花と追憶

雪田 理之 (ゆきた みちゆき)

蛍のほのかにうち光りて〈定子〉

 ――夏は夜。

 かつて、あの子はそう言っていた。


 静かな夜だ。

 花菖蒲はなしょうぶが風に揺れ、一匹の蛍がほのかに灯りをともしている。


  ◇  ◇  ◇


 いつだったか、私が些細なことで思い悩んでいた夜のことだった。

 私は庭池の淵で、ぼうっと光る蛍たちを眺め、物思いに沈んでいた。


「私、なんのために生きてるんだろう……」

 蛍は、儚くおぼろげで、あてもなく彷徨い出た魂のように見えた。

 私の魂も、ここから逃れ出て、蛍のように闇の中に消えてしまえたら……。



 そこに裳裾もすそを風にひらひらさせて通りかかったのが、少納言だった。

 彼女は、私の側仕そばづかえの女官だった。


「夏は、夜がすてきですよね!」

 彼女は、目をきらきらさせて、そんなことを言った。

 虚をつかれた私に、彼女はこう続ける。

「ぬばたまの夜に、静かにきらめくまばゆい蛍たち。夏は、夜がすてきだと思いませんか?」

 彼女は、心底楽しそうな笑顔だった。



 そうか。

 彼女には、世界が全く違うように見えているのだ。

 蛍に感傷的な思いを重ねていた私とは、違う世界が。

 案外、私が深刻に思っている悩みなんかも、彼女から見ればまた違って見えるのかもしれない。

 それって面白いかも。そう私は思った。


 数匹の蛍たちが、暗闇の中を、ちかり、ちかりと明滅しながら飛んでいた。

 その光に一瞬照らされた、彼女の楽しげな横顔が、なぜか私の目に焼き付いて離れなかった。


  ◇  ◇  ◇


 あれから何年もの月日がたった。

 少納言とは、長らく会っていない。今頃どうしているだろうか。


 今の私は、山地からみやこを遠く眺めるばかり。

 いっそ蛍になって会いに行けたらいいのに……。


 ふらふらと闇に消えていく一匹の蛍を、私はうらやむように見送った。

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