第3話 しおりの真実

 更科の研究が実用化されることで、国外退去になる人が増えた。しかし、国外退去と言っても、殺人などの犯罪によるものとは違い、

「国家都合による法規」

 としての、特例が設けられていた。

 国交のある国であれば、どこに行ってもかまわない。そして、もし行く国が決まれなければ、受け入れ国はアテルマ国が責任を持って探し、無事に国外への転出が決まれば、アテルマ国から、十分とはいかないが、お金も支給される。

 それでも、

「どうして、国外に移住しなければいけないのか?」

 という意見は少なくなかった。

 そのことについての反対デモが起こったり、集会が行われたりすることもしばしばだったが、国家や警察が取り締まることはできなかった。

 憲法での基本的人権は認められており、他国民との結婚を禁止した憲法よりも優先することは条文化もされている。条文化は社会問題になったから付け加えられたものではなく、最初から入っていたものだ。

 国民としては、

「納得できないものは、その理由を知る権利がある」

 という主張なのだが、理由に関して説明できるだけの材料がないことで、途方に暮れていた。そういう意味でも、真田助教授を中心に進められている研究は、一番の最優先課題であったのだ。

 更科は、自分の記憶を失っている部分に、その答えが隠されているのではないかと感じるようになっていた。根拠があるわけではないが、

「答えは最初からそこにあり、それを証明しようとしている今の自分が、失った記憶を呼び起こさせないようにしているんだ」

 と感じるようになっていた。

 デジャブというものに対して、

――気が付けば、考えていた――

 というように、無意識の時に、デジャブについて考えていることが多い。逆に言ってみれば、

――無意識に考えている時というのは、そのほとんどはデジャブについて考えていたんだ――

 ということになる。

 デジャブというのは、

「今見ている光景は、以前にどこかで見たことがあるような気がする」

 というもので、見たことがないはずのものを記憶していることが、急に表に出てきたような現象をいうのだという意識を持っていた。

 更科は、子供の頃からその意識を強く持っていて、意識が強いだけに、

――これは、僕だけの意識なんだ――

 として、他の人は誰も感じたことのない特別なことだと思っていた。

 他の人誰にも話したことはなかった。

 最初は、

――こんなことを言ったら、バカにされてしまう――

 という意識があった。

 しかし、これでは他の人たちが感じるのと同じような感覚だ。更科は子供の頃から、いや、子供の時の方が特に、

――他の人と同じでは嫌だ――

 という感覚が強かったのは否めなかった。

 他の人と同じでは嫌だという感覚は、デジャブと違って、自分以外の人、誰にでもあることだと思っていた。

 だから、余計に人に知られたくない。なぜなら、他の人も同じことを感じているのに、誰も口にしようとしないではないか。

「口にした方が負け」

 そんな感覚が更科にはあったのだ。

 子供の頃の記憶が欠落しているのに、デジャブとして思い出すのは、子供の頃のほとんどだった。

 その中には、失ってしまったはずの記憶だと思っていることもあり、

「あっ、デジャブだ」

 と感じた時には、すでに忘れてしまっている。

 そう思った時、

「デジャブというのは、過去の記憶を呼び起こすのではなく、無意識に理想世界や夢の世界に入り込んでいた自分を現実世界に引き戻す力なのではないだろうか?」

 と感じた。

 その思いを感じた時、更科は自分の目からウロコが落ちたのを感じた。

 いろいろと精神的な超常現象と呼ばれるものが、デジャブ以外にもいくつかある。解明されているものもあれば、研究中のものもあり、それはまるで、

「アテルマ国における、他民族との結婚を制限する法律」

 に対しての証明のようなものではないか。

――意外と、結論は目の前にあるのかも知れないな――

 当たらずとも遠からじ、半分当たっていたのだ。

 更科の研究で開発された機械を元に、他国へ追放された人の中に、一人の女性がいた。

 彼女は、子供の頃の記憶を失っていたのだが、今の年齢は二十歳だった。更科よりも十歳ほど若かった。

 彼女の名前をしおりというが、しおりが欠落している記憶は、小学生の高学年の頃だった。

 自分の記憶が欠落していることに気が付いたのは、短大に入った頃だった。高校生の頃も、少し怪しいと思っていたが、なるべく考えないようにしていた。

――子供の頃の記憶が欠落しているからと言って、別に今困るということはないんだわ――

 という思いが強かった。

 いわゆるポジティブな考え方だともいえるが、

――どうせ記憶の欠落なんて自分だけなので、下手に気にして、他の人に悟られるのも嫌だ――

 という思いもあったのだ。

 だが、その時のしおりには、もう一つ感じるものがあった。

――私の記憶の中に、誰か他の人が介入している――

 という思いだった。

 その思いを感じるようになったのは、しおりが自分の心境の変化に気づいた時だった。

 その心境の変化というのは、

――前までは、他の人と同じでは嫌だという意識があったのに、今では、他の人と一緒でも構わない――

 と思うようになったことだった。

 それを自然に受け入れられるなど、容認できるはずはないのにと思っているにも関わらず、

――なってしまったのなら仕方がないわ――

 と思うようになっていた。

 自分がなぜ国外に追放されるのか、最初言われた時、

「えっ、どうして?」

 と途方に暮れてしまった。

 しかし考えてみれば、しおりには、別に失うものは何もなかった。

 短大を卒業し、就職した。

 就職した会社も、

「どうしてもやりたい仕事」

 として就職した会社ではなかった。

 彼氏がいるわけでもない。親友と言えるほどの親しい親友がいるわけでもない。何といっても、しおりは家族がいない。

 物心がついた頃には、親はなく、施設の中にいた。

 いや、施設で育ったことで、施設での生活が当たり前の生活だと思っていた。そういう意味では、

「他人と同じでは嫌だ」

 という考えはしおりには通用しない。

「最初から他人と同じではないのだ」

 というべきであろう。

 しおりのような境遇の人間は、自分の境遇について理解できた時、

「自分は特別なんだ」

 という思いと、

「何とか頑張って、他の人に追いつきたい」

 と考える人の二通りがほとんどではないだろうか?

 後者の方が素直な人間に見えるが、果たしてそうだろうか? まるで誰かに洗脳されたかのような言い方に、もし、誰にも洗脳されたのではないとすれば、自分の中で洗脳が行われたことになる。つまりは、もう一人の自分が存在し、その自分に操られていると言えるのではないだろうか。

 しかし、その考え方が一般的には好まれる。ドラマや映画になったりするのも、こちらの方ではないだろうか。

 ということは、

「世間一般的に何か大きな力によって、洗脳されているのではないだろうか?」

 という考えも生まれてくる。

 もちろん、そんなことを考えている人はいないだろう。だが、無意識に洗脳されているということに気づいている人はいるかも知れない。あまりにも漠然とした話なので、誰も口にしないが、誰か一人が口にすると、社会問題になるほど、一気にその考えがクローズアップされることになるかも知れない。

 だが、逆に口にしてしまって、

「何をバカなことを言っているんだ」

 と、一人の誰かに相手にされなければ、それ以上、誰かに話すことはないだろう。

 無意識な洗脳は、それぞれの面を持っている

「諸刃の剣」

 だと言えるのではないだろうか。

 しおりは、誰かに追いつきたいという気持ちも、自分が他人とは違っているという気持ちもなかった。

 いや、正確にはどちらも持っているのだが、両極端な意識は、それぞれを打ち消す効力を持っていて、無意識に意識してしまうせいで、打ち消す思いをうちに向けて発射してしまったのではないだろうか。

 家族も信頼できる人もいない。目標があるわけでもない。

 そんなしおりは、国外退去される時に何を感じているのだろう。

 確かに追放されてからの方が今までの生活に比べれば恵まれるかも知れない。だが、意識していることがすべて無意識である以上、しおりには、

――自分から考えを表に出すことは永遠にないのではないか――

 と思わせたのだ。

――私の記憶は、アテルマ国にあるんだわ――

 しおりのことは更科が知ったのは、しおりが国外退去されてから三年後のことだった。国外退去された国で、しおりはアテルマ国で専攻していた国際経済学を生かし、就職した会社の貿易部へと配属になった。

 アテルマ国は、一旦国外退去になったからと言って、入国が厳しいわけではない。別に入国を制限する法律はない。逆に制限することは許されない。あくまでも他民族の男性と、アテルマ国の間に生まれた子供がそのまま滞在していることが問題なのであって、入国してきた女性が、元々アテルマ国にいて、国外退去されたことが発覚したからと言っても、差別を受けることはなかった。差別すると、差別した側が罰せられるのである。

 しおりはアテルマ国にいる頃、更科のことを知っていた。更科は、しおりのことを知らなかったのだが、しおりが知っていると言っても、それは自分を追放した機械を開発した人だということを知っているわけではない。アテルマ国にいる頃、公園を歩いていて、落としてしまったハンカチを拾ってくれたのが更科であった。

「すみません」

 そう言ってハンカチを拾ってくれた更科から受け取ったその時、握られた手に覚えがあったのを感じたのだ。

――遠い昔の記憶の中で忘れていた感触――

 思わず、お父さんを想像してしまったが、すぐに打ち消した。年齢的なものもその理由であったが、それ以上に、自分との決定的な違いを感じたからだ。

――この人は、他人と同じでは嫌だと思っている人なんだわ――

 自分が、

――他人と一緒では嫌だ――

 と思っていた時期から、

――別に関係ない――

 と思うようになるちょうどそんな時期だったので、余計に相手がどういう人なのかが分かるのかも知れない。

 ただ、しおりが相手の手を握っただけで、どんな人なのかということが分かったのは、その時だけだった。それ以降にもなく、それ以前にもないと思っていた。

 その時の衝撃は今までにないものだった。しかし、冷静になってみれば、同じように手を握って相手がどんな人だったのかということが分かった時があったと思えてきた。それがいつのことだったのか思い出せない。記憶が欠落している時期だったように思えてならなかった。

 しおりがアテルマ国を訪れるのは、この三年間に五度目だった。最初はどうしても感無量だった。国外退去を命じられた時、いくら入国制限がないからと言って、もう一度アテルマ国の土を踏もうとは思っていなかった。

 ただ、国外退去を言われたからと言って、別に憎しみを持って退去したわけではない。勝手に決められたのは嫌だったが、それでも一度アテルマ国を離れてしまうと、自分が最初からアテルマ国にはいなかったように思えてくるのだった。

――私が生まれてから、親の都合でアテルマ国に入国したのかしら?

 自分が混血だということを考えると、その方が理屈に合っている。物心ついた時には施設にいたわけだから、どこかで親はいなくなっていた。

 しおりは、自分の記憶の中に誰かが介入しているという意識を今も持ち続けている。その意識があることで、

――物心ついた時には親はいなかったと思っているが、物心ついた時というのは、記憶の欠落の時期に当たるのだろうか?

 と感じていた。

 施設にいた頃からの記憶があることから、

――記憶がある時期から、自分の物心がついたんだわ――

 と、他の人なら当たり前のことなのに、自分は子供の頃に記憶が欠落した時期があるということと、物心がついた時期ということを、無理にでも切り離して考えようとしているように思えた。

 子供の頃から時系列について思うところがあった。一時間、一日、一週間と、それぞれ決まった周期のものを、いつも同じ時間として自分が捉えているかどうか、無意識に感じようとしていた。

 自分が気になっていることは、どれほど時間を掛けても、結論が出るまで考えようという意識がしおりにはあった。それなのに、あまり意識していないことは、敢えて切り離して考えるようになっていたことを、最近になって気が付いた。

 それは、国外退去を言われたからだ。

 国外退去を言われて、実際に他国にやってくると、自分のまわりに寄ってくる人の話を聞くと、皆子供の頃の記憶が欠落しているという。

「私はアテルマ国から退去させられたの」

 自分のまわりに寄ってくる人は、皆アテルマ国からの退去者であり、つまりは、混血の人だったのだ。

――類は友を呼ぶ――

 というが、まさしくその通り。しかも、皆退去させられたことを恨んでいる人は誰もいなかった。

「私たちのように退去させられた人って、本当にアテルマ国を恨んでいる人っていないかも知れないわ。だって、他の国で幸せに暮らせるんですもの」

 親も一緒に出国すれば、他国で親と普通に暮らせる。しかも、一定のお金をアテルマ国から貰えるし、さらに受け入れてくれた国の人はアテルマ民族を歓迎してくれる。安い賃金で雇用できるし、賃金以上に、アテルマ民族は頭がいい。受け入れる国があるからこそ国外退去させられるのだし、後のフォローもできていることから、人道的な意味以外での批判は、国連や他国から上がることはなかった。

 しおりが、

――自分は他の国では暮らしていけない――

 と思っていた時期は確かにあった。

 しかし、それがいつのことだったのか、しおり自身記憶にない。

――記憶にないことが多いのは、それだけ記憶が欠落しているからだわ――

 と思っていた。

 しおりのまわりに、記憶が欠落している人が多いというのは、

――アテルマ国では、誰もが自分のことを隠そうとして、表に出していなかったからだわ――

 と感じた。

 国外退去になった人はそれまで縛られてきた思いから解放された人たちだと思うことで、きっと同じように退去させられた人が誰なのかということが本能的に分かるのかも知れない。しおりに寄ってくる人が皆同じ境遇なのも、分かるというものだ。

――誰もアテルマ国を恨んでなんかいない。むしろ、国外退去を喜んでいるだわ――

 そういう意味では、

「あんな機械なんて」

 と思っていたが、

「開発した人にお礼を言わないといけないわね」

 と、相手が更科だということも知らずに、そう感じるのだった。

 しおりはアテルマ国に最初に帰ってきた時、懐かしさを感じることはなかった。

「初めて足を踏み入れた国」

 という意識が強く、アテルマ国民も皆「外国人」だったのだ。

 国外退去を言い渡されて一年も経っていなかったはずなのに、まったく記憶にない場所としてしか映らなかった。

 それから半年もしないうちに、再度訪れた。

 その時は懐かしさを感じたのだが、その懐かしさは、半年前に訪れた時への懐かしさではなく、

――以前、自分が住んでいた国――

 という意味での懐かしさだった。

 三度目に訪れた時には、両方があったのに、最初の二回は、おなしな感覚だった。

 その時、

――時系列なんて、記憶の一部でしかないんだわ――

 と感じた。

 それも、感じる時と感じない時がある。

 一度目に訪れた時は、時系列を一切感じなかった。しかし、二度目は打って変わって、時系列を意識してしまったことで、過去の記憶が思い出された。時系列という意味では、過去から未来に続くものが意識の中で組み立てられるものだが、一度欠落してしまった記憶は、未来から過去に遡る記憶を時系列として意識してしまい、最初に思い出した時点から、遡ろうとしても、時系列という意識が邪魔をして、そこから記憶を辿ることができなくなってしまったのかも知れない。そう思うと、

「記憶の欠落は、時系列を逆に記憶しているか、それとも、逆に思い出そうとしていることで、最初の一点から、動くことができなくなったのではないだろうか?」

 という思いが次第に湧いてくるのだった。

 しおりは、何度もアテルマ国を訪れるたびに、感覚がその都度違っていた。

 それはまるで欠落した記憶のパズルを、組み立てるかのこどくであり、ただ、時系列が自分の意識の中で定かでないため、欠落した記憶を断片的に思い出すことはできても、点を線にすることはできなかった。

 アテルマ国から国外退去させられた人のほとんどは、しおりのように親がいなかったり、仕事がうまく行っていなかったりする人で、アテルマ国に未練のある人は少なかった。そういう意味で、アテルマ国における混血児の運命は、それほど幸せなものではない。むしろ国外で暮らすことによって、それまで隠れていた才能が開花することもあるのだ。どうしても、アテルマ国内で混血の人は、アテルマ民族に対してのコンプレックスによって、自分を表に出さない性格の人が多くなる。

「一度秘められた才能は、コンプレックスを跳ねのけるだけの力がないと、おおよそ表に出すことはできない」

 という格言がアテルマ国にはあった。

 それがアテルマ国の警戒する混血児に言えるというのは、実に皮肉なことではないだろうか。

 アテルマ国で発揮できなかった才能を、他の国に行って発揮する人の多くは。混血児だった。アテルマ国では警戒視される混血だったが、他の国では、混血児はありがたがられる。天才肌が多いからだ。

 アテルマ国でも同じように混血児は頭がよく、実際に天才が多い。しかし、他の国との一番の大きな違いは、

――子供の頃の記憶が欠落してしまっている――

 ということだけだった。

 そこまでは、アテルマ国でも他民族との結婚がダメなのか分かっていた。しかし。なぜ記憶が欠落してしまうのかという理由が分からなければ、考え方が先に進むことはない。堂々巡りを繰り返し、それがさらに真田助教授や、更科の立場を窮地に追い込むのだ。

 ある程度まで簡単に分かってしまうと、そこから先がなかなか解決しない。特にゴールが見えてくるのを感じると、なかなかその先に行きつかない。まるで蜃気楼を追いかけているような感じだ。

 油断があるわけではない。どちらかというと、今まで見えていたはずのものが見えなくなったというべきであろうか。しかも、そのことを意識できていない。まるで記憶が欠落していくことに、気が付いていないかのようだ……。

 やはり記憶の欠落が、他民族との血の交わりに何かの影響があるようだ。

「記憶の欠落をまるで悪いことのように考えているが、果たして本当に悪いことだと言えるのだろうか?」

 更科は、そう思うようになっていた。

 そのことを真田助教授に話をしてみたが、

「何をバカなことを言っているんだ。そんなことあるはずがないじゃないか」

 と、けんもほろろで更科の意見を一蹴した。

 更科とすれば、今までにない起死回生を思わせる意見で、

「きっと真田助教授の目からもウロコが落ちてくれるだろう」

 と思っていた。

 意見を一蹴したのだから、もうそれ以上触れることはないと思っていたのに、

「そのことは、私も以前考えたことがあった。だが、同じように当時の教授から一蹴されたんだ。私はその時、その教授が何かを知っていると思ったよ。でも、時が流れて君があの時の私のような意見をした。そして私も同じように一蹴した。だが今の私は、何も知らないんだ。君に対して、どう表現していいか、実に困ったものだ」

 まるで言い訳をしているようにも聞こえたが、もし、ここでその話を聞いていなければ、きっと更科は間違った道に入り込んでしまったことだろう。

 真田助教授が何も知らないのは事実であろう。しかし、今のままでは更科が間違った方向を向いてしまうということは分かっている。何も知らないのに、方角だけが分かるというのも不思議なものだが、今更科が求めている答えも、方角だけを見つめていくように頭を切り替えれば、ひょっとすると意外と近いところに結論は存在するのかも知れない。

――灯台下暗しというわけか――

 結論を見つけるよりも、方角や距離を考えてみると、

「目の前に見えているものが、当たり前すぎて、そこにあっても意識しないという、まるで『路傍の石』のようなものではないか」

 と考える。

 しおりは、今回のアテルマ国への訪問で、更科に会えるような気がしていた。

 それは、しおり自身が更科の存在を、『路傍の石』のように感じることができたからだ。

――そこにいても別におかしくない存在。自分にどれほど近づいても、自然な雰囲気を醸し出しているそんな存在――

 それが、更科という男性の存在感だったのだ。

 空気のような存在に思えるが、空気のように軽くはない。しかし、水には浮かんでいそうな感じがする。それは水が変化した氷のようではないか。

 つまりは、

――元々同じものだった――

 という感覚。

 分かれてもいずれは一緒になる存在。

――アテルマ国と自分にも同じことが言えるのでは?

 という突飛な発想を思い浮かべていた。

 しおりは、下手に意識してしまうと、自分がしようとしていることができなくなるような気がした。元々住んでいた国外退去によって住むことになった国では、自分が意識していることが面白いように的中し、

――ここが私の本来の居場所なんだ――

 と思わせるほど、国外退去させられて正解だった。

 実は同じ思いを抱いているのはしおりだけではない、同じように国外退去させられた人のほとんどは、退去した先で、本来の自分の力をいかんなく発揮していた。

 しかも、その人たちもしおりと同じように、子供の頃の記憶を喪失していた。誰もそのことを人に話そうとはしなかった。記憶を失っているほとんどの人はそのことを人に話すと、せっかくの力が失せてしまうように思っていたからだ。

 他の国に行ったからといって簡単に手に入れた力。それは、何かの外的な力が働いていると思っても無理のないことだ。そうであれば、その力を削ぐようなことはしないようにしようと思うのは当然のことで、自分が他の人と違っているところをわざわざ表に出すようなことはしないのが当たり前だった。

 他の人と同じでは嫌だとはそんなに感じていないしおりにとって、その感覚は分からない。だから別に他の人に記憶が欠落していることを知られても、何ら問題ないと思っていた。

 ただ、他の人との違いはハッキリとしていた。他の人は、

「記憶を喪失している」

 と思っているが、しおりは、

「記憶が欠落している」

 と思っている。

 表現だけの問題ではなく、思っていることにかなりの差があることはしおりだけが分かっていることだった。

 いや、厳密にいえば、しおりだけではない。ただ、その人は国外退去させられたわけではないので、立場は違っている。その人とは更科のことであり、彼も、

「自分の記憶は喪失したのではなく、欠落しているのだ」

 と思っている。

 その違いは。

「欠落している方が、喪失しているよりも、思い出すには困難なのかも知れないが、もしタイミングがあるとすれば、欠落している方が、思い出す確率は高いのかも知れない」

 と、感じていた。

 しおりは、自分の欠落した記憶は、紙一重のところで思い出せそうな気がしていた。

 それは喪失と欠落の違いを意識しているのと同じで、喪失していると思っていると、

「いつかは思い出すだろう」

 という漠然とした感覚になる。しかし、欠落であれば、思い出す瞬間とその少し前に、予感めいたものがあるような気がしている。

「喪失が他人事なら、欠落は自分にとっての意識の中にあるものだ」

 と感じていた。

 その思いは、同じ欠落と思っている更科よりも強いものだった。

 実際に国外に退去させられて、そこで自分の才能が開花し、その思いが証明されたと思っているのだ。

「順風満帆」

 と言っていいのではないだろうか。

 しかし、

「好事魔多し」

 という言葉もある。うまく行きすぎてしまうと、ついつい余計なことを考えてしまい、せっかくの好機を逃してしまったり、目の前の大切なことを見失ってしまいかねない。

 しかし、逆に考えることによって、自分の立ち位置を確認できるという意味ではいいこともあるだろう。しおりと更科は立場が違ってはいるが、お互いに別の方向から同じところを見つめようとしているのだった。

 だからこそ、しおりには、

「普通にしていれば、きっと出会える」

 と思っているのだった。

 しおりは今まで何度もアテルマ国を訪れていたが、以前住んでいたところに足を踏み入れたことは一度もなかった。別に嫌な思い出があるので行かないというわけではない。

「もし、前住んでいたところに永遠に欠落している記憶がよみがえることはないかも知れない」

 という思いがあったからだ。

 欠落している記憶を思い出す確率が、以前にも増して高くなってきたと思っているところに持ってきて、せっかくの思いを消し去ってしまうようなことにでもなれば、一度は前に進んだ分、後退してしまうことは、しおりの中では屈辱に近かった。

 あまり今まで自分の中で屈辱を感じたことなどなかったのに、なぜいまさら屈辱を感じなければいけないのかと思うと、今まで住んでいたところに対してのイメージが、苛立ち以外の何物でもなくなってしまう。懐かしさなどというものは、退去させられたあの時に、失せてしまっていたのだ。

 ただ、子供の頃に入っていた施設だけは懐かしさがあった。アテルマ国に来た時は、いつも施設を見に行っていたのだが、いつも影から見守っているだけだった。無邪気に遊んでいる子供たちを見ていると、いつの間にか自分も子供に戻ってしまったような気がしてきて、その場から立ち去ることができなくなってしまう。自分がここまで思い入れが激しいなど、しおりは思ってもみなかった。

 本当は施設の誰かに気づいてほしいという思いを抱いていたが、見つかってしまうと、欠落した記憶を取り戻せる気がした。

 しかし、こんな取り戻し方をしてしまうと、今度はそれ以外の今まで積み上げてきた記憶がすべて失われてしまうそうに思え、恐怖に身体が震えを抑えることができなくなってしまう。

――誰にも気づかれないように、そっと見つめているしかないんだわ――

 そう思うと、欠落した記憶を取り戻して本当にいいのか、しおりは、その思いを抱いたまま、その場から離れられなくなりそうだった。

「おや?」

 施設を覗いていると、どこかで見たことのある人が訪れてきた。その人は女性で、ちょうどしおりと同じ時期に、アテルマ国から国外退去させられた人だった。

 彼女は、施設の先生と親しそうに話しをしている。その様子を見ているとしおりは、

――そこにいるのが自分ではないか?

 という錯覚に陥ってしまった。

 話の内容は聞こえなかったが、先生の表情を見ていると、きっと彼女もここにいて、その時の懐かしい話をしているのだろうと感じた。

 しばらくは、彼女はしおりに背を向けるようにして話をしていたので、その表情を垣間見ることができなかったが、ふとこちらを振り向いた。

 しおりはドキッとして顔をそむけたが、それは反射的なもので、無意識だった。そのせいか、彼女の顔を一瞬だけしか拝むことができなかったが、却って一瞬の方がハッキリと見分けることができる。

 しかし、その時の彼女の表情を見ることができなかった。顔は完全に真っ黒で、表情どころか顔のパーツすら分からなかった。しいて言えば、

「真っ黒なのっぺらぼう」

 というべきであろうか。

 それでも、一つだけパーツが分かった。

 ニヤリと笑っているのが明らかに分かるその部分は、真っ白な歯だった。顔の輪郭からはおおよそ想像できないほど横に開いたその歯の部分は、昔流行った、

「口裂け女」

 そのものであった。

「見たな?」

 というフレーズとともに、口元だけが異様に広がって不気味な表情を想像させるその形相は、アテルマ国だけではなく、どこの国にも同じような伝説を残す定番的なオカルト伝説であった。

 だが、しおりはその女性の

「口裂け女」

 を思わせ表情を見た後、すぐに普通の顔になった彼女の顔を見ることになる。

 その時の驚きは、その前に見た口裂け女の比ではなかった。

 いや、最初に口裂け女をイメージしたことでショックを半減できたが、最初にまともにその顔を見てしまっていれば、絶対に奇声を上げてしまっていたに違いなかった。

 彼女のその顔には見覚えがあった。

 さらに彼女はしおりが見ていることに気が付いたのか、表情を見せたと同時に、しおりの方に正対した。

 ハッキリ言えば、身体ごとずらしたわけではなく、顔だけがしおりの方を向いたのだ。

 完全に彼女はしおりに背中を向けていた。それなのに、首だけを動かして、正面を見るなどということは、人間業ではありえない。しおりはその姿に完全に委縮してしまい、金縛りに遭ってしまったかのように、完全に動くことができなくなってしまった。

 身体は震えが止まらない。しかし、自分が震えているという意識はなかった無意識に身体が勝手に震えているのだ。

――私は、どうにかなってしまったのかしら?

 一連の状態を考えると、よくその場にいて気絶してしまわないかと思うほど、ショックを感じていた。気絶しないのは、

――他人事のように思っているからなのかしら?

 と考えているからであって、ここから先も同じように他人事として見ていくことができなければ、気絶してしまうであろうことを感じていた。

 すると、今度は先生の声が聞こえてきた。その声と口の動きから、何といっているのかすぐに分かったが、分かったことで、またしてもショックを受けることになるとは思ってもみなかった。

「あなたは、ここで唯一の国外退去させられた人ですからね」

 耳を疑った。

 信じられないという思いと、

――先生がウソをついているのかも知れない――

 という思い、

「先生がウソをついているのであれば、どれほど救われるというものか」

 信じていた人が、ウソをついていてくれた方が救われるという思いもおかしなものである。

 先生の顔をじっと見ていると、本当にウソをついているのではないかと思えるほど、今まで自分の知っていたはずの先生とは、まるで別人のようだった。

――本当に、今の時間を見ているのだろうか?

 しおりはいろいろ頭の中で発想を繰り返した。

 目の前の出来事がすべてウソだと思うのと、違う時間の出来事を見ていると思うのと、どちらが信憑性があるかということである。違う時間を見ているのだとすれば、未来でしかありえない。なぜなら、少なくとも自分で意識している中では、目の前に繰り広げられている光景は覚えていないことだった。

――まさか欠落している記憶の中にあるのでは?

 記憶が欠落しているという意識を持っているのは、子供の頃の一部の記憶だけだが、本当は大人になってからも、同じように欠落している記憶があるのかも知れない。

 子供の頃の欠落という意識が強すぎるからなのか、それとも、

「記憶が欠落している」

 という意識が、自分の中の感覚をマヒさせているという考えも、決してありえないことではない。

 そこが、記憶の喪失との違いなのかも知れない。

 記憶を喪失しているという意識は、

「喪失したその時だけのことだ」

 という意識が強い。

 もちろん、記憶の欠落も同じだと思っていたが、

「欠落と喪失、何がどう違うのだろう?」

 と考えている間は、その答えが見つからなかったが、他の観点から見つめてみると、案外簡単にその答えは見つかるものなのかも知れない。

 しかし、そのことをいつかは気づくのも、記憶が欠落しているからなのかも知れない。

 喪失にしても欠落にしても、必ずどこかですべてを思い出す時が来るようだ。

 ただ、思い出したとしても、またすぐに忘れてしまうことが往々にしてある。しかも、今度忘れてしまうと、二度と思い出すことはないだろう。そういう意味では、記憶の喪失も欠落も、思い出すということは「諸刃の剣」のようなものではないだろうか。

 記憶を失って、思い出そうとすると、激しい頭痛に襲われることがある。それは、

「思い出すために通らなければいけない道だ」

 と思われているようだが、本当は、

「思い出しても、また忘れてしまうと、今度は二度と思い出すことができなくなってしまう」

 ということを恐れているからではないだろうか。

 そのことを意識している人はあまりいないだろうが、一度意識してしまうと、

――以前から、分かっていたような気がする――

 というまるでデジャブのような感覚に陥ってしまうに違いない。

 しおりは、施設の先生と話をしている自分に注目していたが、途中で二人の会話に入り込んでくる一人の男性に気が付いた。その人は図々しくも会話に入り込んできたが、入り込まれた二人は別に嫌がっているわけではない。むしろ、入ってきてくれたことでホッとしているかのようだった。

 会話の中のしおりは、先生と話しながら、どこか深刻な表情をしていたが、その表情が不安から来ていることは分かっていた。何しろ自分なのだからである。

 しおりは、時々不安に苛まれることがあった。記憶の欠落を意識した時で、最初の頃は不安に陥っている自分に気が付かなかったが、それだけ最初は記憶の欠落を気にしていなかったからだ。

――そのうち思い出すわ――

 という程度のもので、ポジティブな気分になっている時は、

――思い出さないということは、それだけ些細なことに違いない――

 と考えていた。

 二人に話しかけている男性、それは更科だった。

――やっと会えた――

 と思ったが、実際に会っているのは自分ではなく、目の前にいる、

――自分に似た人――

 であり、本当の自分ではないのだ。そう思うと、目の前で展開されている状況がうそ臭く感じられ、どこまでが事実なのか分からなくなっていた。

――事実と真実は違う――

 と、思っているしおりは、目の前のできごとは、

――真実かも知れないが、事実ではない――

 と思った。真実というのは、自分の中で思い描いている発想を含むもので、事実よりも少し幅の広いものだと思っている。

――真実を事実にしようとする思いが、努力なんだ――

 と感じていた。

 そういう意味では、欲望も真実の一つである。そして、真実というのは、人それぞれ違ったものであり、人の数だけ真実は存在する。

――真実というのは、事実よりも個性に近い――

 と言えるのではないだろうか。

 ただ、この考えはあまりにも危険であった。しおりはその考えを当たり前のように思うようになったのは、国外退去させられた時で、それもきっかけがなければ気づかなかった。

 そのきっかけが何だったのか覚えていないが、きっと自分と同じように国外退去させられた人はこのことに気づかないに違いない。よほどのきっかけがあれば別だが、しおりが今、

――こんなことは当たり前のことじゃないかしら――

 と思っていることの方が不思議なくらいだ。

「そういえば、国外退去の時、空港で皆注射を受けたわ。あれから意識が朦朧としたんだけど、あの注射は何だったのかしら?」

 国外へ旅行する人は、予防注射を打つのは分かっていたので、その時はあまり意識していなかったけど、その頃から、記憶が欠落しているという意識が強くなったような気がする。

「ひょっとすると、記憶が欠落しているという意識を持ったのは、その注射を打った時だったのかも知れないわ」

 アテルマ国にいる時から、記憶が欠落しているという意識があったけど、実は違ったのかも知れない。

――ただ、注射で記憶が欠落したという意識を植え付ける必要がどこにあるというのだろうか?

 それを思うと、

――記憶の欠落は、あの時の注射の副作用なのかも知れない――

 と感じた。

 そういえば、時々我に返った時、自分の意識がその前の瞬間まで朦朧としていたように思うことがある。考えてみれば、

――前にも同じような感覚に陥ったことがあった――

 と感じたのだが、それが空港で打たれた注射の後のことだったのだ。

 そのことを意識している人は誰もいないかも知れない。もしいれば、噂になってもよさそうだ。噂にならないということは、作為的に意識を緩和させられている。あの注射にどれだけの効用があったのか分からないが、ただの予防注射でなかったことは間違いないだろう。

 しおりは、そう思った瞬間、我に返った。今回も意識の朦朧は感じられたが、目の前にいたはずの先生、更科、そしてもう一人の自分は消えていた。しかも場所は自分が入所していた施設に違いないが、建物はなくなっていて、住宅街になっていた。

 施設のまわりにあった公園もなくなっていて、しおりの中にある記憶だけが頼りだった。

「早くこの場所から離れなければ」

 そう思ったのは、目の前の変わり果てた光景が目に焼き付いてしまい、自分の知っている施設の光景が消えてしまうのを嫌ったのだ。

――この感覚……

 記憶の欠落という感覚に似ていた。

 記憶の欠落は外的な影響によって起こったものではなく、自分の覚えていたいことを忘れたくないという意識から、自分の中で作り出した「意識」であった。それを「潜在意識」と呼ぶということは、しおりも知っていたが、

「潜在意識というのは、自分で意識できるものではない」

 という思いがあったことで、潜在意識に対しての思いをかなり修正しなければいけないとしおりは感じていた。

――でも、それなら、あの時の注射は、また違った意味を持っているのかしら?

 欠落した記憶を一度思い出したとして、もしそれを再度忘れてしまうと、今度は二度と思い出すことができないという思いを抱いたことを思い出した。

 しおりは、自分の中でところどころ、核心をついていることは分かっているのだが、肝心の点を線にすることはできていない。

 そんなしおりのような女性がいるのを知ってか知らずか、更科は自分の研究に専念していた。

 しかし、最近はどこか良心の呵責に苛まれているのではないかと思うようになっていた。それも、定期的に襲ってくるもので、しおりが仕事でアテルマ国に来ている時に感じていることなど、知る由もなかった。

 もちろん、しおりのことなど覚えているわけではない。元々研究室に籠りっきりで、あまり俗世間の人と話をすることもない更科は、

――これでいいんだ――

 と思っていた。

 思っていたといっても、意識して感じているわけではなく、ただ漠然と無意識に感じているだけだった。あらたまって感じることはないということである。

 空港での国外退去者に対しての注射を開発したのも、更科だった。

 更科は、研究の途中で、この実験を自分に接種した。もちろん、危険のないことは十分分かっていたし、それだけの自信がなければ、自分に接種するなど考えられない。それは他人に対しても同じことだが、研究の途中の時点で、実験は絶対に不可欠だった。もし、もし、実験をしなければ、そこから先は進まないと言ってもいいだろう。

 更科は、副作用に対して想像もしていなかった。つまりは、

「自分の記憶が欠落している」

 と感じたのは、この時の接種が原因だった。

 開発した自分でも意識できていないのだから、他の人に分かるはずなどない。いや、開発者自身だからこそ分からないのかも知れない。

「まさか」

 という意識が万に一つも自分の中にないからだった。

 それは自信というものとは違う。開発過程なのだから、自信も何もないものだ。それだからこそ、余計に記憶の欠落について、必要以上に意識してしまう時があるのだ。

「これは誰にも言えない」

 元々、人と話すことの少ない更科だったが、この思いは特別だった。自分の研究の過程で起こったことだなどと思いもしない。人に言えないのは、

「馬鹿にされたくない」

 などという次元の問題ではないのだ。

 更科は、実は他の国に行ったことはない。いずれ助教授になったり教授になれば学会に行けると思うのだが、今はただの研究員。海外にいく必要もない。

 ただ、一つ思っていることは、

「これだけの研究に成功しているのだから、そろそろ助教授の話が出ても不思議はないのに」

 ということだった。

 まるで、自分を出世させたくないということを感じると、そこに、

「海外に行かれると困る」

 という意図が隠されていることに、まだその時点では気が付いていなかった。

 もし、このまま国外に行かれては困るという発想が国家首脳にあるのであれば、更科の命は危険に晒されていると言っても過言ではないだろう。

 更科はそこまでの発想はなかった。ただ、

――いつも何かを不安に感じている――

 と思っていた。

 もちろん、何かを不安に感じることがあるのは自分だけではないことを更科は知っている。だから、何かを不安に感じるのは、仕方のないことだと思っていたのだ。そこで考えを完結させてしまっては、それ以上の発想など出てくるはずもない。

 更科は、学生時代からあまりまわりに対して興味を持つことはなかった。自分の研究や自分が気になっていること以外は、まったく興味を示さない。まわりから見て、

「更科さんは、熱血漢だわ」

 という人もいれば、

「いやいや、あんなに冷めた人はそうはいない」

 というここまで両極端な目で見られているなどということを、更科本人は気づいていない。

 しおりも、同じようなところがあった。

 元々施設で育った子供は、どこか冷静な目で見る子供が多いというのは一般的なアテルマ国の常識のようなものだったが、自分の興味を持ったことには、とことん研究しなければ気が済まないところがあった。

 夜を徹して気になったことを調べるということも珍しいことではなく、

「将来は学者になればいいのに」

 とさえ言われていた。もちろん、国外退去などさせられると誰もが思っていなかった時期のことだった。

 しおりは、国外退去させられると、そこまでの熱心さは失われた。普通の女の子になってしまったが、

「これが、私の幸せなんだわ」

 と、国外退去させられたことを、今では喜んでいる。しかし、そんな思いを表に出すことはないので、しおりという女性は、

「いつも冷静で、感情を表に出すことはない」

 と思われていた。

――私の真実って、どこにあるのかしら?

 しおりは時々考える。

 記憶の欠落を意識している間は、

――自分にとっての真実なんてありえない――

 と思っていた。

 しかし、記憶の欠落というものを自分以外の誰かから故意に仕組まれたものだなどと思っていなかったことから感じたことだ。

 今のしおりは、信憑性が低く、突飛すぎる発想に何度も頭の中で打ち消そうとしながらも、何とか自分の中で理屈が通るようにしたいという思いから、自分の真実を見つめることが、記憶の欠落の本当の理由を見つけることができるのだと思うようになった。

「大体、国外退去などということが当たり前のように行われる国に育ったこと自体、おかしなことなんだわ」

 と、理屈を自分の中からではなく、表から固めていこうと考えた。

 そこで気になったのが、更科のことである。

 更科は、アテルマ国の中枢を担う機関と密接に結びついているが、そのことを知っている人は、ごく一部の関係者だけだ。

 かといって、彼は研究室に監禁されて研究をしているわけではない。普通に休日もあれば、休日には普通に映画を見たり、スポーツ観戦に勤しんだりしていた。

 だが、一緒にいく人はいない。いつも一人で出かけていたが、本人が寂しいなどという感情がないことで、まわりから見ると、まったく意識の外の人のように見えているに違いない。

 しおりも、今住んでいる国では、いつも一人だった。

――誰かと一緒にいないと寂しい――

 などという感覚は皆無で、更科と同じだった。

 ハンカチを拾ってもらったあの時、手を繋いだ瞬間感じた思いは、まるで電流が走ったかのような衝撃だった。それが、

――自分と同じものを感じる――

 と、しおりに思わせたのだが、同じ思いを更科もしていたとは、しおりは気づいていなかった。ただ、自分と同じように記憶の欠落した人だということに気づいたのだが、今となっては、どうして気づいたのか、分からなかった。

――あの時は分かっていたような気がする――

 本当は漠然としてしか感じていなかったのに、分かっていたと思い込んでいる。それだけ電流が身体に残した痛みは大きかったのかも知れない。

 更科は、しおりが自分を発見するよりも先にしおりがこの国に来ていたことを知っていた。街を歩いているのを見かけたからで、その時、身体に電流のようなものが走ったのに気付いたからだ。

 最初、ハンカチを拾ってあげて手渡した時、しおりに電流が走ったが、その時更科は別に何ともなかった。ただ、

――この女性とは、また出会いそうな気がする――

 と、漠然と感じていた。

 知り合いでもなく、ただ街で出会った相手と再会できるような気になるなど、今までになかったことで、その女性の顔を忘れないようにしたいと思ったのだが、元々人の顔を覚えるのが苦手な上に、意識してしまうと、覚えられるものではない。すぐに顔は忘れてしまったが、再会できるという思いだけは強く持っていた。

――出会ったら、分かるかも知れないな――

 と感じていた。

 しおりの方は、逆に人の顔を覚えるのは苦手ではなかったが、今回アテルマ国にやってきて、実際に更科とすれ違ったのに、その人が更科だとは、気づかなかった。

 人の顔を覚えるのが苦手ではない人で、

「絶対に忘れたくない人の顔」

 と思いながら記憶すると、まるで写真のように、その表情だけを強烈なイメージとして記憶してしまう。だから、少しでも表情が違うと分からないということが往々にしてあるもので、それは、状況こそ違っているは、更科のように、まったく覚えられない人と、甲乙つけがたいものがある。

 しかも、顔ばかりを印象として覚えているので、全体像を漠然として見たのでは、分かりっこないのだ。

 更科の場合は、再会できるという思いだけを抱いていて、顔で覚えていないので、電流が走ったことで、ハンカチを落としたあの時に、意識は飛んでしまっていたのだ。

 ただ、更科は声を掛けることができなかった。すれ違った時にまったくこちらに気づかないしおりの後姿を追いかけるだけで、思わずその場に立ち尽くした。

――これを再会と言えるのだろうか?

 そう思った更科だったが、別に再会したからといって、何がどうなるわけでもないと思ったことで、その場はそのままスルーしたのだった。

 更科は、それから少しして、自分の記憶が欠落しているのが、何か作為によるものではないかと思うようになった。それは更科の中に、今まで感じたことのない記憶がよみがえってきたからだ。もし、他からの作為が働いていないとするならば、突然記憶がよみがえるなどないと思ったからだった。

 更科のよみがえった記憶は、子供の頃の記憶で、欠落している時期と一致していた。だが、思い出した記憶に出てきた光景は、確かに以前に見たことのあるもののように思えたが、それがアテルマ国ではない、他の国に思えてならなかった。

「僕は、他の国でも暮らしたことがあったのか?」

 明らかにアテルマ国とは違った雰囲気で、子供の頃の記憶だとすれば、二十年くらい前の光景のはずだ。しかし、思い出した光景は、今の時代の佇まいである。今の記憶を持ったまま、子供に戻ったかのようなおかしな感覚だったが、別に違和感はなかった。立ち並んでいる住宅地は新興住宅街で、ここ数年で急激に発達した街並みであるが、よく見てみると、住宅街が立ち並ぶ前の光景が思い浮かぶようだった。

 そこは、どこかの施設のようだ。幼稚園か保育園のように、たくさんの子供が無邪気に走り回っている。その向こうに見えるのは数人のシスターで、よく見ると、教会と隣接していた。

 そこが養護施設であることはすぐに分かったが、施設で遊んでいる子供を見つめていると、その中に子供の頃の自分がいることに気が付いた。

――僕は、一時期施設にいたのか?

 物心ついた頃から親がいないことは分かっていたが、それからしばらくの記憶が欠落している。記憶があるのは、ある程度自分で判断できる年齢になってからのものなので、親がいないことを自分なりに納得していた。

 なぜ親がいないのかという理由は分からない。欠落している記憶の間に、自分で納得したのか、記憶が残っている間、親を意識したという思いはなかった。

――親なんかいなくてもいいと思っていたんだ――

 と更科は思っていた。実際に親がいなくても、別に寂しくも悲しくもなかった。

――欠落した記憶は、親がいないことが原因ではないか?

 と思った時期もあったが、それは記憶の欠落が自分だけだと思っていた時であり、逆に自分以外にも記憶が欠落している人がたくさんいるということを知ったことで、

――記憶が欠落するほど、親のいないことをショックになど思っていないんだ――

 と感じた。

 更科は施設出身者だったが、才能を見出してくれたのは、中学時代の恩師だった。ちょうどその頃、アテルマ国は才能のある少年の発掘に躍起になっていた。それぞれの中学校に、才能のありそうな子供を数人ピックアップさせ、リストを作成していた。

 才能と言っても、多岐にわたるもので、更科はその中で数学的なことに対して、他の人にはない特別な考え方を持っていた。数学の成績がいいというわけではなかったが、アテルマ国にとって必要な数学的な発想を持った少年であったことに間違いはなかった。

 アテルマ国の施設は、小学生まで引き受けていた。中学に進学すると、誰もが横一線に見える。しかし、施設出身者は優遇されていた。表向きには平等だったが、施設では情操教育が施されていたのだ。子供もそこまで知る由もないので、意識していないが、知っているのは、ごく一部の人たちだけだった。

 また、その一部の人たちのほとんどは、子供の頃の施設出身者だ。施設出身者の方が、親がいない分、何かと柔軟に教育ができる。そういう意味では施設出身者は、

――国家のための人間――

 として教育されていたのだ。

 見覚えのある光景であるにも関わらず、そこがアテルマ国ではないと感じたのは、どういうことだろうか? こんな時、更科は奇怪な発想をする。それも彼の一種の才能の一つだと言えるであろう。

――誰かの記憶と錯綜しているんだろうか?

 自分以外にも記憶の欠落した人はたくさんいる。そこに作為を感じることができると、記憶が錯綜しているという考えも案外奇抜ではないかも知れない。

 思い出した記憶の中に出てくる施設を見守っていた。なぜそこがアテルマ国ではないと分かったのかというと、先生と思しき人たちがシスターだったからだ。シスターは、キリスト教を信じる教会にいる。しかし、アテルマ国は信仰の自由は完全には認められていない。特にキリスト教は、禁止宗教として挙げられていた。

 それなのに、見た瞬間に違和感がありそうなものなのに、どうしてすぐに違和感を感じなかったのか不思議だった。

 シスターの一人に見覚えがあった。それも、シスターの姿をしているその人に見覚えがあるのだ。つまりは、更科はアテルマ国以外の国にいたことはないはずなのに、見覚えがあるということは、誰かの記憶と交錯していると考えると、奇抜ではあるが、納得のいく発想になる。

 今から思えば、親に対しての記憶も、後から作られたものではないかという疑いを持ったこともあった。

――一体、どこまでが信じられるんだ――

 考えれば考えるほど、余計なことにしか思えない。

 ここまで作為的な臭いがしてくると、自分が人体実験されているのではないかと思えてきた。

 更科は、自分の研究に人体実験は絶対に行わない。人道的にありえないという発想があるからだが、その発想の原点は、両親にあるのではないかと思い始めた。

 親がいないとずっと思ってきたが、途中から、母親が失踪したということを知らされた。本来であれば、子供にそんなことは教えないはずなのに、自分に対して敢えてそのことを教えたのは、その話を聞いた更科がそれほどショックを受けないだろうという思いと、更科がそのことを知ることで、何か大きな変化が生まれると思った人がいたからなのかも知れない。

 実際に、更科はその話を聞いて、ショックは受けなかった。

――いまさら――

 という思いもあったし、どこか他人事にしか思えなかった。

――死んだと聞かされている父親も実は生きていて、他の国で二人は人知れずに暮らしているのかも知れない――

 と感じるほどだった。

 更科は、この国にある施設が、養護施設というよりも、国家の何か秘密になる施設であったという思いが強くなった。

 しかも、その時代のアテルマ国は、六角国の属国になる少し前だった。

 六角国のような国は、一つの国を属国にする場合、表に出る前に「下準備」を怠りなく行っているはずだった。その行動は電光石火のごとくで、属国にすると公表した時点では、すでに体制は決まっている状態だったであろう。

 そこまで考えてくると、自分もその時は、

――六角国の掌の上で踊らされていたのではないだろうか?

 と思えてきた。

 そして、彼らなら、

――人体実験くらい、いくらでもしそうだ――

 と、考えた。

 自分が人体実験は絶対にしないと思っているのは、自分の潜在意識の中で、人体実験をされたという意識が残っているからなのかも知れない。記憶の欠落は、六角国による証拠隠滅ではないだろうか。

 それにしても、そこまでの科学力がありながら、実際に表に出てきている六角国は、先進国の仲間入りをしているとはいえ、まだまだ中央に出るだけの器ではない。

――裏でいろいろ画策するには、あまり表舞台で目立たない方がいい――

 と思っているのかも知れない。

 アテルマ国は、そんな六角国の思惑に翻弄された「犠牲者」とも言える国なのではないだろうか。

 ただ、更科は自分の記憶がないことに、六角国が関わっているということには疑いはないが、どうもそれだけではないような気がする。それほど自分の記憶の欠落が単純なものではないと思えるのは、

――僕も混血だったのかも知れないな――

 と思ったからだった。

 まだアテルマ国が純血主義を表に出すかなり前のことなので、一緒に考えることはできなかったが、両親のどちらかが、アテルマ民族ではないということであれば、母親の失踪というのも、理解できなくもない。すでに二人はそんな前から、アテルマ国の純血主義を見抜いていたのだろう。自分たちが失踪することで、自分の子供が混血ではないというイメージを植え付けることができる。当時は、まだ照射することで混血かどうか、分からなかったからだ。

 アテルマ国の首脳も、父親がいないと息子の「本来」を知ることができない。アテルマ国では、アテルマ民族の母親に、他民族の父親の血が混じると、父親そっくりになってしまうという研究結果が出ている。そのため、最初はアテルマ国の女性と六角民族の男性の結婚を禁じていたが、男性側を一国に限定することは、国連憲章で唱っている、

「憲法に固定国攻撃を入れてはいけない」

 という条文に違反することになる。そのため、結婚する男性は、アテルマ民族以外ではいけないと決めたのだった。

 もう一つ、更科の研究で分かったことがあった。

「混血の人間ほど、記憶が欠落する可能性が高い」

 というものだった。

 確かに六角国の陰謀で、アテルマ国が滅びないように、六角民族との混血をなくするため、純血主義を取ったアテルマ国だったが、実際にこの法律が裏だけで証明されていたものを、表でも証明できたのだ。その証明を行ったのが混血である更科だというのも、実に皮肉なことである。

 更科は、次第に事実に近づきつつあった。

 本来であれば、真実があって事実に近づいていくものではないかと思っていたが、今回の更科は、

「事実があって、真実に近づいていく」

 と思っている。

 欠落している記憶を思い出そうとしているからで、ただ思い出したことが本当のことなのか、自分でも分からない。

 どちらにしても、今更科が考えているキーワードは、

「辻褄合わせ」

 だった。

 真実を事実に合わせるのか、事実を真実に強引に合わせようというのか、更科は考えていた。どちらにしても、今の段階では更科の中での事実と真実は、少し離れたところにあるのだと思っている。

 六角国がアテルマ国から撤退したと言っても、完全撤退ではない。

 表向きは完全撤退になっているが、裏では国家単位というよりも、企業単位で国家レベルの取引が行われている。

 もちろん、双方に利益があるからだが、その手回しをしているのが、しおりが所属している会社だった。一般社員の知らないところでの闇取引、そこに関わっている人は、アテルマ国から国外退去させられた「混血」ばかりであった。表に出ているしおりたちに、企業のトップは、

「誰がそのことを知るか分からない」

 として、記憶の一部を欠落させようと企んだ。国外退去させられた人間も含めてのプロジェクトに、しおりはまだ気づいていない。

 しおりは、施設を訪れていた。シスターは相変わらず優しく迎えてくれた。ちなみにこの場所は、更科のよみがえった記憶の中と同じ場所だった。時代は若干違っているが、同じ施設で、更科が知っているようにシスターはいない施設であり、しおりがシスターと話をしているというのは、本当はおかしなことだった。

 だが、これも間違いではない。現にしおりはシスターと会話しているではないか。しおりの小さかった頃の記憶がよみがえってきて、会話は弾んでいる。

 どちらかが作られた世界になるのだろうが、そうなると、更科の方がその可能性が高い。本当に更科の記憶は虚空のものなのだろうか? やはりしおりとの間で記憶が交錯していることが影響しているのかも知れない。

 しおりがシスターと会話している時、同じように一人の男性が懐かしそうに施設を訪れていた。

「ここに来ると、一部の失った記憶を取り戻せる気がしたので、来てみました」

 と、その人は言った。

 シスターはその言葉を聞いて、

「思い出せましたか?」

「ええ、失ったと思っていた記憶を取り戻すのがこんなに簡単だったなんて、ビックリです」

 それを聞いたしおりは、

「どれくらいの間、記憶を失っていたんですか?」

「子供の頃のことなので、二十年くらいですかね。でも、本当に一部の記憶なので、今までの生活が困るようなことはありませんでした。却って『思い出さない方がいいのかも知れない』と思ったくらいで、実は今でもまだその思いは消えていません」

「じゃあ、どうしてここに?」

「元々、ここに来たのは、失った記憶を取り戻したいと思ったからではなかったのですが、この建物とシスターを見た時、自分がここに来た本当の理由は、失った記憶を思い出したいと思ったからではないかって思ったんです」

「そうだったんですね」

 しおりがそういうと、シスターは静かに話し始めた。

「私たちのことが見えるのは、自分の記憶を思い出したいという気持ちがないと見ることはできないんですよ。もっと言うと、記憶が欠落した人でないければ、ここの出身者の人でも、この建物を見ることはできないんです。まるで砂漠に浮かぶオアシスのような存在と言えばいいのかしら?」

「じゃあ、シスターの存在は、オアシスの中にある池の水のようなものだって思えばいいのかな?」

「ええ、それで結構だと思います。それに、あなたはさっき、『記憶を失った』と言いましたが、正確に言えば、『記憶が欠落した』ということなんですよ。潜在意識のどこかに失ったものを格納しているのだとすれば、失ったものは戻ってこないと思っている以上、記憶が格納されているという意識は生まれません。でも、欠落しているのだと思えば、欠落している前後を考えれば、欠落した部分を想像することはできますよね。そこまでできれば、潜在意識を覗くことさえできれば、欠落を繋ぐことはできます」

「そういえば、テレビなどで、記憶喪失の人に対して、記憶を取り戻させようとしたり、本人が無理に思い出そうとした時、必ず頭痛を伴っていますよね」

「ええ、それは、失った記憶に対して、失った理由が分からないことで、自分で本当にそのことを思い出していいものなのかどうか、自問自答しているからではないでしょうか? 私は精神科医ではないので、詳しくは分かりませんが、当たらずとも遠からじではないかと思います」

 シスターの話は、いちいち頷くに値するものだった。

「僕は、ここに来てからシスターを見た時、無意識に記憶は失ったのではなく、欠落していると思ったのかも知れませんね」

 少し、その場に沈黙が走った。誰もが何かを話そうとしているのだが、言葉が続かなかった。

 会話というものは歯車のようなものである。噛み合わなければ、そこで止まってしまい、もう一度スイッチを入れなければ、噛み合わない。

「掛け違ったボタンを掛け直すには、一度全部外して、最初から掛けなければいけない」

 まさにそんな状態であった。そして、

「再度ボタンを掛ける時は、下からやった方がうまく行くものだ」

 というのも、間違いではない。

 三人とも、会話の途中で、一瞬その場で固まってしまった。三人が三人とも、その場の記憶が欠落した。

 時間が少し遡ったようだ。

 最初にこの施設を訪れたのは、その男性だった。

「シスター、お久しぶりです」

「まあ、お元気でしたか? あなたがここから卒業してから、十数年経ちますよね」

「ええ、あの時は、母親を探したいと言ってここから出て行ったんですよね?」

「ええ、そうだったわね。お母さんは見つかりましたか?」

「いえ、母を探すのはすぐにやめました。ここを出て表に出てみると、母を探すということが自分にとって無駄に思えてきたんですよ」

 と男性がいうと、シスターはすべてを承知していたかのように頷くと、

「分かっていましたよ。ただ、皆ここからいつかは出て行くんですよ。必ず何かの目的を持ってね。あの時のあなたは、それが母親探しだったということですよね。でも、ここを出て行く目的を実行する人はほとんどいないんですよ。表の世界とここの世界の違いを目の当たりにすると、何のためにここを出ようと思ったのかを、忘れてしまうんですよ。それを自分では認めたくないんですよね」

「だから、ここを出て行った人は記憶が一部欠落しているんですね?」

「ええ、その通り」

 今度は、この男性、自分の記憶が失われているという意識ではなく、最初から欠落しているのだという意識を持っているようだ。

 時と場合によって、この施設を出ていった人は、記憶の欠落を迎える。

 ただ、それは、この場所と表の世界だけの話ではない。ここのように閉鎖、あるいは隔離された施設で育った人間が表の世界に何を求めるかによって違ってくるのだが、自由を求める人もいれば、出て行ったことで、不安だけが募ってしまい、期待と不安の両方があったくせに、不安のために、期待を忘れてしまう。

 つまりは、期待していたという記憶をなくしてしまうということだ。

 この場合は、欠落ではなく、喪失になる。自分の思っていることをなくすのは、喪失であり、自分の中にある潜在意識や無意識の行動などをなくしてしまうのは、欠落になるのだ。

 すると、ここにいた人は皆欠落になるので、期待や不安といった感情をなくしてしまったわけではない。

 まったくなくしていないわけではないが。なくしてしまった潜在意識のい印象が強すぎるので、彼らは欠落となるのだ。

 今ここで三人が、同じシチュエーションを繰り返しているが、最初は欠落を思い出そうとする時、そして、次には喪失を思い出そうとする場合である。

 欠落を思い出しただけでは、すべてを思い出したことにはならない。もう一度、思い出すシチュエーションに戻って、喪失するはずだった意識を再認識する必要があるのだ。そうでなければ欠落した記憶を取り戻したとしても、それを活性化することはできないのである。

 それは、一種の「副作用」のようなもの。それを一番分かっているのは、この場では、この男性に違いない。

 男性とシスターが話をしているところにやってきたしおり、

「あら? あなたは?」

 と言って、しおりは男性の顔を見る。懐かしそうに微笑んでいるが、その表情には、

「やっと会えた」

 という気持ちが込み上がってきているようだった。

 三年ぶりの再会。それは、しおりにとっての予期せぬできごとであったが、顔を見た瞬間、

「会えると思っていた」

 という思いに変わっていた。

 予期していなかったのは、確かに事実だったが、会えると思った気持ちは真実だった。こんなところでも、事実と真実の違いがあるのだと、しおりは感じていた。

「君は確か、ハンカチを落とした時の?」

「ええ、あの時の私のことを覚えていていただけたんですか?」

「はい、またお会いしたいと思っていました」

 二人の会話は、三年前の瞬間のことではなく、お互いの相手のことに言及していた。だからこそ、再会を素直に喜べるのだし、しおりにとっても、真実と事実の違いを感じることができたのだ。

「今やっている研究がほぼほぼ完成したので、気分転換にやってきました」

 と、更科はホッとした様子で話した。

 普段の更科しか知らない人は、彼が自分の今の仕事のことを口にすることも、安心したような表情をしていることも、想像がつかないに違いない。だが、しおりは、そんな更科を見て、

――やっぱりこの人はこの笑顔が似合う――

 と感じ、シスターも、

――本当に懐かしいわ――

 と思わせるものだった。

 しおりはここにいた時の更科のことを知るはずもないのに、彼がここにいてすっかりまわりに溶け込んでいることを感じていた。いくら以前、ここにいた人だとしても、その頃のその人を知らないのに、ここまでまわりに馴染んでいるのを見るなど、信じられるものではなかった。特に、しおり自身もこの施設にいたのだ。同じ場所にいても、その場面を見たことがなければ、より遠い存在に感じられるものだと思うのだった。

――どちらが本当のことなのかしら?

 先にしおりが訪ねてきた方なのか、それとも更科が現れたことなのか、どちらもシスターには分かっていた。

 そして、シスターは本当は二人が顔見知りであることも分かっていた。ここで一緒になったことはなかったが、更科がここを卒業後に何度か顔を出した時、しおりと話をしているのを何度も目撃していた。

 しかし、どうやら、更科はここを卒業してから、ここに来るのが初めてのように思っているようだ。それも、記憶の欠落が招いたことなのかも知れない。

――いえ、この場合の記憶は、欠落ではなく、喪失なのよ。欠落というのは、更科君側に立って見た場合のこと。彼の意識するところではなく、潜在意識として秘められている記憶は、喪失なんだわ――

 更科は、自分が記憶を欠落させることを担っているのだと分かっていることで、余計に潜在意識の中でよもや記憶の喪失が隠されていることに気づくはずもなかった。彼にとって潜在意識は、まったくの死角になるからだ。

 更科は、自分がこのアテルマ国を担うための研究をしていることで、まわりの誰よりも何でも知っていると思い込んでいる。あからさまに感じているわけではないが、それは潜在意識のなせる業だった。

 だが、実際にはシスターの感じていることは、すべて更科の中にある感情を支配している。ある意味で、

――凌駕している――

 と言ってもいいかも知れない。

 だから、最初にしおりが見えていなかった時、この施設を見た時、シスターの存在を認めようとはしなかった。実際に見えていなかったのかも知れない。それは更科が、

「事実だけを見ようとして、真実を見ようとはしなかったからではないか」

 と言えるのではないだろうか。

 シスターというのも、本当に存在しているのだろうか?

 考えてみれば、訪ねたシスターは、二人とも知っている人であった。二人が卒業して何年も経っているというのに、更科から見ても、しおりから見ても、自分の知っているシスターとまったく変わっていない。

 ということは、更科が見ているシスターと、しおりが見ているシスターとでは、

「違う人を見ている」

 と言ってもいいくらいに、年齢差があるはずだった。

 更科は自分がこの世界を動かしているかのように思っていたが、それはまるで、

――釈迦の掌の上で踊らされている孫悟空――

 のようであった。

 アテルマ国は、元々、

「どの宗教にも属さない無宗教の国」

 として有名で、信仰の自由を唱っていながら、アテルマ国に特定の宗教を信仰している人はいなかった。

 それは、六角国の支配下にあった頃からのことで、六角国がこの地域に目をつけて、自国の属国にしようと企んだ理由の一番が、そこにあったのだ。

 六角国から独立して、他の国との混血を極端に嫌っているのは、信仰の自由でありながら、信仰する宗教を持たないという独自の民族性を継続させるためのものだったのだ。

 しかし、それを大っぴらの理由として表に出すわけにもいかない。とりあえず研究チームを形だけでも作り、実際には違う研究をさせる。そのためには、研究員の洗脳が急務だった。

 そこには、信仰していないにも関わらず、あたかも信仰心を植え付けるようなシスターを配置することによって、研究員を洗脳する。記憶の欠落であったり、喪失も、そうした策略の中の一つでしかない。

 国家ぐるみとなると、何とも恐ろしい。あくまでも秘密主義は見方を欺くこともいとわない。そんな中、国家的な副作用も生まれてきている。

 ただ、一度歪んでしまったものを元に戻そうとする力も働いていた。それが副作用と言えるのかも知れないが、しおりと更科は真実に近づこうとしている。

――そこに事実と呼べるものはあるのだろうか?

 しおりの真実が、更科の事実を凌駕して行くのだった……。


                 (  完  )

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アテルマ国の真実 森本 晃次 @kakku

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