一章 顔てぃっく

1-1 変暴潮流

 それは色の洪水だった。竜巻だった。爆発だった。

 銅、朱、赤、紅、二百二十六色のアカ。

 金青、青藍、錆納戸、二億八万千百九十五色のアオ。

 高麗弁天、左伊多津万、海景苔蘭天鵞絨、六千六億三那由他不可思議五京千八百四十溝七千七分五色のミドリ。

 色を見分けるのが止まらない。色を数えるのが止まらない。

 何を数えているのかどこまで数えているのか分からない。無限の無限乗のそのまた無限乗の色が一瞬ごとに分裂しながら私を見ろ俺を見ろと大音量で主張して、脳みそがスムージーになっていく。

 自分の体が見えない。自分の感覚が分からない。痛みとも快さともつかない六億六千X通りの透明が体をなぶる。そうして五体が散り散りになろうとしている時、意識のど真ん中にぞぶん、と黒い何かが突っ込んできた。幹の先に五本の枝。腕だ。


「起きろシモン!」


 さあっと視界が開けて、アルトゥルの顔面ドアップに焦点が合った。予想外に整った顔に思わず「だああっ!?」と叫んで飛び退いた。


「待てシモンそっちは――」


 突如襲いかかる浮遊感。そして重力。いく感覚。なのに目の前には灰色のがあって、薄闇の中アルトゥルの手がこっちに伸びている。


「――っと危ねえ」


 間一髪、アルトゥルの手にボクはぶら下がった。いやぶらがった。全身の感覚に全力で脳に?《はてな》を投げ込まれ、パンクしそうになりながら、ボクはアルトゥルに引き卡げられて地に帰還した。アリガートゴザイマママスと不良品ロボットのように言った後で深呼吸して今起こったことを整理しようとするが、できない。


「なんですか今のは……」


 今日一日で何度思い浮かべたかも知れない疑問をまた口に出す。


「『澱み』にやられたんだ。ほれあそこ」


 アルトゥルの指す通りに斜め上――下? ともかく頭上――を見上げて、私は絶句した。地面だと思っていたのが傾いたビルの壁面で、ついさっきまでいたはずの真っ黒い地面が遥か右のほうに影のようにそびえていたから?いやその程度ではもう絶句などしない。せいぜい息をのんで感嘆符を三つぐらい付けたセリフを叫ぶ程度だ。宇宙のように真っ黒い地面に浮かぶ地球が、その周りをまわる星々が、あまりに美しすぎて、私は絶句したのだ。

 きらめく星々に穏やかに照らされ、神々しく浮き上がって見える地球は、近付いてみれば空気の流れ一本一本を手に取れそうなほどにリアルで、えいやと着陸してしまえばきっと草木の息吹すら感じることすらできるだろう。緑、青、白の入り交じった姿はあまりに綺麗で――


「オチるぞシモン気をつけろ。どんな形に見えてるか分からねえが、それに触れば五秒足らずで気が狂う。さっきみてえに助けるこたぁできねぇぞ」


 我に返る。浮いていた踵を慌てて沈めた。体が原子レベルに散り散りばらばらになる――あの感覚は二度と味わいたくない。脳の底からぞわりと立ち上ってきた記憶をかき消すように声を出す。


「『澱み』ってなんなんですか?」

「夢の死骸の吹き溜まりさ。」

「夢の死骸?」

「叶えられなかった夢、あるだろ? それか見たことも忘れてる夢。あるいは思い出、妄想。きょとんとしてるが忘れてるだけさ。そうやって忘れられ、叶えられず、消え時をなくした夢はそのうち漂流しだして吹き溜まる。」


 私は、遊園地の高木にヘリウム風船が山ほど引っかかっていた光景をおぼろげに思い出す。この何年前のものかも分からない思い出も、さっきまでは漂流しかけてたんだろうか?


「そうやってできた『澱み』には膨大な思念とエネルギーが凝縮されてんのさ。触れれば気が狂うし、タチわりいやつだと場をいじくって無茶苦茶にしちまう。ここの『澱み』は相当質が悪いな。重力が――」


 アルトゥルはやおら屈んで足元に生えるパイプを引っこ抜き、投げる。途中まで放物線を画いていたそれは、突然頭上に跳ね上がり、かと思いきや右に左に吹き飛んで、どこかあらぬ方向へと消えてしまった。


「――無茶苦茶だ」

「ですね……」


 あのパイプ、引っこ抜いてよかったんだろうか。そういうどうでもいいことばかりが気になる。きっとこれはストレスだ。慣れないところに長時間置かれるストレス。一周回って無表情の私。それをアルトゥルは、自分の言っていることが理解できてない為の反応だと捉えたらしい。


「ま、いたずら好きの厄介者って覚えりゃいい。俺みたいなな。」


 ウインクしてにやりと笑う顔は、確かにいたずら好きの厄介者らしさ満載だ。思わず笑ってしまった。


「ぴったりですね」

「たはは、そうだろ?」


 笑顔が眩しすぎて目を逸らしてしまった。


「変なこと言ってないで先行きましょう……ここ、どうやって抜けるんです?」


 アルトゥルは黙って人差し指を立て、ちょいちょいと空を突っついて見せた。私の肩に手を置いて、またあのいたずらっぽい笑みを浮かべる。それは少し悪魔に似ていた。私の顔面には、Yシャツにぶちまけた墨汁くらいはっきりと「そんなバカな。それだけはやめろ」と書かれていたと思うが、それは無視された。


「無限の彼方へ! さあ行くぞ!」


 言うが早いかアルトゥルは私の腕を掴み、跳ぶ。ぐい、と体が引っ張られる。


「どうし――てえええええええっ!」


 ずり下がって今にも体から飛び出しそうな全内臓。

 F1並みの速さで近づいてくる向かいの赤褐色の壁。

 くっきりと見える塗装のヒビ。

 アルトゥルが身をひねる。視界から消える。

 ボクは「え?」直角にぶっ飛んだ。

 吐いた。黄ばんだ吐瀉物が赤褐色と平行線。

 泣いた。涙はすぐに乾いた。今度は斜めにぶっ飛んだ。

 体翻って、視界裏返って、迫る黒い地面と太陽系。

 お―横に吹っ飛ぶ――い大――また横に吹っ飛ぶ――丈夫――右に左に縦横無尽に――か――なんかもう楽しくなってきた。

 シェイカーの中の氷の気分だ。でもこんだけ吐いたらカクテルは台無しだろうな。文字通り前後不覚、上下不明、右も左も分からない混々乱々状態。しかし、この地獄の洗濯機の出口へと近づいているのだけは光の加減から感じ取れる。

 私はたこせんが作れそうなほど強く目を閉じ、ばらばらになるまいと全身に力を込め、必死にアルトゥルの腕にしがみついてその時を待つ――待つ――待つ――


「くっ! 勘付かれたか!」


 誰に何を!? 湧き上がる不安に駆られ、くっついた目蓋を何とか開けようとするも繰り返される宙返りと、ぶり返す吐き気がそれを許さない。

 そうこうしているうちに頬をかすめる何か。そして爆音――まるで両国の花火のような――爆風に体が浮き上がる。手に力をこめようとして――気付く。

 ない。無い。アルトゥルの腕がない。

 火事場の馬鹿力でえいやと目を開ける。にかわのようにべたついている時間。まず目に入ったのは花火。次にハリセンボンの奔流。そして――くうを滑って落ちてくる大量の船。

 五メートル先に彼がいた。数百人は乗ろうかというひと際巨大な船の前で汗を垂らしていた。汽笛がやけに間延びして響く中、アルトゥルはこっちに向かって口を動かす。読み取るのは簡単。

 よ 

  け 

   ろ

    どん、と私は吹っ飛んだ。

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