化するか、自分が嫌でしていたのではないという思いに駆られない限り、ずっと苛まれることになったであろう。

 それが大学生になる頃には、完全に吹っ切れていた。その理由は一緒にいた人との絶縁が一番の原因だ。

 相手が、飯田を見限ったのだ。

 他に自分の「手下」になるような人を見つけた。その人は飯田のような中途半端な気持ちではなく、相手に完全に尽くす人だった。

「こんな人もいるんだ」

 と思ってみたが、そう思うと余計に、離れることができて本当によかったと思った。

「これを機会に、すべて忘れなさい」

 その人は、そう言った。忘れなさいということは、想い出したら、どうなるか分からないという言葉の裏返しでもある。

 その頃になると、良枝も呪縛から解け、普通に人を好きになることもできるようになった。茂がいて、吾郎がいる。そんな学生生活を送ることが、今までの人生に後れを感じさせない本当の自分の人生であることを悟ったのだ。

 飯田は、自分を見限った相手のことを忘れるつもりだが、なかなか忘れることができない。

「あの人はどういう人だったのだろう?」

 いろいろと考えてみた。

 それにしても、どうしてあの時の男の子が飯田だって分かったのだろう?

 良枝は、飯田が死んだことをしばらく知らなかった。良枝は飯田が死んだちょうどその時、飯田のことを思い出していた。卒業してから、ほとんど意識したことのない相手。もちろん、坂口や茂の間で、彼らだけが意識している三すくみの関係など知る由もなかった。

 誰が頂にいる頂点なのか分からないが、三人が三人とも頂点であった。一番意識から遠い相手だった飯田が、死んだその時と思える時、彼が死んだのではないかというゾクッとするような感覚が、良枝を襲ったのだった。

 ちょうどその時、良枝の親友である友達が出産したと聞かされた。彼女は三すくみの彼らを知らない人で、社会人になってから友達になった人だった。

 社会人になると、学生時代の友達だけでなく、しかも仕事関係以外の知り合いも増えてきた。学生時代の知り合いばかりと仲良くするのはやめておこうという意識が働いたのも事実で、皆違った意味で、先を見ている人が多かった。

 その友達は、就職してから、一番早くに結婚した人だった。

「結婚は二十四歳まで、出産は二十七歳まで」

 自分で勝手に決めていた。彼女は会社の後輩で、三つ下だが、しっかりしている。

「人生設計を立てすぎると、今度はがんじがらめになって、自分の希望などまったく無視してしまい、気が付いたら、時間だけが規則正しく進んでいるだけだって気付いて、虚しくなってしまうかも知れないわ」

 というと、

「覚悟と信念さえ持っていれば、そんなことにならないわ」

 というのだ。

 覚悟があっての信念なのか、信念があるから覚悟が持てるのか、どちらなのかハッキリしないが、良枝は友達のような覚悟も信念も持つことは無理だと思った。

 そんな時間を正確に刻んでいる彼女が、自分の虫の知らせに呼応するかのように生まれた子供、

「まるで生まれ変わりなのかしら?」

 と思わせた。

 それからしばらくして飯田が死んだことを聞かされ、時間的にもピッタリ合っていたことで、

「やっぱり虫の知らせだったんだわ」

 と感じたのだ。

 虫の知らせを感じたことは今までにもあった。ただ、人の生死にかかわることは今までにあったわけではない。霊感が鋭いなどと思ったこともなければ、人に言われたこともない。問題は、死んだ人間に会ったと思ったのは、間違いではなかっただろう。

 まさかあの時の少年が飯田だなどと知る機会があるわけはない。ただ、飯田の顔をまともに見たことがなかったのは事実で、まともにどうして見れなかったのかについても、考えたことはなかった。

 死んだ人間のことを悪く言うのは本当は本意ではないが、あまり素行がよくないという噂は聞いていた。

「そうなの?」

 と、とぼけてはいたが、最初から良枝には分かっていた。

 厭らしい眼差しを感じたことがあるわけではないが、

「彼を一人にはさせられない」

 という意識はあった。

 一人にしてしまうと、何をするか分からないというよりも、一人になった時、もう一人の自分が現れるのではないかと思ったからだ。

「何か悪いことをするのであっても、それは彼の本心からではない。彼の中にいる他の誰かがさせるのだ」

 というような目を感じるからだった。

 誰かに命令されて嫌々させられるのが可哀そうだと感じた時、頭の中によみがえってきたのが、良枝を蹂躙した命令されていた方の男の子だった。

 もう一人の命令していた方の人に関しては、あまり意識がない。

「その人に深入りしてはいけない」

 という思いが強くあり、深入りしてしまうと、飯田の二の舞に嵌ってしまうという意識があったからだ。

 華奢で、小柄なその人は、帽子を目深にかぶり、決して顔を見せようとはしなかった。口元から歪んで見えたのは、笑顔だったのだろうか? 横顔から垣間見た気持ち悪さは、華奢な身体をしなやかさに変えているかのようだった。

 死んだ飯田の葬式はすでに終わっていて、一人誰かが死んだだけという雰囲気に、誰もがなっている頃だろう。もっとも飯田にはさほど友達はおらず、三すくみの仲間が一番の友達だったはずだ。それでも飯田が死んだことは二人ともあとから聞かされたという。

「肉親以外で、誰か飯田の死を悲しむ人などいるのだろうか?」

 と思うのだった。

 死というのは突然訪れ、突然去っていく。死を目の当たりにすると、深い関係でなくともしんみりしてしまうものだ。まるで世界が違って見えるような感覚に陥るのではないだろうか。

 良枝は、死について真剣に考えたことはなかった。身内で祖母が老衰で亡くなったくらいで、それほど意識したことはない。むしろ、テレビドラマで人が死ぬのを見て涙したことはあったが、涙腺の緩い方でもないと思っている。

 どこか冷めたところがあると思っているのは、トラウマを持っているからだろう。深くは考えるが、余計なことを考えたくはないと思う。余計なことは無駄なことであり、無駄なことを考えるのは、自分が冷めているのを自らが証明しているようなものだ。

 飯田とは、それほど親しい仲ではなかったのに、告別式の案内状が来た。飯田の遺品の中に、良枝の連絡先でも書いてあったのか、良枝自身は、飯田のことを忘れていたくらいだった。

 式には出なかったが、出なかったことを後悔するのではないかという予感もあった。それは、飯田が自分にとって思い出さなければならない何かを秘めたまま、二度と会えないことで、永遠に封印してしまったことを後になって気付いた時、自分がどう感じるかが、どのような後悔を産むかが怖かったのだ。


 マンションの中で最近、ちょっとした事件が起こった。

 ゴミの捨て方を巡って、由美と反対隣の奥さんが言い争いしているのを聞いた。どこの家庭も近所づきあいなど好まない人が多いのは分かっているが、喧嘩ともなると穏やかではない。

 どちらの意見が正当かと言われると微妙なところがあり、融通を利かせるべきなのか、それともあくまでもルールにのっとった運営がいいのかというところである。

 反対隣の奥さんは、このマンションでも古株だった。奥さん連中を束ねている存在だと言ってもいいだろう。そういう意味では敵に回すと厄介なことになるので、無難に付き合いながら、あまり関わらない方を選択するのがうまくやっていく一番の方法である。

 その人には、他の奥さん連中を従えているところがあり、まるで高校時代を思い出す。

 クラスに一人くらいはいたであろう。まわりの取り巻きに囲まれて、大きな顔をしている女性が、彼女と一緒にいればどんなメリットがあるのか分からなかったが、取り巻きにだけはなりたくないと思った良枝だった。

「主婦になってまで、こんな人たちに囲まれなければいけないなんて」

 と思うのは、良枝だけではあるまい。

 それにしても、引っ越してきてからそれほど時期も経っていないのに、さっそくぶつかるとは、由美という奥さんもなかなか一筋縄ではいかない人なのだろうと思うのだった。

 茂のような優柔不断な男には、ちょうどいいのかも知れない。ただ、それを茂がいつまで耐えられるかだと思って見ている。茂はそれほど忍耐力の強い方ではない。どこか女性的なところのある茂は、ある程度までは我慢するだろうが、堪忍袋の緒が切れると、後は開き直って、徹底的に嫌気を差すに違いない。

 嫌気が差せば、修復は難しい。相手が折れなければ、そのままということも十分に考えられる。由美を見ていると、とても折れるような性格ではないだろう。それは隣の奥さんと揉めているのを見ると、すぐに分かる。

 お互いに折れなければ、そのまま離婚になるのだろうが、茂を見ていて、離婚するように思えなかった。

――一体、どうなっていくんだろう?

 好奇心が一番強いが、好奇心だけからではない思いが良枝にはあった。

 良枝は由美をまともに見ることができない。ずっと避けてきた。相手も良枝を避けようとしているのがよく分かる。

――まさか、私に対しての当てつけで、あんな性格なのかしら?

 考えすぎだと思えば思うほど、由美が自分に対して挑戦的なことが分かってきた。

 さらに、由美の性格がエスカレートしてきたのは、飯田の死を知らされた時くらいからだった。

 飯田の死で、頭の中にすきま風が吹いてきた良枝にとって、由美への感情が敏感にもなってきていた。

――明らかに私を睨みつけているわ――

 と思うことがあった。意識していないくせに、こっちが見ていないと思うと睨みつけてくるようだ。もしこれが自分でなかったら、気付かないだろう。由美にとって良枝は、ただならぬ存在であることに違いないようだった。

 由美は、茂の前では二重人格だった。表で人が見ていると思うとまるで「オシドリ夫婦」のように仲睦まじさをひけらかしている。誰に見せつけようとしているわけではなく、仲の良さをアピールしてどうしようというのだろう。

 実際、茂は困惑の表情を浮かべる。結婚した時は、

「こんなはずではなかったのに」

 と思ったはずである。

 茂のことだから、由美に感じた感情は、

「この人は他の人にない、何かを持っている」

 と思ったからに違いない。

 人との違いを意識して、もう少し吟味しなければいけなかったと分かっているはずなのに、どうして早急に結婚しなければいけなかったのか、良枝には同情ではない悲しみが、湧いてくるのを感じたのだった。

 そんな二人を見ながら生活しなければいけない良枝は、このままノイローゼになりはしないかと心配になっていた。他人事だとして済ませてしまえばいいのだろうが、偶然とは言え、知り合いが新婚で隣に引っ越してきたのだ。これは何かあると思っても仕方のないことで、茂だけを見ているつもりがそうもいかなくなったことが、良枝には悩みの種として残ったのだ。

 吾郎が、由美と一緒に帰ってきたのは、そんな良枝の悩みが、形になってきた頃のことだった。吾郎は由美がそんな女だとは知らない。少し雰囲気は違うが、普通の奥さんだというイメージを持っていた。

 少し変わっているくらいの方が、吾郎には新鮮だった。良枝も平均的な奥さんだと思っている。どうしても良枝と比較してしまうからだ。

 平均的な奥さんの基準を良枝に置いたことから、吾郎の見方が少し傾いてしまったのかも知れない。吾郎がそう感じるであろうことを、由美は直感で分かっていた。他のことはいざ知らず、由美には気になった男性の性格、そして自分をどう感じるかということを分かるという特技が長けているようだ。

 吾郎がその次に由美と出会ったのは、最初に出会って一か月が経とうかとしていた時だった。由美は明らかに吾郎を意識している。

 今度も駅前の交差点のあたりでバッタリ会った。どちらからともなく誘いを掛ける。先日一緒に行った喫茶店、迷うことなく入っていく、

 話の内容は以前と少し違っていた。由美を見ていると少し苛立っている。吾郎は、良枝から由美が反対隣の奥さんと喧嘩していたいきさつを聞いていた。由美に対して同情的になっている。良枝から聞いた話に何の意見をすることもなく、聞いていたからだ。

 もし、その時に、由美に対して同情すれば、完全に怪しまれる。かといって由美に対して批判的な意見を言えば、その時にぎこちなさを悟られないようにしようとするに違いない。吾郎は感情が表に出やすく、ずっと一緒にいる良枝には、だいぶ行動パターンや感情移入は見抜かれているようだ。聞き逃すようにすることの方が余計に怪しまれることを、吾郎は思いつかなかったのだ。

 由美との間には、吾郎はすでに、

「言葉に出さなくても、分かってくれる気がする」

 という思いを抱いていた。一度話をした時にはそこまで感じなかったのに、不思議なものだ。しかも、あれから二人きりで話をしたわけでもない。それなのに分かってくれると感じるのは、会話はなくとも、出会った時に見せた笑顔が物語っている気がするのだ。

「前から知っていたような気がするな」

 吾郎は、どうしても由美を贔屓目に見るからそう思うのだと思っていたが、本当は前から知らない人ではなかったのだ。

 ただ、これは吾郎だけでなく、由美にも言えることで、お互いに知っていて不思議のない中で、過去に意識したことがなかった証拠だったのだろう。

 それだけ、吾郎は由美のタイプの男性というわけではない。由美は現金なところがあり、自分のタイプでもない男性を意識することはなかった。吾郎も同じで、意識することはない。

 ただ、同じ意識することのない性格だとはいえ、吾郎の感覚は、由美とは違っていた。一人の人を意識してしまうと、他の人を見ることができない性格の吾郎としては、意識が良枝にあったことで、自分に対しての女性の視線をあまり感じなかった。良枝と付き合っている時、吾郎に密かに思いを寄せている女性もいたのだが、吾郎はほとんど気が付いていない。そういう面では、茂と性格的には正反対で、良枝が茂ではなく吾郎を選んだのは、ここにも理由があったのだ。

 女性はとかく、自分だけを見つめていてほしいものだ。目移りする男性はどこか心もとない。いつも不安と隣り合わせで生活するのは嫌なもので、やはり結婚するなら、吾郎のような男性がいいのかも知れない。

 結婚相手として選ぶとして、吾郎を表現しようとすると、

「無難な男性」

 ということになる。良枝はそれで満足だったのだが、由美には物足りないことだろう。交際相手としては全然頼りなく、ちょうど不倫相手としては、ちょうどいいかも知れないと思ったことが、吾郎への「白羽の矢」だったに違いない。

 以前から、知っていた仲だったことに最初に気が付いたのは吾郎だった。

 不倫に対して臆病だった吾郎だったが、一度関係を持ってしまうと、すぐに感覚がマヒしてしまった。

 いつもの喫茶店を出てから二人は近くのラブホテルに入った。どちらが誘ったというわけではなく、ムードはすでに沸騰していて、身体が素直にしたがっただけだった。吾郎はこの時点で、由美を以前から知っていたことに気が付いたのだ。

 二人が最初に出会った時は、まだ吾郎が良枝と知り合う前だった。しかもその時の吾郎は初めてだった。由美が覚えていないのも無理はない。二人が最初に身体を重ねた時、付き合っていたわけでも何でもなかったからだ。しかも、その日初めて出会った相手、それも友達からの紹介だったのだ。

 吾郎が大学に入学してすぐのことだった。由美はまだ高校生だったのだが、その頃から大人びていて、吾郎は年上のお姉さんだと思っていたようだ。

 先輩は、吾郎の大学入学祝にと、初体験をさせてくれるというのだ。先輩と由美がどういう関係だったのか今となってはよく分からないが、気になるところだった。由美は本当に「大人の色香」を醸し出していた。

「こんなに女って柔らかいんだ」

 これが由美への第一印象。そしてこの思いは今でも由美にだけ抱いている。それから何人かの女性と経験したが、これほどの柔らかさと肌のきめ細かさを持った女性はいなかった。

 良枝に対して、今でも少し物足りなさを感じるのは、由美の身体を忘れられない自分がいるからだ。もし忘れることができるとすれば、もう一度由美を抱くしかないと思っていた。ただ、それ以外に方法はないというだけで、確率は限りなくゼロに近いのではないかと思っていた。

 ホテルの部屋の前のノブに手を伸ばすと、二人の手が重なった。その時に笑顔を見せた由美を見て、吾郎の頭は過去に戻ってしまった。

――まさに同じシチュエーションだ――

 同じシチュエーションを感じると、その時の相手を無意識に思い出そうとする。その瞬間、意識が過去に戻ってしまったということは、

「この人があの時の」

 と完全に過去の記憶と目の前の現実が、数年と時を超え重なったのである。

 由美のことを思い出そうとすると、ある程度までの記憶はよみがえってくるが、完全には思い出せない。しかも、思い出したことも、どこか信憑性に欠けているようで、記憶自体がまるで夢のことのようだ。

 由美が、初めての女性でなければ、もう少し記憶が鮮明だったかも知れない。初めての女性と再会し、またホテルに来るなど思ってもいなかった。あの時の記憶を取り戻したい気持ちと、さらに新しい記憶を頭に刻みたい気持ちに満たされていた。

 それにしても、どうしてホテルまで来る気になったのだろう? 大切な妻良枝に不満があるわけでもないのはもちろんのことだった。長年付き合ってきて、今まで浮気を考えたこともない。

 確かに長すぎた春だったのかも知れないが、新たな気持ちで迎えた新婚生活、明らかに新鮮であり、そこに浮気の虫が入り込む余地などないはずだった。それだけ幸せを満喫していると思っていたのだ。

 しかし、幸せだからこそ、浮気の虫が入ってきたのかも知れない。

――俺は良枝に甘えているのかも知れない――

 良枝なら、何だって許してくれそうな気がする。一回くらいの浮気であれば、

「しょうがないわね」

 と言って許してくれそうだ。吾郎は自分を慕ってくれている良枝を意識していた。甘えは却って、物足りなさを生み、良枝では満足できないものを他に求めようとする。それが性欲というものであり、性欲は留まるところを知らなければ、ひょっとすると、由美だけで満足できなくなってしまうかも知れない。

 そんなことになれば、吾郎には自分で、収拾をつけることができなくなるだろう。それだけは避けなければならない。

 それでも、由美は新鮮だった。

「あの時と変わらないわね」

 部屋に入り、いきなりキスをしてきた由美が、貪るように唇に吸い付いた後、呼吸を整えながら呟いた。その声は妖艶で、ハスキーだった。

「覚えていてくれたんですか?」

「ええ、あなただったのね」

「いつ頃から気が付いたんですか?」

「そんなに早くから気付いたわけじゃないわよ。ごめんなさいね、本当は、今日会った時に思い出したの」

「実は、僕もなんだよ」

 吾郎の言葉はウソだった。本当は、この間会った時、部屋のベランダを見た時に、何となく気が付いた気がした。ベランダから誰かが覗いていたのを感じた時、あれは幻だったのかも知れないが、吾郎には、あの幻を最初良枝だと思っていたが、よく見ると、自分の初めての相手だったことに気が付いたのだった。

 由美は、包み込むような笑顔を吾郎に向けている。それは、吾郎のウソを見抜いているかのようにも見えたところが、包み込む感覚を与えたのかも知れない。

 ただ、由美が気を遣っているようには思えない。気付いていて何も言わないのは、言っても仕方がないというもっと現実的なところがあるからだ。

 別に冷めているとは思わない。それも由美が包み込むような雰囲気を醸し出していることに含まれているように感じるからだ。

 由美の身体は、最初の時に比べて、柔らかく感じられた。身体を重ねると、前の時のことがまるで昨日のことのように思い出される。思い出した中で、今の由美とを比較してしまう。

「肌はこんなに白かったんだ」

「きめ細かさは、ここまで身体にピッタリとくっついてくるなんて」

 以前の由美と比較しているつもりで、いつの間にか良枝との比較になっていることを、吾郎は気付いていなかった。

「身体だけを見れば、良枝に勝ち目はないな」

 と、してはいけない比較をしてしまった。

 この比較が、不倫から抜けられない男女を作ってしまうのだと、吾郎は由美を抱きながら感じた。ひょっとすると不倫をしている男女のほとんどは、このことに気付いているのかも知れない。気付いていて気付かないふりをしているわけではなく、気付いてもどうしようもできないことに苛立ちを覚え、これからぬかるみに嵌りこんでしまう自分たちを憂いている。そう思うと、恐怖がこみ上げてきたのだった。

――やっぱり不倫は思い立った時から、逃れられない運命なんだ――

 その運命が示す行先は、決して幸せではない。覚悟もなしに踏み込んだいばらの道、その先に待っているのは、修羅の世界なのであろうか。

 由美との逢瀬をこれからも重ねていくことが、自分の破滅を招くことは目に見えている。由美との不倫が始まる前から、吾郎は夢に自分の破滅を見ることがあった。目の前には良枝の汚いものでも見るような視線を感じたこともあれば、良枝が妖艶な姿で吾郎を見下ろしている。その横にいるのは一体誰だろう?

 また、夢の中で、由美が吾郎を罵っている。お互いに分かって修羅の道を歩んでいると思ったが、吾郎に飽きたら、後はポイであった。

「そんなのありかよ」

 というと、

「あなたにはもう用はないわ。しょせんあなたは遊びなの」

 不倫の結末としては、十分ありえることだが、相手にとっては一番考えたくないことだった。だが、吾郎は由美を見ていて、

――この女なら、それくらいのことはするかも知れない――

 そのことを知った時、すでに由美から離れられなくなっていた。

 茂の顔が思い浮かんだ。彼は良枝とは学生時代から知っていた相手だ。

――ひょっとしたら、俺の知らないところで会っているのかも知れない――

 自分のことを棚に上げて、そんな想像をした。だが、その方が幾分か気が楽である。お互いに不倫をしていれば、相手を責め苛むことはないだろう。

――果たしてそれでいいのか?

 せっかく結婚一年が過ぎて、まだ新婚気分を満喫しながら、これからの人生設計をゆっくり考えてみようと思っていた時、吾郎はちょっとした気の緩みから、由美に手を出してしまった。

 どうしてそうなってしまったのか自分でも分からない。それは由美が最初の女性だったことが一番大きな理由だが、男というものは、それほど最初の女を忘れることができないものなのだろうか。

「淡く切ない思い出として残しておけばよかったんだ」

 由美のことを考えていると、ふと良枝が由美をどう思っているのかが、気になってしまった。

 由美は気が強く、自分の思い通りにならないと、強引にでも、自分の思い通りにさせようとするところがある。全部が思い通りになるわけではないが、比較的思い通りになってしまうことが多い。それが由美のまわりに対しての影響力の強さを表しているのだろうが、由美は諦めるということをしないのだ。

 吾郎は由美と堕ちていく泥沼の不倫の世界を想像し震えていた。気持ちとしては別れたい。まだ二人で会うようになって一度か二度くらいではないか。

「今なら引き返せるはずだ」

 由美を抱いている時、由美に見つめられるとその目力に圧倒され、逃れるなど考えられない。しかし、お互いを貪りあった後、脱力感に包まれた身体から冷えた汗が流れるのを感じると、全身から冷や汗を掻いているようで、後悔の念が冷や汗とともに吹き出しているのを感じる。

――この女には罪悪感などというものはないのか?

 満足して息を切らしながら天井を見つめている由美を横目で見ながら、男と女の違いを痛感させられているように感じた。

――不倫の代償は男と女、どっちに大きいんだ?

 と思ってみたが、そんなことを考えているうちは、後悔の念に苛まれているだけで、不倫という泥沼から抜け出すことはできないだろうし、罪悪感を持つことで、自分をある意味正当化させようとする大義名分も消え去ってしまうようだった。

 同じ修羅に入り込む寸前にいながら、これほど由美との距離が遠いとは思わなかった。ただ、このことを感じると、吾郎の由美への気持ちが一気に冷めてくるのを感じた。気持ちさえ冷めてしまえば、修羅から抜けることも可能だと思っていた。

 そして、冷めた気持ちで修羅に進んだ時の自分が、まるで他人のように思えたのである。

「不倫は身体の関係であり、身体を忘れられないから、不倫は止められないんだ」

 と思っていたが、実際に不倫をしてみると逆だった。

 身体に関してというよりも、不倫の扉を開くのは、感情だった。感情があって、初めて身体を求めるのだ。相手の身体を貪るのは、自分の整理できない気持ちを必死になって組み立てようとする別の形の表れだと思うようになった。相手に求めるのは癒しであり、心の余裕だったのだ。

 それを知ったのは、別れることを感じた時だ。

 確かに冷めてしまってはいたが、由美に傾けた気持ちは本物だった。癒しを感じることもできたし、心の余裕も与えてくれた。それを初恋同様「淡く切ない思い出」として大切に心の奥に封印することができれば、不倫という修羅から逃れることができる。そう思った吾郎だが、逃れるために必要なのは、一瞬の判断力だと思った。

「ここで終わりにするんだ」

 という強い気持ちを一気に形にする一瞬の判断力、それが唯一不倫から抜け出す方法である。

 覚悟という言葉では言い表せない。

 覚悟というのは、いろいろな状況を考えて、最後に自分の行動を決定づけるもので、時間を掛けて積み上げていくものだ。それは前向きなことに対しての自分の決意である。それを本当は覚悟という言葉で言い表すのだと思うのだ。

 覚悟を後ろ向きなことに使おうとするから、一瞬の判断力が鈍ってしまう。せっかく逃れる決意をしようと思っても、その機会を逃してしまうのだ。不倫から抜けられない人の多くはそうでないかと思うのだ。もっとも、それほど経験豊富ではない吾郎は、人に話すこともなければ、ただ自分を納得させるだけで、心に閉まっている。何かの折りに思い出して考えればいいことだった。

 深みに嵌る前でよかった。いくら一瞬の判断力を持つことができても、判断するための材料が深みに嵌ってしまっては見つけることができないからだ。

 吾郎は由美との不倫にピリオドを打った。由美の方も吾郎に対して執着がなかったことは幸いだったが、吾郎はまだまだ不安だった。なぜなら、由美が隣の部屋に住む奥さんだったからである。

「玄関先で出会っても、知らん顔ができるんだろうか?」

 良枝はさほど勘の鋭い方ではないので、悟られることはないとは思うが、自分で自分の顔が見えない以上、不安を拭い去ることはできない。また、勘が鋭い方ではないというのが良枝なりの気の遣い方で、意外と何でも分かっているかも知れないとも思う。そう思うと気が気ではなかった。

 人に対して、しかも妻に対して後ろめたさを感じると、今まで見えてこなかったものまで見えてきているようだ。ただ、それが錯覚ではないかと思うこともあるのだが、少しだけ吾郎の前の視界が変わってくるのを感じていた。

 吾郎は、どちらかというと蚊帳の外の部分が多い。由美も自分が蚊帳の外であることを分かっているので、吾郎との関係を深めようと感じたのかも知れない。

 夫の茂はお世辞にも頼りになるとは言えない。元々頼りにしているわけではなかったので、それはいいのだが、なるべく自分が何も知らないようにしていた。もし、何かあるのなら茂から言ってくるだろうという思いがあったのだろうか?

 元々由美が不倫に走ろうと思っていたのかどうか、吾郎には分からなかった。本当に不倫をするつもりであったのなら、吾郎が離れて行った時、離れていかないように何か行動に出るだろうに、そんな素振りはなかった。

「離れていくのなら、それでもいいわ」

 と言わんばかりの行動に、吾郎もあっけにとられていた。

「あれ?」

 拍子抜けしたと言う表現がピッタリであろう。

 由美は吾郎のことを好きだったというよりも、つまみ食いのつもりだったのか、それとも何か他に目的があったのだろうか?

 吾郎は、由美に対して、何かを考えているとしても、その考えを一つだけだとは思えない。何種類か考えてみて、その中のどれが一番その場に適した考えなのかを探ろうとしていた。

 由美が吾郎の手に負える相手ではないことは分かっていたつもりだが、離れると決めた時に、さらなる由美の神秘さを思い知らされた吾郎だったのだ。


 飯田の四十九日も過ぎると、坂口も茂も良枝も、一区切りついた気分になっていた。一番最後まで飯田のことを気にしていたのは良枝だった。自分のトラウマに深く関わっている男の死という衝撃的なことなので、当然であるが、後の二人も、それぞれ飯田に対して各々の思いを抱いていたのも事実だった。

 飯田の墓は、家族の墓地に一緒に埋葬された。すでに忘れられた飯田だったので、墓を訪れるのは、家族以外にはありえないと思われていたが、三か月経ったある日、飯田の家族が墓参りに訪れた時、

「あれ? 誰かがお参りしてくれたのかしら?」

 飯田の姉がお参りした時に気が付いた墓には、新しく綺麗な花が活けてあった。さらに花の横には、ライターが置いてあった。見覚えのあるライターで、それは飯田が以前から大切にしていたライターと同じものだった。

 飯田が持っていたライターは、飯田が荼毘に付された時、一緒にお棺の中に納められたはずである。ということは、誰か飯田が同じものを持っていて大切にしていたことを知っていた人物ということになる。よほどの知り合いでもなければ、そんなことはしないだろう。

「姉の自分以上にここまでできる人がいただろうか?」

 姉はそう思って、いろいろ考えてみたが、思い浮かばない。飯田はどちらかといえば変わり者で、友達も少なく、恋人もいなかったようだ。

「恋人がいれば分かったはずだわ」

 と思う。

 一体誰の仕業なのか、姉はしばらく佇んでいたが、分かるはずもなく、少し気持ち悪さを残して、そのまま墓地を後にした。

 お供え物は、ここ数日の間に供えられたものであろう。雨に濡れていたわけではなかったからだ。確かに最近は雨が降っていないが、最近で降ったのは五日前くらいだっただろう。一週間も経っていないこの場所で、誰か同じように弟の墓に手を合わせていたと思うと、少し安心した気もしたが、気にもなった。その人にとって飯田がどれほどの存在だったのかと思うからだ。

 男性である可能性は低いと思った。ライターを置いて行くのだから、女性の気がしたのだ。

「誰かに見つけてほしかったのかしら?」

 いろいろ考えてみたが分からない。とりあえず誰にもこのことは言わずにいようと思っていた。相手が分からないのであれば、いろいろ考えるだけ無駄だからである。

 飯田の墓にお供え物がしてあった日から数えて、ちょうど一か月くらい前だろうか。四十九日が開けて、それまで飯田のことを口にしていた人が、誰もまったく何も言わなくなった。

 姉はそれでもいいと思っていた。却って、下手に気にして尾を引かれるよりもよほどいいからだ。

 飯田のことを考えているのは自分だけだという思いが姉にはあった。

 飯田にとって一番気持ちが落ち着いて、唯一相談ごとができたのは、間違いなく姉だけだったからだ。それは自他ともに認めるもので、それだけに飯田が死んだと聞いた時の姉は、ショックが隠せなかった。

 姉の名前は頼子という。頼子は三年前に結婚して、実家の近くにマンション住まいをしていた。ここも偶然であったが、頼子も見合い結婚だった。別に男性と知り合うことがなかったわけでもないが、頼子は親の勧めを断ることができなかったのだ。

 頼子にとって親は絶対の存在で、子供の頃から、親には逆らえない女の子だった。そんな姉を見て育った飯田は、姉に対して不信感を感じながら、慕いたいという気持ちも人一倍持っていた。そんな姉も、飯田が自分を慕ってくれているのを百も承知だったが、親に服従している自分を嫌っていることを知らなかった。二人の関係は中途半端な感情で繋がっていたのである。

 頼子が結婚しても、何かと理由をつけて飯田は、姉の新居を訪れていた。結婚した夫は穏やかな性格の人で、飯田とは正反対だった。飯田はそんな義兄を疎ましいと思っていたことなど、頼子は知らなかった。

 頼子はなるべく自分に都合よく考える性格であった。それは親には逆らえない自分の性を少しでも精神的に和らげようとする自己防衛的な性格の表れなのかも知れない。そんな頼子の性格を飯田は知っていて、そのことも飯田には苛立ちを覚えさせる一つになっていた。

 だから、飯田が姉の新居をたびたび訪れるのは、遊びに行っているという単純な気持ちではない。見張っているという感じであった。表から密かに見張るのがいいのかも知れないが、仲に割って入る方が、いかに二人に迷惑を感じさせるかと思ったからだ。

「困らせてやろう」

 という気持ちが露骨に出ている行動に、頼子は少し不気味さを感じていたが、義兄は何も感じていないようだ。

「なんて鈍感なやつなんだ」

 と思ったが、

「こんなやつに姉さんは任せられない」

 という思いが強かった。

 その気持ちも頼子は分かっているつもりだった。

「もし、弟が自殺だとすれば、その原因は私に多少なりともあるのかも知れないわ」

 という思いがあり、弟に対してどう接するべきだったのかと、今さらどうしようもないことを考えて、鬱状態に陥った時期もあった。

 初七日が過ぎる頃までは、毎日のように弟が夢枕に立っていた。何かをいうわけではなく、ただ佇んでいるだけなのだ。

「どうして何も言ってくれないの?」

 自分を苛めているのが明らかに分かった。弟の上から目線など見たことはなかったし、見たくないことだった。

 それでも飯田は答えない。そして、ぷいと横を向いて、何もない空間を意識しているのだった。

「そこに何があるというの?」

 そこにあるのは、暗黒の世界で、どこまで続いているのか分からない。そして飯田が、再度こちらを見ることがないまま、目が覚めるのであった。

「夢か」

 毎日同じ夢を見ているにも関わらず、頼子はいつも夢であることを残念に思っているのか、それともホッとしているのか、考え込んでしまうのだった。

 やはり、残念に思っている気持ちの方が強かった。弟が何を考えて死んでいったのかが分からないと、永遠に自分を苛んでしまうことになるからだ。このまま忘れることのできない存在として、弟を感じ続けるのは、どれほどのことか、想像するのも恐ろしいことだった。

 隣で旦那は何も知らずに眠っている。仕事が忙しいので、なかなか構ってもらえないが、今はその方が好都合だった。自分の心の中の弱みを見られるのは嫌だったし、見られることで一番痛い思いをするのは自分だからだ。

「きっとこの人は優しく声を掛けてくれるだろう」

 それが嫌だったのだ。

「今は放っておいてほしい」

 足が攣った時など、まわりの人に知られたくないという思いに駆られることがある。それは知られることで心配されてしまうと、相手の心配そうな顔を見て、さらに痛みが増すからだ。だからなるべく知られないようにしようと我慢する。そんな心境に今の頼子はなっていたのだ。

 人のことを気にすることをなるべくしたくないと思っていた頼子だったが、どうしてそんなに冷めた目で見れるのかが自分でも分からなかった。

 それが弟に神経を集中させていたことで、他の人を見ることができなくなっていたのだった。

 一つのことに集中していると、まわりのことが見えなくなるという性格は、他の人にもあるとは思っていたが、頼子は自分の性格がそんな単純なものではないということを意識していた。

 そこには罪悪感があった。小さかった頃、自分の好奇心から、弟に悪戯してしまったことで、飯田が異常な性格になってしまったことを、頼子だけが知っている。これは、飯田本人に分かっていたかどうか、微妙なところだった。

 頼子の中で飯田を意識から消してしまうことができないのが、このトラウマを残してしまったからだった。

 飯田が良枝に悪戯をしてしまった遠因は、この時の頼子の行動にあった。頼子は飯田が良枝に悪戯したことを知らない。誰かに何かしたかも知れないとは思ったが、ハッキリとした確証はなかったのだ。

 ただ、飯田の異常性格は頼子には分かっていた。そして異常性格の発端を作ったのは自分だということも自覚していた。後ろめたさなどという生易しいものではない。完全な罪悪感である。それが死に至らしめたのだとすれば、自分は許されないだろう。頼子はさらに自分を苛めた。

 結婚したのも、本当は飯田から逃げ出したいという気持ちもあったからだ。自分が親のいいなりになっていることへの子供なりの苛立ちが、弟に対しての悪戯に繋がったのは間違いないが、飯田が、自分を意識して苛立っていたのは、親に対しての態度であるが、潜在意識として、悪戯をされたことだということを感じていたとすれば、頼子はどうすれば救われるというのだろう。頼子は自分を際舐め続けるしかないのだろうか?

 悪い方にばかり考えると、いくらでも落ち込んでしまう。四十九日が過ぎたのを機会に少しは楽になろうとも考えていた。

 頼子は、墓参りを欠かさないことで、償いを続けようと考えた。もう、自分で自分を苦しめる必要もないからだ。

 理屈では分かっているつもりだが、どこまで自分を慰められるだろう。まわりに悟られないようにすれば、次第に自分も忘れて行くのではないかと思うようになっていた。

 飯田は、自分の姉が好きだった。頼子をずっと頼りに思っていたのだが、それは、自分の中にトラウマがあって、そのトラウマのせいで子供の頃に良枝に悪戯してしまったことへの気持ちをどう整理していいか分からなかったからだ。まさかその元凶を作ったのが姉であるなど知る由もなかったことは、実に皮肉なものである。

 しかも、その原因が親に逆らえない姉の性格であった。これは持って生まれたもので、遺伝であったかどうかまでは分からなかったが、姉への思いの妨げになったことは事実だった。

 妨げではあったが、姉への思いを弱めるものではなかった。ただ、その思いがあることで、

「姉を逃がさない」

 という思いを強く持っていた。

 頼子には、一つ気になることがあった。

 あれは頼子が結婚してから二年目のことだっただろうか。その頃事故に遭いかけたりしたことがあった。時期的には比較的に近かったので、しばらくの間、表に出るのが怖かったのだが、それを誰にも言わないでいた。結局、二回ほど事故っぽいことがあっただけで、気にしなければ大したことではないように思えたことだったが。頼子には怖い思い出として残っていた。

 それまで家に何度も遊びに来ていた飯田が、急に来なくなったのはその頃で、ホッとした矢先のことだったので、

「一難去ってまた一難。私はついていないことにずっと巻き込まれていくのかしら」

 と思ったほどだ。

 弟が訪ねてくるのを、ついてないこととして片づけるのはどうしたものかと思っていたが、頼子にはその頃、精神的に参っていたせいもあってか、感覚がマヒしかけていたのだ。それだけ悪いことがあれば、すべて同じであるかのように、片づけようとしていたのだった。

 ただ、危険な目に遭ってはいたが、それが誰かの手による人的なものであるという発想はなかった、

「ついていないだけ」

 と、あくまでも偶然が重なったということで片づけたかったのだ。

 頼子は結婚してからも専業主婦にはならず、仕事をしていた。危険なことがあった時は、体調不良を理由に会社を一週間ほど休んだが、家にいると、却ってロクなことを考えないような気がした。

 何度か、近くの喫茶店まで出かけたことがあったが、家からは五分もかからない場所なので、それほど危険はないと思っていた。それくらいで危険があるなら、家にいても一緒ではないかと思ったからだ。気分転換をしない方が、本当に病気になってしまいそうで怖かった。

 その喫茶店では、雑誌を見ていたが、雑誌に載っている小説を見て少しビックリした。そこに書かれているのは、弟が姉を狙って殺害を企てているところだった。姉とは血が繋がっていないという設定で、姉にだけ遺産が転がり込んでくるようになっていることを逆恨みしたという内容だった。

「まさか……ね」

 自分が何をその時に考えたか、口にするのも恐ろしい。自分には遺産が転がり込むような環境は持っていないし、弟と血が繋がっていないなど、考えられなかったからだ。

――血が繋がっている?

 血の繋がりを考えて、思い浮かんだのが、自分が子供の頃にした弟への悪戯を、弟も誰かにしなかったかという危惧であった。少なくともそんな話は聞いていないが、絶対にないとは言いきれない。血の繋がりとは、逃れることのできないことであるのは、自分が一番分かっているからだ。

 血の繋がりの意識があるから、頼子は親のいいなりになっているのだ。血の繋がりをどれほど憎んだことだろう。もしこれが遺伝だとすれば、自分の子供がどうなるというのだろう。今はまだ夫が子供のことに触れることはないが、

「子供がほしい」

 と言い出したら、素直にしたがうことができるんだろうか?

 子供のことを口にはしないが、一緒に歩いていると、子供を見る目が、最初と変わってきているのが分かっていた。

――この人は、子供が好きなんだわ――

 最近そのことに気が付いたのか、それとも子供をほしいと思うようになって、本当は子供が好きだったことを思い出したのかのどちらかではないだろうか。

 雑誌に載っている小説を読んだ頼子は、弟が訪ねてこなくなったことが少し気になっていた。

 今までは、訪ねてくるのを、億劫に感じる部分と、顔を見せてくれるのをホッとした気持ちで感じているのとで半々の気持ちだったが、訪ねてこなくなると、今度はまったく正反対の半々の気分を味わっていたのだ。

 来ないなら来ないで心配になっていた。普段から何を考えているか分からない弟だったので、顔を見せてくれるから安心できたのだ。訪ねてこられた時はそこまでハッキリと分かっていなかったが、来なくなると、気になって仕方がない。そこに持ってきての喫茶店で読んだ小説だったのだ。それだけ弟に対しての感情が微妙だったということであろう。

 弟がまさか自分を「逃がさない」などと思っているなど、想像もできないことだった。

 頼子は弟の視線には敏感なつもりでいたのに、意外と知らなかったことが多いことに愕然とした。弟が死んだこともそうであるし、死んでからも他の人が弟をどのような目で見ていたかなど、まったく知らなかった。

 知らなかったというよりも、知りたくなかったと言う方が正解かも知れない。自分と弟のことは誰も立ち入ることのできない神聖なもので、他の人から見れば、禁断の世界であるはずだ。その思いが頼子には強くあり、唯一二人の間の共通した認識ではなかったであろうか。

 二人だけの世界を作っているつもりでも、二人の間の距離は、かなり離れていた。他の人が見れば、

「本当に姉弟なの?」

 と思うかも知れない。

 それだけ二人の間には、距離を感じさせないものがあった。惹き合う心が意識の中にあって、人には犯すことのできないもの。そしてそれは夢の共有に近い感覚ではないだろうか。二人には夢を共有している意識があった。直接話をしたことはないが、頼子の夢の中に出てきた弟は、頼子の潜在意識の範囲を超えていたのである。

「弟なら、こう答えるだろう」

 という答えを返してくれない。しかも頼子が意外だと思っていることを分かっているのか、弟はニンマリと笑うのだった。

「夢とは潜在意識が見せるもの」

 という考えを頼子は持っている。潜在意識の範囲外、つまりは想定外の回答をしてくる弟は、あくまでも夢の中では規格外であった。

「どうしてそんなことをいうの?」

 返してきた答えに、こう答えたいのだが、言葉にならない頼子は、言葉に出せないことに怯えを感じていた。

――私は夢の中では、弟を恐れているんだわ――

 その気持ちが強かった。

 飯田は、どこまで姉の気持ちが分かっていたのだろう? 死んでしまった今となってはすべてが想像でしかないが、もし生きていたとしても、そのことを飯田が口にするとは思えない。

 一つ言えることは、姉を怖がっていたということだ。

 自分の悪戯癖の発端となったのが、姉による悪戯だとは、飯田は思っていなかった。それなのに、姉が自分の悪戯癖を知っているのを分かっていたからだ。

――どうして知っているんだ?

 悪戯しているところを見られたのかも知れないと最初は思った。見られていたのなら、止めに入るだろうが、止めにくることはなかった。もし姉なら、止めに入れなかったことを、その後自分で後悔するかも知れない。

 確かに自分を苛めているところがあるのだが、飯田に対して何かを言おうとは思っていないようだ。もし、止めに入ることができなかったのであれば、何かを言おうとして辞めるのではないかと思ったからだ。

 だが、姉が何か戒めになるようなことを言おうとしている素振りはない。ずっとそのことを感じていると、知らなかったことは間違いないと思うのだった。

「死んだ人の悪口は言いたくないが」

 という言葉に、最近敏感になってきた。

 弟が悪口を言われると思うからだ。

「もし弟の悪口をいう人がいれば、この私が許さない」

 と、思うようになったのは、悪口を言っていいのは、自分だけだという思いを持ったからだ。

 この思いは、子供の頃に感じた思いだった。

「弟を自分で独占したい」

 自分のものだけにしておきたいという思いがあったことを思い出した。ひょっとすると悪戯をしてしまった気持ちの根底には、自分のものにしておきたいという思いが根付いていたのかも知れない。

 頼子は自分が独占欲の強い方だとは思わない。むしろ、人に従う方だ。親のいいなりになるのもそのせいだが、だから、逆に遺伝による性格が表に出るのを無意識に牽制しているのかも知れない。

 ただ、弟に関してだけは違っていたのではないか。自分のものにしておきたいという気持ちが悪戯に繋がった。

「お姉ちゃん、やめて」

 小さな声で弟が呻いたのを思い出せそうで思い出せない自分が怖い。明らかに言われたはずなのに、思い出せないのだ。だから、弟が悪戯された意識がないと思ったからだが、実際には正反対だった。

 その時弟は訴えたが、姉は聞いてくれなかった。それがトラウマになり、

「訴えても一緒なんだ」

 という気持ちにさせてしまった。飯田の思いは、頼子が考えているほど単純なものではないが、それだけに飯田には、姉に分かってほしかったという気持ちが強かったのだ。

 頼子にもあるトラウマと、飯田にあるトラウマ、表に見えているものの原因は一緒かも知れないが、実際には違っている。頼子はそのことに気付き始めている意識がまだなかったようだ。

 飯田は、子供の頃、ませた男の子だった。同い年の子供に比べて、しっかりしていたのだ。良枝が幼女だと思っていた時、飯田も同じ年齢だったはずなのに、良枝に対して、自分よりも年下の女の子だと思っていたようだ。

 あれは二人とも小学四年生だっただろうか。幼女というわけではなかったが、飯田には幼女に見えたし、良枝も当時は晩生だったこともあって、幼女の頃だという記憶しか残っていない。

 姉の行動によって、性に目覚めてしまった飯田、そしてまだまだ幼女だと思っていた良枝、二人は両極端だったこともあって、良枝も飯田も、お互いにあの時の相手だとは思わなかったのだ。

 因果は巡るというべきか、あの時の良枝は、飯田によって性に目覚めさせられたのだ。そのおかげで、良枝はその頃から年相応の女の子の雰囲気を醸し出すようになり、なかなか成長が進まないと気にしていた親を安心させたのだから、本当に因果なものである。

 性に目覚めた良枝と目覚めさせた飯田、良枝は他の誰かに悪戯してしまうかも知れないと自分を苛めたことがあった。それは夢で誰かを苛めている自分の姿を見たからだ。

 苛めている自分の顔は分からない。だが苛められているのが誰なのか、分かっていた。

 よく見ると男の子で、その子は見覚えがあった。その時良枝は知らなかったが、苛められていたのは飯田であって、苛めていたのは、頼子だった。まるで飯田の気持ちが乗り移ったかのような夢だったのだ。

 そんな夢を何度か見た。良枝が他の人を苛めようと思うことがなかったのは、姉が飯田を苛めている夢を見たからなのだが、それが原因であることは、良枝には分からなかった。

「一体誰なのかしら?」

 という思いは強く、その頃から夢が自分に与える影響が強くなってくることに初めて気づいたのだった。

 夢で見たことが自分に対しての戒めになっていることを知った良枝は、夢について話ができる友達がほしかった。実際に同じ考えでなくてもよく、むしろ考え方が違った方が、会話に論点ができて、発展性があるというものだった。

 なかなかそんな友達ができなかったが、一度、馴染みの喫茶店で夢についてマスタ―と話をしている時、横から、

「夢のお話ですか?」

 と、割って入ってきた女性がいた。

 あれは、二年前くらいのことだっただろうか。まだ吾郎との結婚が表面化していない頃のことであり、まだまだ時間に余裕が合った頃だった。

 マスターに後から聞くと、

「ここ二、三か月の間、週一くらい夕食を食べに来ているよ」

 と言っていた。

「この近くに一週間に一度用があるのかも知れないですね」

 というと、

「今度来たら聞いてみてあげよう」

 と言ってくれた。

 だが、彼女がこの店にきたのはそれが最後で、会ったのもその時だけだった。

 夢に対しての話には独特のものがあり、潜在意識が見せるという意味では共通していたが、細かいところでは少しずつ違っていた。

 違っていたというより、ずれていたと言った方がいいかも知れない。お互いに向いている方向が同じなので、出発点が若干でも違っていれば、交わることも重なることもない。まさしくそんな会話だった。

 詳しい内容までは覚えていないが、彼女は、「トラウマ」という言葉を一生懸命に口にしていた。

「トラウマが夢に与える影響ってすごいと思うんですよ」

 良枝は、自分の中のトラウマは、誰よりも深く、そして掘り下げられたくないものだと思っていた。自分のトラウマを覗こうとする人は、誰であっても侵略者のような気持ちでいて、神聖ではないが、侵すことのできないものだと思っていた。深く掘り下げられると、本当は自分で解決できずに、封印しているものに、土足で踏みにじられては収拾がつかなくなってしまう。自分の中にできたトラウマは、何があっても、最後は自分で解決しなければいけないものだと思っていたのだ。

 そんな時に、トラウマという言葉を連呼されて、少し苛立ってしまった。だが、彼女を見ていると、その人にもトラウマがあり、彼女の場合は人に話すことで解決の糸口をつかもうとしていたのだろう。

 彼女と良枝の最大の違いは、彼女が加害者であり、良枝が被害者であるということ。もっと正確にいえば、彼女は被害者でもあるということだ。

――被害を受けたことで、人に危害を加えてしまったんだわ――

 ただ被害を受けただけのトラウマと、両方を共有しているトラウマとでは、最初から大きさを競うまでもなく、共有している人に適うはずはない。良枝は苛立ちを感じながら、そんな風に考えていた。

 良枝は、自分が被害者なだけに、被害者の気持ちは自分が一番分かっていると思ったが、加害者ではないはずなのに、なぜか加害者の気持ちも分かるようになっていた。ただ、被害を受けたから他の人に報復すると言ったような単純な図式ではない。夢が関わってくると、感覚がマヒしてしまって、加害者であることの感覚がマヒしてくるのではないかと思うのだった。

「トラウマって言葉、私はあまり好きじゃないのよ」

 彼女は、そう言った。

「私もそう。でも、その言葉で表現しないと、他にどう言えばいいのか、私には分からないんです」

 と良枝がいうと、

「あなたも、何か被害を受けて、トラウマを感じるようになったの?」

「あなたもということは?」

 そう言って、相手の顔を見上げるようにしながら覗き込んだその顔は、寂しそうだったが、別に目を逸らそうとせずに、良枝を見返している。

「そうね、他に言葉が見つからないわね。でも、心理学として片づけられるのは、私には我慢ならないの」

 学問の材料として使われるということは、研究されて何かの答えが見つかる可能性があるということだ。だが、一口にトラウマと言っても、人間の数だけあると言っても過言ではない。無数のトラウマをどのように分類し、どのように解釈していくのか、興味深いところでもあった。

 彼女が頼子であることは、結局最後まで良枝は知らなかったが、その時に会っただけで、頼子と顔を合わせることはなかった。そのうちに忘れていくのだが、

「そういえば、この間、夢の話をしたお姉さん、見かけませんね」

 とマスターに聞いてみると、

「別に彼女来ていないわけではないですよ。どうやら、良枝さんとは相性が合っていないようですね」

 と、冗談めかして話してくれたが、良枝は頼子に会おうと思い、彼女が来ていたという曜日に照準を合わせているのに、会うことができない。時間が合わないのか、それとも故意に彼女が曜日を変えたのか定かではない。マスターにそこまで訊ねるわけにもいかず、

「そうなんですね」

 と、答えるだけしかなかったのだ。

「それに、彼女がここに来る時って、最近は一人じゃないんですよ」

 これは意外だった。一人が一番似合いそうな気がしたからだ。一人でやってきて、常連さんと話をするくらいなら分かるが、最初から誰かと一緒に来るというのはイメージに合わなかった。

「女の人が同伴ですか?」

「ええ、頼子さんよりも少し若い感じの人ですね。二、三度一緒に来られていましたね」

「どんな雰囲気だったんですか?」

「普段から物静かな感じなんですが、二人で来ても、あまり自分から喋るというわけではないですね。相手の女性が話しかけることが多く、彼女は黙って聞いていましたね」

 どんな話なのかは想像もつかないが、どうやら、深刻な話ではないかと思うのだった。頼子は気が合う人とであれば会話が弾むであろうし、気持ちに余裕があれば、誰が見ても分かるくらい穏やかであった。マスターも穏やかな表情であれば、一人でいる時の物静かと比較してあまり変わらないような表現をしないだろう。

「どのあたりに座っているんです?」

「一番奥の端っこですね」

 と指差したその場所は、いかにも密談をするには最適に暗い場所だった。マスターも意識してそんな場所を作ったわけではないだろうが、端っこというのは、見ていて暗く感じる。遠くに感じられ、狭く感じるそのスペースは、店の中での「死角」に当たる場所だと言っても過言ではないだろう。

 良枝はその場所を見つめていた。

「きっと奥に座っていたのが彼女なんでしょうね」

「そうですね。よく分かりますね」

「ええ」

 あくまでも勘であった。彼女と一緒に来た若い方の女性は、きっとあまりありがたくない話を持ってきたに違いない。そのために自分の顔や表情をあまり見られたくないと思うに違いない。それならば、相手は店から見える方向に背中を向けているに違いないと思ったからだ。

 だが、逆に考えれば、困った表情でまるで苦虫を噛み潰したような彼女の表情は皆にまる分かり、何か怪しい話をしていることを隠すことはできないだろう。それでも自分の顔を確認されるのが嫌だということは、二人の間だけの怪しい話であることを示しているように良枝は感じたのだった。

「当たらすとも遠からじ」

 二人は二、三回だけの「密会」だったようだが、それから彼女もしばらく来なくなったという。そしてまた来るようになると、今度は良枝を避け始めた。

「彼女はこのお店で、私以外の常連さんとお話することってありました?」

「以前はあったんですが、今はないですね。良枝さんと話をしているのを聞いて、感心したくらいでしたからね」

 よほど夢の話に黙っていることができなくなったのか、確かに話は熱を帯びて白熱していた。いつになく良枝も興奮していたようで、話終わった後に手の平にはぐっしょりと汗を掻いていた。

 夢に出てきたのが、彼女だということに気付きもしなかった。

 気付いていたのなら、夢を見た時、彼女を探してみようと喫茶店を訪ねていたかも知れない。だが、その時馴染みだった喫茶店は、数か月前に閉店してしまった。他に仲の良かった常連さんがいたわけでもないので、なくなってしまったことに一抹の寂しさを感じたが、それも日常生活の一部だというだけで、何ら感慨深いものがあったわけではなかったのだ。

 気になる人がいたというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。記憶が消えることはないだろうが、封印した記憶を引き出すことも、よほど何かがない限り、あるとは思えない。

 あれからしばらくして、マスターとスーパーでバッタリ出会った。元気にしていて、別の場所で、商売替えをしたという。良枝は気にならなくなってしまったことが自分の中で馴染みだったはずの店も、一つの人生の一ページでしかなかったことを、一塵の風が吹き抜けたような寂しさを感じていた。そんな時にマスターと出会えて、元気でいるのを見ると、何となく救われた気がしていた。

 少し話をする中で、夢の話をしていた彼女のことを聞いてみると、マスターもほとんど忘れてしまっているようだった。あれだけ印象深かった彼女が、マスターの中で記憶に封印されかけていた。それだけ、彼女は自分の気配を最後の方は消していたのかも知れないと感じていた。

 意識的に気配を消すことができる人というのが本当にいるなどなかなか考えにくいが、彼女に関してはありえる気がした。話の内容が夢の話でなければ、良枝の記憶の中からはすでに消えていたはずだからである。

 良枝は自分の中で、あれだけ印象的だった幼女時代に悪戯をされた二人組のうちの一人、つまり飯田以外のもう一人の記憶が消えかかっていることに気が付いた。

 彼女と同じように、自分の気配を消すことが得意な人ではなかったか。まるで消しゴムのように消したとしても、跡はしっかり残っている。消すのは気配だけで、存在まで消すことはできない。

 いや、存在を消すことができないわけではない。消す必要はないのだ。気配さえ消してしまうことが、その人にとって重要なことであるに違いない。

 そういえば、気配を消す意志がないのに、元々気配が薄い人というのは、今までにまわりに一人くらいはいただろう。いつも同じ人だとは限らないが、えてして目立たないようにしていて、印象だけは残っている。ただ、風体を思い出すことはできない。存在だけ意識していて、後はまったく分からないのだ。

 悪戯された記憶も一時期風化される寸前まで行っていたのだが、それを思い出したのは、存在だけ意識していて、風体を思い出すことができない人がまわりにいることに気付いたからだった。

――中学、高校時代には特に意識したような気がする――

 成長期だったこともあって、人にいうとバカにされるかも知れないと思ったので誰にも言わなかったが、いつも誰かに見られている感覚があり、気持ち悪かった。視線はそれほど鋭くはなかったが、そのわりに、突き刺すような痛みを感じさせるものだった。


 頼子は、飯田が死んだのは自殺だと思っている。

 他の誰もが自殺だと思っていないとしても、頼子だけは自殺だと思い続けるだろう。他の誰もが飯田の死を事故だと思っているとすれば、やはり自殺の原因が分からないからだ。頼子も、まさか自殺だなどと最初は思っていなかったので、気が付かなかったが、逆の見方をすることで、今度は自殺でなければいけない気がしてきたのだ。

 飯田が自殺だとすると、頼子には思い当たるふしがある。

「あれは弟だったんだ」

 頼子は、今までに何度か危ない目に遭っている。人に襲われたりしたわけではないのだが、歩いていて上から物が落ちてきたり、自転車に乗ろうとすると、ブレーキが甘かったり、それぞれ危機一髪のところで分かったことで難を逃れたが、一歩間違えると、それも死と隣り合わせの結果が待っていただろう。

 表に出るのが怖くなり、家で一人でいると、誰かに見られている気がして怖かった。見ていた人がいるとすれば弟しかいない。

「まさか、あの子が」

 と思うと、家にいるのも怖くなった。

 しばらく、旅行ということにして家を離れてみた。まさか旅行先にまで追ってくるはずはないと思ったからだ。

 旅行をしていると、それまでの不安な気持ちが次第にほぐれてきた。最初旅に出てすぐは、家を離れたことが却って怖かったが、次第に気が楽になってきた。それは自分ではなくなってきたような錯覚に陥ったからで、たまに普段の自分が嫌になることがあったのを思い出していた。

――普段の自分のどこが嫌だというのだろう?

 いつも同じことをしているわけではないが、時間的に一番長くしていることが自分にとっての普段というのだろうか。会社勤めをしていれば会社にいる時、学生なら学校にいる時、専業主婦なら家にいる時、いや、買い物に出ている時かな?

 それぞれの場面が頭に浮かぶ、結婚経験のない頼子は、専業主婦の「普通」がどんなものか分からないが、親を見ていれば、本当につまらないものに思えてならなかった。

 それでも学生の頃の楽しかったと思える場面も、もし今その場面と遭遇したとして、本当に楽しかったように見えるだろうか。自分の姿がそこになければ本当の楽しさや感情は湧いてこないだろう。結婚生活もつまらなそうに見えても、やってみれば意外と楽しいと思えるものなのかも知れない。表からつまらなく見えることが実は楽しいことであったり、楽しそうに見えることでも、やってみると本当につまらないことだったりと、自分が天邪鬼ではないかと思えてくるのだった。

 旅行には、以前から行ってみたかった温泉を選んだ。誰も誘わずに一人旅である。誰かを誘うと、自分の心境の変化を悟られそうで嫌だったのだ。

 密かに出かけるには、ちょうどいい秘境であった。

 一人で湯に浸かっていると、嫌なことも忘れられる。目の前に並んだ料理も、一人では贅沢なくらいのもので、どうせたまにしか出かけない旅行なら、贅沢三昧してやろうという思いの中でのことなので、思う存分、目の保養を楽しんだ。

 だが、目の保養を楽しんだ後に、実際に食べてみると、えてしてすぐにお腹がいっぱいになってくるもので、これ以上は食べられないという限界が、あっという間にやってくるのだった。

 そんな時、

「こんなに豪華な食事も儚いものに見えてくるのだから、物の価値って一体どこで決まるのかしら」

 と考えてしまう。

 旅行には一週間を予定していた。この宿に三日間、そして少し離れた温泉に四日間の予定にしていた。後の方を四日にしたのは、一日目は、前の旅館のイメージを消すための時間として取っておいたのだ。比較するつもりなどあったわけではないのに、なるべく一週間を二つの宿を平均的な目でみたいという思いがあったのだ。

 最初の宿が陽なら、次の宿は陰だった。どちらも秘境には違いなかったが、後の方の宿は、お客へのサービスというのはさほどない。村の温泉が宿になったという雰囲気で、ガイドブックで宣伝されるようなことは、まずないと言っていい宿だった。

 ただ、表に出たサービスというものはないが、心遣いは十分に感じられた。食事一つをとっても、食べやすい大きさで、客に合わせた量をしっかりと提供してくれる。少し行くと海もあるので、釣り客の常連が利用することが多いと言う。客は釣り客を初めとしてそこそこにいる。女性客は珍しいらしく、その時も女性は頼子一人だった。

 最初の宿の三日間を忘れさせられるほど、雰囲気の違いに驚いていたが、

――心遣いとは、こういうことを言うんだ――

 と、宿の人に愛想は感じないのに、暖かさは感じるのだった。

 旅行から帰ってくると、どこかカルチャーショックのようだった。見慣れた景色なのに、どこか狭く感じられた。

 旅行先の宿やそのまわりが、こじんまりとしているわりには、建築家から見れば規格外の建て方をしているのだろうが、自然に合った造りになっているように思えてならなかっただけに、自然に合わせたというよりも景観を重んじて作られた町並みは、わざとらしい光景に見えるのだ。

 わざとらしさの中には、暖かさは感じられない。活気があったとしても、ウソっぽさで塗り付けられたような光景であった。

 そんな村のようなところにいると、まるで「浦島太郎」になったかのようである。現実逃避しているつもりはなくとも、現実逃避に他ならないことを思い知らされるのは、帰る頃になると、

――このままずっといたい――

 という気持ちにさせられることだった。

 それでも、帰らなければならず、後ろ髪を引かれる思いで帰ってくると、そこに待っていたのは、弟の死という逃れられない現実だった。

――どうして、こんな時に旅行になんか出たんだろう?

 当初の目的が、弟から殺されそうになったと思ったことから、

――少しの間離れてみて、頭を冷やしたい――

 という思いからだったはずなのに、まさか二度と会えないところに行ってしまうことになるなんて、夢にも思わなかったのだ。

 こんなことなら旅行に行かなければよかったと思うのが本当なのだろうが、後悔はしても、旅行に出たことへの後悔ではない。では、何に対しての後悔なのか、ただ遠くを見つめることしかできない頼子は、思い浮かべようとしても思い浮かべることのできない弟の笑顔を、たくさんの人の中に埋もれていく後ろ姿だけを追いかけて、人を掻き分け、逃がさないようにピッタリくっついている自分を想像していた。

 なかなか縮まらない距離、この間までは弟が自分を見て後ろからついてきていたはずなのに、いつの間には、自分が追い越してしまっていた。それが嫌な胸騒ぎを呼び、虫の知らせを感じさせたのだった。

 頼子は、半年前くらいまで、

「死にたい」

 という気持ちをいつも秘めていた。表に出すことはなかったが、秘めている思いをいつも感じながら生活していると、人もおかしな目で見ることもあるようで、付き合っていた男性からも、

「君の目を見ていると、逃れられないような恐怖を感じる」

 という、理由のような言い訳のような言葉が聞かれたが、それは一人からだけではなかった。数人の男性から似たような言われ方をすると、

「やっぱり、思っていることっていくら秘めているつもりでも、表に出てくるものなのかも知れないわ」

 と感じた。

 どうして死にたいと思うのか分からない。彼氏も普通にできて、仕事も行き詰っているわけではない。確かに、自分から人に寄っていくタイプではないが、人から嫌われることもなく、人間関係は悪くない。どこに不満があるというわけではないのに、死んでしまいたくなるのはなぜであろう?

 死と隣合わせに何かがあるのを感じていた。それが自分にとって何なのかは分からないが意識の中に存在している。

 時々その陰に弟がいるのを感じることがあった。弟が誰かを好きになったのだが、それは頼子を通してその人を見ているように思う。

「直接見ればいいものを」

 と、思うのだが、直接見ることに抵抗があるのか、頼子を通してでしか見ることができないのか、とにかく、意識は頼子の背中から感じるのである。

 危ない目に遭って、逃げたい気持ちの元、出かけた旅行から帰ってきて、自分の部屋の懐かしさを感じていたちょうどその時、飯田の訃報が伝えられた。

「どうして?」

 訳が分からないまま、死んでしまった弟のことを考えていると、頼子はまたもや背中に視線を感じた。背中から差すような視線は、背中にたっぷりの汗を掻かせ、そのまま金縛りにでも遭ったかのように、身動きすることができなくなってしまっていた。

 ここからの慌ただしさは、先日まで落ち着いた気分を台無しにした。死んでしまった弟なのに、

「せっかくの気分を台無しにして」

 と、そんな場合ではないはずなのに、恨み言の一つでも言いたい気分にさせられた。ただ、これも飯田姉弟の繋がりの一つで、死んでしまった弟への悔やみの一つだと思っていた。

 飯田が死んだことを一番信じられないと思っていたのも、そして一番飯田の死を受け入れられると思ったのも頼子だった。

「あの子に対しては、何でも私が一番だわ」

 と感じた瞬間、姉弟でありながら、弟のことを男として見ていた自分がいることに改めて気付かされた頼子だった。

 飯田も死ぬ前、頼子を完全に女として見ていた。女は頼子しかいないというくらいに思っていたのだ。

 死を迎えることになった原因はいくつかあるのだろうが、その一番大きな理由は、頼子に対して女として見てしまったことだったのだ。

 頼子が感じた死の予感、自分に対して危害を加える飯田の行動は、苦肉の策だった。もちろん、本当に殺す気があったはずなどないのだが、頼子を危険な目に遭わせることで、少しの間、頼子から自分と離れることを選択させたのだ。自分から離れられれば一番いいのだが、そこまで頼子に対し、自分が行動を起こすことができなくなってしまっていたのだ。

 旅行に出かけさせておいて、飯田は自分にどのような試練を課したのだろう。最後には、「死」という道を選ぶ結果になったのだが、それしかなかったのだろうか? 頼子は飯田が死んだことで、分からなかったことが少しずつ分かってきたような気がしていた。分かったところで弟が帰ってくるわけではないし、取り返しがつくわけでもない。頼子にとって飯田がただの弟でなかったことを、本人の死によって思い知らされるというのは、実に皮肉で虚しいものだった。

 死んでいった弟の墓前で手を合わせていると、声が聞こえてきそうだった。

「お姉さんが、そんなに悲しんだら、僕はどうしたらいいんだい?」

 不思議と弟が死んだと言うのに涙が出てこなかった。そんな自分に対して当事者である弟がまったく違ったイメージで見ているのはどういうことだろう?

「私はそんなに悲しんでいるわけじゃない」

 と答えると、

「悲しみを抑える人がいるけど、お姉さんは抑えているわけじゃなさそうだね。でも僕には姉さんが、僕ともっと話がしたかったという気持ちと、心の奥にある気持ちを分かっているつもりだろう」

「心の奥?」

「うん、姉さんは本当は僕のことが好きなんだよね、オンナとして。僕はそれを死ぬことで知ることができた。これも実に皮肉なことだよね。死ななきゃ分からないなんて、悲しすぎるよね。できることなら生き返りたいけど、そんなことができるはずもない。だから、こうやって話すしかないんだ」

「私は、話すだけじゃ我慢できない。やっぱり、あなたと触れ合っていたいの」

「ありがとう、それは僕も同じだよ。でもどうすることもできない。これからお姉さんは誰かを好きになって結婚していくんだろうね、手をこまねいて見ていないといけないというのも本当に辛いよ。これも実の姉を好きになってしまった報いなんだろうか?」

 弟が報いを受けるなら、私はどうなのだろう?

 このままむざむざ、年を重ねていくのを待っていなければいけないのか。弟は自分が誰かを好きになって結婚していくと言ったが、そんなことができるはずがない。少なくとも今はできるはずがないと思っているのは、弟の呪縛を感じるからだ。

 嫌な呪縛ではない。姉としてではなく女として弟は縛ってくれようとするのだ。だが、どうせなら生きている人間に縛られたい。誰も信じられないような、そしてそれを信じている自分をおかしいと思いながら、いつまで感じることになるというのだろうか、この呪縛……。

(姉さんは、僕のことをどう思っているんだろう? 死ぬことで何か分かるかも知れないと思って死んでみたけど、結局何も分からない。僕は墓前からしか前を見ることができず、しかも、見えている視界は一方向しかない。身動きができず、ないのだから当たり前だが、首を振ることができない)

 飯田は、死んでしまった自分を回想していた。

(でも、姉さんのことを思うと、どこにでも現れることができるんだ。どうやら死の世界とはいえ、行動パターンは限られている。死の世界といっても、ここは成仏できずに彷徨っている場所。生きている人間の世界のように、彷徨っていても自由に行動できるわけではなさそうだ)

(僕がどうして死んだって?)

(皆、疑問に思っているようだな。事故だと思っている人がほとんどで、後は自殺。そんなイメージしか生前の僕にはなかったんだろうな)

(僕は死ぬのが、怖いわけではなかった。痛かったり苦しかったりするのは怖いけど、死んだ後のことを考えたこともなかったし、考えるのも怖かった。とにかく怖がりだったんだなと今さらのように思ってしまう。でも、今は怖がりではない。怖いという感覚がマヒはしているが、怖いものは生前であっても、死んでからも同じなんだ)

(好きなものも同じで、姉さんに対しての特別な思いは、好きだというのとは少し違う。精神的にも肉体的にも比較ができない感覚が好きだということではないかと生前思っていたが、実際に死んでしまって肉体を感じ合えるのは不可能になったが、姉は死んだ人の悲しみがそこにあることをどれだけ分かってくれているだろう。死を選択してしまったことを後悔するとすれば、姉に対して好きだという感覚を持った時。それ以外はたとえ相手が姉であっても後悔することはない)

(本当に不思議な感覚だな。死んだから感じることであって、死ぬ前には精神と身体は別だと思っていたくせに、どこか比較してしまっていた自分がいた。その比較で感じる気持ちが好きだという気持ちに直結していると思ったからだ)

(だけど、僕は姉さんばかりが好きだったわけじゃない。他にも好きな女の子がいっぱいいた。女の子をいっぱい好きになるのが僕の性格で、それが悪いと面と向かって言われたことはなかったけど、自己嫌悪には陥った。それに他の人からの目が、まるで戒めるような目だったような気がして、何も悪いことをしているわけではないのに、そんな目をされてしまった僕はどうすればよかったんだ)

(好きになった女の子の中には、前によからぬ感情を抱いて、行動に出てしまった女の子を彷彿させる娘もいたな。同じ人だったとすればすごい偶然だけど、ありえないことではない。僕が悪戯をしたあの子は、一体今どうしているんだろう?)

(でも一緒に悪戯をしたあいつもすごいよな。どうしてあんなことができるんだ? 僕はあいつにそそのかされなければ、あんなことはせずに済んだ。トラウマが残ることもなかったんだ。悪魔の囁きとはよく言ったもので、甘い蜜を振りまいていた相手に逆らうことができないでいたのだ)

(あいつには罪悪感なんてものはないかも知れない。今どうしているんだろう? 普通に暮らしているのかな? でも、あいつに似たやつを最近僕は知っている。まるで再会を誰かが望んでいて、見えない力に操られるように出会ったのだとすれば、偶然という言葉で言い表せるものではない。そいつは、天使なのか悪魔なのか、決めるのは僕自身だ。天使も悪魔も僕の中では、僕の言いなりでしかないのだ)

(姉さんも、あいつのことは知らない。だけど、こうやって死んでしまうと、今まで見えなかったものが見えてくる。自由の効きにくい世界であるが、現世で見えていなかったものが見えてくるという感覚を今、僕は味わっている。あいつが一体何者なのか、今僕がいる世界からだと見ることができる。現世では絶対に感じることのできなかった感覚は、年齢、性別を超越したものだ)

(そうだ、年齢、性別を超越しないと理解できないものが現世にはあった。不可思議な出来事やオカルトチックなことであっても、理解しようとしてできるものではない。それは年齢、性別にこだわりがあるからだ)

(あの時の僕はまだ少年だったが、一緒に悪戯をしたあいつは、「少女」ではなかった。悪魔のような「女」だった。少女だと思うから、男女の違いを意識することもなく、悪戯心があるのだろうと思ったが。女であるとするならば、少女に悪戯したいという感覚は、また違ったものである。もちろん、子供の頃にレズビアンなんて存在を知っているわけではないし、もし存在を知っていたとしても、どこが悪いのかなど、分かるはずもないのである)

(死んでしまった僕には、悪戯をした張本人である女と、そして悪戯をされた女が会っていることを知っている。しかも二人が親密になったのは、僕が自殺をしたちょうどその時だった。これは偶然で片づけていいのだろうか? こっちの世界でいろいろ見えてくるにも関わらず、このことに関しては、偶然だとしか表現できない。

(偶然というのは、現世で感じるのと、こっちの世界で感じるのと、さほど違いはないのだが、少し考えてみると、これほど大きな違いもないだろう。それだけ偶然のもたらす力が、現世でもこちらの世界でも大きなものであることに違いないということだ)

(あの時、僕が断っていればどうしただろう? 他の人を探しただろうか? いや、探すくらいなら一人でしたかも知れないと思うが、それは想像ができなかった。でも、僕がいて、ちょうど苛めの対象になる女の子がいた。そこで生まれた悲劇、これは偶然なのか、それとも何かの力が働いているのか、この僕にも分からない)

(僕はこのまま年を取らずにここにいることになるのだろう。このまま退屈な毎日を過ごすことになると思うとゾッとするが、これも僕が選んだこと。本当は、次の世界が待っているのに、ここでとどまっているのは、いわゆるこの世に未練があるからであろう。何が未練なのかと言われると、今頭に浮かぶのは姉さんのことだ。何かを伝えなければいけないと思っていながら、それが分からないままに死んでしまった。自殺する前に気持ちの整理はつけたはずなのに、どうしてもどこか投げやりな気持ちになってしまうことで、中途半端な場所にとどまってしまうことになってしまったのだろう)

(自殺のことは、かなり前から考えていた。死んでしまいたいという思いが強かったはずなのに、死のうと決意した時。不思議と死にたいとは思わなくなっていた。しかし、死が怖いわけではない。生きていても仕方がないという思いの方が、死ぬことを思い止まるよりも強かったからだ。死ぬことへの恐怖は、何かと比較できるものであり、そう思うと、死ぬことの怖さというのは、それほど深いものではないように思えてきた)

(僕は生前、人が死んだところを目の当たりにしたことがあった。まったく縁もゆかりもない人だったが、バイク事故で、それはそれは見るに堪えないほど、ぐしゃぐしゃになっていて、グロテスクなどという言葉で簡単に片づけられない気がした。それは、僕がその人に感情移入してしまったからだろう)

(その人は、顔が分からないほどに潰れていて、肉親だったら、まずまともに見ることができないだろう。まったくの他人でもあそこまで潰れていると、感情がこみ上げてくる。その人がどんな人生を歩んできたのかということを知りたいと思うからだったのかも知れない)

(僕が死を意識した時、当然のごとく、その時の顔を思い出した。あんな風になってしまうのは嫌だった。だが、どんな死を迎えたとしても、悲惨なものであることには違いない。それならば、後は自殺ではなく、事故死だと思わせるのが、いいのではないかと思った。死んでいくのだから、死んでから思うことなどはない。だからこそ、死に際の自分を少しでも美化したいと思うのだ。自殺ではなく、事故……。そう思わせることが、死に対しての自分なりの「美学」だったに違いない)

(僕が事故死ではないことを一番信じたくないのは姉さんで、一番信じているのも姉さんだろう。僕のことを誰よりも分かってくれているからだと思っていたが、それだけではないかも知れない。僕に対して抱いてはいけない感情を抱いてしまった自分に対し、戒めの気持ちもあって、隠そうという意識とともに、自殺した僕の気持ちを他の人に悟られることを嫌っているに違いない)

(姉さんは、僕が死ぬ前に旅行に出かけた。僕が危ない目に遭わせたからだろうが、本当は姉さんがあの時に死んでくれていてもよかったと思う。何も知らずに死んだ姉さんが、あの世で僕を待ち受けてくれているという想像をしただけでウキウキしてくる)

「やって二人きりになれたね」

{そんな姉の声が聞こえてくるようだ。姉は僕が思っているよりも、それ以上に僕のことを思ってくれているのかも知れない。本当に僕にとって都合のいい考え方だけど、それ以上でもそれ以下でもないような気がする。姉さんにとって僕は、僕にとっての姉さんよりも、その思いは強いものであってほしいと思っている}

(でも本当に都合のいい考えだ。姉さんが先に来ていたとしても、今は僕一人のこの空間に、姉さんと二人きりになれるなんてありえることではない。一人きりでいられることさえ偶然なのかも知れないのに、二人が一緒など、いてもいいのだろうか? 現世での因縁が、ここで通用すると思ったら大間違い。もし一緒にいられたとしても、記憶を消されていたらどうだろう? 知っているはずの人が分からないという気持ち。これほど虚しいものはない。余計なことばかり考えていると、胸の鼓動が高鳴りを続け、息苦しくなってくる)

(ここはあの世のはずなのに、苦しいなんて感情が存在するなんて、思いもしなかった。元々あの世という世界の概念を誰が作り上げたのだろう。本当に誰か知っている人がいて、伝え聞いて伝承してきたのだろうか。確かに現世にいた頃よりも現世を広く知ることができる。ただそれは本当に僕の感情なのだろうか? それを思うと、現世とこの世界の繋がりについて、感慨深いものがあると思えたのだ)


 飯田が、現世の人に限りなく近いところで、違う次元の上に乗っかっているのだが、そのことを知っている人は誰もおらず、相手からは見えるが、こちらからは見えないという不思議な世界を彷徨っていた。

 本人には彷徨っているという意識はない。彷徨うには、まわりを意識して、自分がどこにいるのかということを最優先で考えるから、彷徨うのだ。だが、どこにいるかということよりも、どこにいれば、現世がしっかり見えるかということに重点を置いている。見つめるその先に現世があるのだから、現世に未練があるのではないかと思われてもおかしくない。

 現世に未練があれば自殺などしない。だが、未練があるはずの相手を想うと、自殺しか手段がなかったことを考えると、余計なことを考えるのが情けなくなってくる。ただ、見つめられている相手が、少し死んだ自分の存在を漠然としてだが意識しているのを考えると、飯田は、自殺が決して悪いことではなかったのだと思うのだった。

 自殺は時と場合によって正当化されてもいいのではないかと思う。

「死」というものがすべて否定される世界であれば、老衰も否定されて当たり前、ただ自分の人生の中で自分で決して選んではいけない一番の戒律は「死」であった。戒律を定める宗教が、今までどれだけの争いを巻き起こし、死者を作り上げてきたか、考えるだけでも虚しくなってくるというものだ。

 飯田が、現世と「あの世」の狭間を彷徨っている頃、由美は自分の今後について考えあぐねていた。

 将来のことをあまり考える方ではなかった由美だが、ここ最近、いろいろと考えるようになった。それは結婚したからというわけではない。結婚したのも当然理由のうちではあるが、それ以外に感慨深いものがあるのだった。

 結婚した相手である茂は、由美に対して何の注文も、文句も言わない。ただしたがっているだけの男性で、由美にとっては扱いやすい人であった。

「恋愛相手と結婚相手は違う」

 と言われるが、まさしくその通りだった。

 由美が見合いしたのも、結婚前から男遊びが頻繁だった由美を見かねた親戚のおじさんが、

「見合いしてみるのもいいぞ」

 と、

――どうせダメだろう――

 と、見合いを断るかと思いきや、

「じゃあ、してみようかしら?」

 と、アッサリ受けたのには、まわり皆ビックリしたようだ。

 もちろん、由美には結婚しようという意思はなかった。

「少々「使える男」なら、ちょっとした寄り道もいいか」

 と、ちょうどその時、付き合っている男性がいなかったこともあり、暇つぶし程度の気持ちで見合いをしたのだ。

 思ったよりも見合いというのも悪くないと思った。新鮮な気がするからだ。相手も真面目そうで付き合ってみるにはいいかも知れないと思った。その人を断って、もう一度見合いをしようかとも思ったが、

「見合いは何度もするものじゃないな」

 と言っていた遊び友達の話を思い出した。

「最初は新鮮なんだけど、回数を重ねるごとに、新鮮さがなくなってくるのよ。次第にシラケてくるというか、相手の男が情けなくしか見えてこなくなるの」

 どうせ見合いをするような男性だ。今まで彼女もできずに、見合いに頼るしかないと思ったのだろう。

「見合いなんて、一回だけで十分だわ」

 と思うのも、当然ではないだろうか。

 茂には、どこかオドオドしたところがあり、人に怯えている態度は、今まで長い付き合いの友達がいて、

「その人に頭が上がらないのではないか」

 と思ったからだ。

 その相手がどんな人か分からないが、そこに自分が入ることで、この人がどうなるか、興味があった。

 ただ、たまに高圧的な態度を取ることもある。その時に、すでに由美には茂の中にある「三すくみの関係」が目に見えていたのだった。

 ただ、夫にとって自分が優位に立てる相手の男性が、飯田という名前だと言うのは知っているが、それが自分の子供の頃に因縁があった相手であることは知らない。しかも、その因縁のあった相手が、時間が離れているとはいえ、同じ人間をお互いに従わせていたなど、ただの偶然であろうか。

 ただ、この二人の関係が、遠い過去へと遡る時、二人を取り巻く環境が、糸となって繋がっているのは見えてくる。繋がった糸は、ほつれないように強く結ばれ、そのせいか、誰かが動くと、その時点から、絡まってしまう。絡まった糸の先が見えるわけではないので、絡まった相手が誰と誰なのか分からない。そんな状態に、今包まれているようだった。輪の中心にいるのは由美であり、目立たないようにしているつもりだったが、絡まった糸の先の相手は、必ず由美を意識する。

 それは女性であっても同じこと、特に直接被害を受けた良枝は、記憶が定かでない中で、由美の存在が自分にとって大きなものであり、さらに自分の夫に食指が動いているなど知る由もない。ただ、食指が動いているとはいえ、本当に吾郎が由美に靡くとは思えなかった。吾郎にとって、一番嫌いなタイプの女性だと思っていたからだ。

 良枝の危惧はそれだけではなかった。良枝自身も由美という女性が、自分にとってどんな存在なのか少しずつ分かりかけてきた気がしたからだ。由美と廊下などですれ違った時に感じた視線は、身体に震えを感じさせ、ひどい時は、そのまま嘔吐を催すことさえあったのだ。

 ただ、それが子供の頃の記憶に直結していることまでは良枝にも分からなかった。由美にもまさか、自分が悪戯したことのある相手だなどという意識もなく、視線を強く送っているのは、

「吾郎の妻としての、ライバル心」

 からであった。

 ただ、そこに嫉妬が絡んでいるわけではなかった。由美という女は負けん気が強く、他の女性に対し、嫉妬心を感じるようなことなどないと、自覚していたのだ。

 嫉妬心は自分の負けを示していると思っていた。負けることは自分には許されないと思っている。それは相手が男であっても女であっても同じで、子供の頃から変わっていない。女の子に悪戯したのは、後にも先にもあの時だけで、どうしてあんなことをしたのか分からなかったが、自分の中で、

「何かに負けたくない」

 という意識があったはずなのだが、その何かとは、思い出すことができない。由美にとっても悪戯してしまったことは、

「忌まわしい過去」

 であり、忘れ去ってしまいたい記憶の中の汚点だったのだ。

 由美の視線を感じた良枝は、自分がそのまま倒れてしまうのではないかと思いながら、どうしてそんなに恐れるのかを考えてみた。

 子供の頃の記憶が影響していることは何となく分かったが、悪戯された記憶では、

「男の子二人」

 が相手だったと疑う余地はなかったので、今のままでは思い出すことはできない。何かのきっかけが必要なのだろうが、それを教えてくれたのは茂だった。

 茂が飯田の死のことを話の中でぽつりと話した。飯田とは直接的に話をしたことは二、三度しかなかったが、あの時も嘔吐を催した記憶があった。奇しくも同じような嘔吐を催す相手が今近くに存在している。どこかで繋がっている因縁が、良枝に襲い掛かってくるのではないかという言い知れぬ不安に苛まれるのであった。

 飯田が悪戯をしたのは、由美に対して逆らえないという気持ちがあったからだ。それが大人になってから茂に感じた、逆らえないという気持ちとは少し違っていたかも知れない。その時、自分は坂口に対して逆のイメージを持っていたからだ。

 坂口は飯田に対して、どうして逆らうことができないのか分からないでいた。本人が分からないのに、相手が分かるわけもない。ただ、逆らえないという意識だけは自分にも持っているので、分からないでもないが、逆らえないことが子供の頃と違った感覚であるように、人それぞれ違って当たり前である。

――一体この中で、誰が主導権を握っているのだろう?

 この思いは、それぞれの人間が持っていた。

 一番強く感じているのが由美であり、その次は良枝かも知れない。

 ある意味巻き込まれた感の強い頼子だが、彼女の果たしている立場は微妙で、大きな影響があるのは間違いない。頼子は接点が少ないが、それでも大きな影響があるのだ。

 それは吾郎にも言えることで、吾郎も由美と関係さえ持ってしまわなければ、蚊帳の外だったかも知れないが、関係を持った時点で大きく関わることになる。

 ただ、これも由美の計算だった。

 吾郎を蚊帳の外に置いておくことを嫌った由美が、納得ずくで吾郎を誘惑した。吾郎も由美に誘惑されたことを当然のように受け止めているのは、大きな渦の中に巻き込まれることを快感のように思ったのかも知れない。

 ただ、良枝が自分の悪戯した相手であるということは、最初から分かっていたのかは、疑問である。これは本当に偶然だったのだろう。ここまでの繋がりができあがるには、一つくらい偶然があってもいいのではないかと思うが、それも何かの力が働いていると思うのも無理のないことだ。

 由美と飯田が深く関わってできあがったこの関係。ただ、飯田はすでに死んでいるのだ。飯田の気持ちを誰が分かるというのか、由美は考えてみた。

「やはり、頼子さんしかいない」

 由美は頼子に対して尊敬の念を持っていた。そして、自分の中で勝手に。

「頼子さんには逆らえない」

 と思ったのである。

 頼子と由美は、それほど親しいわけではない。飯田が一度頼子に由美を紹介し、由美はあまり頼子と親しいつもりではなかったが。頼子の方が慕ってきたのだ。

 だが、そのうちに立場が逆転してきた。頼子が慕ってきているはずなのに、由美が頼子に対して次第に頼るようになっていった。

 頼るだけではなく、そのうちに逆らえない自分を感じるようになった。弟の飯田に対しては絶対服従のような気持ちを表しているのに、姉に対しては逆らえない。飯田が頼子に逆らえない気持ちでいるのだから三すくみではない。

 だが、実は頼子自身は、飯田に逆らえない部分があった全部ではないが、この姉弟は、お互いに逆らえない部分を要していて、それぞれに違うところで慕う関係だったのだ。そのことを飯田はいつ頃から意識し始めたのだろう。悩みに思うようになっていた。

 頼子は悩むことをしなかった。

「これが姉弟の本当の姿なのかも知れないわ」

 と感じていたので、弟が悩んでいることなど、まったく分からなかったのだ。

 頼子と飯田と由美の関係は、それぞれに立場が明確だった。

 頼子は飯田に対して強いものを感じ、由美は頼子に強いものを感じていた。そして飯田は、自分では分からなかったが、きっと姉に対して強かったのだろう。

 由美は頼子とは性格も雰囲気も正反対なので、お互いに惹き合う共通した部分はない。どちらかがどちらかに委ね、慕う関係であった。

「こんな関係って、本当に薄っぺらいものなのかも知れないわ」

 そう感じたことで、由美にとって頼子は悩みの種になってしまった。由美と頼子はそれぞれで違うところに悩みを抱えていたのだ。共通する性格ではないというのも分かると言うものだ。

 由美は頼子に対して、自分優位の立場を作りたかった。これからの自分が、まわりの人に対する影響を深めていくことが自分にとってどれほどいいことなのかと思ったからだ。

 由美の自分勝手な性格を誘発したのは、飯田の死によるものだった。

 飯田は由美の性格を分かりきっていることで、逆らえなかったのだが、頼子に対しての気持ちと由美に対しての気持ちの狭間で揺れ動いた中での死だった。

 本当に死にたいとまで飯田は思っていなかったであろう。死を目前にして、立ち止まるはずだったのに、そのまま突っ切ってしまった。ただ、後悔はない。

 由美の中に飯田が死んだことで、吹っ切れたもの。虫の知らせを受けた人間は何人かいたが、虫の知らせによって、吹っ切れたのは、由美だけだった。頼子は吹っ切ることができない。その間に由美は自分の意志を超越して、普段なら思いつかないようなことまで企てる。しかも迅速に行動したのだ。

 結婚までもが「企て」の一つだった。

 飯田は、死んでから考える相手は頼子のことだけだった。由美はそれでいいと思った。死んだ人間にまで自分の影響力を強めようとは思わない。

 ただ、死んでしまったことで永遠に果たせないことがあったのも事実だ。それが未練とはならないところが由美のすごいところだろう。


 すべては飯田の死によって、由美が企んだことで、まわりがいかに考え、いかに動いたか。この物語は主題があるわけではないが、それぞれで揺れ動く心理を、それぞれの目を通して見た架空のお話である。

 誰が主人公というわけではなく、途中から現れた登場人物もある。人間ドラマと心理が微妙に絡み合ったお話として見ていただければ幸いである。

――人間の死と企み――

 人間の死が永遠のテーマであることを信じ、由美の企みを制御できる人がいるとすれば、それは頼子なのか、良枝なのか、女性でないとできないことではないだろうか。なぜなら、制御できるはずの飯田が死んでしまったからである。飯田がいてこその頼子の由美への影響力である。タガが外れたとしても、頼子を思い続ける飯田が彷徨い続けている間、違う意味での平衡感覚が生まれているのだ。第三局の平衡感覚が生まれるとすれば、そこに良枝も絡んでくるのかも知れない。それを知っているとすれば、飯田だけなのだ。何とも皮肉なお話であろうか。

 飯田の成仏と、第三局の平衡感覚を嘆願し、作者は筆をおくことにしよう。

 あらためて言っておくが、あくまでも、このお話は架空の物語である。なぜなら、ここまで偶然と心理の調和が重なることなど、ありえないからだ……。


                 (  完  )

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死がもたらす平衡 森本 晃次 @kakku

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