フォアグラを作ったひと・フォアグラのひと

『罪悪感を、感じなくても良い。俺が好きでやっていることだ。きみには関係ない』

『だから、まあ。きみは………せめて、美味しく頂かれることを祈っててくれ給え』

「………それにね。おぶってくれると言っても、だ。今の顔を見られるのは気が引ける」

「変な事を気にするな、だって?ふふ……まあ、そうかもな。いやなに、……珍しく俺も、恥じらいというものが湧いているだけだよ」

「……それでも、…………気になる?」

「そうだな。俺としても………若者がこの先、しこりを抱えたままというのも、嫌だしな……いや、そんなの今更か」

「………じゃあ。こうしよう。一か月後に――――――――」



一か月後に■■駅の西口で待ち合わせをしないか。生きている証拠をお見せしよう。

そう言われたのは一年前の事である。というのも、俺自身がこの一年、ボロボロの生活をしていたからだ。主に、変なバイトの雇用主と喋るガチョウと己の人でなし具合のせいである。

「あのバイト」の後、俺は寝込んだ。もう何も食いたくなかった。あれもこれも命の上に立っている、それだけの、ごく当たり前の事実に耐え切れなくなったのだ。

勿論頭では「あんな惨い作り方をするのはフォアグラくらいなもの」だとは思っている。しかし食事―――――特に、肉を見ると吐き気がするようになった。魚も駄目になって、野菜からは悲鳴が聞こえた。そのあたりで布団から一歩も出られなくなり、ただただ己の腹の音だけを聞いて日々を過ごした。

けれど体というものはどうも我儘で。食べねば調子も気も狂い、飲み物は欲する。どれくらいの日々を水と冷蔵庫に残っていたビールだけで過ごしたろう。

冷蔵庫の中の食材が腐っていく音が聞こえる。

己の体から臭いがする。

今日も居間の電気は付けられなかった。

そうして歩くのも面倒臭くなったところで、「あのひともこんな気持ちだったのあろうか」と思い――――少し泣いて、また眠った。



『フジミヤ。藤宮蘇芳』


そう名乗った、低く少し甘い声のガチョウのことを夢に見た。



俺は一年くらいそうしていると思っていたが、友人によるとたったの数日だったらしい。

心配した友人に救助された俺は、入院し、しばらくは点滴で過ごした。点滴の次はゼリーを食べた。ゼリーの次は食事が出てきた。肉料理だった。俺は恐怖のあまり失禁した。

あれだけの経験をした俺はすっかり精神に異常をきたしていて、「命を奪う行為だから料理を食べることは許されない」と毎日のように零していた。今思えばそれこそが傲慢な思考であり、所謂「命を無駄にしている」行為に他ならなかったのだが、当時の俺は自分が食べなければ食べ物になった動物たちは俺の事を赦してくれると本気で思っていたのである。



「――――――――――」

息を吐く。俺は■■駅の西口に立っていた。あの男は「一か月後に」と言ったが、俺はその約束を破ってしまった。弁解すると、破ってしまったというよりは物理的に行けなかったの方が正しい。一か月というとまだ入院生活をしていたし、歩行練習をしていたあたりだ。

長めの回顧を終え、ふうと息を吐く。結局、この場所に来れるまで―――――否、社会復帰が出来るまでに一年半の月日を要した。我ながら若い時分を無駄遣いしてしまったと思う。

今は、ようやく仕事にも慣れてきたところだ。食事も―――――かなり食べられるものが増えてきた。

なにせ、食べなければ腹が減る。

食べればそれらは己の血となり、肉となり、糧となる。

そんな子供でも分かるようなことを、もう一度呑み込めるまでが長かった。

……………けれど。まだ、肉だけは食べられない。

どうしてもあの声を思い出してしまう。どうしても、あのガチョウの行方に思いを馳せてしまう。

「(…………だから、来たんだよな)」

この場所に来たら、何かが変わると思ったのだ。けじめになると、区切りになると思ったのだ。だから俺は、来るはずのない男を待つために一日をつぶすことにした。

十二月の駅前は誰も彼もが寒そうにしていて、一刻も早く駅構内に入ろうと早歩きになる人ばかりだ。体を丸めて寒さから身を守ろうとする女性、コートに帽子にマフラーに、全身がもこもこの子供。スーツにコートというシンプルな格好なのにシャンと歩くサラリーマン。カラフルなセーターに身を包んだ老夫婦。

様々な人が俺の横を通り過ぎ、消えていく。俺はその人たちを目で追いながら、心の中で苦笑した。

「(………何してるんだろう、俺。俺はアレの顔すら知らないってのに)」

俺はあのガチョウの、唇と、その中の温度と、声しか知り得ない。

だのに彼は「一か月後にまた会おう」と言った。彼だって俺の声しか知らないだろう、なのにどうしてあんなことを言ったのだろうか。もしかしたら、彼もまた遂げる気が無かったのかもしれない。

よく考えてみたら、それはそうなのだ。不老不死なんてものはなく、あれは彼なりの――――死へ向かう自分と俺への、精一杯の気遣いだったのかもしれない。


ガチョウの肝臓は、美味しかったのだろうか。


そんなことを思った瞬間、帰ろう、と思った。区切りを付けるという目的は果たした。ならばもう帰っても良いだろう。どうせ来ないのだ、一年前も、今だって―――――――


「……………おや。見覚えのある顔だな、君」


ふと、世界に音が入ってきた。顔を上げれば、目の前には背の高い男が立っていた。この寒い中着物に上着、マフラーという些か浮いた服装をしている。俺が呆然としていると、男は手袋を付けた手を顎の下に当てて「ううん」と唸った。

「覚えがあるんだよな……君、俺とどこかで出会った事は無いかい?」

「え、あ、その」

俺の判断材料は「それ」しか無く。

彼の最大の判断材料もまた、「それ」だったのだ。


「ちょっと喋ってくれないかい」

「もうちょっと喋りませんか」


冬の駅前で俺たちは声を重ねたのであった。


「いやあ、寒い寒い。こういう時は珈琲一択だな。む。ブルーベリー乗せチーズケーキとナポレオンパイが期間限定だと?いや待て、飯時だしな。カツサンドでも食うか。君はどうする?」

「……………紅茶で。……あと、トースト」

「おや、腹は減っていないのかい」

「……………あまり食う気になれないだけです」

それより、と俺は水を一口飲んでから言葉を発した。

「あなたは、………もしかして、フジミヤさん……ですか?」

「如何にも。………待てよ、自分で思い出したい。ええと、君とはどこで会ったんだっけな…………客なら顔をハッキリ覚えているはずだし」

「………おぼろげに、覚えてた?」

「ああ。しかし声だけ馴染み深くて顔はあまり覚えていないというのも中々機会が無い。はて、どこだったか――――――――」

水を飲むフジミヤの顔を見ながら思う。こんな顔をしていたのか。なるほど、声に見合った顔をしている――――そう、素直に感じた。というより俺ばかり意識しているようなこの状況に苛立ったので、俺は最大ヒントを口にすることにした。

「…………あの、フォアグラ、」

「思い出した。あの時のバイト君か」

両の目が俺の視線をとらえる。俺は思わずドキリとしてしまって、反射的にテーブルに視線を落としてしまった。

「…………お久しぶりです」

「あの時はよくもすっぽかしてくれたな?半日くらい待ってたんだぜ、これでも」

頬杖を付いてそんなことを言うフジミヤは、言葉の割に愉快そうな声色をしていた。顔は怖くて見られなかった。

「色々あったんです、あの時は」

「色々、とは」

「あんなことがあってすぐに立ち直れるわけがないでしょう」

言葉尻に怒気が含まれたのが、自分でも不思議だった。フジミヤは少しだけ間を置いてから「………………まあ、そうか」と呟く。

「しかし安心するが良い。俺はこの通り五体満足で生きている。君が罪悪感を感じることも、罪の意識にとらわれることも無い。どうだい、すっきりした?」

「―――――――――――」

「してないようだな。難儀な奴だ」

料理が運ばれてくる。俺の手もとには半分に切られたトーストにゆで卵にあたたかな紅茶。彼の前には肉厚なメンチカツが入ったサンドイッチと湯気の立った良い香りのコーヒーが置かれる。俺だって一年半前はああいう脂っこいものが大好きだったんだ。それを。それが。

「これだけ、聞かせてもらってもいいですか」

「うん?」

「どうして最後の十日間、黙ったままだったんですか?」

フジミヤは目をすい、と細める。そうして少し考えるような素振りを見せてから口を開いた。

「苦しかったから、かな」

「呼吸が、ですか」

「それもあるが。君がさ。青かったもんで」

「青い、とは」

「目の前にいる人間を助け出す、なんて言いだすのは青いだろう。まして、もうあの時の俺はいつものかたちでは無かったわけだし」

「でも俺は、……………助けられるものなら、助けたかったです」

「………どうしてこう、俺が長く関わる若者というのはこうなんだ。どいつもこいつも、己の行いを恥じて、ひとりだけ真っ当になろうとする。割り切ってしまえば良いのに」

「割り切れ、ませんでした」

「………………どうして」

「…………色々理由がありますが。情が湧いてしまったからかも」

「はは、小学生が教室で豚を飼うみたいな話だな」

「俺は!あなたの話を―――――――――」

机を思い切り叩く。周囲の視線がこっちを向こうが知った事では無い。ふうふうと息を吐きながら、俺はようやく彼の表情を真正面から見た。

「………………………どうして」

彼は笑っていた。それは俺を蔑むでもなく、憐れむものでもない、かといって愉快であるというわけではない―――――そういう類の笑みだった。

「俺は、人でなしだけれど。人間性のすべてを捨てきれたわけじゃない。それが偶に邪魔くさい」

「…………………」

「だから君らのような、誰かの我儘で手を汚して、傷ついているような子を見ると良心が痛む。けれど同時に―――――割り切れとも思う。忘れろとも思う。覚えていたってなんの得も無いだろう」

「勝手な話だ」

「勝手だよ、俺は。……………俺は人に覚えていて欲しいと願うが、ある一定のラインを越えると忘れて欲しいと願う。君には忘れて欲しい」

「それって、」

錠が湧いてるってことじゃないですか、と俺は聞いた。

彼はびっくりしたような顔をして、それから軽く笑った。

「………………そうかもしれないなあ」


「あの時のフォアグラ、どうだったんですか」

「うん?ああ、大層美味かったらしいぜ。流石俺の肝臓。なあ、君も食べてみるかい?」

「嫌です。あの日以来俺、肉が食べられなくなったんですから」

「………………それは、ごめん」

「謝らないでください」

「…………俺の肉でリハビリする?部位は選ばせてやるから」

「あなたのせいで肉が食えなくなったのにトラウマの上塗りしてどうするんですか」

「逆に、俺の肉が食えるようになったら他の肉も食えるだろう」

「……………なんでそこまで肉を食わせたいんですか」

「そりゃもう、俺の肉は美味しいから。それと」

「それと?」

「君みたいな子ほどいっぱい食べて欲しいから」



本当に最悪で身勝手で悪趣味な人だと思う。

けれど、その言葉は一年半前の―――――食を楽しめていた頃の俺に、少なからず響いて。

「…………………あなたの手なんか借りなくても、いつか克服してやりますよ」

絶対に記憶から切り捨ててやるぞと、心に誓ったのだった。


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