九章「鬼と死神」


「ウチのリーダーに随分酷いことしてくれたじゃないか」

 刃と刃を交錯させながら、桂は言う

「はは、腹立たしいかい」

 ミコトの軽口に、彼は鋭い目をして答えた。

「ああ」

 桂の一閃をミコトは姿勢を低くしていとも容易く避ける。

 そして、そのまま、桂の横をすり抜けるようにして、その脇腹を切り裂いた。

「その割には、まだスイッチが入ってないようだけど」

 桂の脇腹の傷はとても浅いものだった。それは彼がとっさの判断で身体を反らしたからそうなったのではない。ミコトが手心を加えたのだ。

「……何で本気で来ない」

「やだなあ、自分が本気を出してないのに、人に本気を出せなんてよく言えるね」

「…………」

 その言葉に桂はその場で目を瞑ると、鼻で大きく息を吸いこみそれを口から吐き出すようにした。

「今は、雨月桂――僕だけを見てくれよ」

 そう言って、【死神】は突っ込んでくる。

 桂はゆっくりと目を開いた。

 その瞬間、場の雰囲気が変わる。

 ミコトは自分の背筋がぞわりと震えるのを感じた。

「そう、その眼だ」

 桂はミコトに向かって鋭い突きを繰り出す。

【死神】の左目に、その刃が深く刺さった。

「でも、まだ足りない」

 桂は殺気を感じて、【異能】を発動する。そして、桂は一瞬でミコトから離れた位置に移動する。

 ――はずだった。

「な……にっ!?」

 能力を使ったにも拘わらず、次の瞬間、ミコトは桂の目の前にいた。

「だから、その【異能】はもう割れちゃってるんだって」

「くっ……」

 桂は腹部に重たい痛みを感じる。ミコトの細い右足に蹴りぬかれ、背後の壁まで転がった。

「そんな能力……種さえ分かればいくらでも対処は出来る」

「……くそ」

 駄目だ、と桂は思った。

 自分の【異能】が破られたからではない。自分が【異能】を使ってしまっているという事実に、桂は苛立ちを覚えるのである。

「俺にはまだ……周りが見えすぎてる」

 その状態になりきった桂であれば、そんなものは使わずにひたすら攻勢に打って出るだろう。

「……もっと、夢中にならなきゃいけない。でなきゃ、アイツは倒せない」

 この期に及んで二の足を踏んでいる自分自身が桂はもどかしい。

 上体を起こして、再び立ち上がろうとする。


「――やっと見つけた。桂」


 地べたに尻を突いている彼の頭上から――聞き慣れた声が響いた。

 それは、彼にとって姉のような存在である女性の声。

「まさか、桂が【悪の此岸】に入ってたとはね。後で詳しく事情は話してもらうから」

「手は出すなよ、城咲」

「分かってるよ」

 普段よりもそっけない口調。

 久々に見る〝外のハルガ〟だ。

「……【治安隊】、しかも【紫電】のメンバーか。へえ、雨月桂――君は随分と顔が広いんだねえ」

 現れた闖入者にミコトは感心したようでさえあった。今の彼には自分の身の危険に対する心配など存在しない。あるのはただ桂に対する執念のみだった。

 離れたところからその様子を見ていた純にもまた驚いた様子はない。彼女はただ『やはり、そういうことだったか』と一人得心するのみだった。

 そして、ようやく桂は立ち上がる。

「城咲、俺はあいつを倒すよ」

「やれるものなら、ね」

 桂はミコトと対峙するようにして、ゆっくりとした足取りで歩いていく。

「いや、違う。『倒す』じゃない。この期に及んで甘ったれるなよ、俺――」

 目の前の敵をしっかりと見据える。

 そして、【枝霧】をもう強く握りしめ、その切っ先を【死神】へと向けた。

「俺は、――お前を殺す」

 あの頃の自分と同じ言葉遣いで――同じ感覚で――桂は純粋な〝殺人鬼〟であった頃の自分を実現する。

 彼はその頃の自分が嫌いだった。だけど、秋島純のためなら、そこへ戻るのも悪くない。彼女の所為で捨てることになったものを、彼女のために取り戻すのも――悪くない。

 そこで、彼は、思う。

(――いや、悪いのか)

 背後にいる、守るべき自分の雇主を思い出しながら。

(――悪いから、いいのか)

 そして、雨月桂は敵以外の全てのものに対し――自分自身でさえ例外なく、全てのものに対し――その目を閉じた。


          Φ


 五年前、〝鬼〟は一人の少女と出会った。

〝鬼〟が出会った人間はみんな彼を恐れる。しかし――彼女は違った。彼女は彼が纏う暗闇に包まれることはなかった。何故なら、彼女の世界は、すでに真っ暗闇だったからだ。

〝鬼〟はとても腹が立った。彼は、命を奪う存在であるからこそ、命の大切さを誰よりも深く知っていた。だから、彼には、彼女の死んだような目が気に入らなかった。

〝鬼〟は少女に暴力を振るった。人に殺意以外の感情を向けたのは、彼にとって奇しくもそれが初めてだった。

〝鬼〟は激怒する自分が、とても生き生きしているように思った。それは、今までずっと機械的に殺意に従ってきた彼が――初めて感じる〝生〟だった。

 だから、彼は少女に言ったのだ。

 ――ありがとう、と。

 その日の出来事は、以降の〝鬼〟――雨月桂にとって大きな転機となる。


      Φ


 目の前で展開される戦いを、秋島純は素直に気持ち悪いと思った。

「桂くん……」 

 命知らずの戦い方しか出来ない【死神】と、命知らずの戦い方しか知らない〝鬼〟。

 それは、互いが全力であるというよりは、外してはならないタガを外したような――そんな戦いだった。

 桂が刀を振るうと、ミコトはそれを自らの腕を差し出すことで防御する。切り落とされた腕。しかし、そんなことは気にも留めず彼は次の攻撃態勢に入っている。次の瞬間には、彼の腕は【異能】で元通りになっている。

 対する桂もミコトの攻撃に物怖じをしない。だが、彼にはミコトとは違い、回復手段が存在ない。だのに、繰り出されたナイフの刃を、彼は何の躊躇もなく自らの手で掴み、そして、それを握る手首を切り落とす。

 吐き気が込み上げてくる。

 型も何もなく、なりふり構わず、ただ一心不乱に相手の命に手を伸ばしている。

 手首を切り落とされたミコトは腕を振るって、そこから噴き出す血を桂の顔にかけ、目潰しとして使う。

 桂の目に生ぬるい液体が入りこむ。しかし、今の彼はそこで――目を瞑ってしまうという神経反射すら否定した。霞む視界の中で、それでもしっかりと敵の姿を捉えたまま【枝霧】を一閃する。

 ミコトは驚いた顔をして背後へ飛び退くが、間に合わなかった。彼はそれを避けきれなかった。傷自体は深くないが、彼の【異能】の条件からは外れたために、その傷は治癒しない。

「いいぞ、雨月桂。とても、いい」

 ミコトはとてもはしゃいだ声を上げる。

 一方の桂は何も言わない。

「――桂くん、君は……」

 秋島純は、息を飲む。

 純は、何故だか、自分が感動していることに気付いた。

 目の前にあるのは、醜悪な戦い。

 だけれど、どうしても目が離せない。

 二人の人間の衝動のぶつかりあい。

 それが、とても美しいもののように思えた。

 ここは今、二人だけの舞台だ。

 そこに立てるのは、彼らしかいない。

 しかし、だからこそ、純は思った。

「……桂くん、君は可哀想だ」

 桂はシャツの袖でぞんざいに目元を拭い、その暗闇を写し取ったような瞳でもう一度ミコトのことを見据えた。

 ミコトは笑う――笑って、言う。

「やめろよ。やめてくれよ雨月桂。言っただろ、僕は君の顔を覚えたと。覚えてしまったと。僕は君の顔が分かる。だから、目を合わせられてしまうんだ。そんな目をされたら僕は――」

 彼は本当に嬉しそうに――無邪気に笑っていた。

「――君に恐怖を抱いてしまうじゃないか」


      Φ


 ミコトは震えていた。

 喜びと――そして恐怖に。

 彼は人の顔を覚えられなかった。

 自分の顔でさえ、彼は認識できなかった。

 だから、彼の世界には誰もいないし、彼自身もそこにいなかった。

 そんな世界の中で――彼がいないはずの世界の中で、彼の感覚は薄れ、いつの間にか、彼は何かに感動することも忘れた。生への実感のなさが、着実に彼から生を奪った。

 しかし、今、【死神】と呼ばれた彼は震えている。

 目の前に立つ存在に、彼の感情は高ぶり、そして、行き場のないほどに膨れ上がったそれは、彼の体を震えさせる。

 桂がこちらに向かって歩いてくる。

 これは死ぬな、と彼は思った。

 体の震えが、それを予感させた。

 彼は、それでも笑う。

「駄目だ」

 そして、そう呟いた。

 桂はどんどん近づいてくる。

「怖い」

 ミコトは、桂の目を見ていた。

「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――」

 そのぽっかりとした暗闇の中には彼が――彼の命が映っていた。

 そうか、と思った。

 自分にはちゃんと命があったのだ。

 彼は震える。

 桂は刀を構えた。

 ミコトは動かなかった。

 怯えて勝負を投げ出したからなどではない。

 むしろ、彼は戦っていた。

 彼の【異能】は相手の攻撃に抵抗しないことで発動する。

 彼は、雨月桂の刀を避けてはならない。避けないことが彼の勝利だ。

 やがて、桂は攻撃を繰り出してくる。

 それはとてもスローな出来事であったように感じられた。

 自分の腹部へと迫る鈍色の刀の切っ先がとても鮮明なものとして目に映る。

 そして、顔を上げたミコトは目撃した。

 雨月桂の視線がこの世のものとは思えないような恐ろしい形に歪むのを。

 それが喜びだとは彼は知らない。

 しかし、それは、今まで人の表情というものを認識したことがない彼には、あまりに刺激が強すぎる光景だった。

「――あ」

 ミコトは無意識に後ずさった。

 桂の刀は、そんな彼の細い体を貫く。

 冷たく熱い刃にいくつかの内臓を破壊され口元から血が零れる。

 その致命傷はいつまで経っても治癒することはなかった。


 そして【死神】はついに膝をついた。


 いくつもの【異能遣い】たちをその手にかけてきた青年は――一人の〝鬼のなりそこない〟の下に生涯で初めての敗北を喫したのだった。

「……僕は、死ぬのか?」

 取り返しのつかない痛みに悶えながら彼は呟く。

 死など、恐れてはいなかった。むしろそれを望んですらいた。

 だというのに、自分の声は酷く悲壮感に満ちていた。


      Φ


「……僕は、死ぬのか?」

 刀を抜くと【死神】と呼ばれる青年はこちらに背を向け、覚束ない足取りで、この階層の外壁部分を覆う窓の方へ向かっていく。

 雨月桂は彼の後をゆっくりとした足取りで追った。

 今この場で駆け寄れば、簡単に彼にとどめを刺すこともできる。

 しかし、それをしないのは、命というものを尊重しているからだ。

 背中を刺すような殺し方は――命に失礼だ。命は、もっと劇的なのだ。

〝鬼〟は獲物に向かっての一歩一歩をしっかりと踏みしめるようにして進む。

 もう長いこと磨かれていないだろうガラスのもとまで辿り着くと、ミコトがこちらを振り返った。

「――雨月桂、君に会えて良かった。本当にそう思う」

 彼は穏やかな口調でそう言った。

 桂は彼の凶器を構える。

「だから、最後に君に聞いてほしいことがあるんだよ――僕は」

 悟ったような顔でミコトは言った。

 桂は止めを刺そうと心臓めがけて刃を突き出す――


「僕は――死にたくない」


「――――っ」

【枝霧】がミコトの左胸の数ミリ直前で止まっていた。

 桂はその一瞬後になって、それが自分自身の意志で止めたからだと気付いた。

「また会おう。雨月桂」

 そしてミコトは隠していたナイフで、背後のガラスを割る。彼はそのまま後ろ向きにビルの外へと落下していった。

 桂はそれを慌てて追おうとすることもなく、かといって悔しがることもなく――ただ茫然と、立ち尽くしていた。

「――やっぱり、殺せなかったね、桂」

 そんな城咲栄華の声が、後ろから聞こえた。


      Φ


 最上階は音楽ホールになっていた。

 純は重たい防音扉を開け、たった一人でそこに入る。舞台の真ん中には一人の壮年が立っていた。

「やあ、父上」

「……」

【篝火】――秋島龍は静かにこちらを見た。そして、重たい口調で言う。

「……勝ったと思うか、私に」

 彼は階下で行われた戦闘の結果を既に察していたようだった。

 純は客席を下りて、彼女の父親へと近づいていく。

「勝ち負け? ――そんな感情論に身をやつすほど今はいい気分じゃない。これはただ僕が僕の思惑を果たそうとしているというだけだよ」

「一人で来たのか」

「ああ。まあね」

 舞台のすぐ下まで来て、純は肩をすくめた。

「ここからは、僕がつけなきゃいけない決着だ」

 

      Φ


「おい、城咲、放せよっ」

 秋島純と秋島龍がいる音楽ホールのすぐ真下の階層。

 そこで桂はハルガによって地面に押さえつけられていた。

「俺は――秋島を助けるためにここへ来たんだ! あいつを一人で行かせられるか!」

「駄目だよ。桂を行かせるわけにはいかないの」

 二人以外にはこの空間に人はいなくなり、ハルガはいつもの口調に戻っていた。言うことを聞かない弟を宥めるように、彼女は言う。

「【篝火】と戦えば、桂は間違いなく死んじゃうよ。戦い方の相性があまりに悪すぎる。――桂はきっとゼンさんに私を手伝うようにって差し向けられたんでしょ。私の――【治安隊】の目的は世界に害を為す【異能遣い】の集団を壊滅させること。秋島龍を倒さなくても、もう【篝火】は崩壊したも同然だよ」

「だからって、凶悪な【異能遣い】を野放しにするのかよ、【治安隊】は! それに言ってるだろ――今の俺は、父さんに言われたことのためだけに動いてるわけじゃない!」

「野放しにはしない。この後、しかるべき能力を持った人間が、彼にしかるべき対処をする。私もそのためにこうして道を切り開く役を買って出た。桂、お願いだよ――ここは聞き分けて」

「嫌だ!」

「桂っ!」

「どけ、城咲!」

 桂はなおも拘束から逃れようとする。ハルガは仕方ないという顔をして、そんな彼の後頭部を強く打ちつけた。桂はすぐに気を失い、その場にぐったりと崩れた。

「……ごめんね」

 ハルガは桂を抱えて立ち上がる。

 そして、肩に取り付けてある無線で、外で待機している部隊へ連絡を取った。

「――こちら【紫電】第四位。目的達成しました。これより拠点へ帰投します」

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