甕覗の鱗

いぬきつねこ

甕覗の鱗


 龍神様の池に釣りに行くと言って、行方がわからなくなった兄が帰ってきたのは7日後のことだった。

 兄は池の畔に履いていたスニーカーを片方残して消えていたから、きっと溺れて沈んでしまったのだと母も父も諦めていた。龍神さんの池を浚っても兄は見つからず、捜索が打ち切られ、家では棺が空のまま葬儀を出すかどうかで揉めていた。

 英樹ひできは幼すぎて、兄がいなくなったことと、それはおそらく永遠にいなくなってしまったのだという事実を飲み込めないまま、兄をいつも待っていた。

 縁側で足をぶらつかせていると、いつも兄が学校から帰ってきて「ヒデ、元気か?」と抱き上げてくれる。

 喘息持ちの病弱で幼稚園にもまともに通えない英樹にとって、兄の春信はるのぶは外の世界そのものだった。

「私がもっと母親らしくしてやれなかったから」 

 母が泣くのを父は何度も慰め、限界に達したのだろう。今度はメソメソするなと叱り飛ばして、最後は目を逸らしてばかりいた。英樹は両親の諍いの意味は分からなかったが、母が兄と血がつながっていないことは朧気にわかっていたが、兄は生まれたときから英樹の兄であり、シャツに太陽の匂いと夏草の匂いを忍ばせた、日差しのような人だった。

 だから、兄を待っていた。結局、兄が帰ってくると信じているのは英樹だけだったのだ。



 そうして、7日目の昼日中に兄は帰ってきた。


「ヒデ、帽子を被らないと日射病になるぞ」

 夏の陽が縁側をやりすぎなくらいに温め、庭の地面から立ち上る熱気のせいで英樹は少し目眩がしていた。

 兄は秀樹を抱き上げる。英樹は、兄のシャツの胸に顔を埋めた。 

 太陽と、夏草と、いつもと違う、湿った水の匂いがした。

 兄ちゃんが帰ってきた!膨らんた喜びと満足に、背中がチリチリするような、焦燥が混じった。後になってわかる。英樹はその時不穏なものを感じていた。

 兄の首に手を回すと、何か冷たいものが指先に触れた。硝子のようにすべらかで、そのくせ薄くて柔らかなもの。それが、兄の項の辺りにある。

「兄ちゃん、どこ行ってたのさ?大きな鯉を釣ってきてくれるって、ぼく楽しみにしていたのに」

「ごめんな。魚は釣れなかったんだ」


 母が兄を見て悲鳴を上げた。英樹のために持ってきたのだろう、瓶のサイダーが盆から倒れて、細かい泡の立つ水溜りを縁側に作っていった。

「春信くん!春信くん!ああ、よかった……よかった……」

 母は庭に飛び降りて私ごと兄を抱きしめて涙を流し、はっと何かに気がついたように、再び声を上げて泣いた。

 私は顔を上げ、兄を見た。

 母を見る、淋しげで切なさの混じった眼差しは、池の底の色に見えた。


 帰ってきてからの兄は少し変わった。

 何でも好き嫌いなく、たくさん食べる人だったのに食が細くなり、ほとんど何も食べなくなった。

 外に出ることもなくなった。日に焼けていた肌はあっという間に色が抜けた。

 そして、項には池の底の色をした鱗が生えてきた。

 そして、兄は長風呂になった。

 英樹は兄と一緒に風呂に入り、少し伸びた兄の髪をかき分けて、美しい鱗に触れる。

 父は皮膚病の一種だろうと言っていたが、それはどう見ても鱗で、しかもとても美しかった。水色とも空色とも青色とも違う。英樹の持っている百色揃った絵の具にもない、不思議な色だった。

甕覗かめのぞきという色だよ」

 兄はすぐに項を手で覆ってしまう。

「龍神様の鱗の色だ。龍神様の伴侶の証だ」

 英樹が湯当たりする前に兄も湯から上がるが、英樹は知っていた。兄は家族がみな寝静まったあと、浴槽に水を張って浸かっている。

 兄の奇行と、父親が誰にも知られないように静かに歯を食いしばって泣いていたことに関係があることも、英樹は薄々悟っていた。この頃の兄からは、太陽と草の匂いがしない。青い湖底の水の匂いがする。

 冬が終わる頃、風呂に浸かる英樹に兄は話してくれた。


 ――湖の底には都がある。龍神が治る水底の都だ。

 俺はそこに行った。そして、龍神様に見初められたんだ。美しくて優しい人だった。すぐには婿に行けないと俺は応えた。英樹はまだ小さいし、体が弱いから、あの子が七つになるまで待ってくれと頼んだ。龍神様は許してくれた。


「英樹は三月でに七つになるだろう?そうしたら俺は龍神様のところに行くよ」


 英樹は兄に縋り付いた。

 その頃には、鱗は背中の真ん中まで生えてきていた。

 こんなモノ。こんなモノがあるからいけないのだ。爪を立て、鱗を剥ごうとしたが、爪が欠けただけだった。指先の痛みと兄との別離の強烈な予感に、英樹は泣き叫んだ。


 英樹は翌日から熱を出して寝込んだ。

 熱は下がらず、寝間の天井を甕覗の鱗を光らせて泳ぐ龍神の幻影に怯えて何度も悲鳴を上げた。

 薄青色の角をもつ美しい龍神は、女の顔をしていた。


 母に似ていると思った。


 兄が枕元で手を握ってくれた気がしたが、それも幻影だったのかもしれない。


 龍神は兄を連れ去ってしまう。


 いかないで!連れて行かないで!何度も叫び、熱の合間にまた眠った。


 目が覚めたとき、兄はいなくなっていた。

 暦は三月を迎えていた。

 英樹は布団を飛び出し、龍神様の池と呼ばれている池へと走った。自分の中にこれだけの力が眠っていたなんて知らなかった。病み上がりなのに、意識は嫌に冴えていて、足が前へ前へとひとりでに進んでいく。

「兄ちゃん!兄ちゃん!」

 喉の奥から血の味がするまで叫び、池にたどり着いた。

 午後の日差しを浴びた池は、美しく甕覗の色に輝いていた。

 漣が鱗のように見え、湖底の龍神がすぐそこまできている予感に、英樹は怯えた。

 水音に吸い寄せられるように歩く。


 池に注ぐ小さな滝壺の中に兄は浮いていた。



 腐敗ガスによって風船のように膨らんだ体は肉が剥がれ、ゆらゆらと揺れていた。顔貌かおかたちももうわからない。背中の甕覗の鱗だけが、宝石のように瞬いている。

 水音が上がり、薄青く輝く鱗がゆっくりと剥がれた。

 いや、剥がれたのではない。

 甕覗の色をした大きな魚が、湖底へと潜っていった。

 別離の言葉はなかった。

 水音だけが、兄と英樹の世界を分かつ別れの合図だった。

 英樹はすぐに探しに来た両親に連れ戻され、兄は荼毘に付された。死後半年が経っていたという。死んだのは、兄が釣りに出かけた頃だったという話だ。父も母も、兄がいた半年のことを誰にも言わなかった。


 鱗のある兄と過ごした時間は、確かにあった。



 英樹は、兄と同じ歳になった。あの日から喘息は鳴りを潜め、めきめきと頑丈な子どもに変わった英樹を、両親は大事に育ててくれた。しかし誰も、龍神の話をしない。

 今では、英樹は兄がかつて、若い義理の母に寄せていた恋慕に気がついてもいた。英樹のことを思い、けして明かさなかったのだろうことも。

 そして、おそらく兄が龍神様の池で自ら命を絶ったのだろうことも今では確信していた。


 戻ってきたのも、英樹を見守りたかったからだけではあるまい。母の姿をもう一度見たかったのだ。湖底に沈みながら、兄は母を思った。

 結局、英樹は兄の最も大切なものにはなれなかったのだ。その思いは今も英樹の胸の中で時折荒れ狂う。兄に感じていた思慕が、恋心に結実したのは兄が死んでからだった。

 目の前を甕覗の色をした魚が泳ぐ幻影を見る夜は、英樹は指先に鱗の手触りを感じる。

 水底には兄がいる。それを感じて、目を瞑るのだ。


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