第5話 変死体

 ショッピングモールで本を買った帰り、いつもの坂道を自転車で下る途中、一台の自転車が坂道の向こう側、私の家の方から坂道を駆け上がってきた。ヘッドライトの明かりがその動きに合わせて鬼火のように揺れていた。その光はどんどん大きさを増して私の方へと近づいてきた。やがて私はその自転車と坂道の中腹あたりですれ違った。

 街灯の明かりによって私ははっきりとその自転車に乗っていた人の顔を捉えることができた。その自転車に乗っていたのは教室で彼女にケイゴと呼ばれていた男子だった。その男子はかなりのスピードで自転車を飛ばしていた。街灯に照らされた彼の頬は真っ赤に染まっていた。その光は彼女が所属する世界と同じ輝きを放っていた。

 私は後ろを振り向いた。真っ暗な闇が広がるばかりで彼の姿はもう見えなかった。





          ◇





 幼虫は青々とした葉を物凄い勢いで食べている。上下動を繰り返す顎の動きがはっきりと見えた。二日見ない間に幼虫はかなりの大きさに成長していた。

「あと二、三日もすれば蛹になるかもしれません」

 先生からのコメントにはそう書かれていた。

 幼虫の成長は本当に目まぐるしい。日に日に姿を変え、変身に向けて一直線に進んでいく。変化のない単調な日常を送る自分とは対照的だと思った。

 けれど良く考えれば、この幼虫と出会う少し前まで、私は彼女の隣にいたのだ。もっと言えば二ヶ月前までは私も彼女も小学生だったのだ。それらがとても昔のことのように思える。

 私はいつも通りに、木でできた簡素な椅子に腰掛けて、目の前で葉を咀嚼する幼虫をノートに描き写していく。毎日スケッチを続けるうちにかなり手際良く幼虫のフォルムを捉えることができるようになった。

 ただ、だからといってそれが何になるのだろう。私は昨日のケイゴという男子の自転車を漕ぐ姿を思い浮かべた。彼が掴み取ろうとしている世界と比べれば、私の日常なんて取るに足らないものだ。

 不思議と以前の燃えるような嫉妬は感じなかった。ただ静かな諦念だけが胸中を占めていた。

 もし仮に彼女の隣にずっと居れたとしても突き当たったであろう問題が少し早めに発生しただけだ。だってどうして友達が恋人に勝てるだろうか。私にとって一番価値のあるものは彼女との友情だけれど彼女がそうだとは限らない。むしろ一般的には友情よりも愛や恋が優先されるべき物なのだろう。ならばもし私が彼女の一番の友達で居続けることができたとしても、彼女が私ではない誰かを優先する機会はこれから先いくらでも訪れただろう。

 しかも、今の私はもう恐らく彼女に友達とすら思われていないのだ。それでどうして嫉妬を感じることができるだろう。

 私は淡々とノートに幼虫を描き写す。グロテスクに微動する数多の足まで正確に描写していく。スケッチを繰り返すたびに私は冷静に現実を捉えることができるようになった。彼女がいないという現実をスケッチという単調な作業を通して少しずつ飲み込んでいった。

 日に日に成長を続ける幼虫はその姿をもって私の日々がどれだけ単調で変わり映えがしないかを浮き彫りにしていく。初めはその姿に焦燥混じりの後ろめたさのようなものを覚えたけれどそれで良いのだと今ではそう思える。あの日々が美しすぎただけで私が過ごす今もたしかに私の日々なのだと。そんな風に、とりあえず今の日常を受け入れることができた。

 足掻いてもどうにもならないことがある。例えばこの幼虫がどれだけ変わりたくないと願っても変身し続けるように、彼女とずっと友達でいたいという私の願いも恐らく同じ。

 だからもうそんな願いは捨ててしまうべきだ。彼女の隣でもう一度日々を過ごしたいだなんて、そんな益体のない妄想は取り払ってしまうべきだ。なぜなら、それは決して叶わないから。

 ずっと彼女の一番の友達でいたい。今まで私が抱き続けていたそんな願いを、いつか完全に捨て去ることができるだろうか。

 最後の線を引き終わって今日のスケッチが終わった。ノートの上には色を失ったモノクロの幼虫が葉にかじりついている様子が描かれている。

 ケースの中の幼虫は相変わらず葉を食べ進めている。色鮮やかな目のような模様が身体の動きに合わせて揺れている。

 私は鞄からペンケースを取り出しスケッチに使ったシャープペンシルをしまう。その時ふと、あることを思い出した。

「理科、宿題あるんだっけ」

 私は一人で呟く。教室の返却済みボックスに置かれた理科のノートを回収するのを忘れていた。

 私はため息をついて鞄を背負い理科準備室を後にしてそのまま教室へと向かった。

 理科準備室があるのは東棟で教室があるのが西棟だ。各棟はそれぞれ渡り廊下で結ばれているとはいえそこそこ距離がある。私は重い足取りで吹き抜けの渡り廊下を渡り西棟へと入った。ひっそりとしていて湿った空気の漂う東棟とは違い、西棟はどこか活気があってカラッと乾いた空気が漂っていた。実際西棟を歩いていると何人かの生徒とすれ違ったし、廊下のどこからか吹奏楽部の吹き鳴らす様々な楽器の音が聞こえてきた。

 私はそれらに少し怯えながら踊り場から螺旋状の階段を登って自分の教室へと向かった。階段を一段登るごとに楽器の音が大きくなっていった。自分の教室で吹奏楽部が練習していたら嫌だなと思った。

 教室のある三階の踊り場にたどり着いた。音は更に上の階から鳴っていた。どうやら心配は杞憂に終わったみたいだ。私は安堵して廊下を歩き、突き当たりの教室のドアを開ける。

 予想とは違い、生徒が一人、教室の一番前の席に座っていた。安心しきっていた心臓が大きく跳ねた。生徒は机に向かって、頻りに何かをノートに書き込んでいた。よく見るとその背中には見覚えがあった。

 その生徒もドアが開けられたことに気づいたのか遅れてこちらを振り向いた。私の瞳を真正面から捉えるのは、やはり、委員長の紫月あやめさんだった。

 一瞬気まずい沈黙が場を包んだ。私は軽く会釈をして教室の後ろを一直線に進んでラックに立てかけてある自分のノートを取ってカバンに詰めた。

「この前はどうもありがとう」

 唐突に紫月さんの声が教室の空気を震わせた。その声はいつもの号令の声よりも高く、柔らかく聞こえた。紫月さんはこちらを見ずにノートに向き合ったままでそう言った。恐らく、私が前に掃除を手伝ったことを言っているのだろう。

「ううん。そんな。紫月さんは残って何やってるの?」

「隣、座ったら」

 紫月さんは私の問いかけに答えることはせずに自分の隣の席を少し引いてそこに座るように促す。私は言われるがままに紫月さんの方へ向かっておずおずと差し出された席へと座った。

「ん」

 紫月さんは私のそんな動作を横目で見てそれから軽く頷いた。

「私の名前分かる?」

「紫月あやめさん」

「正解。すごいじゃん」

「委員長だから」

「そっか」

 そう呟いて紫月さんは少し顔を顰めた。

「あなたは広田さんだよね?」

「うん」

「今クラス委員の集会の議事録をまとめてるの。なんか書記になっちゃって」

 そう言って紫月さんはこちらにノートを広げて見せる。細かくてけれど丁寧な字で色々なことが書いてあった。

「すごいね」

「すごくないよ。全然すごくない」

 そう言って紫月さんは黙り込んでしまう。私が何か気に障ったかなと思って心の中でおどおどしていると紫月さんは再び口を開く。

「私さ。委員会を決める時とかの沈黙が苦手なんだよね。何か沈黙のままで時間が経つにつれて自分がやらなきゃって気分になっちゃって。それでいつも一番しんどい役職を引き受けちゃうの。小学校からずっとそう。私別にそういうの得意なわけでもやりたいわけでもないのに」

 紫月さんはやはりノートに向かって手を動かしたままでそう言う。

「そうなんだ」

「ごめんね。何かいきなり愚痴っちゃって。私、部活もやってないし、こういう愚痴を聞いてれるような友達がいなくて、そしたらたまたま広田さんが来てくれたから。ていうか広田さんはこんな時間まで何してたの?何か部活とか入ってたっけ?」

「ううん。私も生物係の仕事で残ってた」

「ふうん。生物係の仕事って何やるの?」

「アゲハの幼虫の観察」

「何それ」

 そう言って紫月さんは小さく笑った。そんな風に笑っているところを初めて見た。それが嬉しくて私も思わず笑った。

「別に笑うことないじゃん。ノートに幼虫のスケッチして先生にコメントもらうだけだよ」

「ますます訳わかんないんだけど。係でそんな仕事あるんだ。放課後に一人で大変だね。

「うん。私も部活に入ってなくて、だから付き合ってくれる友達もいなくて」

私の答えに紫月さんは訝しむような表情を浮かべた。それから少し遠慮がちに口を開いた。

「広田さんって友達いなかったっけ?ほらあの背が高くて綺麗な子。赤熊さんだっけ?」

 彼女の名前が出た瞬間頭が真っ白になった。

「友達だけど、今はあんまり喋ってない」

 無意識にそんな言葉を口に出す。今は、という言葉に意図せず力がこもった。

 そう言ってから一拍遅れて、彼女の部活などを理由にすればよかったことに気がついた。けれど一度口に出した言葉を取り消すことはできなかった。私はバツの悪さに俯いて紫月さんの反応を待った。

 紫月さんは私の言葉に何かを察したかのように黙り込んでノートに視線を落とした。それから言葉をポツリポツリと並べ始めた。

「私、入学式の日にあなた達を見たんだよね。正門の前でクラスが一緒になって大喜びしてるところを。私は小学校から一緒の友達があんまりこの中学にいないから、いいなって見てたの。だからさ、あれだけ仲良さそうだったんだし、これからも仲良くできると思うよ」

 紫月さんは敢えてこちらに目を向けずノートに視線を落としたままでぶっきらぼうな口調でそう言った。

「うん。ありがとう」

 私はそう言った。紫月さんは私の言葉に照れたように笑ってそれからノートにシャープペンシルで何ごとか書き込んで

「私ももう終わったから一緒に下まで行こう?」

「うん」

「付き合ってくれてありがとうね」

 そう言ってノートを鞄に片付ける紫月さんを私はじっと見つめていた。

「そんなじっと見つめられると恥ずかしいんだけど」

「ごめん」

「まあいいけど」

 そう紫月さんは呟いた。

 紫月さんがくれた励ましの言葉が頭をぐるぐると回っていた。私は紫月さんの優しさに心が温かくなるのを感じた。けれど、それと同時に、紫月さんの希望に満ちた言葉と現状の落差に虚しさも覚えた。

 片付けを終えた紫月さんが席を立った。それに釣られるようにして私も席を立った。それから二人で教室を出て、なし崩しに校門まで一緒に歩いた。その間、二人を沈黙が包んでいた。けれどそれは嫌な種類の沈黙ではなかった。その沈黙は暖かな手触りをしていた。

 そして校門を出ると同時にそれは破られた。

「私はこっちだけど広田さんは?」

 紫月さんは私が帰る道とは逆の道を指して尋ねた。

「私はこっち」

 私は下り坂を指して言った。

「じゃあここでバイバイだ。お話聞いてくれてありがとうね」

「ううん。こちらこそありがとう」

私は曖昧な言葉でそう言った。けれど紫月さんには通じたみたいで、私を励ますように

「頑張って」

と言って、手を振って、照れ隠しのように背を向けて歩き出した。

 私も紫月さんに手を振りかえして坂道を下り始めた。

 




         ◇





 あと2、3日という先生の予想に反して蛹化は、私が理科準備室を訪れた時にはすでに始まっていた。

 幼虫は地面と垂直に近い角度で立て掛けられた枝に糸を吐き出して吊り下がっている。そんな不安定な状態でモゾモゾと身体を動かしている。今まで散々見てきたグロテスクな微動に似た動き。今までの微動はもしかしたら蛹になるための微動の予行演習だったのかもしれない。そう感じさせるくらい今の幼虫は生命力に溢れていた。いつも通りのグロテスクな微動も蛹化のための動きだと思うと却って美しさの予兆が感じられた。

 私はノートを開きいつものように筆を紙上に走らせる。いつもとは違う構図で現実の幼虫を切り取っていく。宙吊りになっている幼虫の普段は見えない細かな無数の足などもノートに書き写していく。

 そういえばこれから蛹になったとして何かスケッチするほどの変化というものは起こるのだろうか。私の中の印象だと一度蛹になってしまえば後はもう蝶になるまで何の変化もないというイメージなのだけれど、もし本当にそうなのだとしたら果たしてそれはスケッチをする意味があるのだろうか。

 私は手を動かしながら頭の片隅でそんなことを思った。けれど、もし蝶になるまで何の変化も起こらないのだと判明しても私はこの場所に来るだろうなという、そんな予感のようなものがあった。

 ここまで来たのならこの幼虫の変身を最後まで見届けよう。変わり映えのしない毎日を送る私と違って、自らを絶えず進化させて、広い空へと羽ばたいていくその軌跡をしっかりとこの目に焼き付けよう。それが蛹に閉じこもったままの私にできる唯一のことだと、そう思った。





         ◇





「今日どうする?久々のオフだしどっか遊び行こうよ」

「ええなーそれ」

「とまりも来るよね?」

「ごめん。今日はちょっと用事あるから」

 前の席の彼女たちのやり取りが耳に入ってくる。私は無意識にそれを聞き続けていたことに気づいて意識を本の方へと矯正する。

 程なくして先生が教室に入ってきてHRが始まる。意識を外界から本へと矯正した余波で、先生の話は脳の上を滑って中々意識の内に収まらなかった。やっと先生の話を捉えられるようになった頃にはもうHRは佳境に入っていた。残された行程は先生のいつもの短い締めの言葉だけだった。

「じゃあ今日はこれで終わります。あと、広田さんは少しお話がありますので教室に残っていてください。それでは今日も一日お疲れ様でした。紫月さんお願いします」

 予定調和に安心しきっていた分大きな不意打ちを喰らった。その驚きは、先生にアゲハチョウの幼虫の観察を打診された日に訪れたのと同じものだった。私は観察についてのことだろうかと推測した。けれどそれが具体的に何なのかは見当がつかなかった。

「起立。礼」

 そんな風に自分の中で先生に呼び出されたという事象を消化している間にHRは終わった。予定調和の喧騒が教室を包んだ。

 先生は以前とは違って誰に構うこともなく喧騒を横切ってまっすぐと私の元へと来た。近づいてくる先生を眺めているとふと別の視線があることに気づく。

 彼女がこちらを見つめていた。それも何があったんだろうといった野次馬的な視線ではなくその目は私を真っ直ぐに見据えていた。私はその視線に射抜かれて石化したように身体が動かなくなった。

 その石化を解いたのは先生の言葉だった。

「広田さん。ちょっと理科準備室まで来てもらっていいですか?」

 先生は尋ねる。どこか切羽詰まったような口調だった。私は頷いた。

「では行きましょう」

 先生は言うや否や教室のドアへと向けて歩いていく。私もその後を追いかける。

 教室を出る直前後ろを振り向くと彼女はもうこちらを見てはいなかった。彼女はいつもの面子の内の誰かと言葉を交わしていた。私は先ほどの彼女の視線を思い返す。久々に彼女に触れたような気がした。その感慨もいつになく急ぎ足の先生を追いかける内に消えてしまった。

「先生どうかしたんですか」

 私は思わず訊ねる。先生は気まずそうに口をつぐんでいる。

 そんな状態のままで渡り廊下を歩いて西棟の階段を降りて科学準備室へと向かう。人気のない螺旋階段を降りている最中にやっと先生が口を開いた。

「広田さんにそのままを見せるかは非常に迷ったのですが、そのままを隠して事実だけを伝えるのは却って広田さんに悪いと思ったので」

 先生の言葉はイマイチ要領を得ないまま途切れた。先生の言葉が途切れると同時に踊り場を抜けて理科準備室へとたどり着いた。先生は躊躇を振り払うように一息でそのドアを開ける。

 瞬間、先生のいう「そのまま」の意味が分かった。

 本当に幼虫は「そのまま」の姿勢で死んでいた。宙吊りのまま皮膚が捲れ上がってドス黒くなった身体の上半分は一目見るだけで死んでいるということが理解できた。その死体は身体をくの字に折り曲げるような姿勢で身体の下半分は緑色を保っていた。それが上半分の黒色をより一層ドス黒く見せていた。

「蛹化が予定よりも早くて心配で、今日の昼休みに見に来た時にはもう既にこの状態でした。広田さんに亡骸を見せるか、非常に迷ったのですが、広田さんは毎日熱心に観察をしてくださっていたので、そんな広田さんに最期の姿を見せないのは不誠実かと思いまして。」

 先生の言葉からはバツの悪さと後悔と私への気遣いが滲み出ていた。そんな先生の言葉に私は先生はやはり優しい人だなとそんな場違いな感想を抱いた。

「本当にすいません。私の飼育が至らなかったばかりに」

「大丈夫です」

 私は幼虫をじっと見つめながら頷いた。

「また、こちらも少し気が動転していたとはいえ、ショッキングな絵面をいきなり見せてしまいそのことも申し訳ないです。事前に確認を取っておくべきでした。気分が悪くなったりなどは大丈夫ですか?」

 先生はそんな調子で恐縮しっぱなしだった。

「はい。大丈夫です」

 私は幼虫から視線を外すことなく頷いた。それからゆっくりと幼虫の方へ向かって歩き出した。

 目の前まで行くとショッキングな映像がより鮮明に見えた。

 プラスチックのケースには幼虫から吐き出された白い糸が散らばるような形で貼り付いていて、捲れ上がったドス黒い皮膚は不完全な羽のような形をしていた。恐らくこの羽を蛹の中で成熟させて大空へと飛び出す手筈だったのだろう。それも今では叶わなくなってしまった。

 私を置いて、この幼虫は大空へと羽ばたいていくのだとそう思っていた。けれどそうはならなかった。それどころか、たった一晩で、美しい蝶になるはずだった幼虫は、真っ黒な醜い姿へと変わってしまった。この幼虫はケージの外の彩りに溢れた世界を知ることなく、蛹の中で息絶えた。

 ピンポン。

 突然チャイムが鳴った。

「宮原先生、職員会議を始めますので至急職員室までお越しください」

 ガサガサとノイズが走った後スピーカーからそんな音が響いた。その音は理科準備室の静寂を突き破った。先生と私は顔を見合わせた。それから先生は慌てた素振りで

「すいません。今日は職員会議なのでもう行かないと、なんですけれど」

そこで言葉が途切れる。その表情からは焦りの色よりも私への気遣いや心配が色濃く滲み出ていた。

「先生、私は大丈夫です。むしろ気を遣ってくださってありがとうございます。」

 私はそう言った。

 先生は私の言葉に生真面目な表情で頷いて

「何度も言うようですけど今回のことは本当に申し訳ありませんでした。広田さんは毎日熱心に観察を続けてくださっていたので、幼虫が蝶になる姿を見ていただくことができず、非常に残念です」

 そう言って先生は深々と頭を下げてそれから

「それでは私は職員会議へ向かいます。鍵は後で閉めに来るのでそのままで大丈夫ですよ。幼虫の亡骸も後で土に還してあげますので」

 そう言い残して小走りで理科準備室を出て職員室の方へと駆けて行った。

 先生が出て行って一人きりになってからもしばらく私は理科準備室にいて蛹になりきれなかった幼虫の亡骸をじっと眺めていた。

 思えばこんなにも近くで死に触れたのは初めてだ。おじいちゃんもおばあちゃんも、親戚はみんなご長寿さんで元気なのでお葬式にも行ったことがない。もちろん道端に落ちている蝉や乾涸びたカエルの死骸を見かけたことは何度かあるけれど、自分が長い時間接してきたものが死んだのは初めての経験だった。

 死に間近で触れて私は思った。死とは何もないのだな、と。昨日まであれだけ生命力に溢れていた幼虫も一度死んでしまえば動く気配すらもない。それはまるで、今の私の日常のようだった。思い出という蛹の中で、モノクロで単調な生活を送り続けているだけの。

 私は何かに弾かれるように、これまで何度も腰を降ろしてきた簡素なイスから立ち上がった。それから理科準備室の扉を勢いよく開けた。光が薄暗い部屋へと差し込んだ。私は振り返ってもう一度幼虫の亡骸を見た。物音一つしない静かな部屋の中で幼虫は微動だにせず、ひとりぼっちでそこにいた。痛切な悲しみが胸を襲った。私はその悲しみから逃げ出すように、理科準備室の扉を閉めた。そして廊下を、一心不乱に歩き始めた。

 職員会議の影響で全ての部活が休みなこともあって学校全体が静かな空気に包まれていた。

 彼女に会わなければ。強くそう思った。静寂に包まれた学校で、それだけが響いていた。廊下を早足で歩きながら、螺旋状の階段を一段飛ばしで降りながら、私はずっとそれだけを考えていた。

 願いがそのままの姿で目の前に投射された時、人は息を呑むのだと知った

「とまりちゃん」

 呟きが自然と口から漏れた。その声は確かな大きさで現実を震わした。彼女がこちらを振り向いた。それは確かに彼女だった。彼女は靴箱で一人で立ち尽くしていた。

「かんざし」

 彼女も呆気に取られたように呟いた。その声が、場違いなほど心地よかった。

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