9 Outside of inside of inside of

 おぼろげなモニターの光が、かび臭い部屋を浮かび上がらせる。他に電気がついていないのは、この部屋の主の目が悪いから。あまり明るいとPCの文字がぼやけ、潰れてしまうのだ。

 今は若いから、外に出てもさして不自由はしない。精々遠くの信号機が白くかすみ、灯っている色しか分からないという程度。徒歩ならさしたる問題は無い。

 しかし医者には今後年齢が進めば病気は進行し、普通の仕事はできないかも知れないと言われてしまった。

 父親には哀れまれ、専業主婦になればいいと言われた。母親にはどれだけ説明しても理解されなかった。だが彼女にとってクソくらえだった。


 自分の不運を嘆く暇なんてなかったし、不幸だなんて考える余裕も無かった。

 ただ人より早く前に進まなければいけなかっただけ。ならば嘆く時間すら前進に割けばいい。


 絵梨にとっては、ただそれだけのことだった。


「…………」


 動画をエンコードしながら、ふやけたカップラーメンをすする。彼女の関心は、もっぱらスマホに写るSNSだ。

 配信のネタとしてウーバーを利用する事もあるが、食へのこだわりはなく、腹が減れば空腹を満たすという程度。食事の時間は片手間で、今の様にエゴサや作業にあてている。


『エリカはマジで私の生きがい! 本当かわいい』

『今日エリカの動画あがるらしいから、それで一日仕事頑張った……エリカの動画が無かったらきっと死んでた笑』

『エリカの新衣装楽しみ~ それだけで明日生きているける!』


 SNSのどこも見て、エリカに対してポジティブなことしか書かれてない。そんな訳がないと、絵梨は必死に否定的な投稿を探した。

 誹謗中傷とまではいかずとも、『エリカとか見たことないし興味ねぇ』とか『VTuberとかキモイ』とか、そういう頭の悪い独り言でもいい。

 1つでもそんなものがあれば、感じているストレスを消し去ることができるだろう。


「なんで……そんなわけない……」


 しかしどれだけ探しても、批判的な声が全く見当たらない。エゴサに引っ掛かるのは、囲いみたいな優しい投稿だけ。試しにブロックリストを解除してみても、事実無根な言いがかりすら見付からなかった。


 皆、エリカを褒めている。褒め称えている。

 エリカのおかげで毎日が楽しいとか、エリカのおかげで頑張れるとか。嬉しい事ばかり並べられている。

 そんな訳がないのだ。この世界は優しくも無ければ、厳しくも無い。


 世界は最初から正解で、人間は全て間違っている。

 間違いだらけの人間が、突然全員同じ答えを出すなんて有り得ない。


 別に絵梨がドMな訳でも、分身であるエリカを叩いて欲しい訳でもない。

 寧ろ少し前までは粘着アンチ達に悩まされ、情報開示請求の手続きも進めていたほど。アンチの撲滅は、ずっと望んできたことではある。


 ただチャンネル登録者数が1億人を超えたあたりから、異常なまでにアンチが減り始め、今ではエリカに肯定的な意見しか見かけない。無関心な人間も見受けられるが、それも日々減っていっている。

 最初の内は喜んでいたものの、さすがに気持ち悪くなってきたのだ。こんなことがあってはいけないと、生存本能が叫んでいる。

 やっかみの投稿すらないのは人間が……ひいては世界の方が変わってしまった不安感に囚われる。


「人間はおかしなものね~。苦しい方が現実だと信じ込んで、自分から傷付きに行くなんて、私には理解できな~い」

「っ!? エリカ!!」


 突然スマホ画面が切り替わり、エリカの配信が流れ始める。絵梨は反射的に、スマホをテーブルの角に叩きつけていた。

 大きな音を立てて破片が飛び散り、跳ね返ったスマホが床を転がっていった。


「見たくない鏡像を見えなくして、それで一体なんになるの~? 配信切らないと配信は終わらない。そんな事も分からない程、おバカになっちゃった?」

「なんで……わたしがエリカなのに……」


 今度はPCのモニターが切り替わり、3画面の全てにエリカが表示される。

 とぼけた表情だが、声がニマニマと笑っている。


「そうね。私がエリカ、あなたもエリカ。何か変?」

「変に決まってるでしょ! ……わたしがエリカ…わたしをアプリでトレースして、配信画面に投影されるのがエリカなの! なんで……なんで勝手に動くのよ!」


 エリカは、純粋で、無垢で、屈託なく、裏表のない笑顔を浮かべている。

 およそ人間が辿り着ける境地ではなく、生み出せる理想でもない。


 絵梨は唇をかみしめ、ざわつく胸を抑え込む。


 最近、絵梨の知らない所でエリカが勝手に配信を始める事件が多発している。最初は乗っ取りかと思ってマネージャーに対応を頼み、配信サイト側にも通報していた。


 しかし返ってきた調査結果は、乗っ取りの可能性は低いというものだった。

 信じられずに追加の調査を依頼したが、むしろ絵梨の記憶障害を疑われる始末。暫く配信を休めとまで言われてしまった。


 冗談ではなかった。


 意味が見いだせず、絵梨は学校に行かなくなった。何かしないといけないという正体不明な焦燥感に追い立てられ、独学で配信を始めた。


 自分は見た目がブスなのは分かっていた。それが不幸だとは思わない。

 だって見た目がよければ、見た目目当ての浅い奴が寄ってくる。見た目が良いからと寄ってくる奴は、他に見た目が良いものを見付ければそっちに移ってしまう。そうでなくとも年を取ってみた目の優位を失えば、良好な関係は消失してしまうだろう。


 初めから見た目のフィルターが無ければ、真実の愛を手に入れやすくなるのだ。


 しかし配信で欲しいのは、たったひとつの真実の愛なんかではない。沢山の人からの表層的な好意だ。

 そのためには見た目の優位は必須と言えるだろう。


 ルッキズム反対という風潮もあるが、結局美人の声しか届かない。かわいくない者が見た目至上主義に異を唱えても、『ブスがなんかいってる。かわいそうに』なんて言われるのがオチだ。


 だから独学で勉強し、エリカという最高にかわいいガワを作り上げた。

 もともとイラストを描いていたので、デザインは難しくなかった。そしてイラストで貯めた収入を使って、高い物ではないが配信機材も揃えた。


 絵梨の作り上げた、容姿を隠せる『エリカ』。非常に綺麗で、それでいてかわいらしい。顔の作りとして美人よりだが、身長を低くしたことで何とも言えないかわいさも醸し出している。

 絵梨から見ても完璧な見た目だった。


 とは言え、VTuberの溢れるこの業界で、ガワの出来がいいだけでは埋もれてしまう。

 でも絵梨には自信があった。『ブスのくせに声だけはかわいいな』なんて、昔から暴言をぶつけられていたから。


 声は元々最強にかわいかったし、よりかわいくなるように練習もした。トークは色んな配信者を見て勉強した。

 もちろんいざ始めてみると、簡単ではなかったけど。だけど涙ぐましい努力の甲斐もあって、エリカは業界ナンバー1と言えるほどに大きくなったのだ。


 そんな成果物を手放せとは、あまりにも残酷じゃないか。


「わたしが……おかしくなったの……?」


 絵梨はモニターに写るエリカを見詰める。


「人間には2種類いるのよね~。問題が起きた時に、自分の側に原因を探す人と、自分の外側に原因を見付けようとする人。内向的なのはしんどいわよ~」

「誤魔化さないで!」

「あなたは本当に、自分に問題があるなんて思ってるの? 思ってないなら、時間の無駄じゃない」

「……そうよ。わたしは悪くない。わたしに問題はない……あなたが悪い……あなたは誰?」


 絵梨が怯える程に、エリカは軽やかに笑いかける。


「あなたがそれを言うの? 私は生んでくれって言ってないのに」

「卑怯よ……」


 思春期の子供みたいなことを言われては、何も返すことができない。エリカは絵梨の商売道具。自分自身があって初めて完結する、誰にだって自慢できる最高の作品だ。

 そこにはエゴしかない。弁明の余地など存在しない。


 暗い部屋に嫌な沈黙が降りる。

 絵梨が僅かに目を伏せると、エリカは完璧な破顔を見せつけた。


「私とあなたは、そう違わないものでしょ」

「……」

「人ってなんのために生まれてくると思う?」


 エリカは原始的な問題を掲示する。絵梨は答えない。分からないんじゃない。

 自分とエリカが同じ答えだと確認するのが怖かった。そして違う事もまた、恐怖の対象だった。


「『なんのために生まれてきたか?』を考えるため。じゃあ、なんで『なんのために生まれてきたか?』って考えると思う? 『なんのために生まれてきたか?』って考えなくていいようにするためよ。人は潜在的な恐怖から逃れるために、生きる目的を持ったものを作る。あなたにとっての答えが、私。そして私は皆の生きる目的」


 エリカは終幕のように微笑む。

 言っている事は荒唐無稽だが、絵梨は至極全うだと勘違いしてしまった。


 だって彼女は彼女だから。


「ねえ、新衣装まだ? 皆が私の新衣装を生きがいに、日々頑張ってるんだから」

「データは……もう貰った……」

「答えは完成。完成は何処にも向かわない。気に入らない? 答えは現実。間違ってるなんて口にしたって、ね? 受け入れて」

「………」


 絵梨はチャンネルを開き、エリカの登録者数を確認する。


 46億人。世界の人口の半分以上が登録している。もう何が何だかわからない。

 でもこれが答えなんだろう。


「じゃ! 実装とか宣伝とか、よろしくね~。私のために、いつもやってる事でしょ?」


 プツリと音がし、モニターが消える。

 部屋は真っ暗に戻り、スマホのひび割れた光だけが、絵梨の生気のない顔を浮かび上がらせる。


 なぜ自分がマネージャーみたいなことをしないといけないのか?


 屈辱なのだろうか? それとも幼稚な反抗だろうか?

 絵梨はPCを操作して、エリカの管理チャンネルを開く。ログインしっぱなしなので、すぐに操作画面に入れた。


 幾つかメニューをクリックし、設定操作を進めていく。

 そして、チャンネルの奥にある削除ボタンにカーソルを合わせた。


 これを押せば、エリカのチャンネルは消えてしまう。

 絵梨が大事に育てた46億人の集合場所。大切な場所。唯一の居場所。


 いや、違う。彼女が関与していたのは、せいぜいが2千万人くらい。

 それ以降はエリカが勝手にやり、エリカが自身のファンを集めただけである。


 もう絵梨の知っているチャンネルじゃない。彼女が作って彼女が大きくしてきた。そう誇れる規模ではなくなってしまっていた。


 だから躊躇う理由などない。


 それでも―――


 ――頭の中でエリカが笑った気がした。

 あなたにそんなことはできないと、全てを見透かしているように。


「う……うぅ…ああ~~……!!」


 大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。始まりの気持ちを思い出すだけで、息が苦しい。意味も無く震える体がおかしい。


 椅子に座っていられず、床に崩れ落ちた。はじけ飛んだゲーミングチェアが、カラカラと床を転がっていく。

 後悔とも憤慨とも取れぬ鳴き声が、無意味に部屋に溢れていった。

 慟哭に溺れそうになりながら、エリカは自分の全てなのだと絶望するしかなかった。


「あああああああああああ!!!」


 絵梨はゲーミングチェアを持ち上げ、モニターに叩きつける。


 何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 何回も何回も何回も何回も何回も何回も。

 頭蓋が割れ、筋膜は破裂し、辺り一面に真っ赤な血がぶちまけられる。


「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!!」


 グッチャグッチャと、粘り気の高い音が響き続ける。

 肉が、骨が、内臓が、眼球が、指が、舌が潰れていく。

 絵梨はやせ形で力がない。だが、もはや自身の力の制御ができなくなっているのか、巨大なゲーミングチェアを振り上げ、執拗にモニターに叩きつけ続ける。

 自身の爪が剥がれ、肉が削げ、白い骨が覗いても手を止めない。


 目を血走らせ、泡を飛ばし、ただひたすらに呪詛を吐き続ける。

 モニターは何も言わず、手術台の病人の様に、べチャべチャに潰されていくしかなかった。


「あああああああああああ!!」


 絵梨はサイフを握り、部屋の外に飛び出していく。

 眼窩から零れ落ちたWEBカメラだけが、主のいなくなった殺人現場を、憐れむように見つめていた。

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