「配られたカードで勝負するしかない。カードが弱いなら勝つために工夫しなければならない」には矛盾がある

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「配られたカードで勝負するしかない。カードが弱いなら勝つために工夫しなければならない」には矛盾がある

 普段は小説家としての作法を慎重に考えなければならないところだが、今回はその作法を無視して早速「私の説」その「考察」をしていきたいと思う。普段の私の小説に慣れている読者にはご勘弁願いたい。(そしてありがとうございます!)


 注意点として二点。何となくタイトルから「弱い立場の味方して、揚げ足取りして浮かれたいだけ」と考える人の期待を集めそうだが、それには答えられそうにない。後は自分の軽く薄い人生を基にした考察なので、最終的には「それって貴方の感想ですよね?」って言われるとどうしようもない。この二台詞を吐かないと決めた人だけ進んでほしい。(それでもかずなしなりに、理論っぽくしてみた)


【私の説】

 AとBがいたとする。Bは自身を劣っていると認識している。

 そんな時、こんな会話が成された。

 A「配られたカードで勝負するしかない」

 B「いや、俺のカード弱すぎるから。ブサイクだし、頭悪いし、メンタル豆腐だし、運動音痴だし、モテないし、貧乏だし、etc... ポーカーで言えばブタの手札だよ。あるいは手札が5枚じゃなくて3枚とか」

 AはBを「チッ、うっせーな」と見放そうとしたか、あるいは叱咤激励の真似事でもしょうとしたか、こんな事を言いだした。

 A「カードが弱かったり無いなら、工夫するしかないやんけ」←これ。はいストップ。


 というのが、私の説だ。


 普段のカードゲームなら大貧民負けてマジ切れでもすりゃいいが。やっぱり人生はカードゲームとは違う。


【考察】

 何故矛盾しているかの結論から述べる。


 


 さて、一つ一つ紐解いていこう。


 ■そもそも「配られたカード」は、人生においては何に当たるか。

 これは、「能力の伸び代or先天的な素質」「家柄」に分類できる。

 ・能力:運動能力や体力、代表される外的な身体能力と、知性や性格、メンタルに代表される内的な精神能力に分類できる。才能と言い換えてもいい。(病気や先天的な異常もここに入る)

 尚、基本的に運動能力も知性も、普段から使わなければ下がるので、「現在の値」はそこまで当てにならないので「伸び代」でとらえる事が大事。

 但し「性格やメンタル」に類するものは「伸び代」言われてもピンとこないだろう。これは、「先天的な素質」だ(【余談】にて後述)。

 ・家柄:実家の太さとか、金周りとか、教育環境とか。


 ■次に、「配られたカードが弱い」とは、人生においては何に当たるか。

 能力ならば、容姿に恵まれていない、体力が生まれつき無い、ストレス対抗力が弱い、頭の回転が悪い等。

 ステータスなら、実家が貧乏、虐待を受けていた、等。


 ■そして、「工夫して乗り切る」とは、何か。

 それは、解像度を上げると下記のとおりではないだろうか?

 「知性をフル活用して、逆境にメンタルで打ち勝ち、実家や周りを使えるものは何でも使って、足りない分を補う」ではないだろうか。


 ■……さて、ここに矛盾が生じる。

 例えば「知性」というカードを配られていなければ、失敗ばかりではないだろうか?

 「メンタル」というカードを配られていなければ、失敗に打ちひしがれて鬱になるのではないだろうか?

 「実家」が太く無ければ、あまり役に立たないのではないだろうか? それどころか実家が借金をしていたら? あるいは親が介護必要だったら?

 周りを使うにしても、「コミュ力」とかはどこから調達するのだろうか?


 「工夫して乗り切る」を他の言い方をしたところで、結局「能力」や「家柄」頼りにならないだろうか。


 ■そう。結局の所

 「配られたカードが弱かったり無い時に、工夫して乗り切る」

 というのは、「工夫して乗り切る」には「配られたカード」が必要であるという側面がある。つまり、「循環論法」に陥っているのだ。


 もし貴方が今の生活を上手くいっていないというなら、現実に照らしてほしい。

 「配られたカードで工夫して乗り切る」と言われて、今の足りない手札で現状を打破できるか。【私の説】でBが上げたような状態では、「工夫して乗り切る」というカードが無い状態ではないか。


 ■という訳で、私が言いたい結論に戻る。

 結論は、「配られたカードが弱かったり無いなら、工夫するしかない」の反論は、絶対的な矛盾を抱えている。


 そして、それを唱えた所で人生は何も好転しない。
















【余談】


 ここからは本当に「それって貴方の感想ですよね?」を話していく。

 ここで話す余談は3つある。

 1つ目は、【考察】でも触れた「性格とメンタル」は「先天的な素質」に当たるという面。

 2つ目は、私が思う「配られたカードで勝負するしかない」→「そうはいっても配られたカードが弱い、無い」に対する最適解。

 3つ目は、自分が足りないくせに綴る自分語り。



 ■「性格とメンタル」は「先天的な素質」

 これは、5年ほど前から自分の中で創り上げてきた理論であるが、「メンタルガラス理論」というものがある。これを語るだけで1万文字行きそうで、専用のエッセイはいつか書きたいと思っているが、ここでは概略を述べるだけに止める。


 要は「」というもの。絶対無理。


 メンタルは少しビッグワードなので、解像度上げると「何か行動を起こそうとした時の、精神的な体力」「何か行動を起こそうとした時に、心理的に出来るかどうかというハードル」「何か圧が掛かった時のストレス耐性」が挙げられる。


 性格については例を挙げる事しか出来ないが、例えば貴方は「コミュ障」と呼ばれたことは無いだろうか。それを直したくて人ごみに紛れ、イベントに混じった事は無いだろうか。そして分かった事は「人と一緒にいると疲れる性格なんだ」と絶望したことは無いだろうか。


 ちなみに想定できる反論として「いやいや、俺は大人になってからの出会いで変わったし! 自己啓発書読んで変わったし! 仕事で辛い経験を乗り切って変わったし!」というものがあるので、先に返答しておく。「それは、貴方の中に元々あった素質が、経験を経て顕在化したものである」。

 メンタルの例でいえば修羅場を潜り抜けた結果、ストレス耐性が着いたのではなく、元々のストレス耐性が顕在化しただけだ。

 性格の例でいえば、周りがあなたの事を分かっておらず「コミュ障」と詰り、色々試した結果自分は人と話すのが天職だった、と気付いただけだ。

 一応例外はある。だが、日本人は宗教に入りたいと願う人は少ないだろう。(もし読者の中に宗教関係の人がいたら申し訳ない)


 ここまでが、「メンタルガラス理論」である。

 とはいえ「自分の限界はどこか」と自覚する事は、悪いことではないと思う。

 最近はポリヴェーガル理論等、臨床心理学を勉強しているので、その辺りの知見も織り交ぜて完全なものにしたい次第。


 一応付け足しておくが、それでも僕らは生きている以上、死ぬまでの時間を少しでも有意義なものにしなければならない。大変面倒だが。



 ■「配られたカードで勝負するしかない」→「そうはいっても配られたカードが弱い、無い」に対する最適解


 さて、【私の説】で書いたAとBの会話について、「配られたカードで工夫するしかない」ならばAはどう回答を返すべきだったのだろうか。

 ※正直、「女は最初にその3個のリンゴをどこで買ったのか聞いて欲しいの……そして残りの2個のリンゴを一緒に買いに行って欲しいの………それが答え……」的な話を連想するので、こういう会話の最適解を創るのは嫌いだが。(知らない人は「ふたりエッチ リンゴ」で検索! 決して18規制的な何かを奨めたい訳では無い)


 A「配られたカードで勝負するしかない」

 B「いや、俺のカード弱すぎるから。ブサイクだし、頭悪いし、メンタル豆腐だし、運動音痴だし、モテないし、貧乏だし、etc... ポーカーで言えばブタの手札だよ。あるいは手札が5枚じゃなくて3枚とか」

 A「ならカードを自分で探しに行こう」←これに尽きる。


 【考察】で述べたカード「能力の伸び代」と「家柄」は「配られた」カードでしかない。そして何もカードは「配られた」ものしかない訳では無い。案外カードは、盤上に転がってたりする。

 じゃあこの盤上にあるカードは何か。「スキル」だと思っている。

 スキルは、資格とか、知識とか、経験に類するものだ。勿論この辺りも、どうしても「配られた」側の「能力」に引っ張られるところがあるが、後天的にカードを弾くことが出来る、という点もあるという事は知っておいた方がいい気がする。


 後は、自分の好きなもの、得意なもの、「これだ」と思えるカードを持っておくのは大事だと思う。

 自分の場合は「小説執筆」と「哲学」ではある。



 ■「自分が足りないくせに綴る自分語り」


 まあ詰まるところ、「生きているなら、生きていくしかない」っていう話である。

 ただ、そうは言っても不満は生まれるもの。正論で感情が納まるなら、人々は数多の間違いを犯してこなかっただろう。

 実際の所、自分は「配られたカード云々」は本質だとは思っている。しかし嫌いだ。折角この世に生まれたにもかかわらず、一度きりしかない人生において、偶々「配られたカードが最強の人」の人生に頭を垂れ、「配られたカードが最弱の人」になってしまったのだからそれは不満も出る。かく言う私もその一人である。


 今回の話は、偶々配られたカード云々の話をTwitterで見かけて、ふと前提に立ち返った時に「あれ?」と思って書き溜めた備忘録である。多分最近スピノザを読んでおり、デカルトの「我思う故に我あり」のスピノザによる批判に心打たれたからだろう。演繹法の大前提から疑った話が何故か頭で、今回の話と結びついた(端的に言えば「デカルトさんデカルトさん、思う行為のどこに、存在する証拠があるのよ」って話。まだ入門なので間違ってたらごめんなさい。あと批判って言ってもデカルトさんの哲学を全否定してるわけじゃなく「もっとこうした方が良くなぁい?」って建設的な議論してくれてる)。


 でも自分は「配られたカードで工夫するしかない」を否定する中で、「そもそもカードの総数は、配られたカードで全部じゃない」と思うことが出来たのは前進だと思う。なので、これからもカード自体は増やしていきたい。あとは生活に直結すればいいんだけどね。中々Will(意志)とCan(出来る事)とMust(社会からの要請)は合わないものだ。


 どうしても「配られたカード云々」で不快になる人は、そもそもこの考え方をしない方がいいと思う。自分もこの考え方、好きじゃないし。そうじゃなくて「ただ目前に降ってきた問いに、全身全霊で向き合う」これしかないと思う。その体力が無い時は、休むしかないと思う。その時は「将来どうするか」という問いとだけは向き合う必要はあるけれども。


 さて。

 ここからは、かなり危険で現実離れした独白をする。

 自分は、配られたカードで人生が決まるような世界から、早く進歩してほしいと思う。

 未来。人工知能技術とバイオテクノロジー技術が進み、脳のブラックボックスが解き明かされれば、「配られたカードが最適化されて付与される」時代になる。

 それをディストピアと呼ぶ人もいるし、実際付随して監視社会やら人工知能に支配された世界になるのだろうけど、多分差別と、差別に不快を感じる心は無くなるんじゃないかな。人の心が負の状態に置かれてない限りは良いと思っている。というか、原始時代から進化していない心は、早くパッチを充てるべきだと思っているし。自分はそんな心の一部機能をシャットダウンする欲望を小説に籠めていたりする。

 とはいえ、勿論それを否定する自分もいる。自分のこの感覚クオリアを大事にしたいと思う自分もいる。

 心って、やっぱり良く分からない。未だに。




 最後に、「夜と霧」から「配られたカード云々」に代わる、人生の見方を引用して終わりにしたいと思う。

 ちなみに「夜と霧」は第二次世界大戦時のドイツ強制収容所内の非日常を描いた残酷なノンフィクションだが、生きることに困ったら、ぜひとも読んでほしい。かなり劇薬だ。


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 生きることは日々、そして時々刻々、と追いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄する事によってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。

 生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受ける事に他ならない。


 <「夜と霧」ヴィクトール・E・フランクル(みすず書房)>

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