効能

 睡蓮は再び御朱印帳に視線を落とす。

 紐で和綴わとじした表紙の中央。そこに記された文字を指の腹でなぞりながら、狛に教わった通り読み上げる。


あま現世うつしよ……。あの昂くんこれ、小学校で習った象形文字に似ていませんか? まるで漢字の成り立ちみたいです」

「美月。これは神代文字かみよもじと言う」

「神よ文字ですか?」

「ほら睡蓮、うちの石上稲荷大社の朱印とかにも使われている文字のことだよ」

「朱印……」


 睡蓮は昂に向けていた顔をゆっくりと戻しながら想起して、ちょうど正面を見たところで「ああ!」と明るく笑った。


「まあ種類も多いらしいし、俺もよくわかっていないけどな。それにここに書かれている文字は、たぶん俺たちの世界には存在しないものなんだろうと思う」


 睡蓮は昂と一緒に神代文字を眺め、それから表紙を開いた。中身を確認するように視線を滑らせて、ページをめくっていく。


「真っ白ですね……ええっと」

「こら」


 さらにページを運ぼうとした睡蓮の手を、昂はすかさず取った。


「気になるけど、また後でだ睡蓮。今は泉へ急ごう」

「あ……」

「そうそう、その方がいいって!」


 狐は激しく同調して、何遍も首を縦に振る。その首根を摘まんで持ち上げている狛も頷いた。

 睡蓮は皆に詫びた後、大人しく狛たちの案内の下、昂に手を引かれながら帰路に向かう。何処からともなく現れた光の柱を昇って、再び八尋殿へと戻った。


「遅かったな。もう用意出来てるぞ」


 太秦は狐の姿を前にしても、表情一つ変えなかった。

 彼も烏に姿を変えられるし、使わしめたちの中では当前のことなのかもしれない。


「すみません。色々とお気遣い――」

「狐。どれだけ私を待たせるのだ。早く先程の融合について教えろ」


 睡蓮の話を遮って、太秦は狐に声を掛けた。

 釣った魚には餌をやらないタイプなのだろうか。狛も狛で、そんな太秦の態度を気にも留めていないようだった。


「あっち、あっちで話しますから!」


 蒼白い顔で汗と唾を巻き散らかす狐の胸中を見透かしたのか、太秦はため息を吐くとやれやれといった調子で術を発動させた。

 黒い羽根が使わしめたちの足元に出現し始めるそんな中、狛が昂に近付く。


「な、なんだよ?」

「……妙な気を起こすなよ」


「帰れなくなるからな」と、まるで釘をさすかのような言葉を残して、狛は他の使わしめたちと一緒に姿を消した。


「なんだよ妙な気って……。行こう、睡蓮」

「は、はい」


 昂に手を引かれたまま、睡蓮は既に居なくなった太秦たちに頭を下げた。



 ――カコーン。


「これはマズイって……」


 湿り気をたっぷり含んだ湯気が、気まぐれに昂の視界を遮っていく。

 ヒノキのような木の香りや、大きな浴槽から溢れ流れていく湯の音が耳に心地好く、それだけでも心身を癒していくようだった。


「どこが泉だよ普通に風呂だろこれ! いや、ここまで来ると温泉施設か⁉」


 浴場自体は広々としているが、内風呂が真ん中に一つ設置されているだけの非常にシンプルな造り。壁に飾られた橙色の灯りが温かく、木目をより美しく見せていた。


「穢れを落とすとか、泉って話じゃなかったっけ? もっと神聖な場所かと思っていたんですけど?」


 昂は目をカッと開くと、邪念を振り払うようにぶんぶんと頭を振った。


「何考えてるんだ俺! 睡蓮に必要な場所なんだよ、ここは!」

「……あの、昂くん?」


 背中に声を掛けられて、昂は慌てて口を押さえた。

 昂は自分の言動に戸惑いを見せていたが、取り繕うように笑うと振り向いて言った。


「な、なんでもないよ睡蓮。ごめん早く泉に――……」


 しかし長襦袢ながじゅばんを着た睡蓮を前に、昂はまた口走ってしまう。


「やば……可愛すぎだろ、その格好……」


胸先三寸むなさきさんすんの吐露】

 昂の視界には恐らく入っていないだろうが、入口には泣沢ノ泉の効能がしっかりと掲示されていた。

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