最終話 食堂の肉料理


腹が、減っていた。


時間は深夜二十三時半。ファミレスや居酒屋の灯こそ点いているものの、しばらくすれば閉店だろう。ならばコンビニにでも入ればいいのだが、視線の端にとらえるだけで選択肢から外れていく。「ちゃんとした飯が食いたい」なんて、この時間じゃまず無理だ。ならばいっそ家に帰って気合を入れて自炊をすればいいのだが、そもそも俺は――――――家にいたくなくて、飛び出してきたのだ。

結論から言えば、二年付き合ってきた彼女と別れた。

社会人ゆえの忙しさや活動時間帯のすれ違い、ストレスとか考え方の違いとか。そういうありふれた積み重ねがついに頂点まで溜まってしまって、俺の方から切り出した。彼女はホッとしているみたいだった。……性格的に、彼女の方から切り出せないだろうなあ、と思っていたのだが。どうやら正解だったようで、複雑な気分になる。

そんなわけで楽しい思い出もそれなりにあった二年間の蜜月は、終わりを告げた。彼女は俺の部屋に置いていたものを大体持って帰ったが、「全部」ではない。使いかけのメイク落としのシートや歯磨きセット、一緒に使っていたシャンプーやリンス、彼女が俺に選んでくれた服、彼女と一緒に撮った写真がたくさん入ったスマホ。物から思い出まで、すべてを消し去ることはできず―――――また、がらんとした部屋に入るだけで寂しくなったので―――――俺は女々しくも、夜のドライブに繰り出したのである。

「(……………いや、違うな………)」

赤信号を見ながらぼんやり思う。恋人と別れたことへの寂しさ、だけではないのだ。この胸の痛みは。………むしろ、俺は別の部分で傷ついている。そしてそれは、大変身勝手な痛みだ。ひりひりと痛む空洞だ。誰に話せるものではない。

青信号になる。車窓に映る灯といえば、街灯と自販機くらいだ。

「…………自分でも、わかってるんだけどなあ。」

わかってる。この先に食べ物屋などはないと。おとなしく家に帰った方が身のためだと。

けれど、もう少しだけ足掻きたい。それは、幼稚だろうか――――――


「………ん?」

ふと、ミラーに灯が反射した。後ろから車が来ていないことを確認し、路肩に泊める。そうしてゆっくり振り向くと、―――――――定食屋の、灯が見えた。

「おいおい、嘘だろ………こんな時間に?」

もしかしたら仕込み中かもしれない。灯が点いているからといって、営業しているわけではあるまい―――――そう考えはしたが、腹の虫は依然鳴いたままだ。俺は少し離れた場所で車を回し、定食屋へと向かった。幸い駐車場があったので、逸る胃に落ち着けと念じながら停車した。まだだ、まだ白い米や温かい味噌汁を思い浮かべるには早すぎる。

俺はひとつ息を吐き、入口へと歩く。そうして引戸に手を掛けた。

扉は、すんなりと開き。

「いらっしゃい」

―――――――店主と思しき青年が、顔を上げた。

「あ、――――――あの、」

営業中ですか、とかすみません、とか。そういう言葉より先に、ぐるるるると派手に腹の虫が鳴いた。

「………………あ、」

思わず恥ずかしさがぶわりとこみ上げ、顔じゅう熱くなったような感覚を覚える。店主はそんな俺を見て、目を細めて軽く笑った。

「腹が空いたのだね。いいだろう、どこでも好きな席にお座り」

「…………あの、ここって…………いま、営業してるんですか?」

「まあ、深夜営業というやつだ。気が向いた時にしかやらないがね。そら、メニューをご覧」

「ああ――――――はい、」

カウンター席に座り、店長から手書きのメニュー表を渡される。右から左へ目線を滑らせる。肉料理が多めだ。でも、深夜だしなあ。どうしよう。濃い目からあっさり系まであるのだが、ううん。

俺はしばらくメニュー表と睨めっこしながら、しばらく考え。

「お冷をどうぞ」

「…………じゃあ、唐揚げ付き雑炊と烏龍茶」

「よし。しばらく待っていてくれ」

ことんと音を立てて、目の前に氷水が置かれる。ぐっと飲み込めば喉を冷たく、優しく潤した。

「(おいしい……………)」

息を吐く。どうやらそれで体の力が抜けたらしい。体重を椅子に預ける。がむしゃらに車を走らせていたからか、緊張していたからか。俺はだいぶ疲れていたようだ。

しばらくキッチンから聞こえる調理音だけを頭に響かせる。思考回路は、走っている間に使い過ぎたらしい。何も浮かばない。

数分ばかりぼんやりしてから、スマホを見る。着信も何もゼロだ。心の底にあったらしい、淡い期待がぱりんと音を立てて壊れるのが聞こえた。俺から関係を終わらせたのに、傷つく権利などはない、のだが。

「(しんどい………………)」

じわじわと思考回路が、これまでの彼女との日々を再生し始める。まるで結婚式の時に流れるムービーみたいだ。出会いから、初めてのデートとか、彼女の得意料理だとか。ぐるぐると考えて、回路の中を迷路のように彷徨う。

「はい、どうぞ」

「あ、」

なので、一瞬反応が遅れた。目の前に置かれたのは、ほかほかの雑炊に唐揚げが添えられたシンプルな料理だ。喉の奥がごくりと鳴る。いただきます、と手を合わせ、木製の匙でひとくち掬った。ふうふうと冷まし、口の中に入れる。――――――やさしい味だ。鶏?魚介類?あっさりしつつもコクがある下味に、柔らかく温かい米。安心する。咀嚼する。喉が焼ける。けれど美味しい。唐揚げを食べてみる。鶏ではないらしい。けれど、美味い。なんという肉だろう?ああ、美味しい。美味しい――――――――

「――――――――っあ、………………」

三口目で俺は、涙を流した。安心しきってしまったのかもしれない、腹から滲むこの温もりに。俺は匙を置き、涙を拭う。けれど止まってくれず、俺はみっともなくぼたぼたと泣いた。カウンター越しに、店主が見ている。視線を感じる。すみません、と零れ出た声もまた濡れていた。

「………………………何かあったのかい?」

「えっ、いやあの、その…………」

「いいから。言葉にしたら納得するものもあるだろう?それに、俺を食べているのに泣くというのは――――――些か、な。美味い物を食べている時は、美味い物の事だけ考えた方が良い。」

料理人の意地だろうか。店主はそんなことを言って、カウンター越しに肘を付いた。

………確かに、そう言われたらその通りだ。どうせ、この人は俺の事は知らない。言ったところで何が下がるでもない。俺はぽつ、と言葉を紡いだ。

「……………俺、彼女と別れたんですけど……………」

そう、彼女と別れたこと。それは残念で辛くて悲しくて、苦しいのだけど。

その向こうに、どうしようもない俺自身の欲があった。

「…………マジでなんも残ってない自分自身に、絶望してるっていうか、自己嫌悪してるって言うか。彼女と、よく言ってたんですよ。結婚出来たらいいなーとか、子供いたらいいよね、とか、その」

「血を残したかったのかい」

「……………多分。というか、何か。俺が生きている証のようなものを残したかったんです。世界に。でも、そんなん身勝手じゃないですか。人の父親になる精神状態って、もっと別のところにあるじゃないですか」

「……………どうかな」

じゃあ、血が残せなかったら何が残せるのか。仕事での成功?そんなものは夢のまた夢だ。作品を残す?俺にそんな才能は無い。

「………って、考えてたら……俺、何も無いなあって………生きてる証みたいなものを残せないまま、死んでいくのかなあって………それは………嫌で、怖くて………」

「………………」

店主は頬杖をつきながら俺の話を聞く。呆れられているだろうか、それとも。

「素直な青年だ。うん。それはまあ、恥じることではない。生きている証を残したいという気持ちは、俺にもよくわかるから」

「え、店長さんも…………?」

がば、と顔を上げれば少し上にある店主と目が合う。店主は目を細めて、笑った。

「うん。」

「………………………」

俺より少し年上くらいの店主は、小さく口を開いた。

「俺も、血は残せないというか、どうしたって俺より先に死ぬだろう?それは寂しいからさ。何か別の方向で、誰かのなかに、残りたいというか」

「…………………?」

「青年。料理は美味かったかい」

にこりと微笑む。俺は食べかけの雑炊と唐揚げを見て、こくこくと頷いた。

「美味しい、です!全部食べます、はい!」

「うん。それは結構。よく噛んで、味わって食べると良いよ」

「はい。…………あの、店長さん」

「うん?」

「店長さんのこと、ちゃんと忘れません。この味も。………」

確かに食事は、記憶に残る。体に残る。なるほど、店長さんはそうやって、証を残しているんだな。……………そう思い、同じような気持ちを抱えた目の前の人に親しみを覚えた。店長さんは「そうかい。それは僥倖だ」と笑う。

「……………まあ、同族食いかもしれんが。べつに、良いだろう」

俺は、雑炊を食べ進める。美味しい。本当に美味しい。

「俺が俺の身をどうしようが、構うまい?なあ。君らも、美味ければそれで良いだろう」

ああ、なんという肉が後で聞かなければ。

「…………俺の―――――が、記憶に残り、体内に残り、血になり、肉になれば」

思考が、美味さに支配されていく。美味い。美味い。


「――――――――――――それで、良い。」




「―――――――――ありがとうございました。ごちそうさまでした!」

「うん。また来ると良い。」

会計をし、引き戸を開ける。そこでくるりと振り返り、俺は口を開く。

「そういえば、店長さんってなんて名前なんですか?」



「―――――――――――――フジミヤ。藤宮蘇芳。ようく覚えておくと良い。」

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