第2話(終) 女性らしい剣

 夕日がさらに西の空に沈む。

 空が深い青色に染まると、星々が一つずつ現れ始めてきた。

 澄香は誰も居ない道場に立っていた。

 白い上衣に紺の袴姿。

 腰には刀と脇差を帯びる。

 模擬刀ではない、真剣だ。

 澄香は、古びた木目の床板の上に立つと、彼女は静かに目を閉じた。

 呼吸を整え、精神統一をする。

 雑念を振り払い、心を無にするのだ。

 静寂に包まれた空間の中、澄香は覚醒するように意識を集中させた。

 全身の感覚が研ぎすまされていき、やがて、周りの音さえも聞こえなくなる。

 何もかもが止まった世界の中で、ただ一つ動いているものがあった。

 それは自分自身の心である。

 心の動きを感じ取り、それに合わせるように体を動かす。

 求めているのは、抜刀だ。

 左親指で鍔を押して鯉口を切ると、そこから右手を風にそよぐ柳のようにユラリと動かして柄を下から握る。

 鞘は黒蝋色塗りで、柄には鮫皮で平巻き。

 地味で質素な拵えであるが、それがかえって美しい。

 そして、左手で刀身をゆっくりと引き抜くと、刃紋が現れる。

 月の光を浴びて輝く白銀の刀身。

 美しい刀の姿は、見る者を魅了してやまないだろう。

 刃渡二尺三寸五分(約71.2cm)。

 反り六分(約15mm)。

 小乱れの刃文が特徴であり、その美しさはまさに芸術品と言えるだろう。

 かつて澄香の父・角間道長が所持していた刀。

 澄香は、父が亡くなってから自分の刀ではなく、父親の刀を使っていた。

 理由は二つある。

 一つは、少しでも父との距離を縮めたかったからだ。

 そしてもう一つは、父が愛用した愛刀を振るってみたかったからである。

 父の遺品として譲り受けたものなので、本来の持ち主はもう居ない。

 だから、これは形見でもある。

 大切にしたいと思った。

 父の姿を――。

 澄香は、静かに瞼を開く。

 そこには凛々しい表情をした少女が立っていた。

 刀を八相に構えた。


 【八相の構え】

 刀を立てて頭の右手側に寄せ、左足を前に出して構える。

 八双の構えとも書き、陰の構え、木の構えともいう。

 構えを正面から見ると前腕が漢数字の「八」の字に配置されていることから名付けられており、刀をただ手に持つ上で必要以上の余計な力をなるべく消耗しないように工夫されている。


 澄香が今行っているのは、父の剣術の型を再現したものだ。

 そして、父の剣術を受け継いだのは自分ただ一人だけなのだという強い誇りを持っていた。

 父と同じ剣術を極めること。

 それは澄香にとって、亡き父への恩返しにもなると信じているからこそ、こうして日々鍛錬を積んでいるのである。

 澄香の表情は真剣そのもの。

 鋭い眼差しは獲物を狙う狩人のようだ。

 静寂に包まれた空間。

 その中で、澄香は一人戦っている。

 迫り来る敵をイメージする。

 敵を作り上げる。

 数は3人。


【仮想敵】

 剣術の型では、仮想の敵を想定して技を行う。

 しかし、実物の敵がいないからといって、自由気ままな形だけのものでは技とは言えない。

 そして、技を観る方にも敵の存在を感じさせるようなものでなければならない。

 対敵の技であることを忘れてしまうと、形だけの舞になってしまうので、技の中には常に仮想敵がいなければならない。


 敵は、前左右から囲むようにして迫ってくる。

 彼らは皆、刀を手に持っている。

 澄香は仮想敵に囲まれた状況に緊張し、首筋に汗が滲むのを感じる。

 そう澄香はかつて多人数剣を行った際に不覚を取り、背中に一刀を負い生死の境を彷徨った経験がある。あの少年に助けられた。

 かたきであるハズの少年。

 だが、ここで怯んでいてはダメだと、気持ちを強く持って奮い立たせた。

 澄香は、精神を研ぎ澄ませながら、呼吸を整えていく。

 精神統一をしたことによって、澄香は落ち着きを取り戻していった。

 冷静さを取り戻した澄香は、相手の動きを感じる。正面の敵が刀を振り上げる様を見る。

 澄香は右脚を前へと踏み込むと左袈裟斬りを放った。

 笛が鳴るようなか細い音が響く。

 正面の仮想敵。

 左鎖骨から入った刃は肺を傷つけ心臓を裂き、横隔膜を突き破る。

 そして、刃は下へと滑り落ち、腎臓や肝臓といった内臓を切り裂いて抜ける。

 申し分ない袈裟斬りだ。

 鮮やかな一撃必殺。

 仮想敵の一人が倒れる。

 他の敵は、仲間が倒されたことに動揺しているのか、少しだけ後ろに下がった。

 澄香は、その隙を見逃さない。

 澄香はすかさず、左に位置する次の敵に狙いを定めると、一気に詰め寄った。

 そして、間合いに入ると刀を右下から左上へと振り上げる。

 澄香の刃は、敵の左胸乳から入り、そのまま右肩まで抜けた。

 刀を引き抜くと、血飛沫が上がる。

 それを避ける様に澄香は身を引く。

 返り血を浴びて良いことはない。目に入れば視界を奪われ、手にかかれば刀を握れなくなり、身体にかかれば生臭さに吐き気を催す。

 澄香は、残り1人の敵を意識する。

 脚の踏み位置を切り替え、刀を背後に向かって薙いだ。

 すると、その斬撃は弧を描くように飛んでいき、背後に居た敵を襲う。

 敵の腹を真一門に切り裂いた。

 鮮烈なる太刀捌き。

 淀みのない流麗な剣戟。

 流れるように美しく、それでいて力強い。

 そんな彼女の姿は、まさに鬼神の如くであった。

 仮想敵を全て倒した澄香は、血振りを行って残心を決める。

 刀を鞘に納める。

 そして、深く息を吐くと、静かに目を閉じた。

 瞼の裏には、父の姿が浮かぶ。

 父の笑顔を思い出す。

 ふと、父親が言っていた言葉を思い出す。

 それは他の道場との交流試合に臨んでいた時のことだ。木刀を用いての寸止めの試合。澄香はまだ中学生ではあったが、相手を圧倒していた。

 相手は高校生であったが、まるで赤子を相手にするように簡単に勝ってしまったのだ。

 試合が終わると、父は言った。

 ――澄香よ、よくやった。お前は本当に強くなったなぁ。

 そう言って、褒めてくれた。

 嬉しかった。

 父の言葉は、今でも心に響いている。

 だが、同時にこんな言葉を口にしていた。


「――澄香は、女だからもっと《女性らしい剣》を振いなさい」

 

 と。

 意味が分からなかった。

 生死を賭けて戦う剣に男性とか女性とかを問うなど馬鹿げていると思った。

 男も女もないはずだ。

 剣士ならば、真剣勝負の中で己の全てを懸けて立ち向かうべきである。

 なのに、どうして父はそのようなことを言うのだろうか?

 分からない……。

 父の言った言葉が理解できない。

 何故、このようなことを思うのだろうと、不思議でならなかった。

 父の教えを守りたいと思う一方で、その考えに疑問を抱いてしまう自分が居ることに気付いた。

 澄香の心は揺れていた。

 道場を出て、月明かりの照らす庭を歩く。

 空を見上げた。

 星が輝いていた。

 綺麗だった。

 澄香は、そっと瞳を閉じる。

 瞼の裏に映るのは、幼い頃の記憶。

 父に手を引かれ、歩いた畦道。

 母の優しい微笑み。

 家族で過ごした穏やかな時間。

 どれも大切な思い出だ。

 澄香にとって、かけがえない宝物。

 ずっとこのまま時が止まってしまえばいいのにな、なんて思ってしまうほど、幸せを感じていた。

 でも、現実は無情なもので、澄香は一度に両親を失った。生きてさえいれば、父の言った言葉の意味を訊き返し、母に問うことも出来ただろう。

 だが、二人はもうこの世にはいない。

 澄香は考える為に、刀を抜くと袈裟斬りの素振りを行うことにした。

 八相の構えから、勢い良く刀を振り下ろす。

 風を切る音が鳴る。

 澄香は、まだまだだと思った。

 刀の素振りが上達すると笛のようながする。

 だが、その上を行くと音が高すぎで、無音に至るのだ。澄香は知っている。

 無音の剣を使う少年を。

 あの少年は、万の素振りを行って、無音の剣を手していたのだ。

 少年は言った。

 ――澄香は、まだまだ成長できる余地があるということだと。

 自分の未熟さを感じる。

 刀を振り下ろした瞬間、澄香は何かを感じた。

 それは、とても懐かしい感覚。

 これは一体何なのかと思いながら、澄香は何度も同じ動作を繰り返した。

 やがて、澄香は気付いた。

 父親の素振りと自分の素振りを照らし合わせて、その違いを認識した時に、ハッとした表情を浮かべた。

 父親の剣は「力強い」「速い」というように映るとすれば、今の澄香の剣は「柔らかい」「遅い」と映った。

 澄香は、そのことに強い衝撃を受けた。

 今まで自分は、ただ父の真似をしていただけだったのではないか、と。

 不意に風がそよいだ。

 澄香の目は庭に咲いた一輪の花に引かれた。

 一輪の薄紫色の花だった。

 その花は大きな花びらを持ち、優雅に風に揺れていた。花びらは蝶の羽根ように広く繊細で、光に透かせば光るような透明感があった。

 パンジーだ。

 スミレ科スミレ属に属しており、和名は三色菫さんしきすみれ

 その種類は数千種類にものぼるといわれている。 日本では、蝶が舞う姿に似ていることから遊蝶花ゆうちょうかとも呼ばれて愛されてきた。

「こんなところに、パンジーが咲いていたのね」

 澄香は、美しいその花に見惚れた。

 ここは父の道場だが、父の死後は娘である澄香が管理をしていた。けれど、花を植えた記憶はない。どこからか種が運ばれて咲いたのだろう。

 しばらく眺めた後、澄香はその花の香りが漂ってくることに気付く。

 甘い匂いに誘われるようにして、澄香は思わず手を伸ばしてしまった。

 その時である。

 突然、突風が巻き起こり花は風に煽られる。

 地面になぎ倒されるかと思われたが、花はひらりと身を翻し、その風をかわした。

 まるで蝶のように羽ばたきながら、ふわり、ゆらりと舞う。

 澄香は、その姿に目を奪われる。

 そして、その動きを見ているうちに、あることに気が付いた。

 優雅さと力強さが同居していると。

 一見すると、弱々しく見えるその花弁。

 しかし、その実、しっかりと根を張っているのだ。

 力強く凛として咲き誇っている。

 それが、この花の強さなのだと感じた。

 澄香は自分の腰にある父の刀を見る。

 そして、自分の持ち物である刀を思い出す。

 澄香は、道場に戻ると神前にある刀掛け台に置かれた一振の刀を手に取った。

 鞘を払って、その刀身を見る。

 澄香が手にした刀は、長さ二尺二寸(約67cm)の刀で反りが少なく、切先は実戦の多い戦国時代を中心とした古刀期にみられた一枚帽子。

 刃紋は直刃調で小乱れ交じり。

 鍛えは板目に肌立ちごころで地沸つき、所々金筋交じる。

 鞘は黒呂塗で白銅金具。

 鍔は木瓜形。

 柄巻は黒色の絹糸巻き。

 この刀の銘を雪月花せつげつかという。

 澄香が高校生になった際、父親から贈られた澄香の刀だ。

 彼女は刀・雪月花せつげつかを鞘に納めると、庭に出て抜刀の構えを取った。

 精神統一を行い、意識を集中させる。

 呼吸を整え、ゆっくりと瞼を開いた。

 視界に映るのは、月明かりに照らされた夜の闇と美しく輝く満天の星空。

 澄香は刀の鯉口を切った。

 静寂の中、澄香は音もなく動く。

 それは、まるで夜を泳ぐ魚のようであった。

 淀みのない流麗な剣戟が舞い踊る。

 流れるような優美なる太刀捌き。

 澄香の剣は、美しさの中に秘めたる力を宿していた。

 刀の適寸は身長より三尺(約91cm)短い長さとされる。

 澄香の身長は158cm程。

 ならば、刀の適寸は二尺二寸(約67cm)であり、この刀こそ彼女の為に作られたと言っても過言ではないのだ。

 父親の刀を使っていた時は、長さ故に必要以上の力が込められてしまい、その重さによって腕や肩に負担が掛かっていた。

 しかし、澄香の剣は、その長さ故の利点を生かしていた。

 間合いの長さと力強さは、そのまま斬撃力を上昇させることに繋がるからだ。

 だが、花を見て、その考え方に疑問を抱き始めていた。

 その答えを見つけた時、澄香の動きは、変わらないままに変わった。大きく踏み込んで刀を振るうのではなく、小さくても鋭く速く鋭い一撃を放つ。

 これが、澄香が辿り着いた一つの境地である。

 その速さ、まさに電光石火。

 彼女が一歩進むと、その背後で風が巻き起こる。

 その残像には、一片の迷いもなかった。

 仮想敵を斬り伏せていく。

 やがて、全ての敵を倒すと澄香は納刀を行って静かに目を閉じた。


 桜木はるみ(昭和25年7月29日生)・七段は、3歳で剣道を始めた。

 当時女子剣士は珍しく、男性の中で育った桜木氏は、つねに相手は男性とだけという稽古だった。

 男性の持つ筋力とスピードと対等に向き合った。相手が力で出てくるなら力で応じ、スピードが速ければスピードに負けぬようにとした。

 しかし、他のスポーツにも言えるが、どんなに運動量を増やしたところで、男性と同等の筋力やスピードにはならない。

 桜木氏は、激しい稽古が災いし二度も手術を受けることになる。

 それをきっかけに、女性が剣道を続けるには女性の身体的特徴や機能を理解し、女性の剣道についてのあり方を模索する。

 女性の身体的特徴を男性と比べてみれば、総じて柔軟性がある。この柔軟性から生じる特長、つまり「柔らかさ」から生じる美しさ、またそれによって生じる動作で、「遅い」「筋力が弱い」という現象は、女性独特のリズムだとする。

 女性は「弱いがゆえに」「遅いがゆえに」無理、無駄を省いた「理合に添った剣道」を目指さなければとした。


 澄香は、自分の身体のことを知り、その特性を活かした剣術を身に付けようと気づく。

 その結果、今までとは比べ物にならない柔らかさを手に入れたのだ。

 その動きは、もはや風。

 風よりも早く、そして風よりも静かなのである。

 澄香の剣を振るう姿は、美しい。

 無理と無駄を省いた澄香の姿は柔らかさを持ち、美しさが一歩進んでいた。

 それは、幼女だった女の子が少女となり、大人へと成長する過程の様でもあった。

 澄香は刀を納めると、庭に咲くパンジーに目を向けた。その花びらは蝶のように優雅に羽ばたきながら、ふわり、ゆらりと舞っている。

 まるで踊っているかのように。

 この花のように、私も自由に空を飛んでみたいと思った。

 澄香の口元に微笑みが浮かぶ。

 顔を上げると、夜空に微笑む父と母の姿が見えた気がした。

「お父さん、お母さん。私、女性らしい剣を手に入れました。私は、この剣を使って、もっと強くなりますね。そして、いつかは……」

 澄香は、そこで言葉を止めた。

 その瞳は、どこか遠くを見つめている。

 澄香は、これから自分が行おうとしていることを想像してみた。

 それは、とても素敵なことのような気がした。

 澄香は、夜空に浮かぶ月に手を伸ばす。その指先が月に触れた瞬間、澄香は思わず笑みを浮かべてしまった。

 澄香は、その手をそっと引っ込める。

 この思いは、まだ誰にも話せない。

 けれど、きっと実現できるだろう。

 澄香は、そう思った。

 夢は叶わないから夢ではない。

 夢に向かって努力することこそが大事なのだから。

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遊蝶花の剣 『魔傳流剣風録 《なにがし》とかや云う剣、ありけり』その後 kou @ms06fz0080

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